『史記』原文
季氏與郈氏鬬雞,季氏芥雞羽,郈氏金距。季平子怒而侵郈氏,郈昭伯亦怒平子。臧昭伯之弟會偽讒臧氏,匿季氏,臧昭伯囚季氏人。季平子怒,囚臧氏老。臧、郈氏以難告昭公。昭公九月戊戌伐季氏,遂入。平子登臺請曰:「君以讒不察臣罪,誅之,請遷沂上。」弗許。請囚於鄪,弗許。請以五乘亡,弗許。子家駒曰:「君其許之。政自季氏久矣,為徒者眾,眾將合謀。」弗聽。郈氏曰:「必殺之。」叔孫氏之臣戾謂其眾曰:「無季氏與有,孰利?」皆曰:「無季氏是無叔孫氏。」戾曰:「然,救季氏!」遂敗公師。孟懿子聞叔孫氏勝,亦殺郈昭伯。郈昭伯為公使,故孟氏得之。三家共伐公,公遂奔。己亥,公至于齊。齊景公曰:「請致千社待君。」子家曰:「棄周公之業而臣於齊,可乎?」乃止。子家曰:「齊景公無信,不如早之晉。」弗從。叔孫見公還,見平子,平子頓首。初欲迎昭公,孟孫、季孫後悔,乃止。
二十六年春,齊伐魯,取鄆而居昭公焉。夏,齊景公將內公,令無受魯賂。申豐、汝賈許齊臣高龁、子將粟五千庾。子將言於齊侯曰:「群臣不能事魯君,有異焉。宋元公為魯如晉,求內之,道卒。叔孫昭子求內其君,無病而死。不知天棄魯乎?抑魯君有罪于鬼神也?願君且待。」齊景公從之。
二十八年,昭公如晉,求入。季平子私於晉六卿,六卿受季氏賂,諫晉君,晉君乃止,居昭公乾侯。二十九年,昭公如鄆。齊景公使人賜昭公書,自謂「主君」。昭公恥之,怒而去乾侯。三十一年,晉欲內昭公,召季平子。平子布衣跣行,因六卿謝罪。六卿為言曰:「晉欲內昭公,眾不從。」晉人止。三十二年,昭公卒於乾侯。魯人共立昭公弟宋為君,是為定公。
『史記』書き下し
季氏与郈氏雞を鬬わす。季氏は雞の羽に芥(からし)ぬり、郈氏は距(けづめ)に金つく。季平子怒り而郈氏を侵す。郈昭伯亦いに平子を怒る。臧昭伯之弟・会、臧氏を偽り讒(いつわ)りて、季氏に匿る。臧昭伯季氏の人を囚う。季平子怒りて、臧氏の老を囚う。臧、郈氏以て昭公に難じ告ぐ。昭公、九月戊戌季氏を伐ち、遂に入る。平子台に登りて請うて曰く、「君は讒以て臣の罪を察せ不、之を誅さんとす、請う沂上に遷らん。」許さ弗。鄪於囚たるを請う。許さ弗。五乗を以て亡ぐるを請う。許さ弗。子家駒曰く、「君其れ之を許せ。政の季氏自りするや久しき矣。徒と為る者眾く、眾将に謀みを合わさん。」聴さ弗。郈氏曰く、「必ず之を殺せ。」叔孫氏之臣戻りて其の眾に謂いて曰く、「季氏は与(くみ)する有りと無きは、孰か利ならん。」皆曰く、「季氏は是れ無くんば叔孫氏無からん。」戻りて曰く、「然り、季氏を救わん。」遂に公の師を敗る。孟懿子、叔孫氏の勝つを聞きて、亦た郈昭伯を殺す。郈昭伯は公の使と為りて、故に孟氏之を得たりき。三家共に公を伐ち、公遂に奔る。己亥、公斉于(に)至る。斉の景公曰く、「請う千社を致して君を待たん。」子家曰く、「周公之業を棄て而斉於臣たるは、可き乎。」乃ち止む。子家曰く、「斉の景公信無し。早に晋に之くに如か不。」従わ弗。叔孫公の還るを見て、平子に見ゆ。平子首を頓ぐ。初めて昭公を迎えんと欲す。孟孫、季孫後に悔いて、乃ち止む。二十六年春、斉魯を伐ちて、鄆を取り而昭公を居らしめ焉(たり)。夏、斉の景公将に内公を令て魯の賂を受く無からしむ。申豊・汝賈、斉の臣高齕・子将に粟五千庾を許(すす)む。子将、斉侯於言いて曰く、「群臣、魯君に事うる能わ不るには、異有り。宋の元公、魯の為に晋に如き、之を内(い)るるを求め、道に卒す。叔孫昭子は其の君を内るるを求め、病無くして死す。知ら不、天の魯を棄つるか、抑(そもそも)魯君は鬼神于(に)罪有るか。願わくば君且く待て。」斉の景公、之に従う。二十八年、昭公、晋に如き、入るを求む。季平子、晋の六卿に私す。六卿、季子の賂を受け、晋の君を諫む。晋の君乃ち止め、昭公を乾侯に居らしむ。二十九年、昭公、鄆に如く。斉の景公、人を使て昭公に書を賜りて、自ら主君を謂う。昭公、之を恥じ、怒りて乾侯を去る。三十一年、晋、昭公を内れんと欲し、季平子を召す。平子、布衣きて跣(はだし)にて行き、六卿に因りて罪を謝(の)ぶ。六卿、為に言いて曰く、「晋、昭公を内れんと欲すれども、眾従わず。」晋人、止む。三十二年、昭公、乾侯於卒す。魯人、共に昭公の弟宋を立てて君と為し、是を定公と為す。
『史記』現代日本語訳
〔承前/昭公二十五年・BC517〕
季氏と郈(コウ)氏が闘鶏をした。季氏は鶏の羽根にからしを塗り、郈氏はけづめに青銅をかぶせた。季平子が怒って郈氏の屋敷に押し入った。郈昭伯は大いに平子を怒った。臧(ゾウ)昭伯の弟の会は、臧氏をだまして季氏の屋敷に隠れた。仕返しに臧昭伯は季氏の家人を捕らえた。季平子は怒って、臧氏の家老を捕らえた。臧、郈氏はこれを昭公に訴えた。
