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論語詳解246B郷党篇第十(12)康子薬をおくる*

論語郷党篇(12)要約:後世の創作。若家老から、孔子先生に薬を贈ってきました。先生は拝んで受け取った後、「何の薬かよく分かりませんから飲みません」と言って飲みませんでした、という話。ですが春秋時代に「薬」はありません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

康子饋藥拜而受之曰丘未達不敢甞

校訂

東洋文庫蔵清家本

康子饋藥拜而受之/曰丘未達不敢甞之

慶大蔵論語疏

康子饋薬1〔一丂王十〕2而受之/曰丘未達不敢甞3

  1. 新字体と同じ。「幺」→「冫」は「居延漢簡」(前漢)写。
  2. 「拜」の異体字。『碑別字新編』所収「仏説天公経」写字近似。
  3. 「嘗」の異体字。『広韻』(北宋)所収。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

康子饋藥、拜而受之曰、「丘未達、不敢嘗。」

復元白文(論語時代での表記)

康 金文子 金文饋 金文  拝 金文而 金文受 金文之 金文 曰 金文 丘 金文未 金文達 金文 不 金文敢 金文嘗 金文

※論語の本章は、「藥」字が論語の時代に存在しない。本章は秦代以降の儒者による創作である。

書き下し

康子かうしくすりおくる。をがこれけていはく、きういまさとらず、あへてはと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子別像
若家老の季康子が薬を贈ってきた。先生はこれを伏し拝んで言った。「私はまだこの薬をよく知らない。だから進んで飲む気にはならない。」

意訳

季康子 孔子 人形
若家老の季康子が薬を贈ってきた。
むむむむ、悪意はないと思うが…ワシも知らんような薬、果たして飲んだものか…。
「お使者どの、かたじけないが用法が分からぬので頂戴しませぬとお伝え下され。」

従来訳

下村湖人

ある時魯の大夫季康子が先生に薬をおくられたことがあったが、先生は病中拝礼してこれをうけられた。そしていわれた。――
「おいただきしたお薬が私の病気に適するかどうか、まだわかりませんので、今すぐには服用いたしません。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

季康子送藥,孔子拜受了。說:「我對藥性不瞭解,不敢嘗。」

中国哲学書電子化計画

季康子が薬を送った。孔子は拝んで受け取った。言った。「私は薬の性質に明らかでないので、進んで飲もうとは思わない。」

論語:語釈

、「 。」


康子(コウシ)

すなわち季康子。?-BC468。別名、季孫肥。魯国の門閥家老「三桓」の筆頭、季氏の当主、魯国正卿。「季」は”末っ子”を意味する。魯の第15代桓公の子に生まれた慶父・叔牙・季友は、長兄の第16代荘公の重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏にそれぞれ分かれた。季康子はBC492に父・季桓子(季孫斯)の跡を継いで当主となる。この時孔子59歳。孔子を魯国に呼び戻し、その弟子、子貢冉有を用いて国政に当たった。

康 甲骨文 康 字解
「康」(甲骨文)

「康」の初出は甲骨文。春秋時代以前では、人名または”(時間が)永い”の意で用いられた。辞書的には論語語釈「康」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。赤子の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いられた。辞書的には論語語釈「子」を参照。

饋*(キ)

饋 金文 饋 字解
(金文)

論語の本章では”贈る”ことだが、食+貴だから、貴重な食品類を贈ること。論語ではこの郷党篇のみに登場。初出は春秋末期の金文。それより前、西周早期の金文から「歸」(帰)を「饋」と釈文する例がある。字形は「食」+「貴」”贈る”。食べ物を贈ること。”贈る”意での「貴」から、西周早期に「遺」の字が分化した。春秋末期から、”贈る”の意に用いた。詳細は論語語釈「饋」を参照。

電気鉄道では架線だけで十分な電力を送れないから、ほかに「饋電線」を引く。えらく古い言葉を使ったものだ。

藥*(ヤク)

薬 隷書 薬 字解
(隷書)

論語の本章では”くすり”。論語では本章のみに登場。初出は秦代の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「艹」+「樂」(楽)”安らげる”。同音は無い。秦代の医書で”くすり”の意に用いた。詳細は論語語釈「薬」を参照。

慶大蔵論語疏は新字体と同じく「薬」と記す。「幺」→「冫」は「居延漢簡」(前漢)写。

拜(ハイ)

拝 金文 拜 字解
(金文)

