『史記』現代語訳:斉太公世家・悼公

『史記』原文

悼公元年,齊伐魯,取讙、闡。初,陽生亡在魯,季康子以其妹妻之。及歸即位,使迎之。季姬與季魴侯通,言其情,魯弗敢與,故齊伐魯,竟迎季姬。季姬嬖,齊復歸魯侵地。 鮑子與悼公有郤,不善。四年,吳、魯伐齊南方。鮑子弒悼公,赴于吳。吳王夫差哭於軍門外三日,將從海入討齊。齊人敗之,吳師乃去。晉趙鞅伐齊,至賴而去。齊人共立悼公子壬,是為簡公。

『史記』書き下し

悼公元年、斉、魯を伐ち、讙(カン)・闡(セン)を取る。初め、陽生、亡げて魯に在り。季康子、其の妹を以て之に妻す。帰り位に即くに及びて、之を迎えしむ。季姫、季魴侯(キホウコウ)と通じ、其の情を言う。魯、敢て與えず。故に斉、魯を伐ち、竟に季姫を迎う。季姫、嬖せられ、斉、復た魯に侵地を帰す。鮑子、悼公と郤有り。善からず。四年、呉・魯、斉の南方を伐つ。鮑子、悼公を弑し、呉に赴(つ)ぐ。呉王夫差、軍門の外に哭すること三日。将に海従り入りて斉を伐たんとす。斉人、之を敗る。呉の師乃ち去る。晋の趙鞅、斉を伐ち、頼に至りて去る。斉人、共に悼公の子壬を立つ。是を簡公と為す。

『史記』現代日本語訳

悼公元年(BC488)、斉が魯を伐ち、讙(カン)・闡(セン)を取った。陽生は以前、魯に亡命していた。魯の筆頭家老・季康子は、その妹をめあわせた。斉に帰って公位に即くと、その夫人を迎えた。

ところがこの季姫は、、季康子の叔父・季魴侯(キホウコウ)と密通しており、あけすけにそれを兄の季康子に言った。季康子はさすがに呆れて、魯は季姫を斉に送らなかった。だから斉は魯を伐ち、とうとう季姫を迎えた。季姫は寵愛されたので、斉は魯に占領地を返した。

ところで鮑牧は、悼公との間がよくなかった。

四年(BC485)、呉と魯が、斉の南方を攻撃した。鮑牧は悼公を殺し、呉にその死を告げた*。
呉王の夫差は、軍門の外で悼公のために泣きの礼を三日間行った。その後で海から斉を伐とうとした。しかし斉軍が呉軍を敗った。そこで呉軍は帰った。晋の趙鞅が斉を伐ち、斉領の頼(ライ)まで進撃して帰った。斉の国人は、示し合わせて悼公の子・壬(ジン)を立て、これを簡公と呼んだ。

『史記』注

赴:死を告げる、の意味がある。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

関連記事(一部広告含む)