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論語詳解067里仁篇第四(1)里や、仁はよき為り*

論語里仁篇(1)要約:孔子先生が一人息子の鯉に語ったお説教。現在流布している「隣近所の人情味はよいものだ」という解釈には、千年以上にわたっての間違いが積み重なっており、解きほぐすのは容易ではありません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰里仁爲美擇不處仁焉得知

校訂

諸本

東洋文庫蔵清家本

子曰里仁爲善/擇不處仁焉得智

  • 「善」字:京大本・宮内庁本も同じ。
  • 「處」字の〔七〕→〔土〕、〔几〕をつくりのように記す。宮内庁同、京大本「𠁅」。
  • 「智」字:京大本・宮内庁本は「知」。

後漢熹平石経

…里仁…

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「里、仁爲善。擇不處仁、焉得智。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 里 金文 仁 甲骨文為 金文善 金文 擇 金文不 金文處 金文仁 甲骨文 得 金文智 金文

※仁→(甲骨文)。論語の本章は、「焉」の字が論語の時代に存在しない。ただし「焉」が無くとも文意は変わらない。本章は、少なくとも戦国時代以降の儒者による加筆がある。

書き下し

いはく、や、よきひとたるはり。よきひとるをえらばば、いづくんぞしるむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「鯉よ。貴族らしさというのはよいものだ。好んで貴族らしくない境地にいるなら、どうして知るということが分かろうか。」

意訳

孔子 孔鯉
鯉*よ。貴族らしい挙措動作はよいものだ。それを目指さないと、ものを知る喜びが分からぬまま一生が終わってしまうぞ。

*孔子の一人息子。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「隣保生活には何よりも親切心が第一である。親切気のないところに居所をえらぶのは、賢明だとはいえない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「同品德高尚的人住在一起,是最好不過的事。選住址不顧環境,哪算聰明?」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「人品道徳が高い人と一緒に住むのは、最も申し分なく素晴らしいことだ。住所を選ぶのに環境を考えないのは、どうして聡明と言える?」

論語:語釈

、「  ()。 ()。」

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

里(リ)

里 金文 鯉 石鼓文
「里」(金文)/「鯉」(石鼓文)

論語の本章では、孔子の一人息子、”孔鯉”。BC532-BC483。あざ名は伯魚。孔子に先立って世を去った。

「里」の初出は西周早期の金文。上古音は「鯉」と同じ。「鯉」の初出は春秋末期の秦の石鼓文で、秦は西の辺境であり、魯のある中原諸国とは字が違っていた可能性がある。詳細は論語語釈「鯉」を参照。

侖 金文語 金文
金文で「論語」を「侖語」と書くように、春秋戦国時代は漢字の数が出そろわず、後世出現した派生字の部品が、派生字の意を示す例が非常に多い。「鯉」もその一つで、「鯉」の字が無かったからと言って、当時のコイや孔子の息子がいなかったことにはならない。

通説通り、”さと”と解さない理由は後述。論語語釈「里」も参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 貴族
(甲骨文)

論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…であると思う”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

美(ビ)→善(セン)

現存最古の論語本である定州竹簡論語と、後漢熹平石経は本章を丸ごと欠き、唐石経は「里仁爲美」と記し、清家本は「里仁爲善」と記す。年代的には清家本の方が新しいが、唐石経は唐朝の都合によってそれまでの文字列を書き換えた箇所が少なくない。日本には唐石経以前に論語が伝わっており、唐石経より古い文字列を伝承した。従って清家本に従い「善」へと校訂した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

なお唐の皇帝のいみ名に「善」は見られず、避諱により「美」と書き改めた可能性は低い。

美 甲骨文 善 字解
(甲骨文)

論語の本章では”よい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はヒツジのかぶり物をかぶった高貴な人。春秋時代までは、人名や国名、氏族名に用いられ、”よい”・”うつくしい”などの語義は戦国時代以降から。甲骨文・金文では、横向きに描いた「人」は人間一般のほか、時に奴隷を意味するのに対し、正面形「大」は美称に用いられる。詳細は論語語釈「美」を参照。

善 金文 善 字解
(金文)

「善」の初出は西周中期の金文。もとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。

里仁爲善

論語の本章では、”鯉よ、仁はよいものだ”。

通説の一つである、”人情味のある住所”→”仁の里”は、文法的な誤り。春秋時代の中国語は、現代北京語と同じく修飾語→被修飾語の順であり、逆はあり得ない。原則的に格変化も助詞も持たない中国語では、語順は語義を定める決定的要素で、勝手な変更は許されない。

