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論語詳解002学而篇第一(2)その人と為りや’

論語学而篇(2)要約:孔子と同格の尊称で呼ばれる有若が、君子の心得を説きます。君子らしく生きるためには、まず行動原則を身につけること、それなしでは人生はデタラメに終わること、そして行動原則の基本は従順にあると言います。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

有子曰其爲人也孝弟而好犯上者鮮矣不好犯上而好作亂者未之有也君子務夲夲立而道生孝弟也者其爲仁之夲夲與

校訂

諸本

  • 武内本:釋文云、弟一本或悌に作る。
  • 論語集釋:論語釋文:「弟」,本或作「悌」。下同。 皇本作「悌」。 邱光庭兼明書亦作「悌」。

東洋文庫蔵清家本

有子曰/其爲人也孝悌而好犯上者鮮矣/不好犯上而好作亂者未之有也君子務夲〻立而道生/孝悌也者其仁之夲與

※「犯」字のつくりは「己」。

後漢熹平石経

…鮮矣不好犯上而好作…本本立…道生孝…

定州竹簡論語

(なし)

標点文

有子曰、「其爲人也孝悌、而好犯上者、鮮矣。不好犯上、而好作亂者、未之有也。君子務本。本立而道生。孝悌也者、其仁之本與。」

復元白文(論語時代での表記)

有 金文子 金文曰 金文 其 金文為 金文人 金文也 金文孝 金文弟 金文 而 金文好 金文反 金文上 金文者 金文 鮮 金文矣 金文 而 金文好 金文反 金文上 金文 而 金文好 金文作 金文亂 金文者 金文 未 金文之 金文有 金文也 金文 君 金文子 金文務 金文本 金文 本 金文立 金文而 金文道 金文生 金文 孝 金文弟 金文也 金文者 金文 其 金文仁 甲骨文之 金文本 金文与 金文

※犯→反/仁→(甲骨文)。論語の本章は、「爲」「人」「也」「弟」「鮮」「未」「本」の用法に疑いがある。

書き下し

有子いうしいはく、ひとこのゐやおとのゐや、しかみおかすをこのものは、すくななりかみをかすをこの、しみだれすをこのものは、いまらざる也。君子もののふもとつとむ。もとみちうまる。このゐやおとのゐやなるよきひともと

論語:現代日本語訳

逐語訳


有先生が言った。「その人の性格が孝行者で年下らしく控えめな者で、目上に逆らうことを好む者はめったにいないのである。目上に逆らうことを好まない者で、乱れを起こすことを好む者は未だかつていなかったのである。君子は基本の確立に努める。基本が確立されて、道が生まれる。孝行や年下らしい控えめを身につけた者は、それこそが貴族の基本だろうか。」

意訳

有先生のお説教。「年上に従順な者は、もともと目上に逆らわない。目上に従順な者が、乱暴を働くなど聞いたことがない。貴族にふさわしい自分が確立できないと、貴族に求められる責務を果たすことは出来ないが、ここで確立すべき自分の行動原則とは、敬うべき者に従順になることが基本ではなかろうか。」

従来訳

下村湖人
(ゆう)先生がいわれた。――
「家庭において、親には孝行であり、兄には従順であるような人物が、世間に出て長上に対して不遜であつたためしはめつたにない。長上に対して不遜でない人が、好んで社会国家の秩序をみだし、乱をおこしたというためしは絶対にないことである。古来、君子は何事にも根本を大切にし、先ずそこに全精力を傾倒して来たものだが、それは、根本さえ把握すると、道はおのずからにしてひらけて行くものだからである。君子が到達した仁という至上の徳も、おそらく孝弟というような家庭道徳の忠実な実践にその根本があつたのではあるまいか。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

有子說:「孝敬父母、尊敬師長,卻好犯上的人,少極了;不好犯上,卻好作亂的人,絕對沒有。做人首先要從根本上做起,有了根本,就能建立正確的人生觀。孝敬父母、尊敬師長,就是仁的根本吧!」

中国哲学書電子化計画

有子が言った。「父母に孝行し、先生を敬うのに、目上に逆らいたがる人は、極めて少なかった。目上に逆らうのを好まないのに、騒動を起こしたがる人は、絶対にいない。人格教育はまず根本から始めなければならない。根本があれば、正しい人生観を立てられる。父母への孝行と先生・上司への敬意こそが、仁の根本なのだよ!」

論語:語釈

有子(ユウシ)

孔子の直弟子ということになっている。本名有ジャクあざ名は子有とされる。『史記』弟子列伝では孔子より13、『孔子家語』七十二弟子解では36歳下とある。しかし論語には、有若と孔子の対話が一切無い。孔子に顔が似ていたため、孔子没後一時後継者に据えられたという。

