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論語詳解131雍也篇第六(14)なんじ人を得*

論語雍也篇(14)要約:性格のやや如何わしい子游シユウが、遠いまちの代官になります。住民の信頼を得ただけかね、と問う孔子先生のお話ですが、本章は古来誤読されて、実在しない人物を生み出す事になったかもしれない、と思われる一節。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子游爲武城宰子曰女得人焉耳乎曰有澹臺滅明者行不由徑非公事未甞至於偃之室也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子游爲武城宰/子曰汝得人焉耳乎哉/曰有澹臺滅明者行不由徑非公事未甞至於偃之室也

  • 「徑」字:〔一巛〕→〔爪〕

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子游爲武城宰。子曰、「汝得人焉耳乎哉。」曰、「有澹臺滅明者、行不由徑。非公事。未嘗至於偃之室也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文游 金文為 金文武 金文城 金文宰 金文 子 金文曰 金文 女 金文得 金文人 金文耳 金文乎 金文哉 金文 曰 金文 有 金文沈 金文臺 甲骨文滅 金文明 金文者 金文 行 金文不 金文由 金文巠 金文 非 金文公 金文事 金文 未 金文嘗 金文至 金文於 金文偃 金文之 金文室 金文也 金文

※澹→沈・臺→(甲骨文)・徑→巠。論語の本章は「焉」の字が論語の時代に存在しない。ただし省いても文意は変わらない。「耳」「乎」「者」「由」「公」「事」「未」「嘗」「之」「也」の用法に疑問がある。本章は少なくとも、戦国時代以降の儒者による改変がある。

書き下し

子游しいう武城ぶじやうさとをさり。いはく、なんぢひとのみ乎哉いはく、澹臺たかだいるもめききほろぼくにたてみちればなり。公事おほやけごとあらずと。いまかつえんむろいたらざるなり。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子游
子游シユウが武城の代官として赴任した。先生が言った。「お前は人を得たただけか。」子游が言った。「高台からものが見えないのは、真っ直ぐな筋を通さないからだ。それは公務ではありません。まだ私の部屋に来た者はいません。」

意訳

子游が武城の代官として赴任した。孔子は弟子を連れて子游を訪ねた。(住民の奏でる、みやびな音楽が聞こえてきた。)

孔子「お前はこうやって、町人が言うことを聞くように仕向けただけかね?」

子游「私はこういうことを聞いています。代官という高台の地位に登っても、人々をありのままに見られないのは、真っ直ぐにものを見ようとしないからだ。それは公務を果たすのにふさわしくない、と。だから私の執務室に、誰かひいきの者を呼び入れたことはありません。」

従来訳

下村湖人
子游(しゆう)武城(ぶじょう)の代官をつとめていたが、ある時、先師が彼にたずねられた。――
「部下にいい人物を見つけたかね。」
子游がこたえた。――
澹臺滅明(せんだいめつめい)という人物がおります。この人間は、決して近道やぬけ道を歩きません。また公用でなければ、決して私の部屋にはいって来たことがございません。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子游為武城市長。孔子說:「你在那得到了人才嗎?「有個叫澹臺滅明的人,一貫走正道,沒有公事,從不到我家裏來。」

中国哲学書電子化計画

子游が武城の市長になった。孔子が言った。「お前はここで人材を得たか。」「澹台滅明という人がいて、一貫して正道を歩き、公務が無ければ、私の家に来ません。」

論語:語釈

子游(シユウ)

論語 子游

孔子の弟子。子によって文学の才と礼法の実践を評価され、孔門十哲に加えられた一人(孔門十哲の謎)。その実、師の孔子が来ると知って住民にヤラセをやらせ、孔子没後は金儲けに開き直って冠婚葬祭業界の親玉になるなど、如何わしい男だった。詳細は論語の人物:「言偃子游」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。論語の時代、貴族や知識人への敬称に用いた。原義は産まれたばかりの子供の姿。詳細は論語語釈「子」を参照。

游 甲骨文 游 字解
「斿」(甲骨文)

