『史記』原文
景公元年,初,崔杼生子成及彊,其母死,取東郭女,生明。東郭女使其前夫子無咎與其弟偃相崔氏。成有罪,二相急治之,立明為太子。成請老於崔[杼],崔杼許之,二相弗聽,曰:「崔,宗邑,不可。」成、彊怒,告慶封。慶封與崔杼有郤,欲其敗也。成、彊殺無咎、偃於崔杼家,家皆奔亡。崔杼怒,無人,使一宦者御,見慶封。慶封曰:「請為子誅之。」使崔杼仇盧蒲嫳攻崔氏,殺成、彊,盡滅崔氏,崔杼婦自殺。崔杼毋歸,亦自殺。慶封為相國,專權。
三年十月,慶封出獵。初,慶封已殺崔杼,益驕,嗜酒好獵,不聽政令。慶舍用政,已有內郤。田文子謂桓子曰:「亂將作。」田、鮑、高、欒氏相與謀慶氏。慶舍發甲圍慶封宮,四家徒共擊破之。慶封還,不得入,奔魯。齊人讓魯,封奔吳。吳與之朱方,聚其族而居之,富於在齊。其秋,齊人徙葬莊公,僇崔杼尸於市以說眾。
九年,景公使晏嬰之晉,與叔向私語曰:「齊政卒歸田氏。田氏雖無大德,以公權私,有德於民,民愛之。」十二年,景公如晉,見平公,欲與伐燕。十八年,公復如晉,見昭公。二十六年,獵魯郊,因入魯,與晏嬰俱問魯禮。三十一年,魯昭公辟季氏難,奔齊。齊欲以千社封之,子家止昭公,昭公乃請齊伐魯,取鄆以居昭公。
三十二年,彗星見。景公坐柏寢,嘆曰:「堂堂!誰有此乎?」群臣皆泣,晏子笑,公怒。晏子曰:「臣笑群臣諛甚。」景公曰:「彗星出東北,當齊分野,寡人以為憂。」晏子曰:「君高臺深池,賦斂如弗得,刑罰恐弗勝,茀星將出,彗星何懼乎?」公曰:「可禳否?」晏子曰:「使神可祝而來,亦可禳而去也。百姓苦怨以萬數,而君令一人禳之,安能勝眾口乎?」是時景公好治宮室,聚狗馬,奢侈,厚賦重刑,故晏子以此諫之。
四十二年,吳王闔閭伐楚,入郢。
四十七年,魯陽虎攻其君,不勝,奔齊,請齊伐魯。鮑子諫景公,乃囚陽虎。陽虎得亡,奔晉。
四十八年,與魯定公好會夾谷。犁鉏曰:「孔丘知禮而怯,請令萊人為樂,因執魯君,可得志。」景公害孔丘相魯,懼其霸,故從犁鉏之計。方會,進萊樂,孔子歷階上,使有司執萊人斬之,以禮讓景公。景公慚,乃歸魯侵地以謝,而罷去。是歲,晏嬰卒。
五十五年,范、中行反其君於晉,晉攻之急,來請粟。田乞欲為亂,樹黨於逆臣,說景公曰:「范、中行數有德於齊,不可不救。」及使乞救而輸之粟。
五十八年夏,景公夫人燕姬適子死。景公寵妾芮姬生子荼,荼少,其母賤,無行,諸大夫恐其為嗣,乃言願擇諸子長賢者為太子。景公老,惡言嗣事,又愛荼母,欲立之,憚發之口,乃謂諸大夫曰:「為樂耳,國何患無君乎?」秋,景公病,命國惠子、高昭子立少子荼為太子,逐群公子,遷之萊。景公卒,太子荼立,是為晏孺子。冬,未葬,而群公子畏誅,皆出亡。荼諸異母兄公子壽、駒、黔奔衛,公子駔、陽生奔魯。萊人歌之曰:「景公死乎弗與埋,三軍事乎弗與謀,師乎師乎,胡黨之乎?」
『史記』書き下し
景公元年、初め、崔杼、子の成及び彊を生む。其の母は死せり。東郭の女を取り、明を生む。東郭の女、其の前夫の子無咎と其の弟偃をして崔氏に相たらしむ。成、罪有り。二相、急に之を治め、明を立てて太子と為す。成、請う、崔杼に老せん、と。崔杼、之を許す。二相、聴かず。曰く、「崔は宗邑にして、不可なり。」成・彊、怒り慶封に告ぐ。慶封、崔杼と郤有り、其の敗れんことを欲す。成・彊、無咎・偃を崔杼の家に殺す。家皆奔り亡ぐ。崔杼怒る。人無し。