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『史記』現代語訳:衛康叔世家・出公

『史記』原文

六月乙酉,趙簡子欲入蒯聵,乃令陽虎詐命衛十餘人衰绖歸,簡子送蒯聵。衛人聞之,發兵擊蒯聵。蒯聵不得入,入宿而保,衛人亦罷兵。
出公輒四年,齊田乞弒其君孺子。八年,齊鮑子弒其君悼公。
孔子自陳入衛。九年,孔文子問兵於仲尼,仲尼不對。其後魯迎仲尼,仲尼反魯。
十二年,初,孔圉文子取太子蒯聵之姊,生悝。孔氏之豎渾良夫美好,孔文子卒,良夫通於悝母。太子在宿,悝母使良夫於太子。太子與良夫言曰:「茍能入我國,報子以乘軒,免子三死,毋所與。」與之盟,許以悝母為妻。閏月,良夫與太子入,舍孔氏之外圃。昏,二人蒙衣而乘,宦者羅御,如孔氏。孔氏之老欒甯問之,稱姻妾以告。遂入,適伯姬氏。既食,悝母杖戈而先,太子與五人介,輿猳從之。伯姬劫悝於廁,彊盟之,遂劫以登臺。欒甯將飲酒,炙未熟,聞亂,使告仲由。召護駕乘車,行爵食炙,奉出公輒奔魯。
仲由將入,遇子羔將出,曰:「門已閉矣。」子路曰:「吾姑至矣。」子羔曰:「不及,莫踐其難。」子路曰:「食焉不辟其難。」子羔遂出。子路入,及門,公孫敢闔門,曰:「毋入為也!」子路曰:「是公孫也?求利而逃其難。由不然,利其祿,必救其患。」有使者出,子路乃得入。曰:「太子焉用孔悝?雖殺之,必或繼之。」且曰:「太子無勇。若燔臺,必舍孔叔。」太子聞之,懼,下石乞、盂黶敵子路,以戈擊之,割纓。子路曰:「君子死,冠不免。」結纓而死。孔子聞衛亂,曰:「嗟乎!柴也其來乎?由也其死矣。」孔悝竟立太子蒯聵,是為莊公。

『史記』書き下し

六月、乙酉、趙簡子、蒯聵(カイカイ)を入れんと欲す。乃ち陽虎をして詐らしめて、衛の十余人に命じて衰絰(サイテツ)して帰らしむ。簡子、蒯聵を送る。衛人、之を聞き、兵を発して蒯聵を撃つ。蒯聵、入るを得ず。宿に入りて保ず。衛人も亦兵を罷む。

出公輒四年、斉の田乞、其の君孺子を弑す。

八年、斉の鮑子、其の君悼公を弑す。孔子、陳自り衛に入る。

九年、孔文子、兵を仲尼に問う。仲尼、對えず。其の後、魯、仲尼を迎う。仲尼、魯に反る。

十二年、初め孔圉文子、太子蒯聵の姉を取り、悝(カイ)を生む。孔氏の豎(ジュ)の渾(コン)良夫は美好なり。孔文子卒し、良夫、悝の母に通ず。太子、宿に在り。悝の母、良夫を太子に使わす。太子、良夫と言いて曰く、「苟も能く我を国に入れなば、子に報ゆるに軒に乗るを以てし、三死を免し、與る所毋からしめん。」之と盟い、以て悝の母を妻と為すを許す。閏月、良夫と太子、入りて、孔氏の外圃に舎す。昏(くれ)、二人、衣を蒙(かぶ)りて乗り、宦者の羅、御して孔氏に如く。孔氏の老欒甯(ランネイ)、之を問う。姻妾を称し以て告ぐ。遂に入りて伯姫氏に適く。既に食す。悝の母、戈を杖きて先だつ。太子は五人と與に介(よろい)して、豭(カ)を輿(にな)い、之に従う。伯姫、悝を厠(シ)に劫かし、彊いて之に盟わしめ、遂に劫し以て臺に登る。欒甯、将に酒を飲まんとす。炙(あぶり)未だ熟せず。乱を聞き、仲由に告げしめて、召護をして乗車を駕せしめ、爵(さかずき)を行い、炙を食らい、出公輒を奉じて魯に犇る。仲由、将に入らんとして、子羔(シコウ)の将に出でんとするに遇う。曰く、「門、已に閉じたり。」子路曰く、「吾、姑(しばら)く至らん。」子羔曰く、「及ばじ、其の難を踐む莫かれ。」子羔遂に出でて、子路は入り、門に及ぶ。公孫敢、門を闔じて、曰く、「入るを為す毋かれ。」子路曰く、「是れ公孫や、利を求めて其の難を逃ぐ。由は然らず。其の禄を利すれば、必ず其の患いを救わん。」使者有りて出づ。子路乃ち入るを得たり。曰く、「太子、焉んぞ孔悝を用いん。之を殺すと雖も必ず之を継ぐもの或らん。」且つ曰く、「太子は勇無し。若し臺を燔かば、必ず孔叔を舎(ゆる)さん。」太子、之を聞きて懼れ、石乞・孟黶(ウエン)を下ろして子路に敵せしむ。戈を以て之を撃ち、纓を割(た)つ。子路曰く、「君子、死すとも、冠をば免ぜず。」纓を結びて死す。孔子、衛の乱を聞きて曰く、「嗟呼、柴や、其れ来たらんか。由や、其れ死せん。」孔悝、竟に太子蒯聵を立つ。是を荘公と為す。