しかし知識に難があったので降ろされたと『史記』弟子列伝にある。

孔子が亡くなった。弟子は思慕のあまり、有若の見た目が孔子に似ていたので、相談して有若を二代目の師匠に据えた。一門が有若を敬う態度は、孔子と同じだった。ある日、ある弟子が有若に問うた。

「昔、孔子先生が謎解きして…と言いました。なぜ孔子先生はこれらが分かったのですか。」しかし有若は黙ったまま、答えられなかった。弟子は立ち上がって言った。「有先生、その座を降りなさい。そこはあなたが座っていい場所ではありません。」

有若について同時代史料は沈黙し、『春秋左氏伝』にかろうじて有若と読めなくもない人物が出るのみ。

(哀公)八年…吳為邾故,將伐魯。…微虎欲宵攻王舍,私屬徒七百人,三踊於幕庭,卒三百人,有若與焉,及稷門之內,或謂季孫曰,不足以害吳,而多殺國士,不如已也,乃止之,

春秋左氏伝 定公五年
哀公八年(BC487)、(前年に)チュ(を攻めたの)を理由に、魯を呉が攻めようとした。…(魯の)微虎が呉王の陣屋に夜襲をかけようとし、家臣七百人を集めて、軍営で三度高飛びをさせて三百人の歩兵を選抜した。有若も加わった/まだ幼い者もいた。

その軍勢が魯の城門から出撃しようとしているのを見て、ある人が筆頭家老の季康子に言った。「あれではとうてい呉と戦うなんて無理です。むざむざ人死にを出すだけです。止めた方がいいです。」季康子はなるほどと思って止めさせた。(『春秋左氏伝』哀公八年2)

孔子一門からは、ゼン有やハン遅などに出陣の記録があるが、みな士=将校として出陣している。有若が有力弟子として実在し、上掲の戦いに動員されたなら、「卒」=雑兵で引っ張られるわけがない。また有若が、微虎の隷属民だった記録も無い。上掲の「有若」は”幼い者もいた”と解するのが、理屈にかなう。

通説がそうでないわけは、宋儒などのハッタリを真に受けたからだ。以下はとある南宋儒と弟子との問答。

曰:「朱子謂有子重厚和易,其然與?」曰:「吳伐魯,微虎欲宵攻王舍,有若與焉,可謂勇於為義矣,非但重厚和易而已也。」

問答
弟子「朱子は有子を重厚かつ柔らかな人と言いましたが、本当ですか?」

王応麟「呉が魯を攻めた時、微虎が呉王の陣屋に夜襲をかけようとして、有若も参加した。正義の味方で勇者と言うべきで、単に重厚かつ柔らかな人ではない。」(『困学紀聞』巻七・論語1)

「正義の味方で勇者」とは。孔子の有力弟子である有若が実在した、との思い込みから、『春秋左氏伝』を誤読するのは仕方がない。だが「あんなひょろひょろ、殺されて終わりだ」と言われた部分には口をつぐんでいる。宋儒のこうしたていたらくについては、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

ともあれ論語の源泉は弟子が各自記した講義メモだから、孔子との対話が確認できない有若は、少なくとも孔子の直弟子とは言えなくなる。最大限好意的に解釈しても、教えを受けてもメモも取らないような、不埒な弟子だったことになる。

あざ名(字とも書く)「子有」の「子」は、教師への敬称。孔子や老子のように、学派の開祖の場合は○子といい、その高弟の場合は子○という。有若が孔子の弟子とされながら、孔子と同格の「有子」と呼ばれるのは極めて異例。

前漢の『史記』は「有若」と記し、「有子」と記した唯一の例外は、上掲した二代目解任劇の「有先生」のせりふ部分のみ。しかも『史記』弟子伝では、27番目というかなり後ろの序列に記されており、司馬遷の認識では、有若はただの孔子の弟子の一人に過ぎない。

さらにあざ名の子有の「有」は、本名である有若の姓と名、いずれかと呼応しているはずで、本来、あざ名とはそうあるべきだだと白川博士は言う。

白川静
卜辞に見える子鄭・子雀は、おそらく鄭・雀の地に封ぜられた王子の称であろう。のち字(あざな)にこの形式を用いるのはその遺法であるが、所領の関係が失われたのちは、名と字義の対待による。仲由、字は子路、路は人の由る所。顔回、字は子淵、淵は回水の意。子は本来王子・公子など、貴族身分の身分称号的に用いられたもので、のち一般の児子にもいう。(白川静『字通』「子」解字)

通常、孔子の弟子は卜商子夏の「商」と「夏」、端木賜子貢の「賜」と「貢」のように、名とあざ名を呼応させる。ところが名の「若」とあざ名の「有」には関連性が無い。ただ姓を取って付けた、取って付けたようなあざ名と言える。詳細は論語の人物:有若子有を参照。

