PRあり

『史記』現代語訳:衛康叔世家・襄公/霊公

『史記』原文

襄公六年,楚靈王會諸侯,襄公稱病不往。
九年,襄公卒。初,襄公有賤妾,幸之,有身,夢有人謂曰:「我康叔也,令若子必有衛,名而子曰『元』。」妾怪之,問孔成子。成子曰:「康叔者,衛祖也。」及生子,男也,以告襄公。襄公曰:「天所置也。」名之曰元。襄公夫人無子,於是乃立元為嗣,是為靈公。

四十二年春,靈公游于郊,令子郢仆。郢,靈公少子也,字子南。靈公怨太子出奔,謂郢曰:「我將立若為後。」郢對曰:「郢不足以辱社稷,君更圖之。」夏,靈公卒,夫人命子郢為太子,曰:「此靈公命也。」郢曰:「亡人太子蒯聵之子輒在也,不敢當。」於是衛乃以輒為君,是為出公。

『史記』書き下し

襄公六年、楚の霊王、諸侯を会す。襄公、病を称して往かず。

九年、襄公卒す。初め、襄公、賎妾有り、之を幸し、身(はら)める有り。夢に人有りて、謂いて曰く、「我は康叔なり。若の子をして必ず衛を有たしめん。而の子を名づけて元と曰え。」妾、之を怪しみて、孔成子に問う。成子曰く、「康叔は衛の祖なり。」子を生むに及びて男なり。以て襄公に告ぐ。襄公曰く、「天の置く所なり。」之に名づけて元と曰う。襄公の夫人、子無し。是に於いて乃ち元を立てて嗣を為す。是を霊公と為す。

霊公五年、晋の昭公に朝す。

六年、楚の公子疾、霊王を弑して、自立して平王と為る。

十一年、火あり。

三十八年、孔子来る。之を禄すること魯の如くす。後に隙有り、孔子去る。後に復た来る。

三十九年、太子蒯聵(カイカイ)、霊公夫人の南子と悪しき有り、南子を殺さんと欲す。蒯聵、其の徒戲陽遬(ギヨウソク)と謀り、朝に夫人を殺さしめんとす。戲陽、後に悔い、果たさず。蒯聵、数々之を目す。夫人、之を覚り、懼れて、呼びて曰く、「太子、我を殺さんと欲す。」霊公、怒る。太子蒯聵、宋に犇り、已にして晋の趙氏に之く。

四十二年、春、霊公、郊に游び、子郢(シエイ)をして僕(たづなとら)しむ。郢は霊公の少子なり。字は子南。霊公、太子の出犇(シュッポン)するを怨み、郢に謂いて曰く、「我、将に若を立てて後と為さんとす。」郢對えて曰く、「郢は以て社稷を辱(かたじけの)うするに足らず。君、更に之を図れ。」夏、霊公卒す。夫人、子郢に命じて太子と為して、曰く、「此れは霊公の命なり。」郢曰く、「亡人太子蒯聵の子輒(チョウ)在り。敢て當らず。」是に於いて衛乃ち輒を以て君と為す。是を出公と為す。

『史記』現代日本語訳

襄公六年(BC538)、楚の霊王が諸侯を集めて会盟したが、襄公は病気だと言って行かなかった。

九年(BC535)、襄公が死んだ。もともと襄公には、身分の低い妾がいた。妾は寵愛されて身ごもった。ある日夢に人が現れ、言った。「私は康叔である。そなたの子を国公の地位に就けよう。子を元と名付けよ。」妾は不思議に思って孔成子に問うた。

孔成子が言った。「康叔は衛国の開祖だ。」子は生まれてみると男だった。そこで夢の話を襄公に告げた。襄公が言った。「天のおぼしめしだ。」だから元と名付けた。襄公の夫人には子が無かった。そこで元を太子にした。のちの霊公である。

霊公五年(BC530)、晋の昭公に朝見した(服属の礼を取った)*。

六年(BC529)、楚の公子の疾が、楚の霊王を殺して、自ら即位して平王となった。

十一年(BC524)、火事があった。

三十八年(BC497)、孔子が衛に来た。霊公は孔子に魯と同じ俸禄を与えた。その後、霊公との関係が悪くなり、孔子は衛を去った。後にまた来た。

三十九年(BC496)、太子の蒯聵(カイカイ)は、霊公夫人の南子と仲が悪く、南子を殺そうとした。蒯聵は、その家臣の戲陽遬(ギヨウソク)に言いつけ、朝廷で夫人を殺させようとした。しかし戲陽は後で思い直し、果たさなかった。

