『史記』原文
二十六年,平公卒,子昭公夷立。
昭公六年卒。六卿彊,公室卑。子頃公去疾立。
頃公六年,周景王崩,王子爭立。晉六卿平王室亂,立敬王。
九年,魯季氏逐其君昭公,昭公居乾侯。十一年,衛、宋使使請晉納魯君。季平子私賂范獻子,獻子受之,乃謂晉君曰:「季氏無罪。」不果入魯君。
十二年,晉之宗家祁傒孫,叔向子,相惡於君。六卿欲弱公室,乃遂以法盡滅其族。而分其邑為十縣,各令其子為大夫。晉益弱,六卿皆大。
十四年,頃公卒,子定公午立。定公十一年,魯陽虎奔晉,趙鞅簡子捨之。十二年,孔子相魯。
十五年,趙鞅使邯鄲大夫午,不信,欲殺午,午與中行寅、范吉射親攻趙鞅,鞅走保晉陽。定公圍晉陽。荀櫟、韓不信、魏侈與范、中行為仇,乃移兵伐范、中行。范、中行反,晉君擊之,敗范、中行。范、中行走朝歌,保之。韓、魏為趙鞅謝晉君,乃赦趙鞅,復位。二十二年,晉敗范、中行氏,二子奔齊。
三十年,定公與吳王夫差會黃池,爭長,趙鞅時從,卒長吳。
三十一年,齊田常弒其君簡公,而立簡公弟驁為平公。三十三年,孔子卒。
三十七年,定公卒,子出公鑿立。
『史記』書き下し
二十六年、平公卒し、子の昭公夷立つ。昭公は六年にして卒す。六卿彊く、公室、卑し。子の頃公去疾立つ。頃公六年、周の景王崩じ、王子、立つを争う。晋の六卿、王室の乱を平らげ、敬王を立つ。九年、魯の季子、其の君昭公を逐う。昭公、乾侯に居る。十一年、衛・宋、使いをして晋に請いて魯君を納れしむ。季平子、私かに范献子に賂う。献子、之を受く。乃ち晋君に謂いて曰く、「季子は罪無し。」果たして魯君を入れず。十二年、晋の宗家祁傒の孫、叔嚮の子、君に相い悪し。六卿、公室を弱めんと欲し、乃ち遂に法を以て尽くその族を滅ぼして、其の邑を分かちて十県と為し、各〻其の子をして大夫と為さしむ。晋、益〻弱く、六卿皆大なり。十四年、頃公卒す。子の定公午立つ。定公十一年、魯の陽虎晋に奔る。趙鞅簡子之を舎(やど)せしむ。十二年、孔子、魯に相たり。十五年、趙鞅、邯鄲の大夫午を使う。信ならず。午を殺さんと欲す。午、中行寅・范吉射と親し。趙鞅を攻む。鞅、走り、晋陽に保つ。定公、晋陽を囲む。荀檪・韓不信・魏侈、范・中行と仇を為す。乃ち兵を移し、范・中行を伐つ。范・中行、反す。晋君、之を撃ち、范・中行を敗る。范・中行、朝歌に走り、之に保つ。韓・魏、趙鞅の為に晋君に謝す。乃ち趙鞅を赦し、位に復す。二十二年、晋、范・中行氏を敗る。二子斉に奔る。三十年、定公、夫差と黄池に会し、長を争う。趙鞅、時に従い、卒に呉を長とす。三十一年、斉の田常、其の君簡公を弑して、簡公の弟鷔を立てて平公と為す。三十三年、孔子卒す。三十七年、定公卒す。子の出公鑿立つ。
『史記』現代日本語訳
二十六年(BC532)、平公が死に、子の昭公夷が国君に立った。
昭公は六年で死んだ(BC526)。六家の門閥家老(六卿)の権力が強く、晋の公室は衰えた。子の頃公・去疾が国君に立てられた。
頃公六年(BC520)、周の景王が崩御し、王子たちが跡目を争った。晋の六卿は、王室の乱を平らげて、敬王を立てた。
九年(BC517)、魯の季子がその主君の昭公を放逐した。昭公は晋領の乾侯に住まった。
十一年(BC515)、衛と宋が遣使して晋に魯君の受け入れを求めた。魯の季平子は、密かに范献子に賄賂を贈った。献子は受け取った。そこで頃公に言った。「季子に罪はありません。」こうしてとうとう魯君を受け入れなかった。
十二年(BC514)、晋公室の宗家の一員で祁傒の孫で叔嚮の子が、頃公と仲が悪かった。六卿は公室を弱めようとして、それに乗じて罪を着せてその一族を全て滅ぼして、その領地を十県に分け、各々その子を代官とした。こうして晋の公室はますます弱くなり、六卿は皆強大化した。