論語の本章では”おがむ”。初出は西周早期の金文。字形は「木」+「手」。手を合わせて神木に祈るさま。西周中期の字形に、「木」+”かぶり物をかぶり目を見開いた人”があり、神官が神木に祈る様を示す。新字体は「拝」。春秋末期までに、”おがむ”・”うけたまわる”の意に用いた。”任じる”の用例は戦国時代から。詳細は論語語釈「拝」を参照。

慶大蔵論語疏は異体字「〔一丂王十〕」と記す。『碑別字新編』所収「仏説天公経」写字近似。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

受*(シュウ)

受 授 甲骨文 受 字解
(甲骨文)

論語の本章では”受け取る”。初出は甲骨文。初出の字形は上下対になった「又」”手”の間に「舟」。「舟」の意味するところは不明だが、何かを受け渡しするさま。甲骨文の「舟」は”ふね”ではなく国名。”ふね”と釈文される「舟」の甲骨文は存在するが明らかに字形が違い、ほとんど現行の「舟」字に近い。論語の時代、「授」と書き分けられていない。「ジュ」は慣用音、呉音は「ズ」。春秋末期までに、”受け取る”・”渡す”の意に用いた。詳細は論語語釈「受」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章、「受之曰」では”これ”。清家本の「不敢嘗之」では直前が動詞であることを示す記号で、”まさに…(する)”・”…てしまう”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

丘(キュウ)

丘 金文 孔子

(金文)

孔子の本名(いみ名)。いみ名は目上か自分だけが用いるのが原則で、論語の本章ではつまり自称。文字的には詳細は論語語釈「丘」を参照。

論語の時代、本名は目上だけが呼びうるものであり、例外は自称の場合。本章はそれに当たるが、本名を自称するのは目上に対してへり下るためであり、現代中国の解釈が、必ずしも使者への返事として言っていないのには賛成しかねる。

論語述而篇23で孔子は、弟子に対して自称して「丘」と言っているが、当該の章は漢字の用法に疑問があり、全面的に史実とするには心細い。なおこの本名の由来については、孔子の生涯(1)を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

達(タツ)

達 甲骨文 達 字解
(甲骨文)

論語の本章では”理解に至る”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は↑+「止」”あし”で、歩いてその場にいたるさま。原義は”達する”。甲骨文では人名に用い、金文では”討伐”の意に用い、戦国の竹簡では”発達”を意味した。詳細は論語語釈「達」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

敢(カン)

敢 甲骨文 敢 字解
(甲骨文)

論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”あえて・すすんで”。初出は甲骨文。字形はさかさの「人」+「丨」”筮竹”+「𠙵」”くち”+「廾」”両手”で、両手で筮竹をあやつり呪文を唱え、特定の人物を呪うさま。原義は”強い意志”。金文では原義に用いた。漢代の金文では”~できる”を意味した。詳細は論語語釈「敢」を参照。

嘗(ショウ)

嘗 金文 嘗 字解
(金文)

論語の本章では”服用する”。唐石経・清家本の「甞」は異体字。初出は西周早期の金文。字形は「冂」”建物”+「旨」”美味なもの”で、屋内でうまいものを食べる様。原義は”味わう”。春秋時代までの金文では地名、秋の収穫祭の意に用いた。戦国の竹簡では、”かつて”の意に用いた。詳細は論語語釈「嘗」を参照。


慶大蔵論語疏は異体字「甞」と記す。『広韻』(北宋)所収。

不敢嘗(あえてはなめず)

論語の本章では「あえてはなめず」と読んで”進んでは飲まない”。すき好んで飲みはしない、ということ。「敢不嘗」は「あえてなめず」と読んで、”飲まないことを進んでする”。大いに嫌って飲まない、ということ。ただし上記の通り校訂でおしりに強めの「之」が付いたから、「不敢嘗之」で”すき好んで飲んでしまうようなことはしない”の意。

服部宇之吉
戦前の漢文業界のボス、帝大総長を務めた服部宇之吉は、國譯漢文大成『論語』で「あへてなめず」と、出来のいい中学生ですらやらないようなふざけた読み下しをしている。「不敢」と「敢不」の違いは遅くとも平安時代には分かっていたことで、そうでないとすでに存在した貿易商人は金儲けが出来ない。遣唐使の一員として唐に渡った慈覚大師円仁は、帰りの船便が来ないので新羅人の貿易商に頼んで、唐を密出国して日本に帰った。

円仁没後千年に生まれた宇之吉が、その違いも分からないのは、戦前の漢文読解レベルがいかに低いか、よく分かるというものだ。論語八佾篇16余話「不埒な帝大総長」を参照。