「里は仁を善と為す」と読むのも、語順的にあり得ない。「仁」が目的語なら、動詞「為」の後ろに来なくてはならない。この回避のため、「里にては仁は善と為る」と読むのは、もはやコジツケに過ぎない。”にて”を示す記号が、どこにも無いからだ。

前漢の口語では、たしかに被修飾語→就職後に見える例はある。

夫獵,追殺獸兔者狗也,而發蹤指示獸處者人也。今諸君徒能得走獸耳,功狗也。至如蕭何,發蹤指示,功人也。


高祖劉邦「狩りを考えて見よ。逃げる獲物を仕留めるのは猟犬だが、足跡を探り当てて”それ行け!”と犬を放つのは人だ。諸君は犬の役目を果たしたに過ぎない。だから犬にふさわしい褒美でどこが悪い。逃げる項羽を追い詰めて諸君を放ったのは蕭何だ。犬より人の褒美が多くて当たり前であろう。」(『史記』蕭相世家)

「功狗也」「功人也」は、”その功績こそ、犬/人である”との意だが、”である”の意での「也」が春秋時代に見られないように、孔子より三世紀以上のちの口語文法を、史実として読む論語の章に当てはめるのは無理がある。

また「功狗」「功人」は修飾関係ではなく主述関係で、句末に断定の「也」を付けて英語のbe動詞のような働きをさせている。漢語は周以降、ほぼ格変化が無くなってしまった上に、同じ語が名詞でも動詞でも形容詞でも副詞でもあり得るから、文字列が主述関係か修飾関係かを区別する基準がなくなってしまった。

それでも「里仁」は「里は仁」という主述関係ではあり得ても、逆転した修飾関係「仁の里」にはなりようが無い。この無理がまかり通るようになった元は、古注。

古注『論語集解義疏』

子曰里仁為美註鄭𤣥曰里者民之所居也居於仁者之里是為善也擇不處仁焉得智註鄭𤣥曰求善居而不處仁者之里不得為有智也

鄭玄
原文。「子曰里仁為美」。

注釈。鄭玄「里とは民が住まう場所だ。仁者が住む所に住むのは、良い事だと書いてある。」

原文。「擇不處仁焉得智」。

注釈。鄭玄「善を求めていながら、仁者の住む所に住まないようでは、知恵があるとは言えないのだ。」

「里仁」を”仁者の住む所”と解しているが、後漢きっての大学者と言われる鄭玄でさえ、このようなデタラメを平気で記す。儒者の注がいかにあてにならないか、おわかり頂けるだろうか。後漢儒の救いがたい不勉強については、論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。

この部分については、新注を書いた朱子もまた、古注の受け売りで済ませている。

新注『論語集注』

處,上聲。焉,於虔反。知,去聲。里有仁厚之俗為美。擇里而不居於是焉,則失其是非之本心,而不得為知矣。

朱子
處は、上がり調子に発音する。焉は、於のあたま、虔のおしりの音を組み合わせて読む。知は下がり調子に読む。住所は仁の情けに恵まれた場所がよろしい。そうした里を選んで住まわないと、何が正しいか・間違っているか、その判断力を失って、知者ではなくなってしまう。

次に「里仁」の解釈だが、「仁」が”貴族らしさ”なので、「里」→”住所”の”貴族らしさ”では意味が通じない。「里」を通説通り”住地”と解する限り、どうやりくりしても論語の本章は解読できない。発想を切り変えて上掲の通り息子に対する呼びかけと解すると、文意が通る。

また「里仁為善」を”近所の貴族はいい人だ”と解せなくも無いが、貴族に悪党ばかりではなかろうが、善人ばかりでもないはずで、近所の特定の貴族の話だとしても、後ろの「いずくんぞ智るを得ん」に繋がらない。従って「里仁」とは、”鯉よ、仁=貴族らしさとは…”。

残る「為善」は、”よいものである”とも解せるし、”よいものと思いなさい”とも解せる。

擇(タク)

択 金文 択 字解
(金文)