十四年(BC512)、頃公が死に子の定公・午が国君に立った。
定公十一年(BC501)、魯の陽虎が晋に逃げてきた。趙鞅・簡子が陽虎を受け入れた。
十二年(BC500)、孔子が魯の宰相になった。
十五年(BC497)、趙鞅が邯鄲の代官・午を使者にしたが、午は趙鞅をだました。趙鞅は午を殺そうとした。午は中行寅(チュウエツイン)・范吉射(ハンキツシャ)と親しかったので、その力を借りて趙鞅を攻めた。趙鞅は負けて晋陽に立てこもった。定公は兵を出して晋陽をとり囲んだ。荀檪(ジュンレキ)・韓不信・魏侈(ギシャ)の三人は、范氏・中行氏と仇敵だったので、兵を移動させて范氏と中行氏を伐った。范氏と中行氏は反乱を起こした。定公は両氏を攻撃し、敗った。范氏と中行氏は朝歌に逃げて、立てこもった。韓氏と魏氏は、趙鞅のために定公に弁明したので、趙鞅を許して執政に戻した。
二十二年(BC490)、定公が范氏と中行氏を敗ったので、二人の当主は斉に逃げた。
三十年(BC482)、定公は呉王夫差と黄池で会談し、どちらが長かを争った。趙鞅は時の勢いに従い、とうとう呉を長と認めた。
三十一年(BC481)、斉の田常が、主君簡公を殺して、簡公の弟・鷔(ゴウ)を立てて平公とした。
三十三年(BC479)、孔子が死んだ。
三十七年(BC475)、定公が死んだ。子の出公・鑿(サク)が跡を継いだ。
『史記』注

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BC532 | 魯昭公10 | 晋平公26 | 孔子20 | 幵官氏と結婚 | 晋・平公死去 |
531 | 11 | 昭公1 | 21 | 息子の鯉生まれる。葬礼の手伝いをして生計を立てる。のち季氏の倉庫番、牧場管理人となる | 魯・昭公、お祝いにコイを贈る |
530 | 12 | 2 | 22 | 魯・昭公、晋に朝見しようとするも断られる。魯・季氏の家臣南蒯、費邑に立て籠もり季氏に反乱。敗れて斉に逃亡 | |
529 | 13 | 2 | 23 | 楚・棄疾、霊王を殺して即位 | |
527 | 15 | 5 | 26 | 魯・昭公、晋に朝見し拘束されかかる | |
526 | 16 | 6 | 27 | 晋・昭公死去、頃公即位 | |
525 | 17 | 頃公1 | 27 | 魯に来た郯公から、有職故実を教わる | ペルシア、エジプトを征服してオリエント統一 |
522 | 20 | 4 | 30 | このころ、初期の弟子を取る。魯に来た斉の景公と問答 | 弟子の冉雍、冉求、宰我生まれる |
521 | 21 | 5 | 31 | 魯・昭公、晋に朝見しようとするも断られる。弟子の顔回生まれる | |
520 | 22 | 6 | 32 | 周・景王崩御、跡目争い。晋の六卿が平定し敬王擁立。弟子の子貢生まれる | |
519 | 23 | 7 | 33 | 周王朝、分裂 | |
518 | 24 | 8 | 34 | 南宮敬叔と共に周の都・洛邑に留学、礼を老子に、楽を萇弘に教わる | 魯・孟僖子死去、跡継ぎの孟懿子とその弟・南宮敬叔に、孔子に学ぶよう遺言。昭公、南宮敬叔の進言により、奨学金として馬車一台、馬二頭、お付き一人を与える |
517 | 25 | 9 | 35 | 内乱を避けて斉の高昭子のもとへ避難 | 魯・宮殿に九官鳥が巣をかける。闘鶏が原因で家老同士が私闘、乗じた昭公は季氏を討伐するが、返り討たれて斉に逃亡、さらに晋に行き乾侯に住まう。叔孫昭子死去。 |
516 | 26 | 10 | 36 | 斉で音楽を聴き、「三ヶ月肉の味を知らず」。斉の景公に仕官が内定するが、家老・晏嬰が反対して取りやめ |