「游」は”水の上にプカプカ浮かんで遊ぶ”・”どこかへ行く”こと。初出は甲骨文。ただし字形は「ユウ」で、「遊」と共有。子が旗を立てて道を行くさまで、原義は”遊びに出ること”。現行字体の初出は春秋早期の金文。さんずいが加わって、”水で遊ぶ”こと、すなわち”水泳”を意味した。上古音の同音は「」。金文では”遊ぶ”を意味し、戦国の竹簡では原義で用いられ、漢代の帛書では「流」の字で”泳ぐ”を意味したという。詳細は論語語釈「游」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”する”→”なる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

武城(ブセイ)

論語の本章では、魯国南方の都市。「城」→「ジョウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。ただし「武」も呉音で読むなら「フジョウ」。武城が「南武城」とも呼ばれるのは、当時東方へ侵攻中の晋国が、黄河北岸の武城というまちを領していたから。

なお漢文でも現代中国語でも、「城」は”まち”を意味し、いわゆる”お城”ではない。中国のまちは城郭都市から始まり、それを邑と呼び、また城と呼んだ。

武 甲骨文 師 字解
「武」(甲骨文)

「武」の初出は甲骨文。字形は「戈」+「足」で、兵が長柄武器を執って進むさま。原義は”行軍”。甲骨文では地名、また殷王のおくり名に用いられた。金文では原義で用いられ、周の事実上の初代は武王とおくりなされ、武力で建国したことを示している。また武力や武勇を意味した。加えて「文」の対語で用いられた。詳細は論語語釈「武」を参照。

城 甲骨文 城 字解
「城」(甲骨文)

「城」の初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音。字形は「高」”物見櫓”二つ+「○」”城壁”+「成」”カマ状のほこ+斧”で、武装した都市国家のさま。原義は”まち”。春秋末期までに”まち”、また人名に用い、戦国の金文では”城壁”の意に用いた。詳細は論語語釈「城」を参照。

宰(サイ)

宰 甲骨文 宰 字解
(甲骨文)

論語の本章では”代官”。初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「ケン」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。論語時代では一家を治める”執事”や、都市の”代官”を意味した。孔子が初めて就いた行政職も、「中都宰」だった。また大きな行事の取り仕切り役も「宰」と呼ばれた。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

女(ジョ)→汝(ジョ)

論語の本章では”お前”。唐石経は「女」と記し、清家本は「汝」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語は通例「女」と記すが、本章全体を欠いている。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。これに従い「汝」へと校訂した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

汝 甲骨文 汝 字解
「汝」(甲骨文)

「汝」の初出は甲骨文。字形は〔氵〕+〔女〕で、原義未詳。「漢語多功能字庫」によると、原義は人名で、金文では二人称では「女」を用いた。そのほか地名や川の名に用いられた。春秋時代までの出土物では、二人称の用例は見られない。詳細は論語語釈「汝」を参照。

女 甲骨文 常盤貴子
「女」(甲骨文)

論語の本章は定州竹簡論語に無いが、その他章に「汝」は見られず、全て「女」と記す。初出は甲骨文。字形はひざまずいた女の姿で、原義は”女”。甲骨文では原義のほか”母”、「毋」として否定辞、「每」として”悔やむ”、地名に用いられた。金文では原義のほか、”母”、二人称に用いられた。「如」として”~のようだ”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「女」を参照。

得(トク)

得 甲骨文 得 字解
(甲骨文)

論語の本章では”資質を身につける”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”住民の信用”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「たり」と読んで、”し終えた”を意味する完了のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞や完了・断定の言葉と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、その用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうるし、完了・断定の言葉は無くとも文意がほとんど変わらない。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

耳(ジ)

耳 甲骨文 耳 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…しただけ”。限定を意味する。この用法は春秋時代では確認できない。「耳」の初出は甲骨文。初出は甲骨文。字形はみみを描いた象形。原義は”みみ”。甲骨文では原義と国名・人名に用いられ、金文でも同様だったが、”…のみ”のような形容詞・副詞的用法は、出土物からは確認できない。詳細は論語語釈「耳」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…か”。文末・句末におかれ、疑問の意を示す。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠歎の意を示す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

