論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子游爲武城宰。子曰、「女*得人焉耳乎*。」曰、「有澹臺滅明者、行不由徑。非公事。未嘗至於偃之室也。」
校訂
武内本
清家本により、乎の下に哉の字を補う。汝、唐石経女に作る。
→子游爲武城宰。子曰、「汝得人焉耳乎。」曰、「有澹臺滅明者、行不由徑。非公事。未嘗至於偃之室也。」
復元白文
澹
※焉→安・臺→(甲骨文)・徑→巠。論語の本章は澹の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による捏造である。
書き下し
子游武城の宰爲り。子曰く、女人を得焉耳乎。曰く、澹臺あるも明を滅す者、行くに徑に由らざればなり。公事に非ずと。未だ嘗て偃の室於至らざるなり。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
子游が武城の代官として赴任した。先生が言った。「お前は人を得ただけか。」子游が言った。「高台に立っても遠くを見通すことが出来ないのは、真っ直ぐな筋を通さないからだ、それは公務ではない、と聞いています。まだ私の部屋に来た者はいません。」
意訳
子游が武城の代官として赴任した。孔子は弟子を連れて子游を訪ねた。(住民の奏でる、みやびな音楽が聞こえてきた。)
孔子「お前はこうやって、街の人が言うことを聞くように仕向けただけかね? (自ら善を目指すような)教育はどうなっているかな?」
子游「私はこういうことを聞いています。行政官という高台に登っても、人々をありのままに見られないのは、真っ直ぐにものを見ようとしないからだ。それは公務を果たすのにふさわしくない、と。だからまだ、私の部屋で教えるほどの者はいません。」
従来訳
子游は武城の代官をつとめていたが、ある時、先師が彼にたずねられた。――
「部下にいい人物を見つけたかね。」
子游がこたえた。――
「澹臺滅明という人物がおります。この人間は、決して近道やぬけ道を歩きません。また公用でなければ、決して私の部屋にはいって来たことがございません。」
現代中国での解釈例
子游為武城市長。孔子說:「你在那得到了人才嗎?「有個叫澹臺滅明的人,一貫走正道,沒有公事,從不到我家裏來。」
子游が武城の市長になった。孔子が言った。「お前はここで人材を得たか。」「澹台滅明という人がいて、一貫して正道を歩き、公務が無ければ、私の家に来ません。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
子游(シユウ)
(金文)
後に冠婚葬祭業者の大親分として名をはせる孔子の弟子。詳細は論語の人物:言偃子游参照。
武城
(金文)
論語の本章では、魯国南方の都市。「南武城」とも呼ばれるのは、当時東方へ侵攻中の晋国が、黄河北岸の武城というまちを領していたから。
なお漢文でも現代中国語でも、「城」は”まち”を意味し、いわゆる”お城”ではない。中国のまちは城郭都市から始まり、それを邑と呼び、また城と呼んだ。
宰
(金文)
論語の本章では、”代官”。
原義は”家内奴隷頭”。詳細は論語語釈「宰」を参照。論語時代ではこの語義は廃れ、一家を治める”執事”や、都市の”代官”を意味した。孔子が初めて就いた行政職も、「中都宰」だった。また大きな行事の取り仕切り役も「宰」と呼ばれた。
汝→女
(甲骨文)
論語の本章では”お前”。さんずいが無い「女」と同じ。詳細は論語語釈「汝」を参照。
得人
(金文)
論語の本章では、人の「気持」、つまり治める土地で人望を得たか、と解する。「得」の詳細は論語語釈「得」を参照。
焉耳(エンジ)
(金文)
「焉」は論語の時代に存在しないが、断定の意味を示す。”~てしまった”と解するとたいてい通じる。詳細は論語語釈「焉」を参照。「耳」は”のみ”。「焉耳」で論語の本章では”~し終えてしまった”の意。論語語釈「耳」も参照。
赴任前に孔子が尋ねたとすると、「どうかね、補佐役は揃ったかね? 何なら紹介するが…。」という、孔子の気遣いとも受け取れる。下を参照。
女得人焉耳乎
「焉」の読み方によって解釈が大きく異なる。「焉」は語末・句末では断定を意味し、句頭では疑問を意味する。伝統的な論語解釈は、断定として解する。
対して「焉」を句頭の意、つまり疑問辞として理解した場合は次の通り。