昭公は九月の戊戌に季氏を攻め、とうとう屋敷に押し入った。季平子は台に登って懇願し、言った。「殿は二氏の訴えを聞いて私の罪を調べないまま、殺そうとしています。お願いです、沂川のほとりに行かせて下さい。」昭公は許さなかった。季氏の領地である費邑で謹慎したいと願ったが、昭公は許さなかった。車五乗で亡命したいと願ったが、昭公は許さなかった。
子家駒が言った。「殿様、許してやって下さい。季氏が政治を執るようになって長くなります。その配下となった者も多く、集まって何かをたくらむでしょう。」しかし昭公は許さなかった。郈氏は言った。「必ず季平子を殺せ。」
叔孫氏の家臣が屋敷に戻ってその部下達に言った。「季氏に味方するのとしないのでは、どちらが得だろう。」皆が言った。「季氏が無ければ叔孫氏も無いでしょう。」家臣が叔孫氏のもとへ戻ったので、叔孫氏が言った。「その通りだ。季氏を救おう。」そこで昭公の軍を敗った。
孟懿子も叔孫氏が勝ったと聞いて、郈昭伯を殺した。郈昭伯は昭公の使いとして、孟氏之のところにいたのである。三家は共に公の軍を攻め、昭公はとうとう逃げ出した。
己亥、昭公は斉に入った。斉の景公が言った。「千社の領地を与えますので、斉に留まって下さい。」昭公に従っていた子家が言った。「我が魯の開祖・周公の業績を捨てて斉の家臣になうのは、よいのですか。」そこで領地を受け取るのをやめた。子家が言った。「斉の景公はうそつきです。早く晋に行った方がいいです。」しかし昭公は従わなかった。
叔孫は昭公が魯に帰ろうとしているのを見て、季平子に会った。季平子は平伏し、やっと昭公を迎えようと考えた。しかし孟孫氏と季孫氏は後で考え直して、昭公を迎えるのをやめた。
二十六年(BC516)春、斉は魯を攻撃して、鄆(ウン)のまちを取り、昭公を住まわせようとした。夏、斉の景公は家臣に命じて、魯のワイロを受け取るのを禁止したが、季氏の家臣・申豊と汝賈は、斉の家臣の高齕と子将に、粟五千庾を贈った。
そこで子将は斉の景公に言った。「斉の家臣たちが魯の君に仕えられないのは、異変があるからです。宋の元公が昭公のために晋に行き、昭公を受け入れるよう願いましたが、道中で死にました。魯の叔孫昭子は昭公を迎え入れようとしましたが、病気でもないのに死にました。不気味なことです、天が魯を捨てたのか、そもそも昭公は亡霊や神に憎まれているのかわかりません。お願いですから、昭公を受け入れるのはしばらく待って下さい。」斉の景公はこれに従った。
二十八年(BC514)、昭公は晋に行き、受け入れを求めた。季平子は晋の六卿(六人の重臣)に内通した。六卿は季子のワイロを受け取り、晋の国君をいさめた。そこで晋の国君は受け入れをやめ、昭公を乾侯に住まわせた。
二十九年(BC513)、昭公は鄆に行こうとした。斉の景公は使者をつかわして昭公に書を送り、そこで自分を主君と書いた。昭公はこれを恥じて、怒って乾侯を去った。
三十一年(BC511)、晋は昭公を受け入れようとし、季平子を呼んだ。季平子は粗末な着物に裸足で晋に行き、六卿を通じて謝罪した。六卿は季氏のために言った。「晋は昭公を受け入れようとしたが、大勢の国人が従わない。」こうして晋の人は受け入れをやめた。
三十二年(BC510)、昭公は乾侯で死んだ。魯の人は、相談して昭公の弟・宋を立てて国君にし、これを定公と呼んだ。
『史記』注
粟五千庾:一庾=十六斗≒32リットル。五千庾≒160、000リットル。
米で換算すると一庾≒32リットル≒26.10kg/1俵=60kg。
従って五千秉≒1、305、000kg≒21、750俵。
宮崎市定説に拠れば一庾=二十日分。従って人間一人273.97年分の食糧。
ただし中国史料の数値はなべていい加減だから話半分に聞いた方がいい。
BC517 | 昭公25 | 孔子35 | 内乱を避けて斉の高昭子のもとへ避難 | 魯・闘鶏が原因で家老同士が私闘、乗じた昭公は季氏を討伐するが、返り討たれて斉に逃亡。叔孫昭子死去。 |
516 | 26 | 36 | 斉で音楽を聴き、「三ヶ月肉の味を知らず」。斉の景公に仕官が内定するが、家老・晏嬰が反対して取りやめ | 周王朝再統一 |
515 | 27 | 37 | 斉の家老に殺されかけ、魯に帰る。途中、帰国中の呉の公子・季札が行った葬礼を参観。この頃までに主要な弟子を取る | 弟子の樊遅生まれる。呉王・闔閭即位 |
513 | 29 | 39 | 晋の趙簡子、刑鼎を鋳て法律を公開 | |
510 | 32 | 42 | 魯・逃亡中の昭公死去 |
『史記』付記
思案中
コメント