乎哉(か)

唐石経は「哉」を記さず、清家本では「哉」を記す。現存世界最古の論語の紙本、宮内庁蔵南宋版『論語注疏』では、句末は「乎」で終わり「哉」を欠く。これは唐石経の系統を引いているからと判断できる。定州竹簡論語の他章には「乎哉」の用例があるので、「哉」があるものとして校訂した。

『学研漢和大字典』によると、二文字で「かな」「か」「や」と訓読し、以下のように解している。

  1. (カナ)感嘆の気持ちをあらわすことば。「賜也賢乎哉=賜也賢なる乎哉」〔論語・憲問〕
  2. (カ)疑問の気持ちをあらわすことば。「若寡人者、可以保民乎哉=寡人(かじん)の若(ごと)き者は、もって民を保(やす)んず可きかな」〔孟子・梁上〕
  3. (ヤ)反問の気持ちをあらわすことば。「仁遠乎哉、我欲仁、斯仁至矣=仁は遠からんや、我仁を欲すれば、斯に仁至る」〔論語・述而〕

女得人焉耳乎哉

論語の本章は「焉」の読み方によって解釈が大きく異なる。「焉」は語末・句末では断定を意味し、句頭では疑問を意味する。伝統的な論語解釈は、断定として解する。

なんぢひとたるのみ乎哉(お前は人を得ただけか。)

対して「焉」を句頭の意、つまり疑問辞として理解した場合は次の通り。

なんぢひとるにいづくに乎哉(お前は人探しにどこで聞き回るか。)

どちらと決めるにも文法的にはどちらも正しく、決定打がない。しかし「焉」を疑問の意に取るなら、漢文では通常語順が異なる。英語のwhatなどと同様、疑問辞は疑問の対象の前に持ってくる場合が多い。

(論語本章)女得人焉耳乎哉。
(漢文通例)女焉耳得人乎哉。(女いづくにかきて人を得たる。)

従って「焉」を断定と解する方が、正解である可能性が高い。さらに言えば、「焉」の解釈で誤読がないように助字を入れ、句末の疑問辞「乎哉」は「焉」と重複するので付けない。

女焉耳而得人。(女いづくにか人を得たる。)

従って「焉」を疑問辞として読むのは無理で、断定と考えた方が理がある。すると残る問題は、「お前は人を得ただけか」の解釈となる。つまり「人」とは何を指すか、が焦点になる。ここで孔子が行政をどのように行うべきと考えたかを参照する。

孔子 慈愛 冉有
孔子「人が大勢いるなあ。」
冉有ゼンユウ「そうですね。どうしてやります?」
孔子「財布を膨らませてやるとするかな。」
冉有「ふふ。膨らんだらどうしてやります?」
孔子「ものを教えてやるとするかな。」(論語子路篇9)

同様の発言は子路に対しても言っており(論語子路篇3)、孔子は行政を、ただ民政一般を取り仕切るだけでなく、経済を盛んにし、教育まで行ってやっと自分の教説にふさわしいと考えた。ただそれも住民の信用があってのことで、まず得るべきは「人心」であると心得ていた。

子貢 問い 孔子 水面
子貢「政治の要点を一つ。」
孔子「十分食わせ、十分軍を備えておけば、民は信用する。」

子貢「どれか省くとしたら?」
孔子「軍備だな。」
子貢「さらに省くとしたら?」
孔子「食糧だな。」

子貢 驚き 孔子 キメ2
子貢「え? 餓死しちゃいますよ。」

孔子「いいかよく聞け。昔から餓死はあったから、いざとなれば民も覚悟するが、その信用を失ったら、政治どころじゃないぞ。民とはそんな可憐な生き物ではない。一揆や反乱で首を落とされたくなかったら、よぉく覚悟しておくんだな。」(論語顔淵篇7)