蒯聵は朝廷で、たびたび戲陽遬に目配せして決行を迫った。南子夫人はその意味を覚って恐怖し、大声で「太子が私を殺そうとしている」と叫んだ。霊公が怒った。太子蒯聵は宋に逃亡し、さらに晋の筆頭家老・趙氏の所へ行った。

四十二年(BC493)、春、霊公は郊外に出かけ、子郢(シエイ)に馬車の手綱を取らせた。郢は霊公の末の息子で、字(あざな)は子南。霊公は太子蒯聵の出奔を怨んで、郢に言った。「私はお前を跡継ぎにしようと思う。」郢は答えた。「私は国を治める自信がありません。どうぞお考え直し下さい。」

夏、霊公が死んだ。南子夫人は、子郢を太子に立てて言った。「これは霊公の命令です。」郢が言った。「逃亡した太子蒯聵の子の輒(チョウ)がいます。私は国公になりたくありません。」そこで衛国は輒を国君にした。これを出公という。

『史記』訳注

朝見:ただし晋に服従するとどうなるかは、春秋左氏伝・定公八年の条に詳しい。

『史記』解説・付記

BC 魯昭公 衛襄公 孔子 魯国 その他
538 4 6 14 昭公、病を称して会盟に行かず。叔孫穆子死去 楚・霊王、申で会盟。衛襄公、病を称し行かず
537 5 7 15 学に志す 三桓、軍権・徴兵権を四分し、1/2を季氏が、残り1/4ずつを叔氏・孟氏が分け取る
536 6 8 16 弟子の閔子騫ビンシケン生まれる 斉・景公、晋に行く。晋、燕を攻撃。鄭の家老子産、法鼎ホウテイを鋳て法律を公開
この頃、母死去。知人の輓父バンプの母から父の墓・防山を教えられ、合葬
535 7 9 17 季平子の宴会に出掛け、執事の陽虎に追い返される 季武子死去 衛・襄公死去、霊公即位
534 8 霊公1 18 昭公、楚・霊王から宝物を貰うも取り上げられる 楚・霊王、章華台を造り魯・昭公を召し寄せる
532 10 3 20 幵官ケンカン氏と結婚 晋・平公死去
531 11 4 21 息子の生まれる。葬礼の手伝いをして生計を立てる。のち季氏の倉庫番、牧場管理人となる 昭公、お祝いにコイを孔子に贈る
530 12 5 22 昭公、晋に朝見しようとするも断られる。季氏の家臣南蒯ナンカイ、費邑に立て籠もり季氏に反乱。敗れて斉に逃亡  斉・景公、晋に行く。衛・霊公、晋に朝見
529 13 6 23 楚・棄疾、霊王を窮死させ平王として即位
527 15 8 26 昭公、晋に朝見し拘束されかかる
526 16 9 27 晋・昭公死去
525 17 10 27 魯に来たタン公から、有職故実を教わる ペルシア、エジプトを征服してオリエント統一
524 18 11 28 衛、火事あり
522 20 13 30 このころ、初期の弟子を取る。魯に来た斉の景公と問答。弟子の冉雍ゼンヨウ冉求ゼンキュウ、宰我生まれる 斉・景公と晏嬰、魯に行く
521 21 14 31 弟子の顔回生まれる 昭公、晋に朝見しようとするも断られる
520 22 15 32 弟子の子貢生まれる 周・景王崩御、跡目争い。晋の六卿が平定し敬王擁立
519 23 16 33 周王朝、分裂(孔子辞典)
518 24 17 34 南宮敬叔と共に周の都・洛邑に留学、礼を老子に、楽を萇弘チョウコウに教わる 子死去、跡継ぎの孟子とその弟・南宮敬叔に、孔子に学ぶよう遺言。昭公、南宮敬叔の進言により、奨学金として馬車一台、馬二頭、お付き一人を与える
517 25 18 35 内乱を避けて斉の高昭子のもとへ避難 宮殿に九官鳥が巣をかける。闘鶏が原因で家老同士が私闘、乗じた昭公は季氏を討伐するが、返り討たれて斉に逃亡、さらに晋に行き乾侯に住まう。叔孫昭子死去。 斉、魯の昭公に領地を与えようとする
516 26 19 36 斉で音楽を聴き、「三ヶ月肉の味を知らず」。斉の景公に仕官が内定するが、家老・晏嬰アンエイが反対して取りやめ 斉、魯を攻撃して鄆を取る。周王朝再統一。彗星現る