一宦者をして御さしめ、慶封を見る、慶封曰く、「請う、子の為に之を誅せん。」崔杼の仇盧蒲嫳をして崔氏を攻めしめ、成・彊を殺し、尽く崔氏を滅ぼし、崔氏の婦自殺す。崔杼、帰るところ毋く、亦た自殺す。慶封、相国と為り、権を専らにす。三年十月、慶封、出でて猟す。初め慶封、已にして崔杼を殺し、益〻驕り、酒を嗜み、猟を好み、政を聴かず。慶舎をして政を用いしめ、已して内に郤有り。田文子、桓子に謂いて曰く、「乱、将に作らんとす。」田・鮑・高・欒、相与に慶氏を謀る。慶舎、甲を発し慶封の宮を囲みて、四家の徒と共に襲いて之を破る。慶封、還り、入るを得ず、魯に奔る。斉人、魯を譲(せ)む。封、呉に奔る。呉、之に朱方を与う。其の族を聚て、之に居る。斉に在りしよりも富めり。其の秋、斉人、荘公を徙し葬り、崔杼の屍を市に僇し、以て衆に説く。九年、景公、晏嬰をして晋に之かしむ。叔向と私に語りて曰く、「斉の政は卒に田氏に帰す。田氏、大徳無しと雖も、公権を以て私し、民に徳あり。民、之を愛す。十二年、景公、晋に如き、平公を見、与に燕を伐たんと欲す。十八年、公、復た晋に如き、昭公を見る。二十六年、魯の郊に猟し、因りて魯に入り、晏嬰と与に魯の礼を問う。三十一年、魯の昭公、季子の難を辟け、斉に奔る。斉、千社を以て之を封ぜんと欲す。子家昭公を止む。昭公乃ち斉が魯を伐ち、鄆(ウン)を取り、以て昭公を居かんことを請う。三十二年、彗星見わる。景公、栢寝に坐し、歎じて曰く、「堂堂たり。誰が此れを有たん。」群臣皆泣き、晏子笑い、公怒る。晏子曰く、「臣、群臣の諛うこと甚だしきを笑う。」景公曰く、「彗星、東北に出で、斉の分野に当る。寡人、以て憂いと為す。」晏子曰く、「君、台を高くし、池を深くし、賦斂は得ざるが如く、刑罰は勝えざるを恐る。茀星(ハイセイ)将に出でんとす。彗星、何ぞ懼れんや。」公曰く、「禳(はら)う可しや、否や。」晏子曰く、「神をして祝(いの)りて来る可くんば、亦た禳いて去る可からん。百姓の苦怨は万を以て数う。而て君一人をして之を禳わしむとも、安んぞ能く衆口に勝たんや。」是の時、景公、好みて宮室を治め、狗馬を聚め、奢侈にして賦を厚くし刑を重くす。故に晏子、此れを以て之を諌む。四十二年、呉王闔閭、楚を伐ち郢に入る。四十七年、魯の陽虎、其の君を攻め勝たず、斉に奔り、斉が魯を伐つを請う。鮑子、景公を諌め、乃ち陽虎を囚らう。陽虎、亡ぐるを得て、晋に奔る。四十八年、魯の定公と夾谷に好会す。犁鉏(リショ)曰く、「孔丘は礼を知れども、怯(よわ)し。請う、莱人をして楽を為さしめ、因りて魯君を執らうらば、志を得可からん。」景公、孔丘の魯に相たるを害(い)み、其の覇たらんことを懼る。故に犁鉏の計に従う。方に会し、莱の楽を進む。孔子、階を歴(また)いで上り、有司をして莱人を執らえ之を斬らしめ、礼を以て景公を譲む。景公、慚じ、乃ち魯に侵地を帰し、以て謝して罷め去る。是の歳、晏嬰卒す。五十五年、范・中行、其の君に晋にて反く。晋、之を攻むること急なり。来たりて粟を請う。田乞、乱を為し、党を逆臣に樹てんと欲し、景公に説いて曰く、「范・中行は数〻斉に徳有り。救わざる可からず。」乃ち乞をして、救いて之に粟を輸ばしむ。五十八年、景公の夫人燕姫の適子死す。景公の寵妾芮姫(ゼイキ)、子の茶(タ)を生む。茶、少く、其の母賎しく、行いを無(なみ)す。