それをふまえ、子游は孔子を自分が代官を勤める武城に迎えるにあたって、住民を動員して音楽を奏でさせるというパフォーマンスを行い、孔子を喜ばせた記事が論語にある。だがただ演奏を命じるだけでは住民も嫌がるだろう。子游が一通りの信頼を得ていたから出来たことだ。

子游が遠い武城の代官になった。孔子が弟子を連れて様子を見に行くと、みやびな音楽が聞こえてくる。孔子は思わず微笑んで、出迎えた子游に言った。
「大げさだね。ヤキトリの下ごしらえに牛切り包丁かい? こんな小さな町に。」
「むかし、先生から教わりました。君子が文化を学ぶと人を愛する、凡人が学ぶと使いやすくなると。ですからこのように音楽を広めてみました。」
「はっはっは、もっとももっとも。諸君、今のヤキトリうんぬんは冗談だよ。」(論語陽貨篇4)

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”持つ”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

澹臺滅明(タンタイメツメイ)

通説では姓氏を「澹臺」、名を「滅明」という人物と解するが、春秋時代の姓名は一字-一字が原則で、孔子も「孔丘」、子游も「言偃」。二文字以上の姓氏は、「王孫」など君主との系統を示すものが主で、孔門にも「公冶・長」「漆彫・開」の例があるが少数。いみ名が二文字以上の例は無い。

「滅明」は”視力を失う”・”知性を失う”とも読め、いみ名にせよあだ名にせよ、このような名を持つ人物がいたとは思えない。詳細は論語の人物:澹臺滅明子羽を参照。

「澹臺」は”深い掘り割りをめぐらせた物見台”、「滅明」は上記の通り”光を消す”→”ものが見えない”。

澹 楚系戦国文字 澹 字解
「澹」(楚系戦国文字)

「澹」の初出は楚系戦国文字。「タン」(上)の音で”たゆたう”、「セン」(去)の音で”足りる”を意味する。近音に「沈」があり、初出は甲骨文、”静かな水のさま”の語義を共有する。論語時代の置換候補となる。詳細は論語語釈「澹」を参照。

臺 甲骨文 台 字解
「臺」甲骨文

「臺」の初出は甲骨文。新字体は「台」だが本来は別の字。「ダイ」は呉音。「タイ」の音で”うてな”を、「イ」の音で”われ”を意味する。字形は「止」”あし”+「宀」”やね”で、原義は”たかどのを建てに行く”。甲骨文では”たかどのを建てる”の意で用いられた。詳細は論語語釈「台」を参照。

滅 甲骨文
「滅」(甲骨文)

「滅」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「烕」で、「火」+”火消し”。かぶせ物をかぶせて火を消すさま。原義は”消す”。詳細は論語語釈「滅」を参照。

明 甲骨文 明 字解
「明」(甲骨文)

「明」の初出は甲骨文。字形は太陽と月の組み合わせ。原義は”明るい”。呉音(遣隋使・遣唐使より前に日本に伝わった音)は「ミョウ」、「ミン」は唐音(遣唐使廃止から江戸末期までに伝わった音)。甲骨文では原義で、また”光”の意に用いた。金文では”清める”、”厳格に従う”、戦国の金文では”はっきりしている”、”あきらかにする”の意に用いた。戦国の竹簡では”顕彰する”、”選別する”、”よく知る”の意に用いた。詳細は論語語釈「明」を参照。

儒者が何と言っているか覗いてみよう。

古注『論語集解義疏』

註苞氏曰武城魯下邑也…註孔安國曰焉耳乎哉皆辭也…註苞氏曰澹臺姓滅明名也字子羽言其公且方也

包咸 孔安国
注釈。包咸「武城は魯国領内のまちである。」
注釈。孔安国「焉、耳、乎、哉の字は、全て語気を表した字である。」
注釈。包咸「澹臺は姓、滅明は名である。あざなは子羽。性格が公平でまじめなことを言ったのである。」