では有若は架空の人物なのだろうか。おそらくそうではあるまい。孔門十哲の一人、冉求子有の別名である可能性がある。詳細は儒家の道統と有若の実像を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。なお「曰」を「のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その人の”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

爲人(イジン)

論語の本章では”ひととなり”。人間の性格を言う。この語義は春秋時代では確認できない。出土物で確認できる初出は戦国時代の竹簡で(「上海博物館藏戰國楚竹書」性情論)、論語の時代に存在しない。漢語は春秋時代まで一字一語が原則で、熟語は存在が疑わしい。

為 甲骨文 為 字解
「爲」(甲骨文)

「爲」の新字体は「為」。初出は甲骨文。原義は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

人 甲骨文 人 字解
「人」(甲骨文)

「人」の初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで下の句とつなげる働きと、「なり」と読んで断定の意に用いている。後者の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

孝(コウ)

孝 甲骨文 孝 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”年下の年上に向けた敬意”。初出は甲骨文。原義は年長者に対する、年少者の敬意や奉仕。ただしいわゆる”親孝行”の意が確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「孝」を参照。

なお論語で語られる孔子の教説では、一方的な孝行の義務を、子や年少者に押し付けていない。孝行をうるさく言い出したのは、孔子没後一世紀のちに現れた孟子からになる。武内義雄「孝経の研究」では、儒教の孝行説教本『孝経』の成立を、孟子派によるものとしている。

弟(テイ)→悌(テイ)

論語の本章では、”年下らしいへりくだった態度”。「弟」字のこの語義は、春秋時代では確認できない。

現存最古の論語の版本である定州竹簡論語、同じく現存最古の古注である慶大蔵論語疏は共に本章全体を欠く。唐石経を祖本とする現伝論語は「弟」と記すが、唐朝廷の都合でそれ以前の文字列がかなり改められている。慶大本に次ぐ古注本に宮内庁蔵清家本があり、そこでは「悌」と記す。これに従い校訂した。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

弟 甲骨文 戈
(甲骨文)

「弟」の初出は甲骨文。字形はカマ状のほこ「」の、かねと木のを結びつけた部分で、原義は紐で順序よく結んで行くことから、順番のさま→”兄に対する弟”の意になった。詳細は論語語釈「弟」を参照。

悌 俤 楚系戦国文字 悌 字解
(楚系戦国文字)

清家本は「悌」と記す。初出は戦国中末期の「郭店楚簡」。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「弟」。初出の字形は「俤」、国字として「おもかげ」と訓読されるが、それとは関係が無い。後漢以降の字形は〔忄〕”こころ”+「弟」で、年下に期待される控えめさを表す。戦国文字より”年下らしい控えめさ”の意に用いた。詳細は論語語釈「悌」を参照。

漢語では同じ文字=言葉が多様な品詞を意味するし、派生義も出来放題なので、”おとうと”が容易に”おとうとらしさ”を意味しうる。

中華文明史上に於ける道徳的言辞は、全て自分ならぬ者にやらせるための虚喝はったりで、決して言った者が実践すべき倫理や道徳ではない。親子兄弟だろうと叩き売るのが中華文明の命じるところで、人生に四五度はある饑饉が来ると、中国人はあっさり他人と子を取り替えて食った

ここで立場を変えて、弱者が黙って叩き売られるのを「孝悌」という。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

好(コウ)

好 甲骨文 好 字解
(甲骨文)

論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。

犯(ハン)

犯 秦系戦国文字 犯 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”刃向かう”。初出は秦系戦国文字で、論語の時代に存在しない。同音に語義を共有する文字は無い。論語時代の置換候補は、近音の「反」。字形は「犬」+「㔾」”うずくまるひと”で、原義はけものをおかすこと。派生義として、”侵害する”・”法に触れる”など。詳細は論語語釈「犯」を参照。

上(ショウ)

上 甲骨文 上 字解
(甲骨文)

論語の本章では”目上”。初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音。原義は基線または手のひらの上に点を記した姿で、一種の記号。このような物理的方向で意味を表す漢字を、指事文字という。春秋時代までに、”はじめの”・”うえ”の他”天上”・”(川の)ほとり”の意があった。詳細は論語語釈「上」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”そういう者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

鮮(セン)

鮮 金文 鮮魚
(金文)

論語の本章では”少ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「羊」+「魚」。生肉と生魚のさま。原義はおそらく”新鮮な”。春秋末期までに、人名、氏族名、また”あざやか”の意に用いた。”すくない”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「鮮」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”(きっと)~である”。初出はおそらく殷代の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

作(サク)

作 甲骨文 作 字解
(甲骨文)

論語の本章では”作る”→”起こす”。初出は甲骨文。金文まではへんを欠いた「乍」と記される。字形は死神が持っているような大ガマ。原義は草木を刈り取るさま。”開墾”を意味し、春秋時代までに”作る”・”定める”・”…を用いて”・”…とする”の意があったが、”突然”・”しばらく”の意は、戦国の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「作」を参照。

