『史記』現代語訳:衛康叔世家・荘公

『史記』原文

莊公蒯聵者,出公父也,居外,怨大夫莫迎立。元年即位,欲盡誅大臣,曰:「寡人居外久矣,子亦嘗聞之乎?」群臣欲作亂,乃止。
二年,魯孔丘卒。
三年,莊公上城,見戎州。曰:「戎虜何為是?」戎州病之。十月,戎州告趙簡子,簡子圍衛。十一月,莊公出奔,衛人立公子斑師為衛君。齊伐衛,虜斑師,更立公子起為衛君。

『史記』書き下し

荘公蒯聵は出公の父なり。外に居り、大夫の迎えて立つるもの莫きを怨む。

元年、位に即くや、尽く大臣を誅さんと欲して、曰く、「寡人、外に居ること久し。子も亦嘗て之を聞けるか。」群臣、乱を作さんと欲し、乃ち止む。

二年、魯の孔丘卒す。

三年、荘公、城に上り、戎州を見て、曰く、「戎虜、何ぞ是に為さん。戎州、之を病む。十月、戎州、趙簡子に告ぐ。簡子、衛を囲む。十一月、荘公、出犇す。衛人、公子班師を立てて衛君と為す。斉、衛を伐ち、班師を虜にし、更に公子起を立てて衛君と為す。

『史記』現代日本語訳

荘公蒯聵(カイカイ)は、出公の父である。国外に長くいたが、帰国した際に家老たちが誰一人出迎えなかったのを怨んだ。

荘公元年(BC480)*、位に即くと、家老たちを全て殺そうとして言った。「私は長く国外にいた。そなたたちはその事を知っていたか〔国外で苦労していると知っていたのに、なぜ一人も私を助けなかったのか〕。」しかし家老たちが反乱を起こそうとしたので、怖くなってやめた。

荘公二年(BC479)、魯の孔子が死んだ。

荘公三年(BC478)、荘公が都城の城壁に登って外を見物していると、蛮族の集落が見えた。荘公が言った。「蛮族めがなぜここにいるのだ。追い払ってくれる。」蛮族は恐れ、十月になって西方の大国・晋の実力者で、荘公を帰国させる後ろ盾になった趙簡子に訴えた。

そこで趙簡子が兵を率いて衛の都城を包囲すると、十一月になって荘公は逃亡した。衛の国人は、公子班師を立てて衛の国君にした。すると今度は斉が衛を攻撃し、班師を捕らえて、代わりに公子起を衛の国君に立てた。

『史記』訳注

荘公元年:荘公は即位の年を元年にしているが、当時は先君最終年の翌年から元年とするのが普通。これは逃亡した先君で息子の出公がまだ生きており(のちに復位)、死去による代替わりではないため。

BC 魯哀公 衛荘公 孔子

魯国

その他

480 15 1 72 弟子の子路死去

子服景伯と子貢を斉に遣使

斉、魯に土地を返還、田常、宰相となる。衛、出公亡命して蒯聵=荘公即位。

479 16 2 73 死去。西暦推定日付3/4。曲阜城北の泗水シスイ河畔に葬られる   ギリシア、プラタイアの戦い
478 17 3       晋・趙簡子、衛・荘公を放逐。衛・公子班師が即位するも、斉の攻撃で公子起即位。

『史記』解説・付記

荘公の父である、やり手の霊公に対するひいきの引き倒しになるかも知れないが、前回の通り荘公は居丈高な割には臆病で、たった三年で保護者の趙簡子に見放される、かなりダメな公子だった。霊公が疎ましく思い、追い払うような真似をしたのも無理ないだろう。

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