論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
有子曰禮之用和爲貴先王之道斯爲美小大由之有所不行知和而和不以禮節之亦不可行也
校訂
東洋文庫蔵清家本
有子曰禮之用和爲貴先王之道斯爲美小大由之有所不行知和而和不以禮節之亦不可行也
※「節」字は〔即〕ではなく〔𭅺〕。
後漢熹平石経
…道斯爲美小大由之有所不行知…禮節之亦不行…
定州竹簡論語
(なし)
標点文
有子曰、「禮之用、和爲貴。先王之道、斯爲美。小大由之、有所不行。知和而和、不以禮節之、亦不行也。」
復元白文(論語時代での表記)
※「節」→「𠬝」。論語の本章は、「斯」「爲」「美」「行」「也」の用法に疑問がある。
書き下し
有子曰く、禮之用は、和を貴しと爲す。先ぎし王之道は、斯を美しと爲せり。小も大も之に由るも、行はれ不る所有り。和を知り而和まんとすれど、禮を以い不るに之節さば、亦いは行はれ不る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
有先生が言った。「貴族の常識がよりどころにするのは、調和を重んじることだ。昔の王の(従った)道は、そういう状態を立派であるとした。ささいな事も大きな事もこの調和に基づくが、うまく行かない場合がある。調和を知って調和しようとしても、常識を用いないで(行動に)無理な規制を掛けると、場合によって(調和が)うまくいかないのだ。」
意訳
有先生のお説教。「貴族の常識は、社会に調和を求める精神を基本にする。昔の聖王も、政治で調和を達成できたら、善政だと喜んだ。だが、調和調和と言い回ってもうまく行かない場合がある。それは、調和は目的であり手段ではないのを忘れるからで、手段は貴族の常識に従って判断しないと、調和追求そのものが台無しになる。」
従来訳
有先生がいわれた。――
「礼は、元来、人間の共同生活に節度を与えるもので、本質的には厳しい性質のものである。しかし、そのはたらきの貴さは、結局のところ、のびのびとした自然的な調和を実現するところにある。古聖の道も、やはりそうした調和を実現したればこそ美しかったのだ。だが、事の大小を問わず、何もかも調和一点張りで行こうとすると、うまく行かないことがある。調和は大切であり、それを忘れてはならないが、礼を以てそれに節度を加えないと、生活にしまりがなくなるのである。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
有子說:「禮法的運用,以和為貴。這是最美好的傳統,適用於一切事情。但僅知道『和為貴』是不行的,違反禮法而講『和』是絕對不行的。」
有子が言った。「礼法の実践は、仲良きことを重んじる。これは最もうるわしい伝統で、全ての事柄に当てはまる。ただし、仲良しの重視を知りながら実行しない場合に限り、礼法にそむくし、仲良しの重視には絶対にならないのである。」
論語:語釈
有子(ユウシ)
論語の本章では、孔子の弟子とされる有若のこと。本章では有子=有先生と、孔子と同格の敬称で呼ばれている。実在性に疑いがある。詳細は論語の人物:有若子有を参照。
なお有若は孔門十哲の一人、冉求子有の別名である可能性がある。詳細は儒家の道統と有若の実像を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。なお「曰」を「のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
禮(レイ)
(甲骨文)/(篆書)
論語の本章では「よきつね」と訓読して”貴族の常識”。礼儀作法「ゐや」はその一部。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
孔子より前の時代では、周王や諸侯が行う祖先祭・天地祭を意味したが、孔子は貴族にふさわしい立ち居振る舞いの総称として「禮」を用い、弟子に教えた。つまり孔子の発明品。
礼は孔子塾の必須科目(六芸)の一つでありながら、論語の時代では教科書が作れなかったらしく、それらしきものが姿を整えるのは、孔子没後500年ほど過ぎた漢代から。もっとも、それ以前から教科書はあったが、始皇帝の焚書にあって焼かれたと儒者は言っている。
現在では『儀礼』『礼記』『周礼』の三書が伝わるが、いずれも論語時代の「礼」ではない。だが孔子の言う礼も、当時の常識からあまりに懸け離れて、もったいぶった作法だった。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章「禮之用」「先王之道」では”~の”。「小大由之」では指示代名詞”これ”。「不以禮節之」では直前が動詞であることを示す記号で意味内容を持たず、あえて訳すなら”まさに”。