斉、魯を攻撃して鄆を取る。周王朝再統一 |
515 | 27 | 11 | 37 | 斉の家老に殺されかけ、魯に帰る。途中、帰国中の呉の公子・季札が行った葬礼を参観。この頃までに主要な弟子を取る |
衛と宋、晋に魯君の受入要求。魯・季平子、范献子に賄賂し晋は受入拒否。弟子の樊遅生まれる。呉王・闔閭即位 |
514 | 28 | 12 | 38 |
魯・昭公、晋に受け入れを求めるが季氏のワイロにより実現せず、乾侯に住まう。晋・公室内紛、六卿、公室粛清、六卿強大化 |
|
513 | 29 | 13 | 39 |
魯・昭公、鄆に行こうとして斉・景公の手紙で臣下扱いされ、乾侯を去る。晋の趙簡子、刑鼎を鋳て法律を公開 |
|
512 | 30 | 14 | 40 |
晋・頃公死去、定公即位 |
|
511 | 31 | 定公1 | 41 | 魯・昭公、晋に受け入れ要請。季平子、晋に行き工作。晋、受け入れ拒否 | |
510 | 32 | 2 | 42 | 魯・逃亡中の昭公、乾侯で死去 | |
509 | 定公1 | 3 | 43 | 魯・季平子に擁立され、定公即位 | |
507 | 3 | 8 | 45 | 邾の家老に、代替わりの冠礼を教える | 邾公変死、代替わり。魯・孟懿子、作法指南に孔子を紹介。弟子の子夏生まれる |
506 | 4 | 9 | 46 | 弟子の子游生まれる。呉、楚の都を落とし楚王逃亡。のち秦の援軍を得て奪回 | |
505 | 5 | 7 | 47 | 弟子の曾参=曽子生まれる。魯・季平子、叔孫成子死去。執事の陽虎、跡継ぎの季桓子を捕らえ、家政・国政の実権を奪う | |
504 | 6 | 8 | 48 | 陽虎の招きに応じようとするが、実現せず | 魯・陽虎、鄭を攻め匡のまちを奪取。正式に魯の執政となる。この頃孔子を招く |
503 | 7 | 9 | 49 | 斉、魯を攻撃し鄆を取り、陽虎に与える(魯世家)。弟子の子張生まれる | |
502 | 8 | 10 | 50 | 公山弗擾の招きに応じようとするが、実現せず | 魯・陽虎、三桓の当主排除を図って反乱、鎮圧され斉に逃亡。季氏の家臣、公山弗擾、孔子を招こうとする |
501 | 9 | 11 | 51 | 中都の宰=代官に任じられる | 魯・陽虎、晋に亡命、趙簡子が受入。ローマ、独裁官設置 |
500 | 10 | 12 | 52 | 司空=治水頭、次いで大司冦=奉行職に昇進、家老格となる。斉との外交折衝を担任、定公を救出し占領地を取り戻す | 魯・定公、斉の景公と会談し、捕らわれかける |
499 | 11 | 13 | 53 | 家老の少正卯を処刑する | 魯・季桓子と孟懿子、孔子を支持する。魯、斉・鄭・衛との友好を計り、晋と距離を置く |
498 | 12 | 14 | 54 | 三桓の根城破壊を開始、季氏に仕えていた子路に任せる。公山弗擾の反乱を鎮圧。根城の最後、孟氏領・成邑の破壊失敗 | 魯・公山弗擾、根城破壊に反対して反乱。成邑の代官・公斂処父、破壊に抵抗 |
497 | 13 | 15 | 55 | 辞職し、諸国放浪の旅に出る。衛の霊公に一旦は仕えるが、衛家臣の反発に遭い辞去 | 魯・定公、斉の送った女楽団にふぬけ、孔子を遠ざける。晋内紛、趙鞅失脚するも韓・魏氏の助力で復活。 |
496 | 14 | 16 | 56 | 衛を去り陳に向かう。匡で陽虎に間違われ受難。蒲のまちでも受難するが、弟子の公良孺が抜刀して蒲人を威圧、難を逃れ衛に戻る。家老の蘧伯玉の客人となる | 衛太子蒯聵、霊公夫人南子を殺そうとして失敗、国外逃亡 |