國譯漢文大成『論語』

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に無く、漢語「薬」が論語の時代に存在しない。字は存在するとされるが、”くすり”としての用例が見られない。このサイトではその場合、原則として偽作とせず、用例の疑問として分類してきたが、本章で扱いを変えたのには理由がある。

すなわち、「薬」と「楽」はくさかんむりの有無で判別するが、中国の漢学教授が「薬」と判定した文字のくさかんむりはあまりに僅かな筆画しかなく、しかも「楽」と釈文されている。明らかにくさかんむりが付くのは秦代の篆書からで、それゆえに「薬」の判別そのものに間違いがあると断じた。

また秦の始皇帝はウソには本気で怒る性格だったから、儒者は偽作をばらまける環境になく、本章は漢儒による創作と判断する。

解説

論語の当時、いわゆる漢方薬はまだない。薬学や医学は、「この症状にはあの薬草」といった程度の段階で、むしろ鍼灸の方が体系化が進んでいた。病人の脈や症状を見て、系統だった筋道で薬品を選び、複数を調合して服用するようになったのは、三国時代を過ぎた次の晋王朝からで、論語時代から約800年過ぎたはるか先。ただし名医と呼ばれる人はすでに存在した。

戦国時代まで、「薬」と「楽」はきわめて近く書かれた。つまり言葉として区別されていなかった可能性があるが、上古音は別と推定されている。「薬」の字が遺物として初めて現れるのは、秦代になってからで、それまでの医療には医薬という概念がなかった可能性がある。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

康子饋藥拜而受之註苞氏曰遺孔子藥也曰丘未達不敢嘗註孔安國曰未知其故故不嘗禮也


本文「康子饋藥拜而受之」。
注釈。包咸「孔子に薬を贈ったのである。」

本文「曰丘未達不敢嘗」。
注釈。孔安国「薬に何が入っているか分からない場合、服用しないのが礼法にかなっていた。」

新注は前章と一体化して記している。理由はよく分からない。新注に一つ先行する北宋の邢昺『論語注疏』では分けて記している。新注が一体化させているさまは、日中の版本いずれも同じだから、四庫全書が完成した1782年ごろには、一体化していたらしい。

左:早大蔵、山崎嘉の点、江戸期『論語集註』/右:欽定四庫全書薈要所収新注

ただし日中いずれも、前章と本章にまたがるような注の書き方はしておらず、分けて書いても構わないように見える。実際江戸版は遠慮がちに改行して、なかば分割したように記している。新注が伝承される過程で、版木を彫り損なったか、すり減って分割と誤読されたのが真相ではあるまいか。

問人於它國再問人於它國再 拝而送之
康子饋藥 拝而受之 曰丘未達不敢嘗之

前章と一体化した論理をどうしてもこしらえるなら、「拝而送之」「拝而受之」の対句であるから、としか言いようがない。

新注『論語集注』

康子饋藥,拜而受之。曰:「丘未達,不敢嘗。」范氏曰:「凡賜食,必嘗以拜。藥未達則不敢嘗。受而不飲,則虛人之賜,故告之如此。然則可飲而飲,不可飲而不飲,皆在其中矣。楊氏曰:「大夫有賜,拜而受之,禮也。未達不敢嘗,謹疾也。必告之,直也。」此一節,記孔子與人交之誠意。


本文「康子饋藥,拜而受之。曰:丘未達,不敢嘗。」
范祖禹「目上から口にする者を賜ったときは、全て口にする際に拝む。だが薬でどのような薬なのかまだ分からない場合は、積極的に服用しようとはしない。受け取って服用しないのは、ウソツキがくれたものだからで、だからこのように理由を言った。つまり服用してよいなら服用し、よくないならしないの判断は、薬そのものにある。

楊時「家老がものをくれたら、拝んで受け取るのが礼法の定めである。よく分からないから進んで飲もうとしないのは、あたるのを恐れたからである。だがちゃんと理由を言ったのは、正直と言ってよい。」

この一節は、孔子の他人と交わる誠意を記す。

余話

せいっ、シー

函数

ハトが出ま…あれ?