どちらと決めるにも文法的にはどちらも正しく、決定打がない。しかし「焉」を疑問の意に取るなら、漢文では通常語順が異なる。英語のwhatなどと同様、疑問辞は疑問の対象の前に持ってくる場合が多い。
(漢文通例)女焉耳得人乎。(女焉にか耳きて人を得たる乎。)
従って「焉」を断定と解する方が、正解である可能性が高い。さらに言えば、「焉」の解釈で誤読がないように助字を入れ、句末の疑問辞「乎」は「焉」と重複するので付けない。
従って「焉」を疑問辞として読むのは無理で、断定と考えた方が理がある。すると残る問題は、「お前は人を得ただけか」の解釈となる。つまり「人」とは何を指すか、が焦点になる。ここで孔子が行政をどのように行うべきと考えたかを参照する。


孔子「人が大勢いるなあ。」
冉有「そうですね。どうしてやります?」
孔子「財布を膨らませてやるとするかな。」
冉有「ふふ。膨らんだらどうしてやります?」
孔子「ものを教えてやるとするかな。」(論語子路篇9)
同様の発言は子路に対しても言っており(論語子路篇3)、孔子は行政を、ただ民政一般を取り仕切るだけでなく、教育まで行ってやっと自分の教説にふさわしいと考えた。となると論語の本章で子游に期待したのは、礼・楽といった教育まで行うことだと考えられる。
それをふまえ、子游は孔子を自分が代官を勤める武城に迎えるにあたって、住民を動員して音楽を奏でさせるというパフォーマンスを行い、孔子を喜ばせた記事が論語にある。だがただ演奏を命じるだけでは住民も嫌がるだろう。子游が一通りの信頼を得ていたから出来たことだ。
「大げさだね。ヤキトリの下ごしらえに牛切り包丁かい? こんな小さな町に。」
「むかし、先生から教わりました。君子が文化を学ぶと人を愛する、凡人が学ぶと使いやすくなると。ですからこのように音楽を広めてみました。」
「はっはっは、もっとももっとも。諸君、今のヤキトリうんぬんは冗談だよ。」

「人」とは「住民の信頼」と分かった。ただし論語陽貨篇4は文体が新しく、まるまる史実とは言いがたい。ただし元となる伝承はあっただろうから、子游はおそらくヤラセを行ったのだろう。従って「教育はどうなっているかね」とここでは訳した。
澹臺滅明
孔子の弟子とされる架空の人物。
澹の字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdʰɑmで、同音は詹(初出は戦国文字)と、炎を部品とする漢字群。
臺の字の初出は甲骨文。略字の「台」は、下記『学研漢和大字典』が言う通り、本来別の字である。
- 〔臺〕会意。臺は「土+高の略体+至」で、土を高く積んで人の来るのを見る見晴らし台をあらわす。のち台で代用する。
- 〔台〕会意兼形声。台は、もと「口+(音符)厶(塊(イ)の変形)」。厶(イ)は、曲がった棒でつくった耜(シ)(すき)のこと。その音を借りて一人称代名詞に当てた。▽あるいは道具を持って工作する(自主的に行うその人)との意から、一人称となったものか。
有澹臺滅明者(有澹台滅明者:ヨウタンダイメツメイシャ)
伝統的には従来訳のように、「澹台滅明という者がおりました」と解す。しかしこれは怪しい点があり、澹台滅明は人名とは思えない。詳細は論語の人物:澹臺滅明子羽を参照。
儒者が何と言っているか覗いてみよう。

注釈。苞氏曰く、澹臺は姓、滅明は名である。字は子羽。性格が公平でまじめなことを言ったのである。付け足し。…曰有澹臺滅明者行不由徑者と子游が言ったのは、代官としてまちの人を採用できたことを言ったのだ。澹臺滅明も孔子の弟子である。子游は滅明について、事あるごとにまじめで、よこしまなことをせず隠れ道を通らずに子游の前を退いたと言った。一説には、滅明は徳の行いが実に正しく、邪悪なことをして隠れ道を通るようなことをしないという。また一説には、滅明は徳の行いが実に正しく、邪悪なことをせず隠れ道を通らずに行動するという。(『論語集解義疏』)
苞氏とかいうおじいさん*(オッサンでもコゾーでもかまわないが)が名前だと決めつけたことによって、澹臺滅明を読み下す気が初めからない。おじいさんは子供の頃からお勉強ばかりしていたので、目が悪くなって画数の多い漢字を読むのが面倒だったのかも。