諸大夫、其の嗣と為らんことを恐る。乃ち言う、願わくは諸子の長じて賢なる者を択び太子と為せ、と。景公老いて、嗣の事を言うを悪む。又、茶の母を愛し、之を立てんと欲すれども、之を口に発するを憚り、乃ち諸大夫に謂いて曰く、「楽を為すのみ。国、何ぞ君無きを患えんや。」秋、景公、病む。国恵子・高昭子に命じて、少子茶を立てて太子と為し、群公子を逐い、之を莱に遷さしむ。景公卒し、太子茶立つ。是を晏孺子と為す。冬、未だ葬らず。而して群公子誅せらるるを恐れ、皆出でて亡ぐ。茶の諸〻の異母兄公子の寿・駒・黔、衛に奔る。公子鉏・陽生は魯に奔る。莱人、之を歌いて曰く、「景公死するや、埋むるに与らず。三軍の事や、謀るに与らず。師や、師や、胡(いずく)の党(さと)に之かんか。」
『史記』現代日本語訳
景公元年(BC547)、崔杼(サイチョ)にはもともと、子の成と彊がいた。その母は死んだ。そこで東郭の娘を娶り、明を生んだ。東郭の娘は、その前夫との子、無咎とその弟偃を、崔氏の執事にした。成が罪を犯したので、二人の執事は厳しくそれをとがめ、明を立てて跡継ぎにした。成は「領地の崔のまちで生涯を終えたい」と願ったので、崔杼は許した。
しかし二人の執事は許さずに言った。「崔は我が家の中心地ですから、だめです。」成と彊は怒って慶封に告げた。慶封は崔杼と仲が悪く、崔一族が滅びるのを願った。成と彊は、二人の執事・無咎と偃を、崔杼の家で殺した。屋敷の者は逃げ惑った。
崔杼は怒ったが、逃げ散って誰も居ない。ある宦者に馬車を御させて屋敷を出ると、慶封に会った。慶封が言った。「どうです、あなたのために暴れ者を殺してやりましょう。」そこで崔杼の仇敵・盧蒲嫳(ロホベツ)に崔氏の屋敷を攻めさせて、成と彊を殺し、その他崔氏一族を全て殺し、崔氏の夫人たちは自殺した。崔杼は帰るところがなくなり、これまた自殺した。慶封はただ一人の宰相となり、権力を独占した。
三年(BC545)十月、慶封が狩りに出かけた。慶封はやっとのことで崔杼と一族を殺し、ますますおごり高ぶって、酒を好み、猟を好み、政治を放置した。息子の慶舎に政治を任せたが、もう仲違いしていた。家老の一人田文子が家老の桓子に言った。「これはすぐ内乱になるぞ。」田・鮑・高・欒の各家老家は、示し合わせて慶氏を落とし入れようとした
慶舎は鎧を着た兵士を繰り出して慶封の屋敷を囲んで、四家の私兵と共に襲いかかって破壊した。慶封が戻ったが、入れすに魯に逃げた。斉が魯を責めたので、慶封はさらに呉に逃げた。呉では慶封に領地として朱方を与えた。慶封は一族を呼び寄せて、そこに住み、斉にいた時よりも富んだ。その秋、斉では荘公を改葬し、崔杼の死体を市場に晒して見せしめにした。
九年(BC539)、景公は家老の晏嬰(アンエイ)を晋に遣使した。晏嬰は叔向と私的な会談を持ち、言った。「斉の政治はしまいには田氏に握られるでしょう。田氏にこれと言った力はありませんが、公権を握って私的な恩義を施しています。だから民に人望があって愛されています。」
十二年(BC536)、景公は晋に行き、平公と会い、共に燕を伐とうとした。
十八年(BC530)、景公はまた晋に行き、昭公と会った。
二十六年(BC522)、魯の近郊で狩りをし、ついでに魯に入り、晏嬰と共に魯の礼法を学んだ。
