『史記』原文
襄公元年,晉立悼公。往年冬,晉欒書弒其君厲公。四年,襄公朝晉。
五年,季文子卒。家無衣帛之妾,廄無食粟之馬,府無金玉,以相三君。君子曰:「季文子廉忠矣。」
九年,與晉伐鄭。晉悼公冠襄公於衛,季武子從,相行禮。
十一年,三桓氏分為三軍。
十二年,朝晉。十六年,晉平公即位。二十一年,朝晉平公。
二十二年,孔丘生。
二十五年,齊崔杼弒其君莊公,立其弟景公。
二十九年,吳延陵季子使魯,問周樂,盡知其意,魯人敬焉。
三十一年六月,襄公卒。其九月,太子卒。魯人立齊歸之子裯為君,是為昭公。
『史記』書き下し
襄公元年、晋悼公を立つ。往ける年の冬、晋の欒書、其の君厲公を弒す。四年、襄公晋に朝(もう)ず。五年、季文子卒す。家に帛を衣たる之妾無く、廄(うまや)に粟を食らう之馬無く、府(くら)に金玉無く、以て三君を相(たす)く。君子曰く、「季文子廉(かど)ありて忠(まごころ)ある矣(なり)。」九年、晋与(と)鄭を伐つ。晋の悼公、衛於(に)襄公を冠らしむ。季武子従い、相いに礼を行う。十一年、三桓氏分ちて三軍を為す。十二年、晋に朝ず。十六年、晋平公即位す。二十一年、晋の平公に朝ず。二十二年。孔丘生まる。二十五年、斉の崔杼、其の君荘公を弒す。其の弟景公を立つ。二十九年、呉の延陵季子、魯に使いして周の楽を問うに、尽く其の意を知り、魯人敬い焉(たり)。三十一年六月、襄公卒す。其の九月、太子卒。魯人、斉帰之子裯を立てて君と為し、是を昭公と為す。
『史記』現代日本語訳
襄公元年(BC572)、晋で悼公を立てた。その前年の冬、晋の欒書が、その君主の厲公を殺した。
四年(BC569)、襄公は晋へ服従の挨拶に行った。
五年(BC568)、季文子が死んだ。家に絹を着た妾はおらず、うまやに粟を食う馬はおらず、倉に金玉は無く、それで三代の君主を補佐した。ある君子が言った。「季文子にはかど目と真心があるなあ。」
九年(BC564)、晋と鄭を伐った。晋の悼公は衛で襄公に加冠した。季武子がつき従い、互いに礼を行った。
十一年(BC562)、三桓氏が国軍を分けて三軍を編成した。
十二年(BC561)、晋へ服従の挨拶に行った。
十六年(BC557)、晋の平公が即位した。
二十一年(BC552)、晋の平公に服従の挨拶に行った。
二十二年(BC551)。孔丘が生まれた。
二十五年(BC548)、斉の崔杼が、その君主荘公を殺した。その弟の景公を立てた。
二十九年(BC544)、呉の延陵季子が魯に使として来て、周の音楽を教わったが、ことごとく楽曲の表現対象を言い当て、魯の人は敬った。
三十一年六月(BC542)、襄公が死んだ。その九月、太子も死んだ。魯の人は、斉帰の子の裯(トウ/チョウ)を立てて君主とし、これが昭公となった。
『史記』注
BC572 | 襄公1 | 孔子 | 魯・襄公即位 | |
551 | 22* | 1 | 孔子、魯国・昌平郷・陬邑に生まれる。西暦推定日付9/28。父・叔梁紇は70過ぎの武人、母・顔徴在は17の巫女 |
魯・襄公、晋の平公に属国の礼を取りに行く。国政の実権は三桓=三家の門閥家老が掌握 *21年とあるのは『史記』の誤記 |
549 | 24 | 3 | 父亡くなる。母と共に魯の都・曲阜の闕里に移住。母は父の墓所を隠す | |
548 | 25 | 4 | 斉の景公即位 | |
この頃、お作法道具で遊ぶ | ||||
544 | 29 | 8 | 弟子の冉伯牛生まれる。三桓の筆頭・季武子、勢力拡大 | |
542 | 31 | 10 | 弟子の子路生まれる。魯・襄公死去。3ヶ月後に跡継ぎも死去。 |
『史記』付記
原文出典:https://ctext.org/pre-qin-and-han/zh
コメント