論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「非其鬼而祭之、諂也。見義不爲、無勇也*。」
校訂
武内本
唐石経宋本章末也の字あり、正和本嘉暦本なし、縮臨本也の字ある宋本によって補うところ。
定州竹簡論語
[子]曰:「非其鬼而[祭]之,[諂]也。□□□□□□36
→子曰、「非其鬼而祭之、諂也。見義不爲、無勇。」
復元白文
※諂→臽。論語の本章は、也の字を断定で用いているなら、後世の儒者による捏造の疑いがある。
書き下し
子曰く、其の鬼に非ず而て之を祭るは、諂ひ也。義しきを見て爲ざるは、勇無し(…き也)。
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逐語訳
先生が言った。「自分の先祖の霊でもないのに祭るのは、へつらいだなあ。筋の通った行為を行わないのは、勇気がないのだ。」
意訳
よその仏を拝むのはおべっかだぞ。正義を行わない奴には勇気がない。
従来訳
先師がいわれた。――
「自分の祭るべき霊でもないものを祭るのは、へつらいだ。行うべき正義を眼前にしながら、それを行わないのは勇気がないのだ。」
現代中国での解釈例
孔子說:「祭奠別人的先人,是諂媚;遇到符合道義的事不敢做,是懦夫。」
孔子が言った。「他人の先祖の法事をするのは、ごますりだ。正義にかなった事件に出くわして真っ先に行動しないのは、いじけた男だ。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
鬼
(金文)
論語の本章では、角を生やした”オニ”ではなく、”亡霊・祖先の霊”。
『学研漢和大字典』によると象形文字で、大きなまるい頭をして足もとの定かでない亡霊を描いたもの。中国の百科事典「爾雅」に「鬼とは帰なり」とあるのは誤り。魁(カイ)(大きいまるい頭)・塊(カイ)(まるいかたまり)・回(カイ)(まるい)などと同系のことば、という。
詳細は論語語釈「鬼」を参照。
祭
(金文)
論語の本章では”死者の冥福のために宗教的行為をする”。平たく言えば法事をすることで、論語の時代は仏教が中国に入っておらず、開祖のブッダは孔子とほぼ同じ時代のインドに生きた。後年の坊主の役割は、孔子始め儒家の仕事で、弟子も恐らく孔子も、葬儀があると聞くたびに、出かけてお布施を貰って生活した。その意味で孔子在世当時の孔子一門は、珍妙な新興宗教団体だった。孔子とその弟子がカルトだった事実は、論語の読解に書かせない基本情報。
詳細は論語語釈「祭」を参照。また、論語における「礼」も参照。
諂(テン)
(金文大篆)
論語の本章では、こびへつらいの内、相手を落とし穴にはめるようなへつらい。
初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。論語時代の代替文字候補は部品の臽(カン、カールグレン上古音不明・藤堂上古音ɦǎn)。詳細は論語語釈「諂」を参照。
也
考古学的発掘から言えば、論語の時代では断定には用いられず、主語の強調に用いられた。詳細は論語語釈「也」を参照。
義
(金文)
論語の本章では、”筋の通った行為”。詳細は論語語釈「義」を参照。
勇
(金文)
論語の本章では、心が跳ね躍り、湧き上がるような感情。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、甬(ヨウ)は「人+〔音符〕用」から成り、用はつき通す意を含む。足でとんとんと突き通すように足踏みするのを甬(ヨウ)・踊(ヨウ)という。勇は「力+〔音符〕甬(ヨウ)」で、力があふれ足踏みして奮いたつ意。また、衝(まともに直進して突き当たる)とも縁が近い、という。
詳細は論語語釈「勇」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章は、話そのものはいかにも孔子が言いそうなことで、言葉も簡潔なことから、孔子の肉声と思いたい。だがそう断じるのをためらう理由は、「諂」の字が論語当時の金文にさかのぼれない事もさることながら、「也」の用法が句末の断定で、どうにも違和感がある。
”…である”を孔子が言うとき、普通は「矣(已)」を用い、「也」は通常”…については”の接続辞か(「是をも忍ぶ可き也」論語八佾篇1)、句末であれば疑問辞”…か”か(「何の謂いぞ也」論語為政篇5)、”…になる”という動詞として使う(「斯れ害也已」論語為政篇16)。
対して明らかに後世の捏造と分かる有若の説教に、断定の也が多用されているのを指摘できる(「亦た行う可から不る也」論語学而篇12)。また本章は武内本によると、もと「勇」で終わっていたのを、後世の儒者が書き換えた。だから「諂也」の也の字は詠嘆に解した。
それほど訳者にとって、魅力ある言葉だからだ。だが依怙贔屓はいけないだろう。出鱈目を積み重ねた儒者や教授と同じになってしまう。やはり本章には、少なくとも偽造の疑いがある、と言わねばならない。
訳者は論語のこの研究を、原則を明らかにした上で(漢文の示準化石)、誰がやっても同じ結論になるようにしたいと願っている。「俺はこう思う」の猿山のボス猿では無く、PCプログラムのように、アルゴリズムのように、批判も自由だが改良も自由にしておきたい。
論語での義の意味は、漠然と”正しい事一般”を指しており、のちに孟子が仁と結びつけた、仁義の言葉はまだ生まれていない。何が正しい事なのか、論語の中で孔子は定義をしなかった。しかし例えば論語雍也篇26で、井戸に人が落ちたと聞けば、君子は駆けつけると言っている。
また論語雍也篇4では、人の急場を救うのが君子だと言っている。となると孟子が結びつけたように、仁と義は近しい関係にあって、人間が生まれつき備えている憐れみの感情に基づく行為と言えるだろう。つまり時には「身を殺して仁を為す」(論語衛霊公篇9)のが相当する。
自己を犠牲にして他者を救うのが義だとなれば、その裏返しである、他者を犠牲にして自己利益を計るのが不義な行為で、へつらってよその位牌(論語の時代では”神主”という)を拝むのは、結局他人を利用しようとする行為に他ならない。論語の本章はそれを指摘している。
しかしこんなことを訳者がベラベラ書くまでもなく、以上は現代人なら自明の理であるはずだが、孔子がわざわざ説教した背景には、論語時代の社会がよほど救いのない世の中だったことを想像させる。『左伝』の記述に拠れば、戦乱や内乱、暗殺・私闘・謀殺は年中行事だった。
もちろん史料が描くのは、当時の支配層の模様であって、孔子塾に入門してくるような、庶民の様子はほとんど分からない。それを補うのが論語と言うべきで、論語が一読すると非常につまらなく感じるのは、現代と当時の社会の間に、想像しがたい断絶があることを物語る。
つまり井戸に落ちた人を救わぬどころか、落ちるついでに放り出された財布がないかと探すようでないと、生き残れないような地獄だった可能性がある。いくら科学が未発達と言って、平均寿命が30そこそこというのは、よほど厳しい環境と言っていい。
なお「よその仏を拝む」については、論語公冶長篇20も参照。
『論語』為政篇おわり
お疲れ様でした。