亂(ラン)

亂 金文 乱
(金文)

論語の本章では、”騒動”。新字体は「乱」。初出は西周末期の金文。ただし字形は「イン」を欠く「𤔔ラン」。初出の字形はもつれた糸を上下の手で整えるさまで、原義は”整える”。のち前漢になって「乚」”へら”が加わった。それ以前には「司」や「又」”手”を加える字形があった。春秋時代までに確認できるのは、”おさめる”・”なめし革”で、”みだれる”と読めなくはない用例も西周末期にある。詳細は論語語釈「乱」を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”今までにいない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では、

  1. 未之有也。→”それは”という代名詞。
  2. 其仁之本歟。→”…の”という所有格を作る助詞。

初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
「有」(甲骨文)

論語の本章では”いる”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

君子(クンシ)

論語 徳 孟子

論語の本章では、「もののふ」と訓読して”貴族”。

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。「子」は上掲通り、貴族や知識人に対する敬称。

孔子の生前、「君子」は単に貴族を意味したが、孔子没後一世紀の孟子は、「よきひと」”教養ある人格者”のような偽善的意味を創作した。詳細は論語における「君子」を参照。

務(ブ)

務 金文 務 字解
(金文)

論語の本章では、”努める、励む”。初出は殷代末期の金文。「ム」は呉音。字形は頭にかぶり物をかぶった人の背後から、「又」”手”に持ったカマ状のほこ「」で打ちかかるさまで、原義はおそらく”油断する”。春秋末期までに、”努力する”・”気にかける”の意、また人名に用いた。詳細は論語語釈「務」を参照。

「務める」→「つとめる」→「努める」の連想のように、日本語に引きずられたいわゆる「和臭」ではなく、”はげむ”の語義が『大漢和辞典』にも載っている。

本(ホン)

本 金文 本 字解
(金文)

論語の本章では”基本”。初出は西周中期の金文。字形は植物の根元。原義は”ねもと”。ただし春秋末期までにその用例が未発掘。戦国の竹簡になると”もと”の用例が見られる。詳細は論語語釈「本」を参照。

〻
「子〻孫〻」史頌鼎・西周末期

宮内庁蔵清家本は「本」を異体字「夲」と記し、二字目を「〻」と記す。もと小さな「二」で重文(同じ語の繰り返し)を表した記号で、wikipediaによると「二」を重文号に用いたのは殷代に始まるという。訳者が確認した初出は西周早期「㢭白鬲」(集成697)で、「其萬年子〻孫〻永寶用」とある。

立(リュウ)

立 甲骨文 立 字解
(甲骨文)

論語の本章では”確立する”。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行動の原則”。初出は甲骨文。「ドウ」は呉音。字形は「行」”十字路”+「人」で、原義は人の通る”道”。「首」の形が含まれるのは金文から。春秋時代までの語義は”道”または官職名?で、”みちびく”・”道徳”の語義は戦国時代にならないと見られない。詳細は論語語釈「道」を参照。

孔子の生前では、”原則・やり方”という一般的意味があるだけで、道徳的な意味はなかった。そういうめんどうくさいもったい付けをしたのは、孔子没後約一世紀の孟子からになる。

生(セイ)

生 甲骨文 生 字解
(甲骨文)

論語の本章では”生まれる”。初出は甲骨文。字形は「テツ」”植物の芽”+「一」”地面”で、原義は”生える”。甲骨文で、”育つ”・”生き生きしている”・”人々”・”姓名”の意があり、金文では”月齢の一つ”、”生命”の意がある。詳細は論語語釈「生」を参照。

本立而道生

論語の本章では、”自我が確立して、やっと生きるべき道(行動原則)が出来る”。どのような生き方をするにせよ、”自分はこういう人間だ”という自信と確信がない限り、行き会ったりばったりのデタラメな生涯で終わってしまう、ということ。

「道」とは孔子の生前”原則”・”軌道”を意味し、”道徳”を意味しないが、君子たる者は自分の行動原則を持たねばならず、それを備えることが「本立」で、「本立」と「道生」は「而」という、不可分を意味する接続詞で結ばれている。行動原則を備えるから無軌道な生き方にはならず、無軌道に陥らないためには、行動原則を備えなければならないということ。

余談ながら日本語で言う「道徳」と「倫理」は異なっており、「道徳」とは”世間が正しいと言うから従う事柄”であり、「倫理」は”自分が正しいと思うから従う事柄”の意。本章で「本立」すべきなのは倫理であって道徳ではない。

孝弟也者

也 篆書 者 篆書
「也者」(篆書)