495 | 15 | 17 | 57 | 衛を去り魯に戻る | 弟子の子貢、定公の死去を予言する。魯・定公死去 |
494 | 哀公1 | 18 | 58 | 衛に行き晋に向かうが果たせず。呉の使いに骨の由来を説明 | 魯・哀公即位。呉、越を破り巨大な骨を得る |
493 | 2 | 19 | 59 | 衛を出、曹を通り宋に行く。宋将軍桓魋に追われる。弟子一同とも散り散りになって鄭に逃れる | 衛・霊公死去 |
492 | 3 | 20 | 60 | 鄭より陳に向かい、4年ほど陳・蔡で過ごし、楚に出掛ける。各地の王侯貴族より賓客として迎えられる | 魯・このころかつての学友・南宮敬叔、火消しとして奮戦。季桓子、跡継ぎの季康子に孔子を呼び戻すよう遺言して死去。ペルシア戦争始まる |
491 | 4 | 21 | 61 | 魯・季康子、孔子を呼び戻そうとして取りやめる | |
490 | 5 | 22 | 62 | 佛肸の招きに応じようとするが果たせず | 晋・佛肸、孔子を招く。晋・定公、范・中行氏を敗り、二氏斉に亡命。斉・公子陽生、魯に亡命。望んで季康子の妹をめとる。斉・景公死去。子の晏孺子荼即位。 |
489 | 6 | 23 | 63 | 楚・昭王の招きに応じ、子貢・宰我を伴って向かうが、陳・蔡の妨害に遭う。楚の宰相・子西も反対し、仕官できず衛へ | 楚・昭王死去。斉・田乞、荼を廃位し、魯に亡命していた公子陽生、帰国して即位し悼公となる |
488 | 7 | 24 | 64 | 衛・出公に仕える? | 呉、強大化し繒の会盟で無理な要求を魯に突きつける。魯、百牢を出す。魯・季康子、子貢を派遣して自分の出張を撤回させる。邾を攻める。 |
487 | 8 | 25 | 65 | 呉、邾の要請で魯を攻撃。弟子の有若、迎撃部隊から外される。斉、魯を攻め三邑を取る。邾、呉の力で復国。魯、斉と和睦 | |
485 | 10 | 27 | 67 | 夫人の幵官氏死去。子貢を派遣して呉から援軍を引き出す | 魯、呉と同盟して斉を攻める。斉・悼公、殺され、簡公擁立される |
484 | 11 | 28 | 68 | 魯に戻る。のち家老の末席に連なる | 弟子の冉求、侵攻してきた斉軍を撃破。魯、呉と連合して斉に大勝 |
483 | 12 | 29 | 69 | もう弟子ではないと冉有を破門 |
魯・季康子、税率を上げ、家臣の冉求、取り立てを厳しくする |
482 | 13 | 30 | 70 | 息子の鯉、死去 |
呉王夫差、黄池に諸侯を集めて晋・定公と覇者の座を争う。晋・趙鞅、呉を長と認定。呉は本国を越軍に攻められ、大敗 |
481 | 14 | 31 | 71 | 斉を攻めよと哀公に進言、容れられず | 弟子の顔回死去。孟懿子死去。魯で麒麟が捕らわれる。斉・簡公、陳成子によって徐州で殺され、平公即位 |
480 | 15 | 32 | 72 |
魯、子服景伯と子貢を斉に遣使。斉、魯に土地を返還。斉・田常、宰相となる。弟子の子路死去 |
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479 | 16 | 33 | 73 | 死去。西暦推定日付3/4。曲阜城北の泗水河畔に葬られる | ギリシア、プラタイアの戦い |
475 | 20 | 37 | 晋・定公死去、出公即位 | ||
473 | 22 | 出公2 | 越王勾践、呉王夫差を破って呉を滅ぼす |
『史記』付記
思案中
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