『史記』現代日本語訳

〔霊公四十二年・BC493〕六月、乙酉、晋の筆頭家老・趙簡子が、亡命中の元衛太子・蒯聵(カイカイ)を衛国に潜入させようとした。そこで陽虎に一計を案じさせて、衛国人十余人に喪服を着せ、霊公死去を伝える使者に化けさせ、潜入の現地工作をさせた。

工作が終わって趙簡子が蒯聵を出発させると、衛国人がその情報を聞きつけて、兵を出して蒯聵の行列を攻撃した。蒯聵は衛国に入れず、宿のまちに逃げ延びた。衛国も兵を引き揚げた。

出公輒(チョウ)四年(BC489)、斉の田乞が、その主君晏孺子(アンジュシ)を殺した。

八年(BC485)、斉の鮑牧が、その主君悼公を殺した。孔子が陳から衛に入った。

九年(BC484)、衛の家老の一人孔文子が、軍事を孔子に尋ねた。孔子は答えなかった。その後魯国が孔子を迎えたので、孔子は魯に帰った。

十二年(BC481)*、もともと孔圉(コウギョ:孔文子)は、太子蒯聵の姉(伯姫)をめとって、息子の悝(カイ)を生んだ。その孔氏の小姓・渾良夫(コンリョウフ)は、美男だった。孔文子が死んで、渾良夫は悝の母と密通した。太子蒯聵は宿のまちにおり、悝の母が、渾良夫を太子のもとへ使わした。

太子が渾良夫に言った。「もし私を入国させてくれたら、あなたを家老職に就けよう。死刑に当たる罪も三度まで許し、罰を与えないことにしよう。」太子は渾良夫と盟約を結び、悝の母を妻にすることを許した。閏月、渾良夫と太子は密入国して、孔氏の別荘に潜んだ。

夕暮れになってから二人は衣をかぶって女装し、去勢した家内奴隷の羅(ラ)に馬車の手綱を取らせて孔氏の屋敷に入った。孔氏の執事・欒甯(ランネイ)は、やってきた馬車を取り調べたが、二人は妾の出入りだと言ってごまかし、そのまま伯姫の奥座敷に入った。

腹ごしらえを住ませると、伯姫は戈*を手にとって先頭を行った。太子は五人の部下と共に甲冑に身を固め、生け贄の豚を担がせて家老たちに服従を誓わせる準備をし、伯姫の後ろに続いた。伯姫は息子の孔悝を豚小屋*に連れ込んで脅し、無理やり太子に味方すると誓わせた。

太子一党は公宮の警備兵を駆逐して、見晴らし台に上った。その時欒甯は酒を飲もうとしていたが、つまみのあぶり肉がまだ焼けていなかった。そこで乱の知らせを聞いたが、孔子の弟子で、衛国に仕えていた子路に知らせた、自分は召護に馬車の手綱を取らせ、車上で酒を飲み肉をほおばりながら、出公輒を連れて魯に逃げた。

子路が公宮に入ろうとすると、弟弟子の子羔(シコウ)が門から出てきたのに出会った。子羔は「門はすでに閉じています」と言ったが、子路は「まあとにかく行ってみよう」と言った。子羔は「無理です。わざわざ危ない目に遭うことはありません」と言ったが、子羔は引き止められずに公宮から出て、子路は入って門前に立った。

公孫敢が門を閉ざして「入るな」と言うと、子路は「公孫どの、貴殿は利益に目が眩んで逃げたな。拙者はそうではない、俸禄分は主君の危険を救うつもりでござる」と言った。たまたま外に出る使者があったので、入れ替わりに子路は門を入った。そこで大声で叫んだ。

「太子どの、孔悝どのは役立たずですぞ。殺しても代わりはいくらでもござる。それにしても太子どのは昔から臆病でござった。孔悝どのを放しなされ。さもないと下からこの見晴らし台に火を付けますぞ。」