疏…云曰有澹臺滅明者行不由徑者荅為宰而所得邑中之人也澹臺滅明亦孔子弟子也言滅明每事方正故行出皆不邪徑於小路也一云滅明徳行方正不為邪徑小路行也

古注 皇侃
付け足し。…曰有澹臺滅明者行不由徑者と子游が言ったのは、代官としてまちの人を採用できたことを言ったのだ。澹臺滅明も孔子の弟子である。子游は滅明について、事あるごとにまじめで、よこしまなことをせず隠れ道を通らずに子游の前を退いたと言った。一説には、滅明は徳の行いが実に正しく、邪悪なことをして隠れ道を通るようなことをしないという。また一説には、滅明は徳の行いが実に正しく、邪悪なことをせず隠れ道を通らずに行動するという。(『論語集解義疏』)

孔安国が実在の如何わしい人物であることはいつも通り。新から後漢初期の包咸が名前だと決めつけたことによって、その後の儒者も漢学教授も澹臺滅明を読み下す気が初めからない。

包咸はBC6-AD65。新朝の皇帝王莽オウモウに反乱を起こした赤眉セキビ軍に捕まったが、朝から晩まで平気な顔して儒学を講じていたので、荒くれな赤眉軍も感心して解放したらしい。こうした美談があれば、それはウソだと考えるのが中国史の常識である。論語先進篇8余話「花咲か爺さん」を参照。

包咸が人名と決めた論拠は、おそらく『春秋左氏伝』だろう。

三月,吳伐我,子洩率,故道險,從武城,初武城人或有因於吳竟田焉,拘鄫人之漚菅者,曰,何故使吾水滋,及吳師至,拘者道之,以伐武城,克之,王犯嘗為之宰,澹臺子羽之父好焉,國人懼。

春秋左氏伝 定公五年
哀公八年(BC487)、呉が攻め寄せてきた。魯から亡命中の子洩(公山弗擾?)が率い、だからわざと険路を選び、武城を経由した。それより以前、武城の町人のある者は、呉との国境ぞいで畑作していたが、呉の属国・鄫の人がすげを洗っているのを、「なぜ私の川を濁すのか」と言って捕らえた。呉軍が押し寄せてくると、捕らえられていた者が道案内し、武城に攻めかかって、落としてしまった。王犯はかつて武城の代官で、澹臺子羽の父と仲がよかったから、町人は怯えた。(『春秋左氏伝』哀公八年2)

原文に書いてあるのはこれだけで、何が何やら分からない点があるが、勝手な想像を手控えるなら、澹臺が姓氏とは限らないし、子羽が滅明のあざ名とは書いていない。澹臺子羽の名はそのあと『韓非子』にも見えるが、その名が滅明だとは記していない。新注を見よう。

新注『論語集注』
澹臺姓,滅明名,字子羽。

朱子 新注
澹臺は姓、滅明は名、字は子羽。(『論語集注』)

朱子も全く疑わず、考えた形跡すらない。こりゃあダメだ。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”…は”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行く”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。字形は十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

由(ユウ)

由 甲骨文 由 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…を通る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はともし火の象形。「油」の原字。ただし甲骨文に”やまい”の解釈例がある。春秋時代までは、地名・人名に用いられた。孔子の弟子、仲由子路はその例。また”~から”・”理由”の意が確認できる。”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡からという。詳細は論語語釈「由」を参照。

徑(ケイ)

径 隷書 径 字解
(前漢隷書)

初出は前漢の隷書。新字体は「径」。同音に「巠」”地下水・縦糸”とそれを部品とする漢字群。字形は「彳」+「巠」で、真っ直ぐな道のさま。原義は”真っ直ぐ”。部品で同音の「巠」は金文に存在し、論語時代の置換候補となりうる。詳細は論語語釈「径」を参照。

非(ヒ)

非 甲骨文 非 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。

公(コウ)

公 甲骨文 公 字解
「公」(甲骨文)

論語の本章では”公共の”。初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”つとめ”。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”今まで…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

嘗(ショウ)

嘗 金文 嘗 字解
(金文)