ここでの「者」の解釈は二通りあり得、”~である人”という人物、”~であるということ”という状態に解釈が分かれる。

本章のこの部分以外では、人物として解釈出来るが、ここでは状態と考えてもよい。その場合の読み下しは、「孝弟」と、主格の格助詞であるかのように読む。漢文読解では重要な知識なので、ここで挙げておく。詳細は論語語釈「者」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 孟子
(甲骨文)

論語の本章では、”貴族らしい立ち居振る舞い”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

仮に後世の捏造の場合、その意味は孔子没後一世紀に現れた孟子が提唱した「仁義」の意味で、通説通り”常にあわれみの気持を持ち続けること”。詳細は論語における「仁」を参照。

與(ヨ)

論語の本章では”…か”という疑問辞。現在では「歟」とする版本が少なくないが、宮内庁本・唐石経はもとより、現存最古の紙本論語完本である論語注疏や、元禄年間の奥書がある論語集注までは「與」となっており、四庫全書版新注も同様。「」がどこから飛んできたか、よく分からない。

与 金文 與 字解
(金文)

「與」の新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

歟 篆書 歟 字解
(篆書)

「歟」初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。部品の「與」(与)にも”…か”の語義があり、初出は春秋中期の金文。原義は軽く息を吐き出すこと。詳細は論語語釈「歟」を参照。

既存の論語本では吉川本が、「断定を躊躇する助字である」とある。それはその通りなのだが、論語で句末の疑問辞として使うのは、通常「與」(与)(カールグレン上古音zi̯o)・「也」であり、「歟」(カ音zi̯o)が用いられるのは、現伝論語全512章の中でもここだけ。

其爲仁之本歟→其仁之本歟

論語の本章は現存最古の論語本である定州竹簡論語に全体を欠き、唐石経を祖本とする現伝論語は上掲の句に「爲」を含む。東洋文庫蔵清家本は含まない。『漢書』宣帝紀、『後漢書』延篤伝では「爲」を含む版本が見られるが、論語の本章について、東洋文庫本を正せるほど古い版本を知らない。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

前者は「それよきひとのもとたるか」と訓読し、”それが仁の基本になるのだろうか”の意。後者は「それよきひとのもとか」と訓読し、”それが仁の基本か”の意。

論語:付記

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検証

論語の本章は、春秋戦国時代の誰一人引用していない。「君子務本、本立而道生」が再出するのは前漢後期の『説苑』からで、それも有若ではなく孔子の発言とされている。『後漢書』でも『孝経』の冒頭と共に「聖人知之,故曰」とあり(呉延伝10)、孔子の発言としている。

孔子曰:「君子務本,本立而道生。」夫本不正者末必倚,始不盛者終必衰。《詩》云:「原隰既平,泉流既清」。本立而道生,春秋之義;有正春者無亂秋,有正君者無危國,《易》曰:「建其本而萬物理,失之毫釐,差以千里」。是故君子貴建本而重立始。

劉向
孔子は言った。「君子は基本に努める。基本が確立して道が生まれる。」基本が正しくなければ、先端は偏るし、始まりにつまずいた事柄は、哀れにも衰えて終わる。

『詩経』に言う、「ジメジメした湿地帯が平らに乾いて、やっと泉や小川が澄んでくる」と。基本が正しいから道が生まれるのは、季節の移ろいと同じだ。順調に春を迎えたなら、秋も穏やかだ。立派な君主がいる国は乱れない。

『易経』にいう、「基本と万物のことわりを確立せよ。そうでないと目に見えぬ誤差が、先端では千里の違いになって現れる」と。(『説苑』建本1)

『史記』も論語学而篇12「和をもって貴しとなす」と、論語学而篇13「信義に近からば」を有若の言葉として伝えても、本章は伝えていない(『史記』仲尼弟子列伝97)。有若の存在は前漢に知られていても、論語の第二章に据えるような大人物とは思われていなかった。

また現伝の論語の順序が定まるのは、後漢末から南北朝にかけて編まれた古注『論語集解義疏』で、前漢以前に本章が、論語の第二番目に位置していた物証はない。だからといって「ない」を証明する「悪魔の証明」は出来ないが、大物でもない有若がなぜ、と疑問は残る。

前漢年表

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従って論語の本章は、文字史的には論語の時代まで遡れるが、史実性にやや難がある。有若の実在を示す史料が無い事からも、本章を孔子の直弟子である有若の、史実の発言と断じるのは難しい。ただし発言者を有若にこだわらないなら、史実の可能性が高まる。

本章の発言者である有若を、訳者は冉有と同一人物ではないかと睨んでいるが、仮にそうなら、新興軍事士族として門閥の季孫家に仕えて栄達した冉有らしい発言と思える。冉有は孔門の中でも実直な実務家で、主家に忠実で孔子にも師礼をつくした(『史記』孔子世家55)。