論語の本章では”選ぶ”。初出は西周末期の金文。新字体は「択」。字形は「エキ」+「廾」”両手”で、「睪」の甲骨文は向かってくる矢をじっと見つめる姿。全体で、よく見て吟味し選ぶこと。原義は”選ぶ”。金文では原義で用いた。詳細は論語語釈「択」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

處(ショ)

処 金文 処 字解
(金文)

論語の本章では”そこに居る”。新字体は「処」。初出は西周中期の金文。字形は”人の横姿”+「几」で、腰掛けに座った人の姿。原義は”そこに居る”。金文では原義で用いた。詳細は論語語釈「処」を参照。

擇不處仁

論語の本章では、”わざわざ貴族らしくない態度を取る”。「えらんで仁にらずんば」と読んでもいいが、「仁」を”人情”の類と解した場合でも、”わざわざ人情を選び取り(なさい)。そうしないと”と解釈するのは文法的に誤り。「擇」(択)の目的語は、「不處仁」だからで、「不擇﹅﹅處仁」とは書いていないからだ。

これは、「常不得油」(つねにあぶらをえず。いつも油に不自由している)と「不常得油」(つねにはあぶらをえず。いつも油に不自由してはいない=時には油に不自由する)の違いと同じく、語順によってまるで意味が違ってくる例の一つ。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(戦国金文)

論語の本章では”どうして”という疑問辞。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

ただし春秋時代までの中国文語は、平叙文と疑問文に区別が無い。従って「焉」なしでも、論語の本章のこの句は、疑問文として成立する。詳細は下記解説を参照。

得(トク)

得 甲骨文 得 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手に入れる”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。

知(チ)→智(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
「知」(甲骨文)

論語の本章では”知識”。「知」の現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。現在最古の論語のテキストである、定州漢墓竹簡論語は、「知」を「智」の古書体「𣉻」で書いている。詳細は論語語釈「知」を参照。論語語釈「智」も参照。

「知」は「智」の略体で異体字と言えるが、論語では特に理由のない限り、古注や定州竹簡論語に従って「𣉻」(智)と校訂すべきだろう。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語 春秋諸国と諸子百家

春秋戦国年表 クリックで拡大

論語の本章は、孔子没後一世紀に現れた戦国時代の孟子が引用して語っている。珍しくいい話で、こういうところが孟子が後世に好かれた理由でもあろうが、ただし「仁」はもちろん、孟子が自分でこしらえた新説である、「仁義」=情け深さや憐れみの意味で使っている。

孟子曰:「矢人豈不仁於函人哉?矢人唯恐不傷人,函人唯恐傷人。巫匠亦然,故術不可不慎也。孔子曰:『里仁為美。擇不處仁,焉得智?』夫仁,天之尊爵也,人之安宅也。莫之禦而不仁,是不智也。不仁、不智、無禮、無義,人役也。人役而恥為役,由弓人而恥為弓,矢人而恥為矢也。如恥之,莫如為仁。仁者如射,射者正己而後發。發而不中,不怨勝己者,反求諸己而已矣。」

孟子
孟子が申しました。「矢師が、鎧師より残忍だと言えるわけがあるか? 矢師は矢に殺傷力が無いと困るし、鎧師は鎧に防御力が無いと困る。拝み屋も同じで、みんな仕事を一生懸命にやっているのだ。

孔子先生は言った。”憐れみの心を持つがよい。そうでないと、どうして賢いと言えるか?”と。憐れみの心は、天が全ての人間に与えたものだ。人は憐れみの心があってこそ、安心して暮らせる。”そんなの下らない”と憐れみの心を持たない者は、どうあっても賢い人とは言えない。

憐れまない、頭が悪い、粗暴、乱暴、こういう者は人にこき使われて一生を終える。おかしいではないか、そのくせ雇われ人は雇われ人であることを恥じている。弓師が弓を恥じ、矢師が矢を恥じるようなものだ。もし”恥ずかしい”と思うのなら、すぐさま憐れみの心を持つべきなのだ。

憐れみとは弓術と同じで、まず自分の姿勢を正してから放つ。放ったのに人が感心してくれなくとも、怒ったりせず自分を躾け、”自分が悪かったのではないか”とひたすら考えよう。」(『孟子』公孫丑上7)

論語の本章は、文字史的検証にかかわらず、おそらく史実だろう。その理由は、もともと「焉」などの疑問辞は、漢語の文語には無かったからで、最古の甲骨文の多くが、占って先を問う文章でありながら、「某う、○か」と書いて疑問辞を用いないことからそう言える。