仮に論語の本章を史実と仮定するなら、政治家としてごく当たり前の用心で、ゆえに内容的な時代錯誤は全くない。孔子は新興の呉国から後ろ盾を得て帰国したが、呉は魯に無茶な要求をした上に攻め込みまでしたから、執権の季康子が孔子暗殺を図っても不思議は無い。

呉の無茶は『左伝』哀公七年現代語訳を参照。流行りのスペースオペラで、作者は主人公に「陰謀で歴史は進まない」と脳天気なことを言わせているが、すこしでもまじめに人類史を調べれば、歴史は陰謀だらけとすぐ分かるはずで、お上品を史実と解するのは間抜けが過ぎる。

なってお金も貰えないのに、すき好んで外国の回し者になる者があとを絶たないように、二言目には人の意見を陰謀論呼ばわりするのは、中国史に関して言えば正史を拝む正史教徒で、宗教だからとうの昔に死んだ正史を書かせた権力者の、パシリを演じていることに気付かない。

過去の時空を再現するには、過去の全宇宙を構成するエネルギーを不足なく用意する必要があり、ゆえに過去は断片が残りはしても、決してそのまま伝わらない。宇宙を構成する要素は時々刻々変化して別モノになったり熱になったりしているが、変化の方程式は分からない。

人が観測できるのは現在のみだからで、望遠鏡を宇宙に向けて過去を覗いた気にはなれても、その光はゆがめられ変化しており、発生時そのままではありえない。ある周波数の光は他に強度と座標の変動が分かるだけ、その姿に変化した理由は多様で、どれが正解かは分からない。

今のところの仮説が立つだけ。それはいつひっくり返るか分からない。それが科学というものだ。人類は電子計算機を発明して、やっと情報の保存にエネルギーが要ることを理解した。つまり熱と化した過去のエネルギーが還元できない以上、過去の情報は決定的に失われている。

熱力学の必然でもある。その物理学に必須の関数を、古くはカン数”箱の数”と書いた。手品と同じで箱の両側に穴が開いており、左から玉を入れると右から別の玉が出てくる。左右は逆でもよく、玉の数まで変わったりする。その箱のからくりを数式で表したから、函数と書いた*。

人間が現在目にしている全ては、無数の函数が働いた結果で、目に見えない原子の挙動に至るまで同じ。だから人間にとっての史実とは、しょせん断片を集めて繕って、少しでも理屈が付きました、という言い訳に過ぎない。ましておおやけの歴史書は、時の権力の都合で曲がる。

権力が勝手に決めつけた「史実」を鵜呑みにするまではまだよいが、正史のみを理由に他人の解釈を批判するのは、パシリの至りというべきだ。マネ猿の身で他人に「なぜマネざる」と説教する者はまさしく猿で、人間に生まれたかいがないし、IT以降の世に生きるかいもない。

中国では王朝が代わると、新王朝は旧王朝の歴史を編纂して「正史」を記す、と一般には言われる。しかしこれはずいぶん時代が下ってからで、南北朝時代に斉の武帝が『宋書』を書かせたのを始まりとする。日本では古墳時代だが、中国ではすでに中世になっていた。

正史順 書名 勅撰・官撰/私撰 編者 成立
1 史記 前漢・司馬遷 紀元前91年
2 漢書 後漢・班固 82年
3 後漢書 南朝宋・范曄 432年
4 三国志 晋・陳寿 3世紀末
5 晋書 唐・房玄齢ほか 648年
6 宋書 南朝斉・沈約 488年
7 南斉書 南朝梁・蕭子顕 6世紀前半
8 梁書 唐・姚思廉 636年
9 陳書 唐・姚思廉 636年
10 魏書 北斉・魏収 554年
11 北斉書 唐・李百薬 636年
12 周書 唐・令狐徳棻ほか 636年
13 隋書 唐・魏徴、長孫無忌 656年
14 南史 唐・李延寿 659年
15 北史 唐・李延寿 659年
16 旧唐書 後晋・劉昫ほか 945年
17 新唐書 北宋・欧陽脩、宋祁 1060年
18 旧五代史 北宋・薛居正ほか 974年
19 新五代史 北宋・欧陽脩 1053年
20 宋史 元・脱脱ほか 1345年
21 遼史 元・脱脱ほか 1345年
22 金史 元・脱脱ほか 1345年
23 元史 明・宋濂、高啓ほか 1370年
24 新元史 民国・柯劭忞ほか 1919年刊
25(24) 明史 清・張廷玉ほか 1739年
清史稿 民国・趙爾巽ほか 1928年刊
中華民国史
(編年体)
社会科学院 2011年刊

『史記』などそれ以前や、南北朝期の史書を「正史」と認定したのはもっと時代が下り、清の乾隆年間である1739年になる。もちろん征服王朝である清帝室にとって都合の悪い史書は選ばれず、選ばれた史書も都合の悪い部分はいじくった。避諱もその一種にほかならない。