それもただのイエスマンではなく、世のためになると思えば言いづらいことを言える剛毅を併せ持っていた。孝悌=身の程をわきまえることが、仁=貴族のたしなみの根本である、という本章の主張は、冉有が言ったとするなら説得力を持つ。

ただし漢字の用法の疑わしさはどうにもならず、史実性には疑問がある。

解説

仮に本章が前漢の時代から論語の第二章だったとすると、次のように考えられる。

前漢までぞんざいに扱われた有若が、論語の第二章という特等席に残ったのは、本章が身分秩序を説くと読めるからで、当時の政治的状況を色濃く反映している。前漢帝国成立直後、孔子級の権威を呼んで来ないと、事あるごとに刃向かう家臣どもを、躾けられなかったからだ。

上在雒陽南宮,從複道望見諸將往往相與坐沙中語。上曰:「此何語?」留侯曰:「陛下不知乎?此謀反耳。」

張良
(高祖劉邦が即位して六年。)高祖が洛陽の南宮に滞在中、回廊からふと庭を眺めると、将軍連中が車座になって、何やら語り合っている。軍師の張良を呼び「何をやっとるのじゃ、あれは」と問うと、張良曰く「オヤご存じありませんでしたか。あれは謀反の相談です。」(『史記』留侯世家)

群臣飲酒爭功,醉或妄呼,拔劍擊柱,高帝患之。

漢高祖劉邦
(漢が天下を取ったが、)家臣どもは大酒を飲んでは「ワシの功績じゃ」「いやワシじゃ」と言い争い、果てには宮殿の柱に斬り付ける始末。高祖劉邦は「何とかしてくれ」と言い出した。(『史記』叔孫通伝)

そこで乗り出してきたのが儒者のシュク孫通ソントウで、儒教の「作法」によって家臣一同を躾けた。ようやくおとなしくなった家臣を見て、劉邦が「皇帝稼業がこんなに楽しくなるとは思わなんだ」と言った(『史記』叔孫通伝)。儒教は帝国のイデオロギーになり始めた。

いわゆる儒教の国教化は武帝の時代で、それを推進した儒者の董仲舒は、司馬遷と同時代人。司馬遷は有若を『史記』の中で、ごく軽く扱ったが、いなかった、とは書かなかった。いないと思っていたとしても、書きたくとも書けなかった。政治的イデオロギーゆえである。

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。

孔子が親孝行と主人への忠義を説いたというのは大いなる誤解で、そうした身分秩序からみれば、社会の底辺から宰相格に成り上がった孔子は大変なはみ出し者と言わねばならない。ごく当たり前の孝行や忠義は説いたかも知れないが、それが「仁之本」だとは思っていない。

しかし新興士族として魯の宰相家・季孫家に数代仕えることで家格を上げ、孔子の元で修養することによって、孔子と同格の「冉子」という称号を得た冉有なら、主君への忠義、年長である孔子への孝行を言い出す理由はあるわけで、この点からも有若=冉有説は補強できる。

小載は侮りがたい冉氏一族を参照。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

有子曰註孔安國曰弟子有若也其為人也孝悌而好犯上者鮮矣註鮮少也上謂凡在已上者也言孝悌之人必有恭順好欲犯其上者少也不好犯上而好作亂者未之有也君子務本本立而道生註本基也基立而後可大成也孝悌也者其為仁之本與註苞氏曰先能事父兄然後仁道可成也


本文「有子曰」。
注釈。孔安国「弟子の有若のことである。」

本文「其為人也孝悌而好犯上者鮮矣」。
注釈。鮮とは少いの意味である。上とは立場が上の者全てを言う。言葉遣いが親の子にふさわしく、また年下にふさわしく控えめな者は、必ず従順で上の者と張り合おうとする者は少ないのである。

本文「不好犯上而好作亂者未之有也君子務本本立而道生」。
注釈。本とは基礎のことである。基礎が固まってその後で何事も完成する。

本文「孝悌也者其為仁之本與」。
注釈。包咸「親や年長者に奉仕出来て、やっと仁の道は達成される。」

孔安国
古注に注釈を付けたのは、おおむね後漢儒だが、本章に見える孔安国は、司馬遷や董仲舒と同時代、前漢武帝期の人物とされる。これだけの大儒でありながら、『史記』には伝記が無く『漢書』にも伝記が無い。両書に名前そのものは見えるが、『史記』には日者伝など後世の書き換えの痕跡があり、『漢書』もまるまる信用するわけにはいかない。決定的なのは記すのをはばかるべき高祖劉邦の名をつかって「邦」と記していることで(論語郷党篇17)、架空の人物とすべきだろう。

中国の「正史」に対する訳者の見解は、論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照。

包咸
また本章の古注に見える包咸は、前漢滅亡から新代を生きた儒者で、儒者には珍しいまじめ人間で、新崩壊期の反乱軍が、あまりにまじめなので遠慮して襲わなかったという伝説がある。