字の初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
用(ヨウ)
(甲骨文)
論語の本章では”たよる”→”根拠にする”。初出は甲骨文。字形の由来は不詳。字形の由来は不詳。ただし甲骨文で”犠牲に用いる”の例が多数あることから、生け贄を捕らえる拘束具のたぐいか。甲骨文から”用いる”を意味し、春秋時代以前の金文で、”~で”などの助詞的用例が見られる。詳細は論語語釈「用」を参照。
和(カ)
(金文)
論語の本章では”調和”。初出は春秋末期の金文。字形は「禾」”イネ科の植物”+「口」。「和」と「禾」は上古音同じ。原義は食糧が十分行き渡ったさま。「ワ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。詳細は論語語釈「和」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”~であると決める”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
貴(キ)
(金文)/(晋系戦国文字)
論語の本章では”とうとい”。初出は西周の金文。現行字体の初出は晋系戦国文字。金文の字形は「貝」を欠いた「𠀐」で、「𦥑」”両手”+中央に●のある縦線。両手で貴重品を扱う様。おそらくひもに通した青銅か、タカラガイのたぐいだろう。詳細は論語語釈「貴」を参照。
漢字の「貝」をタカラガイと解し、”財産”を意味しうる多くの漢字に「貝」が含まれているが、孔子の生前に貝が通貨として利用された根拠は乏しく、ただし甲骨文の時代から褒美として与えられた記録はあるから、宝石の一種として扱われたと思われる。定型金属貨幣の存在も確認できず、貨幣史の専門家の歯切れもすこぶるよくない。
禮之用和爲貴
論語の本章では、「禮」”貴族の常識”「之」”が”「用」”根拠とするのは”、「和」”調和が”「貴」”価値のあるもの”「爲」”になることだ”。次の句と対を為す句で、同じ構造だと考えるのに道理がある。
禮之用 ”貴族の常識が根拠にするのは” |
和爲貴 ”調和が尊いと認める事だ” |
先王之道 ”昔の聖王が従った道は” |
斯爲美 ”(そういう)環境をよいと認めた” |
「禮」に権威が与えられるのは、調「和」、すなわち社会の平和と安定を達成するからで、だから政治に携わるべき君子の「禮」は、「和」を目的としなければならない、ということ。
先(セン)
(甲骨文)
論語の本章では”いにしえの”。初出は甲骨文。字形は「止」”ゆく”+「人」で、人が進む先。甲骨文では「後」と対になって”過去”を意味し、また国名に用いた。論語の時代までの金文では、加えて”先行する”を意味した。詳細は論語語釈「先」を参照。
王(オウ)
(甲骨文)
論語の本章では”王”。初出は甲骨文。字形はまさかりの形で、軍事権や司法権の象徴。殷代の遺蹟から実用品ではない威嚇用のまさかりが出土しており、実用品としては隕鉄を鍛造した刃に青銅のガワをかぶせた、高度な技術品が出土している。詳細は論語語釈「王」を参照。
「先王」続けて読むときには「センノウ」と読む習慣がある。「先王」は昔の王でも、とりわけ聖天子とされる堯や舜や禹、殷の湯王や周の文王・武王を指す。「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
『大漢和辞典』では次の通り。
文王・武王・湯王はともかく、それ以前の聖天子は歴史学で存在が否定され、後世の創作と確定している。『史記』の記述もこれら神話上の人物については、極めて回りくどく言葉も難解で、いずれラノベを書くのなら、もう少しましな書きようが無かったのかと言いたくなる。
孔子でさえそうした神話を読んで、一体何をやったんだろうといぶかしんだことにされている(論語泰伯篇18など)。これら聖王という妄想に疑問を投げかけた記録があるのは、弟子の中では何かと評判が悪いが、頭がよく古代人らしからぬ合理主義を持った、宰我だけとされる。
宰我問於孔子曰:「昔者予聞諸榮伊,言黃帝三百年。請問黃帝者人邪?亦非人邪?何以至於三百年乎?」孔子曰:「予!禹、湯、文、武、成王、周公,可勝觀也!夫黃帝尚矣,女何以為?先生難言之」
宰我「黄帝は三百歳も生きたなんて、そりゃ人ですか、それとも何か妖怪のたぐいですか。」
孔子「こうらぁ~! このバチあたりがッ!」(『大載礼記』五帝徳篇)
