『史記』原文
哀公五年,齊景公卒。六年,齊田乞弒其君孺子。
七年,吳王夫差彊,伐齊,至繒,徵百牢於魯。季康子使子貢說吳王及太宰嚭,以禮詘之。吳王曰:「我文身,不足責禮。」乃止。
吳為鄒伐魯,至城下,盟而去。齊伐我,取三邑。十年,伐齊南邊。
齊伐魯。季氏用冉有有功,思孔子,孔子自衛歸魯。齊田常弒其君簡公於俆州。孔子請伐之,哀公不聽。
十五年,使子服景伯、子貢為介,適齊,齊歸我侵地。田常初相,欲親諸侯。
十六年,孔子卒。
二十二年,越王句踐滅吳王夫差。
二十七年春,季康子卒。夏,哀公患三桓,將欲因諸侯以劫之,三桓亦患公作難,故君臣多閒。公游于陵阪,遇孟武伯於街,曰:「請問余及死乎?」對曰:「不知也。」公欲以越伐三桓。八月,哀公如陘氏。三桓攻公,公奔于衛,去如鄒,遂如越。國人迎哀公復歸,卒于有山氏。子寧立,是為悼公。
『史記』書き下し
哀公五年、斉の景公卒す。六年、斉の田乞、其の君孺子を弑す。七年、呉王夫差彊(つよ)し。斉を伐ち、繒(ソウ)に至り、百牢を魯に徴(もと)む。季康子、子貢をして呉王及び太宰嚭(ヒ)に説かしめ、礼を以て之を詘(しりぞ)く。呉王曰く、「我、身に文(あや)なせり。礼を責むるに足らず。」乃ち止む。八年、呉、鄒の為に魯を伐ち、城下に至り、盟いて去る。斉、我を伐ち、三邑を取る。十年、斉の南辺を伐つ。十一年、斉、魯の季氏を伐ち、冉有を用いて、功有りて、孔子を思う。孔子、衛自り魯に帰る。十四年、斉の田常、其の君簡公を徐州に弑す。孔子、之を伐つを請うも、哀公聴かず。十五年、子服景伯を使わし、子貢を介(たすけ)と為して斉に適かしむ。斉、我に侵地を帰す。田常、初めて相たりて、諸侯に親しまんと欲す。十六年、孔子卒す。二十二年、越王勾践、呉王夫差を滅ぼす。二十七年、季康子卒す。夏、哀公、三桓を患い、将に諸侯に因り以て之を劫さんと欲す。三桓も亦た公の難を作すを患う。故に君臣、間多し。公、陵坂に游び、孟武伯に衢(ちまた)に遇う。曰く、「請い問う、余は死に及ばんか。」対えて曰く、「知らざるなり。」公、越を以て三桓を伐たんと欲す。八月、哀公、陘氏に如く。三桓、公を攻む。公、衛に奔り、去りて鄒に如き、遂に越に如く。国人、哀公を迎う。復た帰り、有山氏に卒す。子の寧立つ。是を悼公と為す。
『史記』現代日本語訳
哀公五年(BC490)、斉の景公が死んだ。
六年(BC489)、斉の田乞が、その主君孺子を殺した。
七年(BC488)、呉王夫差が強大化した。斉を攻め、繒*(ソウ)まで進軍し、百牢*による接待を魯に求めた。季氏の当主季康子は、子貢を使いに出して呉王とその宰相嚭(ヒ)を説得し、礼法を持ち出してあきらめさせた。呉王が言った。「私は体に入れ墨をしている野蛮人だ。礼法を持ち出されたら従うしかない。」それでやめになった*。
八年(BC487)、呉は鄒のために魯を攻撃し、都城の城下まで押し寄せ、和議を結んで帰った。斉は魯を攻撃し、三邑を取った。
十年(BC485)、斉の南辺を攻撃した。
十一年(BC484)、斉は魯の季氏を攻撃し、季氏は孔子の弟子の冉有を用いて撃退に成功したので、孔子を呼び戻そうとした。孔子は衛から魯に帰った。
十四年(BC481)、斉の田常が、その主君簡公を徐州で殺した。孔子はこれを伐つよう哀公に求めたが、哀公は許さなかった。
十五年(BC480)、子服景伯を使わし、子貢を副使にして斉に行かせた。斉は魯に占拠した土地を返した。田常は初めて宰相となって、諸侯と親しみたいと願った。
十六年(BC479)、孔子が死んだ。
二十二年(BC473)、越王の勾践が、呉王の夫差を滅ぼした。
二十七年(BC468)、季康子が死んだ。夏、哀公は門閥三家老(三桓)の専権を嫌い、今にも諸侯の助けを得て滅ぼそうとした。三桓もまた、哀公が戦乱を起こそうとしているのを憎んだ。こうして君臣の間が疎遠になった。