論語の本章では”かつて”。この語義は春秋時代では確認できない。唐石経・清家本の「甞」は異体字。初出は西周早期の金文。字形は「冂」”建物”+「旨」”美味なもの”で、屋内でうまいものを食べる様。原義は”味わう”。春秋時代までの金文では地名、秋の収穫祭の意に用いた。戦国の竹簡では、”かつて”の意に用いた。詳細は論語語釈「嘗」を参照。

至(シ)

至 甲骨文 至 字解
(甲骨文)

論語の本章では”来る”。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。春秋末期までに、時間的に”至る”、空間的に”至る”の意に用いた。詳細は論語語釈「至」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

偃*(エン)

偃 金文 偃 字解
(金文)

論語の本章では、子游のいみ名。初出は西周末期の金文。字形は「○」横たわった材木を転がす「人」+「目」で、材木を横に積み上げて堤防を造るさま。原義は”横たえる”。詳細は論語語釈「偃」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

室(シツ)

室 甲骨文 室 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(執務)部屋 ”。初出は甲骨文。同音は「失」のみ。字形は「宀」”屋根”+「矢」+「一」”止まる”で、矢の止まった屋内のさま。原義は人が止まるべき屋内、つまり”うち”・”屋内”。甲骨文では原義に、金文では原義のほか”一族”の意に用いた。戦国時代の金文では、「王室」の語が見える。戦国時時代の竹簡では、原義・”一族”の意に用いた。「その室家に宜しからん」と古詩「桃夭」にあるように、もとは家族が祖先を祀る奥座敷のことだった。詳細は論語語釈「室」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

行不由徑

論語の本章では、”真っ直ぐな道を通らない”、つまり”まともなやり方をしない”。伝統的には澹台滅明を立派な人物として造形するために、「行くにこみちに由らず」と読む。しかし「徑」(径)は機織りの縦糸が語源で、”真っ直ぐな道”を意味し、儒者がでっち上げた”こせこせした近道”の意味は本来無い。公務には曲がった道ではなく真っ直ぐな道で行くべきだ、そうしないと「滅明」=ものが見えない、という子游の言葉と判断する。


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論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用も再録もせず、定州竹簡論語を含めて前漢期の再録も無い。事実上の初出は後漢末の『風俗通義』で、後半のみがやや違った文字列で引用された。

謹按:《論語》:「澹臺滅明非公事未嘗至於偃之室也。」


厳粛に論語を読んでみると、「澹臺滅明は公務でなければ子游の執務室に来なかった」とある。(蜀郡太守潁川劉勝2)

後漢年表

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となると、後漢末には論語の一章として成立していたのだろう。「焉」の字が春秋時代に無いことから文字史の上からは史実性が疑われるが、無くても文意が変わらないし、なにより本章を偽作する動機が見つからない。本章のような問答は実際にあったと見てよいだろう。

解説

澹台滅明が人名としてヘンだと思ったのは、何も現代の外国人である訳者だけではない。

一僧同秀才趂船。秀才欺僧。乃橫臥舟中。僧㱄足以避。久之。問曰。敢問相公。那堯舜是一人是兩人。秀才云。天生是一箇人。你這賊禿問他怎麼。僧曰。既如此。小僧且仲々腳。一說。多澹臺滅明為兩人。

論語 笑府 馮夢竜
ある僧が旅の途中で儒者と同船した。儒者は僧をバカにして、狭い舟の中で広々と寝転んでいた。僧は黙って足を抱えてよけた。しばらくして僧が問うた。

僧「儒者どの、ちとものを伺いたい。堯舜とは一人でござるか、二人でござるか。」
儒「もとから一人と決まっている。何をとぼけたことを言うんだこのハゲ。」
僧「ではちと、愚僧も足を伸ばすとしますかな。」

一説に言う。「澹台滅明は一人でござるか、二人でござるか。」(『笑府』巻二・趂船)

既存の論語本では吉川本に、「土地の紳士が、地方間に種々の請託を行うのが過去の中国でしばしば見る現象であった」と記す。それはその通りで、官吏の赴任が決まると怪しげな人間が訪れたりワイロを持ってきたりは、古代から現在に至るまで変わらない中国の政治風景だ。