三十一年(BC517)、魯の昭公が季子の追撃を避け、斉に逃げた。斉は領地千社(25家=1社)を与えようとしたが、昭公の家臣・子家が押しとどめた。昭公はそこで斉が魯を伐ち、鄆(ウン)を取り、そこに住みたいと願った。
三十二(BC516)年、彗星が現れた。景公、栢寝(地名)に座って、嘆いて言った。「この堂々たる斉国は、誰のものになってしまうのか。」群臣は皆泣いたが、晏嬰がゲラゲラ笑い出した。
景公は怒ったが、晏嬰は言った。「私はお歴々が鳴き真似ごっこをしているのがおかしかったのです。」
景公「彗星が東北に出ており、これは地上で言えば斉に当る。だから私は憂いているのだ。」
晏嬰「殿は宮殿の見晴らし台を高く造り直し、池を深く掘り直し、税収は足りない足りないと嘆き、刑罰が軽すぎると怒っておられる。これではもっと凶悪な茀星(ハイセイ)が出ますぞ。彗星ごときなど軽い軽い。」
景公「ではお祓いしたらいいのか。」
晏嬰「神主を呼んで神様が降りてくるようなら、お祓いして済むかも知れません。でも民の恨み言は万に上っていますぞ? 殿お一人がお祓いしたところで多勢に無勢、民の恨み言には勝てますまい。」
この頃景公は、好んで宮殿を修築し、犬や馬を集め、贅沢にふけって税を重くし、刑罰を厳しくした。だから晏嬰はこう言って、景公を諌めたのである。
四十二年(BC506)、呉王闔閭(コウリョ)が楚を伐ち、郢(エイ)の都を占領した。
四十七年(BC501)、魯の陽虎が主君を攻めたが勝てず、斉に逃げ込み、斉が魯を伐つよう願った。家老の鮑子が景公を諌めたので、陽虎を捕らえた。しかし陽虎は脱走して、晋に逃げた。
四十八年(BC500)、魯の定公と夾谷でよしみの会を開いた。家老の犁鉏(リショ)が景公に言った。「孔丘は礼を知っていますが、臆病者です。どうでしょう、莱人(ライひと、山東半島の原住民)に音楽を鳴らさせ、それに乗じて魯の国君を捕らえたら、願ったりかなったりです。」景公は孔丘が魯で宰相を務めているのを嫌い、魯が覇権を握ることを恐れていた。だから犁鉏の計略に従った。
いままさに会見し、莱の楽隊を進めた。孔子は階段を跨いで上り、衛兵に莱人を捕らえさせ、斬らせた。そして礼法を盾にとって景公を責めた。景公は恥じて、すぐさま魯に占領地を返還してわびて去った。この歳、晏嬰が死んだ。
五十五年(BC493)、晋の家老の范(ハン)・中行(チュウエツ)氏が、晋で反乱を起こした。晋が両氏を激しく攻め立てたので、両氏は斉に来て食糧を要請した。斉の家老・田乞は、乱を起こしてその勢力となる反対党を作ろうとしていたので、景公に説いて言った。「范・中行氏はたびたび斉のために働きました。救わないわけにいきません。」そこで田乞は救援物資を運んで両氏を助けた。
五十八年(BC490)、景公の夫人・燕姫の適子が死んだ。景公の愛妾芮姫(ゼイキ)は、子の茶(タ)を生んでいた。茶は年若く、その母の身分は低く、行いが悪かった。家老達は茶が跡継ぎになるのを恐れていた。そこで景公に言った。「お願いです、公子さま方から年長で賢い方を選んで太子に立てて下さい。」
しかし景公は老いて、跡継ぎについてとやかく言われるのを嫌がった。また、茶の母を愛しており、茶を跡継ぎにしたいと思っていたが、口にするのははばかっていた。そこで家老連に言った。「ただ楽しんで生きればいいのだ。国に君主が居なくてもよかろう。」
