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『史記』現代語訳:衛康叔世家・献公/殤公

『史記』原文

〔獻公〕十八年,獻公戒孫文子、甯惠子食,皆往。日旰不召,而去射鴻於囿。二子從之,公不釋射服與之言。二子怒,如宿。孫文子子數侍公飲,使師曹歌巧言之卒章。師曹又怒公之嘗笞三百,乃歌之,欲以怒孫文子,報衛獻公。文子語蘧伯玉,伯玉曰:「臣不知也。」遂攻出獻公。獻公奔齊,齊置衛獻公於聚邑。孫文子、甯惠子共立定公弟秋為衛君,是為殤公。
殤公秋立,封孫文子林父於宿。

十二年,甯喜與孫林父爭寵相惡,殤公使甯喜攻孫林父。林父奔晉,復求入故衛獻公。獻公在齊,齊景公聞之,與衛獻公如晉求入。晉為伐衛,誘與盟。衛殤公會晉平公,平公執殤公與甯喜而復入衛獻公。獻公亡在外十二年而入。

獻公後元年,誅甯喜。

三年,吳延陵季子使過衛,見蘧伯玉、史,曰:「衛多君子,其國無故。」過宿,孫林父為擊磬,曰:「不樂,音大悲,使衛亂乃此矣。」是年,獻公卒,子襄公惡立。

『史記』書き下し

十八年、獻公、孫文子・甯恵子に食を戒(つ)ぐ。皆往く。日、旰(く)るるまで召さず。而して去りて鴻を囿に射る。二子、之に従う。公、射服を釈(と)かずして之と言う。二子怒りて、宿(セキ)に如く。孫文子の子、数(しばしば)公の飲に侍る。師曹をして巧言の卒章を歌わしむ。師曹、又公の嘗て笞つこと三百を怒り、乃ち之を歌い、以て孫文子を怒らせて衛の獻公に報いんと欲す。文子、蘧伯玉に語る。伯玉曰く、「臣は知らざるなり。」遂に攻めて獻公を出だす。獻公、斉に犇(はし)る。斉、衛の獻公を聚邑に置く。孫文子・甯恵子、共に定公の弟秋を立てて衛君と為す。是を殤公と為す。殤公秋立つや、孫文子林父を宿に封ず。

十二年、甯喜と孫林父、寵を争いて、相悪む。殤公、甯喜をして孫林父を攻めしむ。林父、晋に犇り、復た故との衛の獻公を入れんことを求む。獻公は斉に在り。斉の景公、之を聞き、衛の獻公と與に晋に如き、入れんことを求む。晋、為に衛を伐ち、誘いて與に盟う。衛の殤公、晋の平公と会す。平公、殤公と甯喜を執らえて、復た衛の獻公を入る。獻公、亡げて外に在ること十二年にして入る。

獻公後元年、甯喜を誅す。

三年、呉の延陵季子、使いして衛を過(よぎ)る。蘧伯玉・史鰌を見て曰く、「衛は君子多し。其の国は故(こと)無からん。」宿を過ぐ。孫林父、為に磬を撃つ。曰く、「楽しまず。音、大いに悲しむ。衛をして乱れしむるは乃ち此れなり。」是の歳、獻公卒し、子の襄公悪立つ。

『史記』現代日本語訳

献公十八年(BC559)、献公は孫文子と甯恵子に宴会を開くと告げた。廷臣たちがみな出かけたのに、日が暮れるまで献公は二人を呼ばなかった。そのまま宮廷御苑に行って、鴻(おおとり)を射た。二人はお供に従ったが、献公は狩猟服のままで二人と話した。

二人は怒って、孫文子の領地である宿(セキ)のまちに引き籠もった。一方で孫文子の子は、たびたび献公の宴席に呼ばれていた。その席で献公は、楽師の師曹に「巧言」*の最終章を歌わせるのが常だったが、師曹はかつて、献公に三百回むち打たれたことを恨みに思っていた。

そこで人を罵倒する歌詞の「巧言」を孫文子の子の前で歌い、怒らせて献公に仕返ししようとした。孫文子はそれを知って、家老の蘧伯玉相談した。ところが伯玉は、「知ったことではない」と答えた。それで孫文子はとうとう献公を攻め、追放した。献公は斉に逃げた。

