『史記』原文
簡公四年春,初,簡公與父陽生俱在魯也,監止有寵焉。及即位,使為政。田成子憚之,驟顧於朝。御鞅言簡公曰:「田、監不可并也,君其擇焉。」弗聽。子我夕,田逆殺人,逢之,遂捕以入。田氏方睦,使囚病而遺守囚者酒,醉而殺守者,得亡。子我盟諸田於陳宗。初,田豹欲為子我臣,使公孫言豹,豹有喪而止。後卒以為臣,幸於子我。子我謂曰:「吾盡逐田氏而立女,可乎?」對曰:「我遠田氏矣。且其違者不過數人,何盡逐焉!」遂告田氏。子行曰:「彼得君,弗先,必禍子。」子行舍於公宮。
夏五月壬申,成子兄弟四乘如公。子我在幄,出迎之,遂入,閉門。宦者御之,子行殺宦者。公與婦人飲酒於檀臺,成子遷諸寢。公執戈將擊之,太史子餘曰:「非不利也,將除害也。」成子出舍于庫,聞公猶怒,將出,曰:「何所無君!」子行拔劍曰:「需,事之賊也。誰非田宗?所不殺子者有如田宗。」乃止。子我歸,屬徒攻闈與大門,皆弗勝,乃出。田氏追之。豐丘人執子我以告,殺之郭關。成子將殺大陸子方,田逆請而免之。以公命取車於道,出雍門。田豹與之車,弗受,曰:「逆為余請,豹與余車,余有私焉。事子我而有私於其讎,何以見魯、衛之士?」
庚辰,田常執簡公于俆州。公曰:「余蚤從御鞅言,不及此。」甲午,田常弒簡公于俆州。田常乃立簡公弟驁,是為平公。平公即位,田常相之,專齊之政,割齊安平以東為田氏封邑。
平公八年,越滅吳。二十五年卒,子宣公積立。
『史記』書き下し
簡公四年、春、初め、簡公、父陽生と倶に魯に在るや、闞止(カンシ)、寵有り。位に即くに及びて、政を為さしむ。田成子、之を憚り、驟〻(しばしば)朝に顧みる。御の鞅、簡公に言いて曰く、「田・闞は並ぶ可からず。君、其れ焉を択べ。」聴かず。子我、夕もうです。田逆、人を殺し、之に逢う。遂に捕らえ以て入る。田氏は方に睦まし。囚をして病ましめて、囚を守る者に酒を遺り、酔わせて守者を殺し、亡ぐるを得たり。子我、諸田と陳宗に盟う。初め、田豹、子我の臣と為らんことを欲す。公孫をして豹を言わしむ。豹、喪有りて止む。後に卒に以て臣と為り、子我に幸せらる。子我、謂いて曰く、「吾、尽く田氏を逐いて女を立てん、可なるか。」対えて曰く、「我、田氏に遠し。且つ其の違う者は数人を過ぎず。何ぞ尽く焉を逐わん。」遂に田氏に告ぐ。子行曰く、「彼、君に得たり。先んぜずんば、必ず子に禍いせん。」子行、公宮に舎る。夏五月、壬申、成子の兄弟四乗して公に如く。子我、幄に在りて、出でて之を迎う。遂に入りて門を閉ず。宦者、之を禦ぐ。子行、宦者を殺す。公、婦人と酒を檀台に飲む。成子、諸を寝に遷さんとす。公、戈を執り、将に之を撃たんとす。太史子余曰く、「利ならずに非ざるなり。将に害を除かんとするなり。」成子、出でて、庫に舎る。公、猶ほ怒れるを聞き、将に出でんとして曰く、「何れの所にか君無からん。」子行、剣を抜きて曰く、「需(ためら)いは事を賊なう。誰か田宗に非ざらん。子を殺さざる所の者は、田宗の如(か)く有らんことを。」乃ち止む。子我、帰り、属する徒、闈(イ)と大門を攻む。皆勝たず。乃ち出づ。田氏、之を追う。豊丘の人、子我を執らえ以て告げ、之を郭関に殺す。成子、将に大陸子方を殺さんとす。田逆、請いて之を免がれしむ。公命を以て車を道に取り、雍門を出づ。田豹、之に車を与えんとす。受けずして曰く、「逆、余の為に請い、豹、余に車を与うらば、余、私有るなり。子我に事えて、其の讐に私有らば、何を以て魯・衛の士に見えん。」庚辰、田常、簡公を徐州に執らう。公曰く、「余、蚤くに御鞅の言に従わば、此れに及ばざりしならん。」甲午、田常、簡公を徐州に弑す。田常、乃ち簡公の弟驁(ゴウ)を立つ。是を平公と為す。平公、位に即くや、田常、之に相たり。斉の政を専らにす。斉を割き、安平以東を田氏の封邑と為す。
平公八年、越、呉を滅ぼす。二十五年にして卒し、子の宣公積立つ。
『史記』現代日本語訳
簡公四年(BC481)、春。かつて簡公は父陽生と共に魯にいた時、闞止*(カンシ、字は子我)を好んでいた。位に即くと、闞止に政治を任せた。田常(陳成子)は闞止を恐れ、しばしば朝廷で闞止の挙動にに注目していた。簡公の御者の鞅(オウ)が言った。「田氏と闞氏は両立できません。殿はどちらかをお選び下さい。」しかし簡公は聞かなかった。
ある日子我が夕方の出勤の途中、田一族の田逆が人を殺した現場に出くわした。そこで逮捕して宮殿に入った。田氏は一族の結束が固く、田逆は病気だと言って看守に酒を贈り、酔わせて看守を殺したので、田逆は逃亡した。この時は子我は、田氏の宗家・陳宗で田一族と和解した。