秋になって景公が病んだ。そこで家老の国恵子・高昭子に命じて、茶を太子に立て、その他の公子たちを追い払い、莱(莱人が住んでいるような山東半島の奥地)に移住させた。景公が死に、太子の茶が国君に立った。これを晏孺子と呼んだ。
冬になっても、まだ景公を葬らなかった。そして公子たちは殺されるのを恐れて、皆逃亡した。茶の異母兄たちの、公子の寿・駒・黔は衛に逃げた。公子鉏・陽生は魯に逃げた。莱人はこれを歌って囃した。「♪景公死んで、誰も埋めない。国軍の指揮も、誰も取らない。なのにあれに見えるは軍隊じゃないか。いやそうじゃない逃亡公子だ。兵隊さん兵隊さん、いったいどこに落ち延びるんですか?」
『史記』注
BC | 魯 | 斉 | 孔子 | 孔子 | 魯国 | その他 |
548 | 襄公25 | 景公 | 4 | 斉・崔杼、荘公を殺し、景公即位。晋、斉の混乱に乗じて攻撃 | ||
547 | 26 | 1 |
5 |
斉・崔杼死す | ||
545 | 28 | 3 |
7 |
斉・慶封失脚して呉に亡命 | ||
544 | 29 | 4 | 8 | 弟子の冉伯牛生まれる | 呉の延陵の季子、魯・晋に来たる。三桓の筆頭・季武子、勢力拡大 | |
542 | 31 | 6 | 10 | 弟子の子路生まれる | 襄公死去。3ヶ月後に太子も死去。穆叔が擁立を拒むも、季武子、20歳の昭公を魯公に擁立 | |
539 | 昭公3 | 9 | 13 | 昭公、晋に朝見しようとするも断られる | 斉の晏嬰、晋に来たる | |
538 | 4 | 10 | 14 | 昭公、病を称して会盟に行かず。叔孫穆子死去 | 楚・霊王、申で会盟 | |
537 | 5 | 11 | 15 | 学に志す | 三桓、軍権・徴兵権を四分し、1/2を季氏が、残り1/4ずつを叔氏・孟氏が分け取る | |
536 | 6 | 12 | 16 | 弟子の閔子騫生まれる | 斉・景公、晋に行く。晋、燕を攻撃。鄭の家老子産、法鼎を鋳て法律を公開 | |
この頃、母死去。知人の輓父の母から父の墓・防山を教えられ、合葬 | ||||||
535 | 7 |
13 |
17 | 季平子の宴会に出掛け、執事の陽虎に追い返される | 季武子死去 | |
534 | 8 | 14 | 18 | 昭公、楚・霊王から宝物を貰うも取り上げられる | 楚・霊王、章華台を造り魯・昭公を召し寄せる | |
532 | 10 | 16 | 20 | 幵官氏と結婚 | 晋・平公死去 | |
531 | 11 | 17 | 21 | 息子の鯉生まれる。葬礼の手伝いをして生計を立てる。のち季氏の倉庫番、牧場管理人となる | 昭公、お祝いにコイを孔子に贈る | |
530 | 12 | 18 | 22 | 昭公、晋に朝見しようとするも断られる。季氏の家臣南蒯、費邑に立て籠もり季氏に反乱。敗れて斉に逃亡 | 斉・景公、晋に行く | |
529 | 13 | 19 | 23 | 楚・棄疾、霊王を窮死させ平王として即位 | ||
527 | 15 | 21 | 26 | 昭公、晋に朝見し拘束されかかる | ||
526 | 16 | 22 | 27 | 晋・昭公死去 | ||