孔子の生前に黄帝はまだ創作されていなかったことから、この記述は後世の創作だが、「先王」を”いかがわしい”と感じる者が皆無ではなかったことを想像させる。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”原則”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。
論語では多様な意味を持たせており、全てに道徳的・思想的意味が含まれてはいない。多くの場合は”やり方・方法”であって、”人の道”とかいった説教くさい意味ではない。
斯(シ)
(金文)
論語の本章では「きは」と読み、”状態”の意。「和が貴い」という良識が通用する文化的状況を指す。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。
美(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”よい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はヒツジのかぶり物をかぶった高貴な人。春秋時代までは、人名や国名、氏族名に用いられ、”よい”・”うつくしい”などの語義は戦国時代以降から。甲骨文・金文では、横向きに描いた「人」は人間一般のほか、時に奴隷を意味するのに対し、正面形「大」は美称に用いられる。詳細は論語語釈「美」を参照。
小(ショウ)
(甲骨文)
初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。
大(タイ)
(甲骨文)
初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形は人の正面形で、原義は”成人”。春秋末期の金文から”大きい”の意が確認できる。詳細は論語語釈「大」を参照。
由(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”理由”→”従う”。初出は甲骨文。字形はともし火の象形。「油」の原字。ただし甲骨文に”やまい”の解釈例がある。春秋時代までは、地名・人名に用いられた。孔子の弟子、仲由子路はその例。また”~から”・”理由”の意が確認できる。”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡からという。詳細は論語語釈「由」を参照。
平芯の石油ランプが出来るまで、人間界では陽が落ちると事実上闇夜だったから、たしかに灯火に”たよる・したがう”しかなかっただろう。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”…するところの…”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行う”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
所不行
論語の本章では「所の行はれざる」と訓読し”実行されない項目”。中国語は殷代から現在まで一貫してSVO型の言語だから、本来は「不行所」となるべきところ。ただしこれまた殷代の甲骨文からの文法で、動詞に否定辞を伴う場合は間接目的語(「~に」が付けられる語)が前に来る。
帝我に其の祐を受け不らんか。(「甲骨文合集」6272.2)
「受」の間接目的語である「我」が前に出ている。これが殷周革命の混乱で文法がかき混ぜられたようで、「所不行」のように直接目的語まで、しかも「不」の前に出る例が現れた。この結果、漢文の「不」は確かに否定辞なのだが、動詞の一種”~でない”と理解した方が漢文を読みやすい。
なおこれまた古代より、「黑社会」”ヤクザ業界”のように、中国語は修飾語→被修飾語の語順だが、現代中国語では「的」を用いる場合逆転する。「习的好」(習的好)”よく学ぶ”がその例。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…しながら”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いて”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
節(セツ)
「節」(金文)
論語の本章では”管理する”。初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。”制御する”・”制約する”の語義では、「𠬝」が論語時代の置換候補となる。同音は存在しない。原義は”竹の節”。詳細は論語語釈「節」を参照。
不以禮節之
論語の本章では、「禮」”貴族の常識”を「以」”用い”「不」”ないで”「之」”むりやり”「節」”規制”する。
