論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「里仁爲美*。擇不處仁、焉得知*。」
校訂
武内本
唐石経善を美に作り、智を知に作る。孟子公孫丑上孔子の語を引く、石経と同じ。
(「里仁為美。擇不處仁,焉得智」『孟子』公孫丑篇上、武英殿十三経注疏本『孟子注疏』)
→子曰、「里、仁爲善。擇不處仁、焉得智。」
復元白文
※仁→(甲骨文)・焉→安。
書き下し
子曰く、里や、仁は善き爲り。仁に處らざるを擇ばば、焉んぞ智るを得む。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。「鯉よ。貴族らしさというのはよいものだ。好んで貴族らしくない境地にいるなら、どうして知るということが分かろうか。」
意訳
鯉*よ。貴族らしい挙措動作はよいものだ。それを目指さないと、ものを知る喜びが分からぬまま一生が終わってしまうぞ。
*孔子の一人息子。
従来訳
先師がいわれた。――
「隣保生活には何よりも親切心が第一である。親切気のないところに居所をえらぶのは、賢明だとはいえない。」
現代中国での解釈例
孔子說:「同品德高尚的人住在一起,是最好不過的事。選住址不顧環境,哪算聰明?」
孔子が言った。「人品道徳が高い人と一緒に住むのは、最も申し分なく素晴らしいことだ。住所を選ぶのに環境を考えないのは、どうして聡明と言える?」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
里
(金文)
論語の本章では、孔子の一人息子、”孔鯉”。カールグレン上古音はli̯əɡ、藤堂上古音はlɪəgで、「鯉」と同じ。詳細は論語語釈「鯉」を参照。
金文で「論語」を「侖語」と書くように、春秋戦国時代は漢字の数が出そろわず、後世出現した派生字の部品が、派生字の意を示す例が非常に多い。「鯉」もその一つで、「鯉」の字が無かったからと言って、当時のコイや孔子の息子がいなかったことにはならない。
通説通り、”さと”と解さない理由は後述。
仁
(金文大篆)
論語の本章では”貴族(らしさ)”。通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。
詳細は論語における「仁」を参照。
里仁爲善(里仁為善)
論語の本章では、”鯉よ、仁はよいものだ”。
通説の一つである、”人情味のある住所”→”仁の里”は、文法的な誤り。春秋時代の中国語は、現代北京語と同じく修飾語→被修飾語の順であり、逆はあり得ない。原則的に格変化も助詞も持たない中国語では、語順は語義を定める決定的要素で、勝手な変更は許されない。
「里は仁を善と為す」と読むのも、語順的にあり得ない。「仁」が目的語なら、動詞「為」の後ろに来なくてはならない。この回避のため、「里にては仁は善と為る」と読むのは、もはやコジツケに過ぎない。”にて”を示す記号が、どこにも無いからだ。
これら誤りの原因は、古注。
子曰里仁為美註鄭𤣥曰里者民之所居也居於仁者之里是為善也擇不處仁焉得智註鄭𤣥曰求善居而不處仁者之里不得為有智也
原文。「子曰里仁為美」。
注釈。鄭玄「里とは民が住まう場所だ。仁者が住む所に住むのは、良い事だと書いてある。」
原文。「擇不處仁焉得智」。
注釈。鄭玄「善を求めていながら、仁者の住む所に住まないようでは、知恵があるとは言えないのだ。」
「里仁」を”仁者の住む所”と解しているが、後漢きっての大学者と言われる鄭玄でさえ、このようなデタラメを平気で記している。儒者の注がいかにあてにならないか、おわかり頂けるだろうか。この部分については、新注を書いた朱子もまた、古注の受け売りで済ませている。
處,上聲。焉,於虔反。知,去聲。里有仁厚之俗為美。擇里而不居於是焉,則失其是非之本心,而不得為知矣。
處は、上がり調子に発音する。焉は、於のあたま、虔のおしりの音を組み合わせて読む。知は下がり調子に読む。住所は仁の情けに恵まれた場所がよろしい。そうした里を選んで住まわないと、何が正しいか・間違っているか、その判断力を失って、知者ではなくなってしまう。
次に「里仁」の解釈だが、「仁」が”貴族らしさ”なので、「里」→”住所”の”貴族らしさ”では意味が通じない。「里」を通説通り”住所”と解する限り、どうやりくりしても論語の本章は解読できない。発想を切り変えて上掲の通り息子に対する呼びかけと解すると、文意が通る。
また「里仁為善」を”近所の貴族はいい人だ”と解せなくも無いが、貴族に悪党ばかりではなかろうが、善人ばかりでもないはずで、近所の特定の貴族の話だとしても、後ろの「いずくんぞ智るを得ん」に繋がらない。従って「里仁」とは、”鯉よ、仁=貴族らしさとは…”。
残る「為善」は、”よいものである”とも解せるし、”よいものと思いなさい”とも解せる。
擇不處仁(択不処仁)
論語の本章では、”わざわざ貴族らしくない態度を取る”。「擇んで仁に處らずんば」と読んでもいいが、「仁」を”人情”の類と解した場合でも、”わざわざ人情を選び取り(なさい)。そうしないと”と解釈するのは文法的に誤り。「擇」(択)の目的語は、「不處仁」だからで、「不擇處仁」とは書いていないからだ。
これは、「常不得油」(つねにあぶらをえず。いつも油に不自由している)と「不常得油」(つねにはあぶらをえず。いつも油に不自由してはいない=時には油に不自由する)の違いと同じく、語順によってまるで意味が違ってくる例の一つ。
焉得知
論語の本章では、”どうして知を得られるだろうか”。「焉」は”どうして”という疑問辞。詳細は、論語語釈「焉」を参照。
春秋時代では、「知」は「智」と記された。孔子は中国史上初の「知」の発明者で、それまで「知」とは”誓う”ことだった。詳細は論語語釈「知」を参照。
孔子が提唱したのは現在と同じく”知る”ことだが、論語では特別な意味で「知」が用いられる場合がある。それは「礼」を知ることで、「礼」とは弟子が目指すべき貴族のスペックを言う。
つまり貴族らしい振る舞い一般を定めたのが「礼」であり、それに外れた行いをした臧文仲を、「知ではない」と孔子は言っている(論語公冶長篇17)。従って狭義の「知」とは、貴族らしい挙措動作である、「礼」を知ることだった。
その他論語での特徴的な「知」と言えば、”人に知られる”事を意味するが、その場合は「己」という目的語を伴っており、論語の本章の場合は当てはまらない。
- 不患人之不己知,患不知人也。(学而篇)
- 不患莫己知、求為可知也。(里仁篇)
- 不吾知也。(先進篇)
- 自經於溝瀆、而莫之知也。(憲問篇)
- 不患人之不己知、患其不能也。(憲問篇)
- 莫我知也夫。(憲問篇)
- 莫己知也。(憲問篇)
- 不病人之不己知也。(衛霊公篇)
論語:解説・付記
『孔子家語』によると、何かと頓狂なところのある魯の昭公が、息子孔鯉の誕生を祝って、当時まだ無名だった孔子にコイを贈ったという。
それを記念して、孔子は息子を名付けたという。『孔子家語』は従来、後漢から三国にかけてのの王粛による、偽作と言われてきたが、定州漢墓竹簡の発掘調査により、その成立が前漢以前に遡りうることが示唆されている(→「漢代における論語の伝播」)。
漢方的にコイは、お乳の出がよくなる妙薬とされるから、誕生祝いにコイというのは合点がいく。ただし論語の時代、漢方は現在伝わるほど発達していないが、経験則的に血の気を補う食材として、知られていてもおかしくない。
訳者としては、昭公の頓狂に頼らずとも、何かと生活が苦しい下級役人には、当時「奥さん出産おめでとう手当」として、コイの支給があったと思いたい。
「里」について、現伝の論語は、伝わる間に、写本で書き間違えた箇所があり得る。しかも孔鯉の名前が、もともと孔里だった可能性もある。論語時代の衛国に孔悝(悝はカールグレン上古音不明。藤堂説では里と同音)という家老がいて、子路の死因の一つとなったなど一門との関係が深いが、それとの混同を避けるため、里を鯉と書いたかも知れない。
ただし『史記』にははっきりと孔子の息子を鯉と書いているから、あえて本当の名が里だとも断定できない。
いすれにせよ儒者の思いつきは、文法無視のデタラメとして捨て去ってよい。なお既存の論語本では、吉川本で荻生徂徠は”行動の原則を仁に置け”と言っているのであって、引っ越しの話とは解していないという。仮に本章の「知」を智恵と解する場合も、この説には一理ある。
なぜなら論語での「知」とは、「仁」の詳細なスペックである「礼」を知ることでもあるからで(論語における「知」)、人間の本能に逆らうことだった(論語顔淵篇1)。ならば仁を目指さないなら、本能に逆らってまで知である必要は無い。引っ越しの話ではなかろう。
論語での仁と礼と知は、不可分である。
コメント
[…] 里は仁あるを美と為す。択びて仁に拠らずんば、焉んぞ知なるを得ん。 ガラの悪い土地からは出て行きなさい。バカがうつるぞ。(論語里仁篇1) […]