哀公が陵坂に出かけ、街路で孟氏の当主・孟武伯と会った。哀公が言った。「ちょっと聞きたいのだが、お前達は私を殺す気か。」孟武伯が答えた。「知りません。」哀公は越国の力を借りて三桓を伐とうとした。
八月、哀公が陘氏に行った。三桓が哀公を攻めた。哀公は衛に逃げ、そこも去って鄒に行き、さらに越国に逃亡した。国人が哀公を迎えたので、復た魯国に帰り、有山氏で死んだ*。子の寧が国公に立った。これを悼公と呼んだ。
『史記』注
繒(ソウ):鄫と同じ。

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百牢:ウシ・ヒツジ・ブタをセットにした焼き肉料理を牢といい、それの百揃え。
やめになった:『左伝』によれば百牢はやめになっていない。季康子の出席は取りやめになった。
有山氏で死んだ:『左伝』では越で死んだことになっている。
BC494 | 哀公1 | 孔子58 | 衛に行き晋に向かうが果たせず。呉の使いに骨の由来を説明 | 魯・哀公即位。呉、越を破り巨大な骨を得る |
493 | 2 | 59 | 衛を出、曹を通り宋に行く。宋将軍桓魋に追われる。弟子一同とも散り散りになって鄭に逃れる | 衛・霊公死去 |
492 | 3 | 60 | 鄭より陳に向かい、4年ほど陳・蔡で過ごし、楚に出掛ける。各地の王侯貴族より賓客として迎えられる | 魯・このころかつての学友・南宮敬叔、火消しとして奮戦。季桓子、跡継ぎの季康子に孔子を呼び戻すよう遺言して死去。ペルシア戦争始まる |
491 | 4 | 61 | 魯・季康子、孔子を呼び戻そうとして取りやめる | |
490 | 5 | 62 | 佛肸の招きに応じようとするが果たせず | 晋の佛肸、孔子を招く。斉・公子陽生、魯に亡命。望んで季康子の妹をめとる。斉・景公死去。子の晏孺子荼即位 |
489 | 6 | 63 | 楚・昭王の招きに応じ、子貢・宰我を伴って向かうが、陳・蔡の妨害に遭う。楚の宰相・子西も反対し、仕官できず衛へ | 楚・昭王死去。斉・荼を廃位し、魯に亡命していた公子陽生、帰国して即位し悼公となる |
488 | 7 | 64 | 衛・出公に仕える? | 呉、会盟で無理な要求を魯に突きつける。魯、百牢を出す。魯・季康子、子貢を派遣して自分の出張を撤回させる。邾を攻める。 |
487 | 8 | 65 | 呉、邾の要請で魯を攻撃。弟子の有若、迎撃部隊から外される。斉、魯を攻める。邾、呉の力で復国。斉と和睦 | |
485 | 10 | 67 | 夫人の幵官氏死去。子貢を派遣して呉から援軍を引き出す | 魯、呉と同盟して斉を攻める。斉・悼公、殺され、簡公擁立される |
484 | 11 | 68 | 魯に戻る。のち家老の末席に連なる | 弟子の冉求、侵攻してきた斉軍を撃破。魯、呉と連合して斉に大勝 |
483 | 12 | 69 | もう弟子ではないと冉有を破門 | 魯・季康子、税率を上げ、家臣の冉求、取り立てを厳しくする |
482 | 13 | 70 | 息子の鯉、死去 | 呉王夫差、諸侯を集めて晋と覇者の座を争う。一方本国を越軍に攻められ、大敗 |
481 | 14 | 71 | 斉を攻めよと哀公に進言、容れられず | 弟子の顔回死去。孟懿子死去。魯で麒麟が捕らわれる。斉・簡公、陳成子によって殺される |
480 | 15 | 72 | 弟子の子路死去 | |
479 | 16 | 73 | 死去。西暦推定日付3/4。曲阜城北の泗水河畔に葬られる | ギリシア、プラタイアの戦い |
473 | 22 | 越、呉を滅ぼす | ||
471 | 24 | 魯・哀公、晋と連合して斉を攻める | ||
468 | 27 | 魯・哀公、孟武伯に追われ越に逃亡、翌年死去 |
『史記』付記
思案中
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