通説では「れいをもってこれをせっさざらば」と訓読するが、「せっす」って何ぞヒワイな意味でもあるんかいのうと言いたくなる。それはともあれ「不」の影響範囲(管到)を句末まで及ぶとして読むのだが、「不」は本来直後の動詞を否定する否定辞(事実上の助動詞)だから、「不以禮」で一句とみる方が単純になる。
「之」は指し示す内容が以前に無いので指示代名詞ではなく、直前の動詞を強調する副詞の一種。本章では”まさに”→”無理やり”。
「ここではきものを脱いで下さい」のように、管到をどこまでと判断するか、言い換えると漢文をどこで区切って読むかは、結局文が合理的に判読できるのに従うしかないのだが、それを「誰それがこう言ったから」を理由に決めるのは、自分から古人の奴隷になりにいくというものだ。
漢文についての古人の出任せは甚だしく、盲信は間抜けにしかならないからやめた方がいい。
亦(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”あるいは”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。甲骨文の頃より”…もまた”の語義を持った。本章の場合、「亦」は「又」に通じ、「又」は「有」に通じたもので、このように時代が下るにつれ、多くの漢字が多義語化していった。詳細は論語語釈「亦」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
唐石経にはこの字を記し、古注も同様だが、定州竹簡論語は無く、漢石経は欠く。この字は南北朝時代以降に付け足されたことになる。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は定州竹簡論語に無く、「和爲貴」は前漢の『礼記』まで、「先王之道」の言い廻しは論語ではここだけで、再出は『孟子』。それ以外の言葉は前漢の『史記』弟子伝で本章が再録されるだけで、儒家や他学派の誰一人引用していない。
文字史的には春秋時代まで遡れるものの、用法や発言者の実在に難があり、孔子の直弟子である有若の、史実の発言と考えるのは難しい。学而篇にある有若の他の言葉を、前漢後半の劉向などが孔子の発言としているのは、それなりに理由あってのことと思われる。
解説
2023年現在、中共の国家主席は習近平で、その政治スローガンは「和諧」”調和”。街角や高速鉄道の前面にでかでかと貼り付けられているが、「和を知りて和まんとすれども、行はれざる」ようだ。しかも共産政権の「禮」”常識”に従おうとしても、とうの昔に社会主義を放棄している。
だから「禮」によって役人や人民の行動を「節」そうとしても「行はれ」るわけがなく、結局「禮」→イデオロギーとは関係ない伝統芸能、強権支配によって社会を「節」すしかない。その強権が国外にまではみ出し、すわ台湾有事かと関係各国を怯えさせたり軍拡に走らせたりしている。
論語の本章で有子が言ったのは、政治に携わる春秋の君子は、政治が達成すべき目的は調和の実現であるのを前提としつつ、手段まで調和にこだわってはうまくいかない、手段は「禮」”貴族の常識”に従うべきだということで、後にこの思想は『中庸』本に含まれることになる。
中庸とは”かたよりの無いこと”で、論語堯曰篇1の「允に其の中を執れ」にも現れている。だが漢儒の作文である『中庸』をいくら読んでも、政治に片寄りを無くすことは出来ない。書き手はもっともらしい説教を重ねるだけで、確率統計も中央値もまるで知らなかったからだ。
そして政治は、結果を常に未来から評価される。人は過去の平均値や標本の偏差値を知ることは出来るが、「千年に一度の大雨」が降ったりすれば、苦労して築いた堤防が切れたりして「行政の失敗」を糾弾される。糾弾されないためには結果がどうあろうと強権で黙らせればいい。
だから世界各地はとりあえず強権支配の時代を通過した。中国は今なお通過中で強権支配のままである。対して論語の本章に現れた春秋時代は、強権支配をしようにも技術力が足りず、人をまとめて牢に放り込みでもしたら、作付けに悪影響が出て貴族まで餓えることになる。
西欧のペスト流行で人口が激減した結果、農奴が貴重になって解放が進んだのは高校教科書的知識で、同様に春秋の君子=貴族は家臣や領民にそっぽを向かれると、確実に地位は失うし、多くは天寿を全うできない。孔子の主君は二人が国外追放されたし、斉国公は4割が不自然死している。
誰もが餓えない世界が、春秋の君子にとっても「和」の達成だったが、達成したことにしてしまう強権支配は出来なかったから、まじめに「和を知りて和む」のを目指すしかない。しかも誰にも中庸は分からないから、ときどきの判断は「禮」、”貴族の常識”で行うべきだと有子は言ったわけ。