525 | 17 | 23 | 27 | 魯に来た郯公から、有職故実を教わる | ペルシア、エジプトを征服してオリエント統一 | |
522 | 20 | 26 | 30 | このころ、初期の弟子を取る。魯に来た斉の景公と問答。弟子の冉雍、冉求、宰我生まれる | 斉・景公と晏嬰、魯に行く | |
521 | 21 | 27 | 31 | 弟子の顔回生まれる | 昭公、晋に朝見しようとするも断られる | |
520 | 22 | 28 | 32 | 弟子の子貢生まれる | 周・景王崩御、跡目争い。晋の六卿が平定し敬王擁立 | |
519 | 23 | 29 | 33 | 周王朝、分裂(孔子辞典) | ||
518 | 24 | 30 | 34 | 南宮敬叔と共に周の都・洛邑に留学、礼を老子に、楽を萇弘に教わる | 孟僖子死去、跡継ぎの孟懿子とその弟・南宮敬叔に、孔子に学ぶよう遺言。昭公、南宮敬叔の進言により、奨学金として馬車一台、馬二頭、お付き一人を与える | |
517 | 25 | 31 | 35 | 内乱を避けて斉の高昭子のもとへ避難 | 宮殿に九官鳥が巣をかける。闘鶏が原因で家老同士が私闘、乗じた昭公は季氏を討伐するが、返り討たれて斉に逃亡、さらに晋に行き乾侯に住まう。叔孫昭子死去。 | 斉、魯の昭公に領地を与えようとする |
516 | 26 | 32 | 36 | 斉で音楽を聴き、「三ヶ月肉の味を知らず」。斉の景公に仕官が内定するが、家老・晏嬰が反対して取りやめ |
斉、魯を攻撃して鄆を取る。周王朝再統一。彗星現る |
|
515 | 27 | 33 | 37 | 斉の家老に殺されかけ、魯に帰る。途中、帰国中の呉の公子・季札が行った葬礼を参観。この頃までに主要な弟子を取る。弟子の樊遅生まれる |
季平子、范献子に賄賂し晋は受入拒否(晋世家) |
衛と宋、晋に魯君の受入要求。呉王・闔閭即位 |
514 | 28 | 34 | 38 |
昭公、晋に受け入れを求めるが季氏の賄賂により実現せず、乾侯に住まう |
晋・公室内紛、六卿、公室粛清、六卿強大化 |
|
513 | 29 | 35 | 39 |
昭公、鄆に行こうとして斉・景公の手紙で臣下扱いされ、乾侯を去る |
晋・趙簡子、刑鼎を鋳て法律を公開 |
|
512 | 30 | 36 | 40 | 晋・頃公死去、定公即位 | ||
511 | 31 | 37 | 41 | 昭公、晋に受け入れ要請。季平子、晋に行き工作 | 晋、受け入れ拒否 | |
510 | 32 | 38 | 42 | 逃亡中の昭公、乾侯で死去。季平子に擁立され、定公即位 | ||
507 | 定公3 | 41 | 45 | 邾の家老に、代替わりの冠礼を教える。弟子の子夏生まれる | 孟懿子、邾公の作法指南に孔子を紹介 | 邾公変死、代替わり |
506 | 4 | 42 | 46 | 弟子の子游生まれる | 呉王闔閭、楚の都を落とし楚王逃亡。のち秦の援軍を得て奪回 | |
505 | 5 | 43 | 47 | 弟子の曾参=曽子生まれる | 季平子、叔孫成子死去。執事の陽虎、跡継ぎの季桓子を捕らえ、家政・国政の実権を奪う | |