斉は献公を聚邑に住まわせた。孫文子と甯恵子は、相談の結果定公の弟・秋を国公に立て、殤公と呼んだ。殤公は即位すると、孫文子(=林父)に宿を領地として認定した。

殤公十二年(BC547)、孫文子と甯恵子(=甯喜)は、殤公の寵愛を争って互いに反目した。殤公は甯恵子に味方して孫林父を攻めさせた。孫林父は晋に逃げ、追放した献公の復位をたくらんだ。

献公を斉に住まわせていた斉の景公は、献公を連れて晋に行き、復位の手助けをするよう求めた。晋は衛に出兵し、殤公に出て来るよう迫った。殤公が晋の平公と会見すると、平公は殤公と甯喜を捕らえて、献公を復位させた。献公は亡命十二年で復位した。

献公後元年(BC546)、甯喜を処刑した。

献公後三年(BC544)、呉の延陵季子が晋への使いの途中で衛を通過した。延陵季子は蘧伯玉と史鰌に会見して言った。「衛には人材が多い。国は安泰でしょう。」次いで延陵季子が宿邑を通った時、孫林父は延陵季子のために石の楽器・磬(ケイ)を奏でた。延陵季子は言った。「楽しくない。音が大そう悲しげだ。衛国が乱れるとしたら、孫林父が原因*になるだろう。」この年に献公が死んで、子の襄公・悪が国君に立った。

『史記』訳注

巧言:『詩経』小雅・小旻之什にある歌。最終章の歌詞は以下の通り。

彼何人斯、居河之麋。無拳無勇、職為亂階。既微且尰、爾勇伊何。為猶將多、爾居徒幾何。
彼何人か、河の麋(きし)に居(す)まうもの。拳無くして勇も無く、亂階を為すを職(つとめ)とす。既に微にして且(か)つ尰(あしは)れ、爾(なんじ)の勇や伊何(いかん)。為して猶お將に多し、爾の居む徒(ともがら)幾何(いくたり)か。

そもそもお前は何ものだ。河原に住まう乞食同然、ケンカも弱けりゃ勇気もない。足は出来物・腫れ物だらけ、お前の勇気とは何なのだ。たくらみばかり膨らまし、加勢する者がどれほどいるのか。

 

なお当時の楽師は盲人が務めたため、人違いの振りをすることができた。

孫林父が原因:『史記』の春秋時代部分は『左伝』のコピペが多いが、『左伝』にはこのような、予言や占いが当たる話が随分ある。孫父林が引き籠もった宿のまちは、のちに実の子の出公を放逐した荘公が引き籠もって、悪だくみに精を出したまちでもある。

『史記』解説・付記

「魚は頭から腐る」とはどこのことわざだったか、家臣はまだまともだが、殿様からダメになっているように思う。

BC 魯襄公 衛献公 孔子 魯国 その他
559 14 18 衛・献公、斉に亡命、殤公即位。
557 16 殤公2 晋・平公即位、斉を伐って都城を焼く
554 19 5 斉・霊公死去、荘公即位
552 21 7 襄公、晋に朝見(魯・晋世家)
551 22* 8 1 孔子、魯国・昌平ショウヘイ郷・スウ邑に生まれる。西暦推定日付9/28。父・叔梁紇シュクリョウコツは70過ぎの武人、母・顔徴在ガンチョウザイは17の巫女 国政の実権は三桓サンカン=三家の門閥家老が掌握

*21年とあるのは『史記』孔子世家の誤記

晋・大夫欒盈ランエイ、斉に亡命
550 23 9 2 欒盈、晋に潜入して内乱。斉、晋を攻めて朝歌を取る〔斉世家〕
549 24 10 3 父亡くなる。母と共に魯の都・曲阜のケツ里に移住。母は父の墓所を隠す
548 25 11 4 斉・崔杼、荘公を殺し、景公即位。晋、斉の混乱に乗じて攻撃
547 26 12 5 斉・崔杼死す。衛献公、斉と晋の助力で復位
545 28 献公後2 7 斉・慶封失脚して呉に亡命
544 29 3 8 弟子の冉伯牛ゼンハクギュウ生まれる 呉の延陵の季子、魯・衛・晋に来たる。三桓の筆頭・季武子、勢力拡大 衛・献公死去、襄公即位
『史記』諸国世家:現代語訳
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