田氏のひとり田豹は、もともと子我の家臣になろうとしていた。そこで家老の公孫氏に紹介を依頼していたが、喪があってとりやめた。後には家臣になって、子我に好まれた。
子我が言った。「田氏を全て追い払い、お前を田氏の当主にしてやろうか。」田豹が答えた。「私は田氏の宗家から血筋が遠い。それにあなたに従わない田氏は数人に過ぎません。どうして全部追い払う必要がありましょう。」そして話をそのまま田氏に告げた。
田逆は当主の田常に言った。「子我は国君の好意を得ている。先手を打たないと、必ずあなたに危害を加えます。」その後田逆(子行)は、国君の宮殿に寝泊まりした。
夏五月、壬申、田常の兄弟は車四乗で宮殿に行った。子我が執務室から出て、兄弟を出迎えた。兄弟はそのまま宮殿に入って門を閉じ、子我を閉じこめた。宦官が兄弟を行く手を遮ったので、田逆が宦官を殺した。
その時簡公は、宮女と檀台で酒盛りをしていた。田常が簡公を正殿に連れて行こうとすると、簡公は戈(ほこ)を手にとって田常に打ちかかろうとした。記録官の子余が言った。「田常は殿のためにお連れするのです。殿の害になる者を取り除こうというのです。」
簡公が意のままにならないので、田常は檀台を後にして宮殿の武器庫に移った。簡公がまだ怒っていると聞いて、国外に逃げでもするかと思い、つぶやいた。「誰に仕えたっていいんだ。」すると田逆が剣を抜いて、「グズグズしていると事をし損ないますぞ。誰だって当主になれるのです。あなたを殺さない者は、田氏の祖霊よ、これを罰したまえ*。」その勢いに呑まれて、田常は腹をくくった。
一方子我は屋敷に帰り、私兵に宮殿の門を攻めさせたが、どこでも負けてしまった。そこで逃げ出したが、田氏が追撃した。豊丘の住民が子我を捕まえたと報告したので、子我を郭関で殺した。次に田常は子我の家臣・大陸子方(東郭賈)を殺そうとした。しかし田逆が命乞いをしたので許した。
大陸子方は国君の命令だと偽って、路上で車を徴発した。斉都・臨淄の城門の一つ、雍門を出た所で、田豹が大陸子方に車を与えようとした。しかし受け取らずに言った。「子我どのに仕えた私が、田逆どのに命乞いされ、田豹どのに車まで貰ったら、変節漢と馬鹿にされる。魯や衛に逃げた所で、貴族たちに会わす顔がない。」
庚辰、田常は簡公を徐州で捕らえた。簡公は言った。「さっさと御者の鞅の言う通りにしていれば、こんな事にはならなかったのに。」甲午、田常は簡公を徐州で殺した。田常はすぐさま簡公の弟、驁(ゴウ)を立てて平公と呼んだ。平公が位に即くと、田常はその宰相になり、斉の政治を独占した。斉の領土を切り取って、安平*以東を田氏の領地にした。
平公八年(BC473)、越は呉を滅ぼした。平公は二十五年で死に、子の宣公・積(セキ)が国君になった(BC456)。
『史記』注
闞止:字は子我だが、孔子の弟子の宰我とは別人。
有如:〔漢語網〕古人誓詞中常用語。
安平:国都臨淄と淄水をはさんだ東岸の邑。つまり山東半島全域を田氏は取ったことになる。
BC484 | 魯哀公11 | 斉簡公1 | 孔子68 | 魯に戻る。のち家老の末席に連なる。弟子の冉求、侵攻してきた斉軍を撃破 | 呉と連合して斉に大勝 | |
483 | 12 | 2 | 69 | もう弟子ではないと冉有を破門 | 季康子、税率を上げ、家臣の冉求、取り立てを厳しくする | |
482 | 13 | 3 | 70 | 息子の鯉、死去 | 呉王夫差、黄池に諸侯を集めて晋・定公と覇者の座を争う。晋・趙鞅、呉を長と認定(晋世家)。呉は本国を越軍に攻められ、大敗 | |
481 | 14 | 4 | 71 | 斉を攻めよと哀公に進言、容れられず。弟子の顔回死去 | 孟懿子死去。麒麟が捕らわれる |
斉・簡公、陳成子(田常)によって徐州で殺され、平公即位 |
480 | 15 | 平公1 | 72 | 弟子の子路死去 |
子服景伯と子貢を斉に遣使 |
斉、魯に土地を返還。斉・田常、宰相となる |
479 | 16 | 2 | 73 | 死去。西暦推定日付3/4。曲阜城北の泗水河畔に葬られる | ギリシア、プラタイアの戦い | |
475 | 20 | 6 | 晋・定公死去、出公即位 | |||
473 | 22 | 8 | 越王勾践、呉王夫差を破って呉を滅ぼす | |||
471 | 24 | 10 | 哀公、晋と連合して斉を攻める | |||
468 | 27 | 13 | 季康子死去。哀公、孟武伯に追われ越に逃亡、翌年死去 |
『史記』付記
思案中
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