『大漢和辞典』所収の疑問辞「なに」「なんぞ」は下記で全てだが、全て春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。つまり論語の時代の中国文語は、平叙文と疑問文に違いが無い。日本語で「食う?」と尻上がりに言えば疑問文になるのと同じ。

従って論語の本章は、元は「焉」が無いまま伝えられたのが、孟子が寂しがって?「焉」をくっつけ、ついでに自分が発明した「仁義」の証拠として取り上げた。そうするためには上掲『孟子』の通り、「得知」が疑問文でないと困るのである。

解説

訳者の結論として論語の本章は、孟子や、まして後漢の不真面目な儒者が解した意味ではない。孔子が息子と語った、数少ない記録なのだ。『孔子家語』によると、何かと頓狂なところのある魯の昭公は、孔鯉の誕生を祝って、当時まだ無名だった孔子にコイを贈ったという。

それを記念して、孔子は息子を名付けたという。『孔子家語』は従来、後漢から三国にかけてのの王粛による、偽作と言われてきたが、定州漢墓竹簡の発掘調査により、その成立が前漢以前に遡りうることが示唆されている(→「漢代における論語の伝播」)。

漢方的にコイは、お乳の出がよくなる妙薬とされるから、誕生祝いにコイというのは合点がいく。ただし論語の時代、漢方は現在伝わるほど発達していないが、経験則的に血の気を補う食材として、知られていてもおかしくない。

何かと生活が苦しい下級役人には、当時「奥さん出産おめでとう手当」として、コイの支給があったと思いたい。ただ「里」について、現伝の論語が伝わる間に、写本で書き間違えた箇所があり得る。孔鯉の名前が、もともと孔里だった可能性もある。

論語時代の衛国に孔カイ(悝はカールグレン上古音不明。藤堂説では里と同音)という家老がいて、子路の死因の一つとなったなど一門との関係が深いが、それとの混同を避けるため、里を鯉と書いたかも知れない。ただし『史記』にははっきりと孔子の息子を鯉と書いている。

なお孔子と孔鯉の対話では、「庭訓テイキン」”親が子に教える家庭での教育”の故事成語の元となった論語季氏篇16があるが、論語の時代にぎりぎり存在が確認できない漢字「獨」(独)や、用法に疑問のある漢字がある上、意図的に子貢派をおとしめる文意が読め、史実と断定できない。

余話

言語の尻上がり

論語の時代の漢語は、上記の通り平叙文と疑問文の違いがなく、おそらく発音で使い分けた。発音による使い分けの一例が、日本語では尻上がりの疑問文だが、尻上がりに言えば平叙文が疑問文になるのは英語でも同じ。ただし世界共通ではないらしい。

同じ印欧語族のロシア語で「これはモスクワです」はЭтоエータ Москваマスクワー.と書くのだが、「これはモスクワですか」も同じくЭто Москва?と書き、尻上がりに読む。ここまではいい。

「これもモスクワです」はЭто тожеトージェ Москва.と書き、「これもモスクワですか」もЭто тоже Москва?と書くのだが、тожеを高く読んでМоскваは平叙文と同じ。尻上がりにしない。疑問辞を用いる場合も同じで、「これ(ら)は何ですか」Чтоシトー это?は文末を尻上がりに読まない。

詳細はgoogle翻訳で。ちゃんとロシア語も平叙/疑問文で発音し分けている! すごい。

焉 金文

疑問を意味する漢字「焉」の出現は、上掲語釈の通り戦国時代まで時代が下るのだが、それ以前はあるいは「也」と書いた可能性がある。「焉」字の字解は日中の儒者やら漢学教授やらがそれぞれ勝手なことを言って何が何だか分からなくなっているが、最古の字形は「也」にトリを加えた飾り文字と見るべき。

「也」は武道で武器を打つとき「ヤ!」と気合いを掛けるのと同様、主題を強調する言葉として春秋時代にはあでにあったが、日本語の「変や」が強い断定のほか疑問をも意味するように、疑問または反語または詠嘆としても春秋時代には用いられた(論語語釈「也」)。

従って論語の本章も、あるいは「焉」を「也」に置換してもよいのだが、疑問辞の場合文頭句頭に記される「焉」を、文末句末で記される「也」に置き換えられるとまでは言えない。

『論語』里仁篇:現代語訳・書き下し・原文
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