新注『論語集注』

有子曰:「其為人也孝弟,而好犯上者,鮮矣;不好犯上,而好作亂者,未之有也。弟、好,皆去聲。鮮,上聲,下同。有子,孔子弟子,名若。善事父母為孝,善事兄長為弟。犯上,謂干犯在上之人。鮮,少也。作亂,則為悖逆爭鬥之事矣。此言人能孝弟,則其心和順,少好犯上,必不好作亂也。君子務本,本立而道生。孝弟也者,其為仁之本與!」與,平聲。務,專力也。本,猶根也。仁者,愛之理,心之德也。為仁,猶曰行仁。與者,疑辭,謙退不敢質言也。言君子凡事專用力於根本,根本既立,則其道自生。若上文所謂孝弟,乃是為仁之本,學者務此,則仁道自此而生也。程子曰:「孝弟,順德也,故不好犯上,豈復有逆理亂常之事。德有本,本立則其道充大。孝弟行於家,而後仁愛及於物,所謂親親而仁民也。故為仁以孝弟為本。論性,則以仁為孝弟之本。」或問:「孝弟為仁之本,此是由孝弟可以至仁否?」曰:「非也。謂行仁自孝弟始,孝弟是仁之一事。謂之行仁之本則可,謂是仁之本則不可。蓋仁是性也,孝弟是用也,性中只有箇仁、義、禮、智四者而已,曷嘗有孝弟來。然仁主於愛,愛莫大於愛親,故曰孝弟也者,其為仁之本與!」


本文「有子曰:其為人也孝弟,而好犯上者,鮮矣;不好犯上,而好作亂者,未之有也。」
弟と好は、どちらも尻下がりに読む。鮮は上がり調子に読む。以下、論語の全篇にわたって同じ。有子とは孔子の弟子で、本名は若。父母にまめまめしく仕えて孝行し、年長者にまめまめしく仕えて望ましい年少者となった。犯上とは、目上の人に逆らうことである。鮮は少ないの意である。作亂とは、つまり目上に逆らって争いを起こすことである。ここで言っているのは、孝行や年少者らしい態度の人は、必ず心が従順で、目上に逆らう者は少なく、騒動を起こす者も少ないということである。

本文「君子務本,本立而道生。孝弟也者,其為仁之本與!」
與は平らな調子で読む。務は、専念して努力することである。本は、根っこのような意味である。仁とは愛の原理である。心に備える道徳でもある。為仁とは、仁を実践するようなことである。與とは疑問辞であり、謙遜してあえて言い切らない修辞である。ここで言うのは、君子たる者、何事につけ基礎を固めるよう努めるべきで、基礎が固まってやっとその上に立つことが出来る。そうすれば、どう生きるべきかが明らかになる。本章前半で孝弟とあるのが、つまり仁の基礎である。儒学を学ぶ者はこの点に気を付けるべきであり、そうすれば必ず生きるべき道が見つかる。

程頤「孝弟とは、従順の道徳である。だから目上に逆らわないし、どうして道理に逆らってもめ事を起こすだろうか。同時には基礎があり、基礎が固まって道徳が充実する。孝行や年上への奉仕を家で行えて、その後で情けを万物に向けることが出来る。これがいわゆる、親族と親しめば民を憐れむことが出来る、の道理である。だから仁の基礎は、孝行と年上への奉仕なのである。人間の本性を考えても、仁の基礎はやはり、孝行と年上への奉仕なのである。」

ある人「孝行や年上への奉仕が仁の基礎なら、その二つを実践すると仁者になれますか?」
程頤「なれはしない。仁を実践する始まりが孝行と年上への奉仕なのだ。それは仁の一部であって全てではない。二つを行うのを、仁の基礎を行うというのはよいが、仁の根本を行うというのはよくない。おそらく仁とは人の本性で、二つはそれを発揮した結果だから、人の本性は仁、正義、礼儀、知恵の四つに他ならない。この全てが二つの行為から生まれはしない。仁とは愛に基づくものであり、愛は親族を愛するより強力なものはない。だから孝弟とは、仁の本体ではないか、と書いてあるのだ。」

末尾の程頤の説教は、何を言っているか分からないのが正解。ざっと言って、宋儒はオカルトを撒き散らし、世間をびっくりさせてお金をせしめる者どもだった。だから言うこと書くことは、当人も分かっていない場合が多い。詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

正義の一覧表

その社会で、正義と評価される行為の一覧表をイデオロギーという。

だからイデオロギーは多数派原理デモクラシーに従わない限り、ごく少数者が社会の甘い汁を独占するために、それ以外の大勢をたぶからし黙らせるための道具になる。必然的にウソでっちあげ大げさが混じるのだが、それをインチキだと堂々と書けるほど司馬遷は偉くはない。

