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『史記』現代語訳:魯周公世家・昭公(1)

『史記』原文

昭公年十九,猶有童心。穆叔不欲立,曰:「太子死,有母弟可立,不即立長。年鈞擇賢,義鈞則卜之。今裯非適嗣,且又居喪意不在戚而有喜色,若果立,必為季氏憂。」季武子弗聽,卒立之。比及葬,三易衰。君子曰:「是不終也。」
昭公三年,朝晉至河,晉平公謝還之,魯恥焉。四年,楚靈王會諸侯於申,昭公稱病不往。七年,季武子卒。八年,楚靈王就章華臺,召昭公。昭公往賀,賜昭公寶器;已而悔,復詐取之。十二年,朝晉至河,晉平公謝還之。十三年,楚公子棄疾弒其君靈王,代立。十五年,朝晉,晉留之葬晉昭公,魯恥之。二十年,齊景公與晏子狩竟,因入魯問禮。二十一年,朝晉至河,晉謝還之。
二十五年春,鸜鵒來巢。師己曰:「文成之世童謠曰『鸜鵒來巢,公在乾侯。鸜鵒入處,公在外野』。」

『史記』書き下し

昭公年十九にして、猶お童心有り。穆叔立てるを欲せ不して曰く、「太子死したるも、母の弟有りて立つる可し。長を立つるに即か不らん。年鈞しくして賢を択び、義鈞しくして則ち之を卜なわん。今裯は嗣ぐに適するに非ず、且又喪に居りて意(こころ)は戚(いた)むに在ら不而て喜ぶ色有り、若し果して立たば、必ず季氏の憂いと為らん。」季武子聴さ弗、卒(すみやか)に之を立てる。葬るに及ぶ比(ころあい)、三たび衰を易う。君子曰く、「是れ終ら不る也。」昭公三年、晋に朝でて河に至るも、晋の平公謝(ことわ)りて之を還し、魯は恥じ焉。四年、楚の霊王諸侯と申於会うも、昭公病を称えて往か不。七年、季武子卒す。八年、楚の霊王章華台を就(つく)りて、昭公を召す。昭公往きて賀(ことほ)ぎ,昭公に宝器を賜う。已に而て悔い、復た詐りて之を取る。十二年、晋に朝でて河に至るも、晋の平公謝(ことわ)りて之を還す。十三年、楚の公子棄疾其の君霊王を弒して、代りて立つ。十五年、晋に朝ず。晋之を留めて晋に昭公を葬らんとし、魯之を恥ず。二十年、斉の景公与晏子竟に狩りし、因りて魯に入りて礼を問う。二十一年、晋に朝でて河に至るも、晋謝(ことわ)りて之を還す。二十五年春、鸜鵒(クヨク)来りて巣くう。師己曰く、「文成之世の童謡に曰く、『鸜鵒来りて巣くう、公は乾侯に在り。鸜鵒入る処、公は外の野に在り』。」

『史記』現代日本語訳

(BC542)昭公は十九歳で、まだ精神が子どものようだった。

穆叔は擁立を拒んで言った。「太子は死んだが、その母の弟がいるから擁立できる。年長を立てる案には従わない。年令が同じなら賢い方を選び、道理が同じなら占えばいいのだ。今、裯(チョウ)は跡継ぎに適していない。それに喪中なのに悲しんでおらず、喜ぶ顔色さえある。もし擁立してしまったら、必ず季氏の憂いになるだろう。」しかし季武子は聞かずに、すぐさま昭公を擁立してしまった。

襄公を葬るに及んで、昭公は三たび喪服を取り替えた。ある君子が言った。「これでは葬儀が終わらない。」

昭公三年(BC539)、晋に服属するため黄河まで来たが、晋の平公は来るのを断って、魯は恥をかいた。

四年(BC538)、楚の霊王が諸侯と申で会談したが、昭公は病気だと言って行かなかった。

七年(BC535)、季武子が死んだ。

八年(BC534)、楚の霊王が章華台を造成して、昭公を呼んだ。昭公は行ってお祝いを言い、宝器を賜った。しかし霊王は渡してしまったのを悔い、まただまして取り上げた。

十二年(BC530)、晋に服属するため黄河まで来たが、晋の平公は来るのを断って帰した。

十三年(BC529)、楚の公子・棄疾がその主君霊王を殺して、代わりに立った。

十五年(BC527)、晋に服属の挨拶をした。晋は昭公を足止めして晋で昭公を葬ろうとし、魯は恥をかいた。

二十年(BC522)、斉の景公と晏子が国境で狩りをし、ついでに魯に入って礼を問うた。

二十一年(BC521)、晋に服属するため黄河まで来たが、晋は来るのを断って帰した。

二十五年(BC517)春、九官鳥が飛んで来て巣をかけた。師己が言った。「文公と成公と時代の童謡にこうある。『九官鳥が飛んできて巣をかけた。公は乾侯にいる。九官鳥が飛んでくる所では、公は外の野にいる』。」

『史記』注

鸜鵒(クヨク):もずに似て黒色で、舌を切ると人語を話すという鳥。九官鳥。

史記 鸜鵒

BC541 昭公1 孔子11 魯・季武子、20歳の昭公を魯公に擁立
538 4 14 魯・叔孫穆子死去
537 5 15 学に志す 魯・三桓、魯の軍権・徴兵権を四分し、1/2を季氏が、残り1/4ずつを叔氏・孟氏が分け取る
536 6 16 弟子の閔子騫ビンシケン生まれる。鄭の家老子産、法鼎ホウテイを鋳て法律を公開
この頃、母死去。知人の輓父バンプの母から父の墓・防山を教えられ、合葬
535 7 17 季平子の宴会に出掛け、執事の陽虎に追い返される 魯・季武子死去
532 10 20 幵官ケンカン氏と結婚
531 11 21 息子の生まれる。葬礼の手伝いをして生計を立てる。のち季氏の倉庫番、牧場管理人となる 魯・昭公、お祝いにコイを贈る
530 12 22 魯・季氏の家臣南蒯ナンカイ、費邑に立て籠もり季氏に反乱。敗れて斉に逃亡
525 17 27 魯に来たタン公から、有職故実を教わる ペルシア、エジプトを征服してオリエント統一
522 20 30 このころ、初期の弟子を取る。魯に来た斉の景公と問答 弟子の冉雍ゼンヨウ冉求ゼンキュウ、宰我生まれる
521 21 31 弟子の顔回生まれる
520 22 32 弟子の子貢生まれる
519 23 33 周王朝、分裂
518 24 34 南宮敬叔と共に周の都・洛邑に留学、礼を老子に、楽を萇弘チョウコウに教わる 魯・孟子死去、跡継ぎの孟子とその弟・南宮敬叔に、孔子に学ぶよう遺言。昭公、南宮敬叔の進言により、奨学金として馬車一台、馬二頭、お付き一人を与える
517 25 35 内乱を避けて斉の高昭子のもとへ避難 魯・闘鶏が原因で家老同士が私闘、乗じた昭公は季氏を討伐するが、返り討たれて斉に逃亡。叔孫昭子死去。

『史記』付記

思案中

『史記』諸国世家:現代語訳
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