504 | 6 | 44 | 48 | 陽虎の招きに応じようとするが、実現せず | 陽虎、鄭を攻め匡のまちを奪取。正式に魯の執政となる。この頃孔子を招く | |
503 | 7 | 45 | 49 | 弟子の子張生まれる | 斉、魯を攻撃し鄆を取り、陽虎に与える(魯世家) | |
502 | 8 | 46 | 50 | 公山弗擾の招きに応じようとするが、実現せず | 陽虎、三桓の当主排除を図って反乱、鎮圧され斉に逃亡。季氏の家臣、公山弗擾、孔子を招こうとする | |
501 | 9 | 47 | 51 | 中都の宰=代官に任じられる | 陽虎、斉に逃亡。次いで晋に。ローマ、独裁官設置 | |
500 | 10 | 48 | 52 | 司空=治水頭、次いで大司冦=奉行職に昇進、家老格となる。斉との外交折衝を担任、定公を救出し占領地を取り戻す | 定公、斉の景公と会談し、捕らわれかける | |
499 | 11 | 49 | 53 | 家老の少正卯を処刑する | 季桓子と孟懿子、孔子を支持する。斉・鄭・衛との友好を計り、晋と距離を置く | |
498 | 12 | 50 | 54 | 三桓の根城破壊を開始、季氏に仕えていた子路に任せる。公山弗擾の反乱を鎮圧。根城の最後、孟氏領・成邑の破壊失敗 | 公山弗擾、根城破壊に反対して反乱。成邑の代官・公斂処父、破壊に抵抗 | |
497 | 13 | 51 | 55 | 辞職し、諸国放浪の旅に出る。衛の霊公に一旦は仕えるが、衛家臣の反発に遭い辞去 | 定公、斉の送った女楽団にふぬけ、孔子を遠ざける | 晋内紛、趙鞅失脚するも韓・魏氏の助力で復活。 |
496 | 14 | 52 | 56 | 衛を去り陳に向かう。匡で陽虎に間違われ受難。蒲のまちでも受難するが、弟子の公良孺が抜刀して蒲人を威圧、難を逃れ衛に戻る。家老の蘧伯玉の客人となる | 衛太子蒯聵、霊公夫人南子を殺そうとして失敗、国外逃亡 | |
495 | 15 | 53 | 57 | 衛を去り魯に戻る。弟子の子貢、定公の死去を予言する | 定公死去。哀公即位 | |
494 | 哀公1 | 54 | 58 | 衛に行き晋に向かうが果たせず。呉の使いに骨の由来を説明 | 呉、越を破り巨大な骨を得る | |
493 | 2 | 55 | 59 | 衛を出、曹を通り宋に行く。宋将軍桓魋に追われる。弟子一同とも散り散りになって鄭に逃れる | 衛・霊公死去。晋の范・中行氏反乱。斉田乞、景公を説いて二氏を援助 | |
492 | 3 | 56 | 60 | 鄭より陳に向かい、4年ほど陳・蔡で過ごし、楚に出掛ける。各地の王侯貴族より賓客として迎えられる | このころかつての学友・南宮敬叔、火消しとして奮戦。季桓子、跡継ぎの季康子に孔子を呼び戻すよう遺言して死去 | ペルシア戦争始まる |
491 | 4 | 57 | 61 | 季康子、孔子を呼び戻そうとして取りやめる | ||
490 | 5 | 58 | 62 | 佛肸の招きに応じようとするが果たせず | 晋・佛肸、孔子を招く。晋・定公、范・中行氏を敗り、二氏斉に亡命。斉・公子陽生、魯に亡命。望んで季康子の妹をめとる。斉・景公死去。子の晏孺子荼即位 |
『史記』付記
思案中
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