*包咸と言うらしい。ほーか。BC6-AD65。新朝の皇帝王莽に反乱を起こした赤眉軍に捕まったが、朝から晩まで平気な顔して儒学を講じていたので、荒くれな赤眉軍も感心して解放したらしい。こうした美談があれば、それはウソだと考えるのが中国史の常識である。
朱子も全く疑わず、考えた形跡すらない。こりゃあダメだ。
行不由徑(行不由径)
「徑」(金文大篆)
論語の本章では、”真っ直ぐな道を通らない”、つまり”まともなやり方をしない”。徑の字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。論語での登場は本章のみ。カールグレン上古音はkieŋで、同音に巠”地下水・縦糸”とそれを部品とする漢字群。巠の字は金文に存在し、論語時代の置換候補となりうる。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、巠(ケイ)は、台の上にまっすぐ縦糸を張った姿で、經(=経。縦糸)の原字。徑は「彳(いく)+(音符)巠」で、両地点をまっすぐつないだ近みちのこと。頸(ケイ)(まっすぐな首)・莖(=茎。まっすぐなくき)などと同系のことば、という。
『字通』によると[形声]旧字は徑に作り、巠(けい)声。巠は織機にたて糸をかけた形で、經(経)の初文。たて糸をいう。そのように直線的に上下の関係にあるものを巠といい、また道路の近道を徑(径)という。字はまた逕を用いることもある、という。
「行」は”行く・通る”。詳細は論語語釈「行」・論語語釈「由」を参照。を参照。
伝統的には澹台滅明を立派な人物として造形するために、「行くにこみちに由らず」と読む。しかし「徑(径)」は機織りの縦糸が語源で、”真っ直ぐな道”を意味し、儒者がでっち上げた”こせこせした近道”の意味は本来無い。公務には曲がった道ではなく真っ直ぐな道で行くべきだ、そうしないと「滅明」=ものが見えない、という子游の言葉と判断する。
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偃(エン)
(金文)
子游の名。漢字としては『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、妟(アン)は、晏の異体字で、上から下へ押さえるの意を含む。匽(エン)は「匚(かくす)+〔音符〕妟(アン)」の会意兼形声文字で、物を上から下へ低く押さえて姿勢を低くし、隠れること。偃は「人+〔音符〕幹」で、低く押さえること。按(アン)(上から下へと押さえる)と同系のことば、という。論語語釈「偃」を参照。
嘗(ショウ)
(金文)
論語の本章では”かつて”。詳細は論語語釈「嘗」を参照。
未嘗至於偃之室也
論語先進篇14での「室」の用例から考えると、”まだ私の眼鏡にかなった人物はいません”と解したくなる。論語語釈「室」を参照。
論語:解説・付記
既存の論語本では吉川本に、「土地の紳士が、地方間に種々の請託を行うのが過去の中国でしばしば見る現象であった」とある。例えば『儒林外史』のとおり。だが本章は子游赴任前の人材捜しの話ではない。儒者は「人」=人材と思い込むから、澹台滅明なる幽霊をこしらえた。
さて子游はのちに礼法の大家として知られ、そのこともあって「人」=「信頼」と訳した。
上記した、孔子が訪れるのに合わせて住民に管弦を奏でさせた論語陽貨篇の話が仮に史実とするなら、息子にも顔回にも子路にも死なれ、すっかり気落ちしていた最晩年の孔子は、眼を細めて子游を褒めた。子游はヤラセで孔子の前で大見得を切ったことになる。
しかし孔子も老練な政治家。音楽が子游のやらせであることを見抜いており、だから「動員できるほど住民の信頼を集めただけかね」と問うた。つまり、「音楽はこれでいいが、礼法の教育はどうなっている?」と問うたわけ。孔子の教説では、教育に礼と楽は不可分だから。

〔行政を任されるならどうするか孔子に聞かれて〕冉求が答えて言った。「四方六七十、あるいは五六十の小国を私が治めれば、三年ほどで民の衣食住を満たしてやります。礼楽の教育は、誰か貴族の方にお任せします。」(論語先進篇26)
ここに見られるように、庶民教育が礼法と音楽だったのは、孔子一門の共通理解だった。だから論語陽貨篇の話が後世の偽作としても、解釈はそれほど変わらない。孔子が子游に求めたのは、まず住民の信用を得る事、そして教育を施す事には変わりがないからだ。