有子とはおそらく孔子の有力弟子だった冉有のことだが、冉有は宰相家の執事として、鉄器と弩(クロスボウ)出現以降の世の中に合わせるべき税制改革の実務を担った。もちろん増税になる人々もいて、それらからは調和とは言えないが、結果として公平な税制が敷ければ、全体の調和にはなる。
論語の本章で言及されている「禮」(礼)は、礼儀作法だけでなく、広く春秋の君子=貴族にとっての常識を含む。春秋の君子はまず戦士であり、そして政治家や官吏だった。君子の行う所作だけを身につけたのでは、孔子塾生は目指す貴族に成り上がれない。
孔子塾とは、鉄器や小麦の普及、弩(クロスボウ)の実用化によって変動を始めた春秋時代にあって、社会の底辺から身を起こし宰相格に上り詰めた孔子が、多くは平民の弟子を集めて貴族にふさわしい技能と教養を身につけさせ、仕官させて成り上がらせるための場だった。
その貴族にふさわしい教養の一つとして「礼」があるわけだが、その目指すところは調和にある、と本章で有若は言う。しかし調和にこだわるとそれはただのなれ合いになったり、締まりの無い徒党を組むことになりかねない。だからそこを「礼」で取り締まれと有若は言う。
ここから「礼」が、ただの礼儀作法や儀式の式次第だけではなかったことが読み取れる。そうした形式的な行動原則は確かに礼の一部ではあるものの、締まりの無くなったなれ合いを、仰々しい作法で取り締まれる訳もない。求められるのは、その場にかなった良識だった。
つまり場の雰囲気を読み取り、その場にいる者に「なるほど」と納得させるような行動原則のことで、これは「べからず集」などの文字には出来にくい。それを学ぶには、孔子の近くからその行動を観察して見習うほかないわけで、その習得は学習より稽古に近い。
つまり芸事の一種であり、生身の孔子そのものが教科書だった。従って孔子が世を去ると失伝する性格のものであり、後世に伝わった「礼」というのは、文字に記し得た礼儀作法や式次第やしつらえの設計のみで、孔子生前の「礼」の一部は伝えても、大部分を伝え損ねた。
仮に孔子が万年の寿命を得たとしても、その「礼」は変化せざるを得なかっただろう。何せその場に合わせた行動の最適解が「礼」なのだから、場所や時間が違い、目の前の人々が違えば、似たような場面でも違う切り返しを行わねばならない。それはあるいは無軌道に見える。
だがそうではないと、本章で有若は言う。目指すのは確かに調和であり、無軌道に陥りがちな「礼」の唯一の指針だと言う。これではまるで循環論理だが、戦場や政策論議や外交交渉に臨まねばならない春秋の君子にとって、「礼」は臨機応変であるべきものだった。
戦場で敵が剣を振り下ろしたとき、引いて下がるか横にそらすか迫撃するかは、稽古や実戦の数をこなした者でないと分からない。通信教育で武道の段位を取っても笑い物にしかならないように、「礼」もこなした数がものをいう。身に付いた反射的な行動が、死活を決める。
ゆえに儒学を座学と勘違いした後世の儒者には、「礼」が理解出来なかった。読者諸賢と師範先生方にご免被り、武道にたとえるなら、とっさに相手の間合いに入って拳固で鼻柱を潰せば、どんな達人でも悶絶する。ものすごく怖くとも「入身」できるかは、武の一つの峠だ。
余話
知行合一
なお論語の本章について、上掲、現代中国での解釈は、何を言っているのだろうか。
これはつまり、知っていることを実行しなければ何にもならない、と言っている。「先王之道」とかいう曖昧模糊とした概念をつまみ出している点は合理的と言ってよく、それは同時に、世襲君主制を廃し科学を名乗る非世襲君主制の共産主義独裁政権下での解釈に、まことにふさわしい。
これはあるいは、「知行合一」(分かっているならさっさとやれ。やらないのは出来ない・知らないのと同じだ)を主張した、明の王陽明の解釈を引き継ぐものかも知れないが、今はその典拠を見つけられない。少なくとも朱子の書いた新注までは、知行合一的に解釈していない。
…承上文而言,如此而復有所不行者,以其徒知和之為貴而一於和,不復以禮節之,則亦非復理之本然矣,所以流蕩忘反,而亦不可行也。
〔和が貴いという〕文の前半を受けて、このように「それでは行われない場合がある」と言っているのは、無駄に和を尊んでそればかり気にし、礼法でけじめを付けないでいると、とりもなおさず礼法本来の意義が失われ、ちゃらんぽらんになってしまい、何の役にも立たなくなってしまう、という意味だ。(『論語集注』)
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