帝政期に入ってからのことだが、地方官は出身地を避けて任地を指定された。これを「回避」と言うが、それゆえに地方官は言葉も通じない土地や人々の面倒を見なければならない。必然的に、現地で地生えの勢力と結託せざるを得ず、その勢力は必ずヤクザを兼ねる。

つまり地元のヤクザの中で地方官と結託して公認された者が権勢家となり、あぶれた連中が山賊や海賊になる。権勢家がその地方を征圧しきっている場合もあるが、その場合は隣村やよそ者に対する山賊・海賊となる。従ってどの王朝の最盛期でも、山賊海賊のいない土地は無い。

これは現中国でも同じで、前世紀の末ごろだったか、山東省の山奥へ民俗学の調査に出掛けた北京大の女子学生が、山賊にさらわれて行方知れずになった。普通ならそれで終わりだが、親が共産党の幹部だったため、人民解放軍が出動して文字通り解放する騒ぎになった。

話を論語の本章に戻せば、孔子が問うたのは人材を得たかどうかではない。論語陽貨篇4の記述にある通り、子游が演じて見せたのは「人心」を得たことであり、慧眼な孔子はそれをヤラセと気付いた。子游は孟子によって孔門十哲に加えられたが、荀子には腐れ儒者呼ばわりされた男でもあり、ヤラセのような如何わしいことを平気で行った。

孔門にも一人ぐらいこういうワルがいないと、組織として成り立たなかっただろう。

余話

司馬遷も中国人

論語の本章の主人公である、実在しないタン台滅明には不細工伝説がある。事の発端は前漢中期には成立していた『孔子家語』で、この段階では不細工とまでは書いていなかった。

澹臺滅明,武城人,字子羽。少孔子四十九歲,有君子之資,孔子嘗以容貌望其才,其才不充孔子之望。然其為人公正無私,以取與去就以諾為名。仕魯為大夫。


澹台滅明は武城の出身である。あざ名は子羽。孔子より四十七歳年下だった。君子らしい人柄だった。孔子ははじめその容貌から才能を推し量り、孔子の期待に応えられる人物ではないと判断した。しかし人柄が公正無私だったので、普段の行いを見た孔子がひとかどの人物と認め、魯に仕えて家老にまでなった。(『孔子家語』七十二弟子解13)

だが同時期に成立した『史記』弟子伝では「ものすごく不細工」と書かれてしまった。

澹臺滅明…狀貌甚惡。欲事孔子,孔子以為材薄。既已受業,退而修行,行不由徑,非公事不見卿大夫。


澹台滅明の見た目はものすごく不細工だった。孔子に弟子入りしようとしたところ、孔子はダメな人物と判断した。孔子塾を卒業すると、故郷に帰って修業に励み、ちまちました行動はせず、公務でないと上級貴族に会わなかった。(『史記』弟子伝)

論語 司馬遷 前漢武帝
司馬遷は暴君の前漢武帝に気分次第でナニをちょん切られた気の毒な人として、また暴君にも率直な意見を言った中国史上のヒーローとして一般には知られる。だが別に恨みもないのに、こういう罵倒を平気で記す人物でもあった。司馬遷にヒーローを期待するのは得策でない。

現伝の『史記』は武帝について、極めて曖昧なことしか書いていない。機嫌を損ねたら今度は、ナニではなく首をちょん切られると司馬遷が知っていたからだ。漢が一旦滅びて再興した、後漢初期の『漢書』を読まないと、武帝がどんな人物かは分からない。

その『漢書』を書いた班固も、結局は皇帝に殺された。外戚がらみの政争に負けたからとするのが定説だが、前漢諸帝について、帝室のカンに障るようなことを書いたのが背景にあったのは間違いない。だから正史に書いてあるからと言って、記事と史実はずいぶん違う。