例えば論語の古注は、四庫全書では鄭玄を鄭𤣥と書く。康煕帝のいみ名玄燁をはばかったわけ。話を史書に戻せば、『晋書』『隋書』など唐太宗の勅命で編纂された史書は、もとより唐帝室にとって都合よく書かれており、その内容をまるまる史実と解するのは間抜けが過ぎる。

もちろん、史書を編んだ物書きは「せいっ」と一生懸命になって史料を集め、彼らなりにつじつまを付けて記述した。だがその後で必ずしなければならないのは、書き手や校正者を集めて互いに「シー」と言いながら、時の権力に都合の悪いことが書いてないかの点検である。

乾隆帝が正史を定める際、この「シー」が既存の史書にまで遡って行われたのは言うまでもない。ただし「元史」は明太祖洪武帝の勅命によって、モンゴルをとんでもない蛮族だと書きまくっており、それを否定すると清が明の正統な後継者であるという立て前が崩れる。

なぜなら清は明を滅ぼした李自成を滅ぼして中国の主になったから、「蛮族だ」という声に「叛徒を討伐して正統に明を引き継いだのである」と、大砲を向けつつ言い返して黙らせたからだ。しかし清は勃興の過程でモンゴル人を取り込んで大ハーンを名乗っており、モンゴルの長でもあった。

草原の民の間で、チンギス・ハンの偉名は当時なお轟いており、満洲人が勢力を増すには、帝国建設の経験を持ち、かつ武力に優れた隣のモンゴル人を、鄭重に仲間として迎える必要があった。だから清の用いた満州文字は、モンゴル文字を満州語に合うよう、若干変えて使った。

フビライ
つまり『元史』は、清朝にとって都合が悪かった。たとえばフビライは「忽必烈」”すぐに真っ赤になって怒る”と音写されていたのだが、乾隆帝は「呼必賚」”願うと必ず恵む”と一旦書き直させたものの、さすがに世論をはばかって、「忽必烈」を抹消することはできなかった。

左:四庫全書『元史』(1782)/右:武英殿二十四史『元史』(1784)

だがこの事情が伝わるのは、中国史ではごく近年の清代だからで、春秋戦国や論語の史実を求める場合、同様にはいかない。まるで100億光年先の天体を観測するように、ごく僅かの断片が、想像を絶する函数をくぐり抜けて残っているだけである。

最後の清帝国の歴史は、民国時代に国家事業として編纂された。しかし当時の中国人にとって、清代のあれこれはまだ生々しく、権力者には清代の関係者も大勢いた。これでは「シー」のやりようがなく、中華民国が大陸を支配している間では、正史に認定できなかった。

対して遠い時代の『新元史』は新たに認定している。『清史稿』は中共の手によってさらに編集=改変が加わり、たびたび完成の予告が出されたが、2022年になってもまだ正史の認定が下りていない。近年の中共による膨張主義に都合の悪い、「シー」がまだ終わらないらしい。

また中共は国民党を台湾へ追って取って代わったのだから、『中華民国史』を正史としてまとめてもおかしくない。実際、国営事業として社会科学院が『中華民国史』を2011年に出版した。だが正史には加えられていない。事情は民国にとっての『清史稿』と同じ。

すると自分自身が隋代を生きた唐の太宗李世民が、さっさと『隋書』を書かせたのは、ものすごく図々しいと言うべきで、例えば煬帝を「バカで野蛮で助平で残忍」とあらゆる悪口を動員してこき下ろしているが、真に受けるべき話ではとうていない。中共の方がまだつつましい。

あるいは、中共は孫文の正統な後継者であり、袁世凱に続く北洋軍閥政権や、蒋介石以降の国民党政権は、一時的な「ニセモノ」であるとするのだろうか。満州国をしつこく「偽満洲」と言い回っているから、おそらくそうなのだろう。「正史」の心細さを思うべきである。


*函数:ウィクショナリー日本語版・コトバンクに「英語 “function” の中国における訳語である函数 (hanshu) をそのまま輸入したものである」という。百度百科に「是我国清代数学家李善兰在翻译《代数学》(1859年)一书时,把“function”译成“函数”的。」とあるから、日本語は漢語を輸入したとみていい。ただし漢語「函」の字に”機能”・”作用”の意は無く、やはり”はこ”を意識した漢訳英語と解せる。

なおwikipedia関数条には「現代では数の集合に値をとる写像の一種であると理解されるものとなった」という。何を言っているかさっぱり分からないし、分かりたいとも思わない。

『論語』郷党篇:現代語訳・書き下し・原文
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