毛沢東
文革期の中国で毛沢東思想を、現在の北朝鮮で主体思想をデタラメだと言ったら、どんな目に遭うだろうか。古代ならなおさらで、名君と名高き前漢の景帝でさえ、皇太子時代に暇つぶしのいさかいから、親類を双六盤で殴刂殺してもお咎め無し。それが遠因で前漢は滅びかけた。

前漢武帝 論語 司馬遷
いわゆる呉楚七国の乱だが、暴君武帝の機嫌を損ねてナニをちょん切られた司馬遷が、儒者のでっち上げを書けるわけがない。次は斬首に決まっているからだ。李陵を弁護した司馬遷は勇者に見えるが所詮中国の役人で、それを反映して『史記』武帝紀の記述はぼかされている。

対して批判してもぜんぜん怖くないタン台滅明を、「極めてブサイク」とこき下ろしている。詳細は論語雍也篇14余話「司馬遷も中国人」を参照。いわゆる正史だからといって、必ずしも史実が書いてあるわけではない。論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照。

なお武帝時代の国教化は、武帝の趣味でしかなかったから、代替わりすれば事情は全然異なった。事実上武帝のあとを継いだ宣帝は、「儒者という役立たず」と平気で言い放った。毛沢東やスターリンが死んだ途端に、毛批判・スターリン批判が流行ったのと同じ。

光武帝
実際に儒教が国教化するのは、偽善とオカルトの人・光武帝が、後漢を建ててからになる。

後漢年表

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反 金文 反 字解

さて論語の本章で、有若は目上に逆らうことを「犯」と言った。この漢字が春秋時代に存在せず、「反」と記した事は語釈に示した通りだが、この字は差し金(直角定規)を手に取って、材料を加工するさまを示す。つまり「反上」とはわざわざ逆らうことで、不注意は含まれない。

有若が冉有だとする訳者のバクチが当たっているなら、冉有は孔子晩年に魯国の政府で重きをなした行政官で、絵空事の道徳を人に説教して暮らせる楽な境遇になかった。実際執権から税制改革を指示され、その現場仕事で駆けずり回って苦労した話がある。

詳細は儒家の道統と有若の実像を参照。孔子も同様で、絵空事を説いては誰も入門しないし、政治の実践にも差し支える。上掲新注で宋儒がオカルトを言い立てられるのは、世間から甘やかされた官僚だからで、万事他人事としか思っていないから、絵空事を説いて済ませられた。

孔子と同時代の人々が、どのような人格だったか知るには、ずいぶん偽作が混じっていると承知の上で、現伝の『春秋左氏伝』を読むしかないが、太古代ゆえに人類の技術がか細く、自然の猛威に振り回されるしかなかったから、その分人格が純朴で、正直のように思える。

(斉とのいくさに参戦した)若者が、魯国執権の季平子に報告した。

「敵に色白の貴族がいまして、モジャモジャひげにゲジゲジまゆ毛。その人を射貫いたところ、さんざんわめいておりました。」

季平子「そりゃ子彊=陳武子だな。何で首を取らなんだ?」

若者「仮にも貴族です。いきなり首を取るのは無礼と思いまして。」(『春秋左氏伝』昭公二十六年)

斉の景公が東郭書にいくさの褒美を取らせようとすると、こう言って辞退した。「(自分の後ろから敵城に攻め入った)犂弥どのは陣借りのサムライ。稼がせて差し上げねばなりますまい。」結局褒美は犂弥のものとなった。(『春秋左氏伝』定公九年)
(魯の宮殿が火事になった。)執権の季桓子が駆けつけ…消火に当たる者に命じた。「命の危険を感じたら逃げよ。国宝などまた作ればよい。」(『春秋左氏伝』哀公三年)

論語の時代はもちろん身分制社会だが、貴族が威張り返り、庶民をしいたげていたとは限らない。そんな貴族に庶民はそっぽを向くから、貴族は天寿すら全うできないことが多い(論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」)。貴族もまた、危険を庶民と分かち合っていたのだ。

だから無意識に目上の都合に逆らってしまった者を、孔子はとがめはしなかった。有若もまた同様で、わざわざ逆らうようなことをするのがいけないと言ったので、心がけが従順で、目上に奉仕できるなら、それが仁=貴族にふさわしい心のありように近い、と説いている。

つまり本章は庶民や使用人への説教ではなく、これから仁者=貴族として世に出ていこうとする後輩に対して、世間を指導する者の心がけは、実は目上への従順と奉仕にあると説いたことになる。貴族の尊貴にあっても傲慢が許されなかった春秋時代の、人類の無力を表している。

仁はただの情けではない。重ねて、論語における「仁」へのリンクを貼るのを諒解されたい。

参考記事

『論語』学而篇:現代語訳・書き下し・原文
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