太子は震え上がって、石乞・孟黶(ウエン)を台から降りさせて子路と戦わせた。戈で子路を撃ったところ、子路の冠の紐が切れた。子路は「君子は死んでも冠を脱がないものでござる」と言って、紐を結び直している内に殺された。

孔子がこの衛の乱を聞いた。そして言った。「ああ、子羔は戻ってこられようが、子路は死んでしまっただろうな。」孔悝は脅されやむなく、太子蒯聵を国公に立てた。これが荘公である。

『史記』訳注

十二年:『左伝』では衛国の乱を、魯哀公十五年(BC480)として記録しており、本世家で出公十二年(BC481)の出来事としているのは誤り。あるいは司馬遷は、二年分の記事を書いたつもりなのかも知れない。

戈:当時の主力武器だった鎌状のほこ。

豚小屋:当時の大トイレは豚小屋の上にあって、人間から出る大きい方を豚に食べさせて太らせた。つまり豚小屋=大トイレだった。なお豚小屋ではなく、いずれかの建物の”かたわら”と解する本もある。

BC 魯哀公 衛出公 孔子 魯国 その他
493 2 1 59 衛を出、曹を通り宋に行く。宋将軍桓魋カンタイに追われる。弟子一同とも散り散りになって鄭に逃れる 衛・霊公死去、子郢、即位を固持し出公即位。晋・趙簡子、衛太子蒯聵の帰国を計るが失敗、范・中行氏反乱。斉田乞、景公を説いて二氏を援助
492 3 2 60 鄭より陳に向かい、4年ほど陳・サイで過ごし、楚に出掛ける。各地の王侯貴族より賓客として迎えられる このころかつての学友・南宮敬叔、火消しとして奮戦。季桓子、跡継ぎの季康子に孔子を呼び戻すよう遺言して死去 ペルシア戦争始まる
491 4 3 61 季康子、孔子を呼び戻そうとするが、とりやめて冉求を招く
490 5 4 62 佛肸フツキツの招きに応じようとするが果たせず 晋・佛肸、孔子を招く。晋・定公、范・中行氏を敗り、二氏斉に亡命。斉・公子陽生、魯に亡命。望んで季康子の妹をめとる。斉・景公死去。子の晏孺子荼即位
489 6 5 63 楚・昭王の招きに応じ、子貢・宰我を伴って向かうが、陳・蔡の妨害に遭う。楚の宰相・子西も反対し、仕官できず衛へ 楚・昭王死去。斉・田乞、高氏・国氏を追い、晏孺子荼を廃位し、魯に亡命していた公子陽生、帰国して即位し悼公となる
488 7 6 64 衛・出公に仕える? 呉に百牢を出す。季康子、子貢を派遣して自分の出張を撤回させる。邾を攻める。 呉、強大化し繒の会盟で無理な要求を魯に突きつける
487 8 7 65 弟子の有若、迎撃部隊から外される。斉と和睦 呉、邾の要請で魯を攻撃。斉、魯を攻め三邑を取る。邾、呉の力で復国
485 10 8 67 夫人の幵官氏死去。子貢を派遣して呉から援軍を引き出す。陳から衛に入る〔衛世家〕 呉と同盟して斉を攻める 斉・悼公、鮑牧に殺され簡公即位、田乞死去し田常継ぎ、魯を攻めんとして子貢諫止
484 11 9 68 孔文子に軍事を尋ねられる。衛を出て魯に戻る。のち家老の末席に連なる。弟子の冉求、侵攻してきた斉軍を撃破 呉と連合して斉に大勝 呉・伍子胥、呉王夫差に迫られて自殺
483 12 10 69 もう弟子ではないと冉有を破門 季康子、税率を上げ、家臣の冉求、取り立てを厳しくする
482 13 11 70 息子の鯉、死去 呉王夫差、黄池に諸侯を集めて晋・定公と覇者の座を争う。晋・趙鞅、呉を長と認定(晋世家)。呉は本国を越軍に攻められ、大敗
481 14 12 71 斉を攻めよと哀公に進言、容れられず。弟子の顔回死去。弟子の司馬牛、宋を出奔して斉>呉を放浪したあげく、魯で変死 孟懿子死去。麒麟が捕らわれる 斉・簡公、陳成子(田常)によって徐州で殺され、平公即位。宋・桓魋、反乱を起こして曹>衛>斉に亡命
480 15 13 72 弟子の子路死去 子服景伯と子貢を斉に遣使。大干魃(『魯邦大旱』) 斉、魯に土地を返還、田常、宰相となる。衛、出公亡命して蒯聵=荘公即位。

『史記』解説・付記

子路の最期は弟子列伝にもあるが、こちらの方が記述が詳しい。

『史記』諸国世家:現代語訳
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