「正史」のなんたるかは、論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照。

暴君武帝も、一途いちずにヘコヘコし続けた董仲舒を、一時の不機嫌から牢にぶち込み、ゴマをすった判事が死刑判決を下すのは止めなかったが、いざ処刑の寸前になって牢から出してやった。対して班固は後漢皇帝にとって、「殺しちゃっていいや」と思われていたから殺された。

於是下仲舒吏,當死,詔赦之。(『漢書』董仲舒伝41)

董仲舒については、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

しかも現伝の『史記』の文字列が、司馬遷が書いた通りに伝わっていると信じる玄人はいない。例えば日者列伝は偽作説が有力になっている。後世の儒者が司馬遷をヒーローに仕立てるべく、『史記』をいじくったのはほぼ確実だ。そのハッタリを真に受けると史実が見えない。

もちろん取材中の司馬遷に、「古老」が一杯機嫌でデタラメを語った可能性はある。だが司馬遷も所詮は中国人であり、罵倒しても怖くない人間は平気で罵ったと考えた方が良い。他人を理想化して拝むのは、異性にありもしない期待を掛けるのと同じで、必ず裏切られるからだ。

正確には勝手な妄想のツケを自分が払うのだが、『史記』も漢文ゆえの本質的な虚偽と無縁でない。古来親子兄弟含めて平気で人を叩き売ってきた中華文明の精華は、福禄寿(乜-的快感・カネ・長寿と健康)をひたすら追求するからには、そういう妄想をさっさと捨てることも説く。

一新婦初夜。既放進。曰不好。壻曰拿出罷。又曰不好。壻問欲如何。曰。我要拿進拿出。


新婚夫婦が事に至る。夫が入れると、妻が大声で良くないという。では抜こうかと言うと、やはり大声で良くないという。どうすればいいのかと言うと、入れたり抜いたりして欲しいと大声で言う。(『笑府』巻九・呼不好)

説いているように史料を読むのが、本当に漢文が読めることでもある。とりわけ福禄寿の前提である生存の場面になるとそうなる。中国人も日本人同様娯楽で人をいじめ殺すが、動機は日本人とかなり異なっている。面積と人口から誤解されるが、中国は閉じた村社会だからだ。

それも山奥の寒村と言って良い。ポリネシア人が島の適正人口を守るため自殺的航海を繰り返したのと似ている。なぜなら中国は地大物博を誇る以上の人口を常に抱えたからだ。航海の結果広大な領域にポリネシア人は広がったが、遺伝子からその淵源は中国南部にあるらしい

ともあれ残った中国人は常に生存をかけて人を追い出す必要に迫られた。これが華僑を生んだが、海外で生存に成功した中国人は必ず故郷に錦を飾ろうとする。漢の高祖劉邦もそうだったし、改革開放以降に中国に投資した華僑も同様だった。いじめ出されたのになぜだろう。

高祖還歸,過沛,留。置酒沛宮,悉召故人父老子弟縱酒,發沛中兒得百二十人,教之歌。酒酣,高祖擊筑,自為歌詩。


皇帝に即位した高祖劉邦は、遠征の帰りに故郷の沛に立ち寄り、臨時の御殿をしつらえて酒を用意し、故郷の長老や若者を呼び集めて振るまった。百二十人の子供を集めて一緒に歌い、酒が回ると酒がめをチンチン叩いて自作の歌を披露した。(『史記』高祖本紀80)

中国 街
それは故郷では取って食えもしない「法治」や「民主主義」を説教されず、安心して福禄寿の追求に狂奔できるからだ。だから生存が中華文明の真髄で、福禄寿がその精華たりうる。精華は花だから枯れたりしおれたりする。だが真髄は乾燥などかなりの環境に耐えもする。

従って中国的修辞がどんなに絵空事を説こうと、それは真髄より発する精華に他ならない。花は多大のエネルギーを費やして虫を呼ぶ。ひとえに生存のためである。花の形や色をどんなに眺めても遺伝子は見えない。中国人の言動を表面だけ見ていては理解出来ないのと同様だ。

中華文明を虫になって解釈してはいけない。日本帝国はそうやって滅んだのだから。

参考記事

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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