515 27 20 37 斉の家老に殺されかけ、魯に帰る。途中、帰国中の呉の公子・季札が行った葬礼を参観。この頃までに主要な弟子を取る。弟子の樊遅ハンチ生まれる 季平子、范献子に賄賂し晋は受入拒否(晋世家) 衛と宋、晋に魯君の受入要求。呉王・闔閭コウリョ即位
514 28 21 38 昭公、晋に受け入れを求めるが季氏の賄賂により実現せず、乾侯に住まう 晋・公室内紛、六卿、公室粛清、六卿強大化
513 29 22 39 昭公、鄆に行こうとして斉・景公の手紙で臣下扱いされ、乾侯を去る 晋・チョウ簡子、刑鼎を鋳て法律を公開
512 30 23 40 晋・頃公死去、定公即位
511 31 24 41 昭公、晋に受け入れ要請。季平子、晋に行き工作 晋、受け入れ拒否
510 32 25 42 逃亡中の昭公、乾侯で死去。季平子に擁立され、定公即位
507 定公3 28 45 チュの家老に、代替わりの冠礼を教える。弟子の子夏生まれる 孟懿子、邾公の作法指南に孔子を紹介 邾公変死、代替わり
506 4 29 46 弟子の子游生まれる 呉王闔閭、楚の都を落とし楚王逃亡。のち秦の援軍を得て奪回
505 5 30 47 弟子の曾参ソウシン=曽子生まれる 季平子、叔孫成子死去。執事の陽虎、跡継ぎの季桓子を捕らえ、家政・国政の実権を奪う
504 6 31 48 陽虎の招きに応じようとするが、実現せず 陽虎、鄭を攻めキョウのまちを奪取。正式に魯の執政となる。この頃孔子を招く
503 7 32 49 弟子の子張生まれる 斉、魯を攻撃し鄆を取り、陽虎に与える(魯世家)
502 8 33 50 公山弗擾フツジョウの招きに応じようとするが、実現せず 陽虎、三桓の当主排除を図って反乱、鎮圧され斉に逃亡。季氏の家臣、公山弗擾、孔子を招こうとする 晋、衛霊公を侮辱
501 9 34 51 中都の宰=代官に任じられる 陽虎、斉に逃亡。次いで晋に〔斉世家〕。ローマ、独裁官設置
500 10 35 52 司空=治水頭、次いで大司コウ=奉行職に昇進、家老格となる。斉との外交折衝を担任、定公を救出し占領地を取り戻す 定公、斉の景公と会談し、捕らわれかける
499 11 36 53 家老の少正ボウを処刑する 季桓子と孟懿子、孔子を支持する。斉・鄭・衛との友好を計り、晋と距離を置く
498 12 37 54 三桓の根城破壊を開始、季氏に仕えていた子路に任せる。公山弗擾の反乱を鎮圧。根城の最後、孟氏領・成邑の破壊失敗 公山弗擾、根城破壊に反対して反乱。成邑の代官・公斂処父、破壊に抵抗
497 13 38 55 辞職し、諸国放浪の旅に出る。衛の霊公に一旦は仕えるが、衛家臣の反発に遭い辞去 定公、斉の送った女楽団にふぬけ、孔子を遠ざける 晋内紛、趙鞅失脚するも韓・魏氏の助力で復活。衛、孔子を迎える
496 14 39 56 衛を去り陳に向かう。匡で陽虎に間違われ受難。のまちでも受難するが、弟子の公良ジュが抜刀して蒲人を威圧、難を逃れ衛に戻る。家老のキョ伯玉の客人となる 衛太子蒯聵カイカイ、霊公夫人南子を殺そうとして失敗、国外逃亡
495 15 40 57 衛を去り魯に戻る。弟子の子貢、定公の死去を予言する 定公死去。哀公即位
494 哀公1 41 58 衛に行き晋に向かうが果たせず。呉の使いに骨の由来を説明 呉、越を破り巨大な骨を得る
493 2 42 59 衛を出、曹を通り宋に行く。宋将軍桓魋カンタイに追われる。弟子一同とも散り散りになって鄭に逃れる 衛・霊公死去、子郢、即位を固持し出公即位。晋の范・中行氏反乱。斉田乞、景公を説いて二氏を援助
『史記』諸国世家:現代語訳
スポンサーリンク
九去堂をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました