論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子謂子產有君子之道四焉其行己也恭其事上也敬其養民也惠其使民也義
- 「敬」字:〔艹〕→〔十十〕。
- 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子謂子產有君子之道四焉/其行己也㳟其事上也敬其養民也恵其使民義
- 「㳟」字:「恭」字の異体字。
- 「其使民義」:宮内庁本同、京大本「其使民也義」。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「子產有君子道四焉a:[其行己也恭,其事上也敬],94……惠,其使民也義。」95
- 子曰子產有君子道四焉、今本作「子謂子產有君子之道四焉」。
標点文
子曰、「子產有君子之道四焉、其行己也恭、其事上也敬、其養民也惠、其使民也義。」
復元白文(論語時代での表記)
焉
※恭→龏。論語の本章は、「焉」の字が論語の時代に存在しない。ただし無くとも文意が大きく変わらない。「行」の用法に疑問がある。本章は少なくとも、戦国時代以降の儒者による改変が加えられている。
書き下し
子曰く、子產君子之道四つを有ち焉。其の己を行ふ也恭し、其の上に事ふる也敬あり、其の民を養ふ也惠あり、其の民を使う也義し。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が子産を評して言った。「君子の原則は四つある。自分を律するに謙虚、主君に仕えるに敬意を持ち、民を養うに恵み深く、民を使役するのが正しかった。」
意訳
鄭国の宰相子産どのはまことにあっぱれな貴族だった。振る舞いが謙虚で、上を敬い、下を憐れみ、民の動員も理に叶っていた。
従来訳
先師が子産のことを評していわれた。――
「子産は、為政家の守るべき四つの道をよく守つている人だ。彼は先ず第一に身を持すること恭謙である。第二に上に仕えて敬慎である。第三に人民に対して慈恵を旨としている。そして第四に人民の使役の仕方が公正である。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子評論子產:「具有君子的四種品德:行為謙遜,尊敬上級,關心群衆疾苦,用人符合道義。」
孔子が子産を評論した。「君子が具えるべき四つの徳目を具えていた。行いは謙遜で、目上を敬い、群衆の苦難に関心を持ち、人の使い方は道義に合っていた。」
論語:語釈
子謂(シイ)→子曰(シエツ)
論語の本章では、”(孔子)先生は言った”。「子」は貴族や知識人への敬称。子貢のように学派の弟子や、一般貴族は「子○」と呼び、孔子のように学派の開祖や、上級貴族は、「○子」と呼んだ。原義は殷王室の一族。詳細は論語語釈「子」を参照。
「謂」(金文)
「謂」は本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
「曰」(甲骨文)
定州竹簡論語の「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
子產(シサン)
?ーBC522。鄭の名家老。姓は姫、氏は国、諱は僑、字は子産。別名は公孫僑。鄭国公の一族で、弱小だった鄭国をまとめ上げ、中国史上初の成文法を公開した。若い頃の孔子も都・洛邑への留学の途上、おそらく一世代は年長であろう子産に会って、兄弟のような扱いを受けている。
「產」(金文)
「產」の新字体は「産」。初出は春秋末期の金文。字形は「产」=「文」”屋根の煙穴”+「厂」”屋根”+『生」。屋内で子を生むさま。原義は”生む”。金文では人名のほか”生む”・”生まれる”を意味した。詳細は論語語釈「産」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”所有する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
君子(クンシ)
論語の本章では”貴族”。”高貴で教養ある人”という偽善的な解釈は、孔子没後一世紀に生まれた孟子から。孔子生前はは単に”貴族”を意味した。詳細は論語における「君子」を参照。
論語の本章は「焉」の論語時代の不在から、後世の創作の疑いがあるが、「焉」を省いても文意がほとんど変わらず、また孔子が若い頃、周の都・洛邑に留学の途上で子産の世話になったことは『史記』孔子世家にも見える。従って本章を史実として扱い、「君子」を孔子生前の意味で解釈した。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「の」と読んで”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
道(トウ)
(甲骨文)
論語の本章では”原則”。初出は甲骨文。「ドウ」は呉音。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。原義は”みち”。”道徳”の語義は戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「道」を参照。
四(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”よっつ”。初出は甲骨文。字形は横棒四本で数の”よん”を表した指事文字。「四」の表記は金文時代まで「亖」と書かれた。「四」の字体が現れるのは、現在の所戦国時代の石鼓文から。「四十」をまとめて「卌」で記す例は甲骨文から見られる。詳細は論語語釈「四」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「たり」と読んで、”…し終えた”・”~である”を意味する完了または断定のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞や完了・断定の言葉と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、その用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうるし、完了・断定の言葉は無くとも文意がほとんど変わらない。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”ふるまい”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
己(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”自分”。初出は甲骨文。「コ」は呉音。字形はものを束ねる縄の象形だが、甲骨文の時代から十干の六番目として用いられた。従って原義は不明。”自分”の意での用例は春秋末期の金文に確認できる。詳細は論語語釈「己」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで主格の強調。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
恭(キョウ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”つつしみ深い”。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「共」+「心」で、ものを捧げるような心のさま。原字は「龏」とされ、甲骨文より存在する。字形は「䇂」”刃物”+「虫」”へび”+「廾」”両手”で、毒蛇の頭を突いて捌くこと。原義は不明。甲骨文では地名・人名・祖先の名に用い、金文では人名の他は「恭」と同じく”恐れ慎む”を意味した。詳細は論語語釈「恭」を参照。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”奉仕する”。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。
上(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”目上”。初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音。原義は基線または手のひらの上に点を記した姿で、一種の記号。このような物理的方向で意味を表す漢字を、指事文字という。春秋時代までに、”はじめの”・”うえ”の他”天上”・”(川の)ほとり”の意があった。詳細は論語語釈「上」を参照。
敬(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”心から大事に思う”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。
養(ヨウ)
(甲骨文・金文)
論語の本章では、”やしなう”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「羊」+「丨」”つえ”+「又」”手”で、羊を放牧して養うこと。原義は”牧羊”。現行字体の初出は秦系戦国文字。字形は「𦍌」”ヒツジ”+「食」で、ヒツジを飼って暮らすこと。詳細は論語語釈「養」を参照。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
惠(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”恵みぶかい”。新字体は「恵」。初出は甲骨文。字形は「叀」(専)+「心」。「叀」は紡錘の象形とされるが、甲骨文から”ただ…のみ”の意に用いた。「惠」は”ひたすらな心”の意。春秋までの金文では”従う”、”善い”、”恵む”・”憐れむ”、戦国の金文では”憐れみ”の意に用いた。詳細は論語語釈「恵」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”労役に動員する”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
義(ギ)
(甲骨文)
論語の本章では”理にかなっている”。初出は甲骨文。字形は「羊」+「我」”ノコギリ状のほこ”で、原義は儀式に用いられた、先端に羊の角を付けた武器。春秋時代では、”格好のよい様”・”よい”を意味した。詳細は論語語釈「義」を参照。
其使民也義
現存最古の論語本である定州竹簡論語・唐石経・京大蔵清家本は「也」を記し、東洋文庫蔵・宮内庁蔵清家本は記さない。清家本は年代こそ唐石経より新しいが、唐石経より古い古注系の文字列を伝承しており、唐石経を訂正しうる。ただし論語の本章の場合、定州本が「也」を記すのでこれに従い校訂しなかった。
清家本のうち、伝承でもっとも古いのは京大本で、確定した年代でもっとも古いのは東洋文庫本になる。京大本が「也」と伝承したのを東洋文庫本・宮内庁本が書き落としたか、京大本が唐石経などを参考に「也」字を書き足したのかは分からない。
なお清家本に次いで古い日本伝承論語である正平本・龍雩本(本サイトでの仮称。国会図書館蔵『論語集解10卷』のうち「古寫」とされる本)は「也」字を記す。正平本は意図的な書き換えの見られない本なので、写し元の清家本には「也」字があったと想像できる。すると伝承通り、清家本は京大本がもっとも古いのかも知れない。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
論語:付記
検証
論語の本章は先秦両漢の誰一人引用せず、再録もしていない。定州竹簡論語にあるからには、前漢前半には論語の一章として記されていたのだろうが、後漢末の応劭による『風俗通義』に、「君子百行,子產有四」とあるのが唯一の近似例。
ただし内容的には後世の創作を疑うべき点が無く、創作するにしても動機が不明で、「焉」の字の論語時代に於ける不在はどうにもならないが、無くとも文意がほとんど変わらないので、論語の本章は孔子の史実の発言と思う。
解説
上掲の解釈は定州本に依ったが、武内本の校訂(最終句に「也」無し)に従って論語の本章を読み直すと、孔子または本章の創作者の政治観が窺える。
四つ挙げたうち、前の三つは言わば手段で、目的は四つ目に挙げた「民を正しくすること」だった。『史記』を信用するなら、孔子は中都の代官として、挙げ得た業績と言えばこれだけだった。
すなわち、肉屋ははかりを誤魔化さず、行商人はツケ払いを踏み倒されず、男女がまるで互いを疫病病みのように見て、避けて歩いたという(孔子世家)。これは孔子の政治理念と言うより趣味で、おまわりとチクリ屋をばらまかねば実現するものではない。
現代でもネズミ取りがあるから、スピード違反はある程度抑制されているのである。だがその代わりネズミ取り同様、孔子は住民から忌み嫌われて、結局政界での失脚を免れなかった。隣国の晏嬰が独裁者の崔杼に逆らっても、民衆の支持で失脚しなかったのとは違う。
なお晏嬰とは、次章に出てくる安平仲と同一人物。
一方子産は孔子が、最も尊敬した政治家と言われる。直接会って優遇された人物のことを、世間の評判は別として、孔子は悪く言わない。衛の霊公は例外だが、自国の殿様となると一切悪口は言わなかった。そのことを論語述而篇30で、陳の家老に批判されている。
南方の陳国へ政治工作に行ったときのこと。その家老・司敗どのが問うた。
「孔子どののかつてのご主君、昭公さまは礼を知る人でしたか?」
「ええ、ご存じでいらっしゃいました。」と答えてその場を出た。
ところが司敗どの、居残った我が弟子・巫馬期にお辞儀して言ったらしい。
「君子はつるまないものだと聞いていましたが、昭公さまは血のつながった掟破りの夫人を迎え、名のりを変えてごまかし、闘鶏のいさかいで国を追われたというのに、かばうとは…。」
巫馬期「先生、かくかくしかじか…。」
「でかした。よくぞ言ってくれた。あのカタブツは使い道があるぞ。」
一方子産の場合は同時代人の評判も良く、死去の際には鄭の国人が、音楽を奏でずアクセサリーの類を放り出して嘆いたという噂が魯国にも伝わった、という伝説が前漢後期の劉向著『説苑』に書かれている。
季康子謂子游曰:「仁者愛人乎?」子游曰:「然。」「人亦愛之乎?」子游曰:「然。」康子曰:「鄭子產死,鄭人丈夫舍玦珮,婦人舍珠珥,夫婦巷哭,三月不聞竽琴之聲。仲尼之死,吾不閒魯國之愛夫子奚也?」子游曰:「譬子產之與夫子,其猶浸水之與天雨乎?浸水所及則生,不及則死,斯民之生也必以時雨,既以生,莫愛其賜,故曰:譬子產之與夫子也,猶浸水之與天雨乎?」
季康子「仁者って人を愛するものかね。」
子游「ええそうです。」
「じゃあ人は仁者を愛するものかね。」
「そりゃあそうですよ。」
「でもなあ、知ってるだろ君、鄭国の子産どのが亡くなった時の話。男も女もアクセサリー放り投げて、街角に出てわんわん泣いて、三ヶ月も琴を鳴らす者がいなかったらしいぞ? なのに孔子先生が亡くなった時、ウチの国じゃ、誰も嘆かなかったじゃないか。」
「ええ。子産どのは言わば水売りで、孔子先生は天の雨です。水売りが来なければ人は干物になってしまいますから、そりゃあ嘆くでしょうよ。でも天の雨にはさんざん世話になっておきながら、ありがたいと思ったりするでしょうかね?」(『説苑』貴徳15)
いすれ作り話には違いないが、孔子が誉めたから、後世の儒者はこのように子産を扱った。この『説苑』と似たような話が、孔子と同世代の門閥の当主・孟懿子にも伝わっている。
『春秋左氏伝』の成立が『説苑』より古いのは言うまでも無いが、ではいつの成立かと問い詰めると、論語と同様に春秋時代では不在の漢字がいくつもあり、全篇が孔子の友人・左丘明の筆だとするのは無理がある。すると孟懿子の慕わればなしもまた、後世の創作なのだろうか。
そうではあるまい。儒者は孟懿子はじめ当時の魯国門閥=三桓をひたすら悪党呼ばわりしており、後世を大いに誤らせているのだが、それだけに三桓のいい話を創作する動機が無い。従って上掲のいい話は、少なくともいわゆる儒教の国教化が進められた前漢以降の作文ではない。
戦国時代の儒家を代表する孟子と荀子は、三桓について良いとも悪いとも書いていない。つまり無関心だったわけで、これまた三桓のいい話を創作する動機が無い。孔子の死去から孟子の生誕までは約一世紀あり、その間を生きたのが儒家の批判者・墨子だった。
墨子は「孔子は国公を放置して季孫家に仕え、季孫家は宰相でありながら国公を追放した。国都の住民が怒って季孫家を追い詰め、季孫家の当主は逃亡を余儀なくされた」と書いており(『墨子』非儒下10)、実は三桓の悪口は墨子に端を発するが、他の二家は非難していない。
ともあれこういう手続きを経て、やっと孟懿子のいい話は、史実と受け取れることになる。
話を子産に戻すと、子産は中国史上初めて法の公開に踏み切った人物でもあった。法は数学に似ているところがあり、同じ犯罪には同じ刑罰を科す、つまり関数のような働きをする。また法とは手続きであり、同じ手続きを外れないよう定めるのが法であると言ってもよい。
だが中国では古代から今に至るまでそうでもなかった。詳細は論語における「法」を参照。
余話
マルクス主義とは何か(人文は科学たり得るか)
法や数理は分かりやすい。分かる分からないを納得すればそれでいいからだ。
儒者や漢学教授には法や数理の視点を欠いた人物が少なくないが、論語や漢文の解釈も、根拠無き個人の感想に過ぎないのでは、科学ではなく学問ですらない、ただの芸能かも知れない。さらに誰も楽しませることが出来ないなら、それは芸能ですらなくもはや宗教と言っていい。
- 論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」
宗教も出来の悪い権力者や親や教師の言い訳に使われ、人を差別し奴隷化し収奪する道具になるなら、それは邪教に他ならない。論語や漢文は無慮二千年間、そうした歴史をもっている。だから漢学も科学になれないなら、ひたすら権威者のわがままに振り回される邪教に終わる。
振り回されないやりようがあるのだと、若い漢学徒には知って頂きたいものだ。人文は科学たり得るのか、という問題は、明治以来とくに敗戦以降、人文界の深刻な課題だったが、怯えて多くの者がマルクス主義に走った。理由は単純、数学が出来なくても科学を名乗れたからだ。
マルクス主義の前提には誤りがある。労働価値説がそれで、「よく頑張ったね」とお駄賃をくれるのは、人のいい親戚のおじさんぐらいで、ものの価格は需給が決める。前提と公理はほぼ同義だが、公理が否定された理論系ははじめからおしまいまで間違いと言わねばならない。
誤った前提を演繹して矛盾を示し、前提の誤りを証明するのを背理法という。矛盾は一例だけでもよい。高校一年の数学で習うはずだが、人のいいおじさんならぬ者がうろちょろしている人間界で、理系人士にもマルクス主義者が多かった。脳に機能障害でもあったんだろうか。
売り手と買い手が揃って売買が成り立つ。人は間違う生き物だから、人が集まった市場も時折行きすぎが起こる。だが行きすぎは市場が修正することが出来る。共産圏はそうでなく、売るも買うも権力が決める。人々は売りたくも買いたくもないのに売買しなくてはならない。
共産圏の権力はそうした人々を従わせるため、独裁権力になるほか仕方が無い。権力は必ず腐敗する。どんなに優れた肉体を持ち、どんなに知能に優れた人間でも、甘やかされると社会の迷惑にしかならなくなる。その集団は猛威を振るう。詳細は論語子罕篇23余話「DK畏るべし」を参照。
そして独裁権力の行きすぎを修正するためは、必ず流血が伴う。
独裁権力は、市場経済ゆえの貧困も解決できない。理由は独裁には必ず特権が伴い、批判者が無いから特権の行きすぎを抑えられないからだ。人民の平等をうたう共産圏が、ただの一つの例外も無く、党官僚など「赤い貴族」が支配する帝国になり果てるのはそれゆえだ。
ベレンコ中尉がMiG25をかっぱらって日本に飛んできた時、すわソ連軍が攻めてくるぞと日本中が震え上がった。中尉の動機はかみさんに党幹部の娘を貰い、その金遣いがあまりに荒かったからで、人類に普遍的な問題を、マルクス・レーニン主義は全く解決できなかったわけだ。
マルクス主義は独ソ戦を理由に勘違いされてきたが、反自由主義、暴カ主義、独裁者が法を超越する点でナチズムの同類であり、持ち付けない民主主義に国民が舞い上がって、歓喜して崇め奉ったという共通点がある。主義主張は個人の趣味だが、その仲間になるなどご免被る。
英知ある党、ボルシェビキ。(ロシア共産党党歌)
英知の有無にかかわらず、人を拝むのは神を拝むのと同じで、信仰と科学は相容れない。東京六大学の一校が、「Jに代わって貰った方がいいんじゃね?」と他の五校の、若干名に忌み嫌われている理由は、今世紀になっても暴カを事とする狂信的〒囗刂ス卜の巣窟なのが与っている。
左翼と縁遠いその体育会の者が、無闇に粗暴なのはおまけに過ぎない。
Redには話法というものがあって、DKどもの世代では、トロツキストとか走資派とか他人を言えば恐れ入ってくれた。だが今では𠮷外と見なされるので言わなくなった。それでも理解出来ない事柄に、Redが陰謀論とかのレッテルを貼って悪党呼ばわりするのは、今も続いている。
Redが陰謀論を悪とする理由は、マルクス主義のニセ唯物史観に反するとの思考停止からだ。ニセと言う理由は数学の出来ない男のこしらえた唯物論らしきものだからで、その史観では歴史も生物同様に進化すると言うが、いずれ必ず共産主義になるというご都合主義でもある。
つまり自分らに都合の悪い事実は全て、まっとうな進化から外れた陰謀だと言い張る。この間抜けが分かるほど赤い原書を読んだ者は皆無に近く、Redのくせにロシア語も中国語も出来ない。トロツキーのどこがいけなかったかも知らないのに、人をトロツキスト呼ばわりした。
こういうRedを黙らせるには、「では周期表の通りに元素が並んでいるのをその目で見たのか」と聞いてやれば良い。グズグズ言うかも知れないが、数理を知らないからたいていは黙る。
陰謀論と決めつける理由も数理的能力の欠如からで、「ソースを出せ」と明治のダメ親父のようなことを言い回るのは、足し算を知って引き算を知らない、あるいは正の数を知って負の数を知らないのと同じで、中学で習う程度の数学知識で、Redの間抜けは簡単に分かる。
連中の数理に対する怯えようについては、論語憲問篇15余話「特権階級になりたい」を参照。
他にもRedが貼りたがるレッテルに、「強者の論理だ」がある。ダニのようにたかりに来る弱者に、何で強者が遠慮しよう。強者の立場を認めないから、いつまでたっても弱者が保護されないのだ。つまりこのレッテルは、強者が横暴するのにまことに都合がよいと言ってよい。
ここから一つ分かるのは、Redは恐ろしく面倒くさがりという事実で、地道に勉強するのが嫌だから、ガキの頃に少しかじった真っ赤なあれこれにすがりついている。すがりついているから離す気は無く、離すには勉強しなければならないので、怖くて決して離さない。
精神と肉体は不分離だから、この面倒くさがりは肉体に必ず現れる。文系の大学院生にもよく見られる現象だが、中肉の者がめったにおらず、ぶよぶよと太っているか、がりがりと痩せていたりする。肉体がこうだから口では罵詈雑言を吐くくせに、暴力反対とかすぐ言い出す。
言い出すくせに上記狂信者の如く、弱い相手には嬉しそうに暴力を振るう。何でも平等、と言い回り、その実自分が利権を独占したがる。競争の無い社会は一つの例外も無く、独裁や専制だという事実を認めない。順位を付けないなら、子供にかけっこなどさせねばよかろう。
座にしがみつかず誰もが見て分かる結果に、黙って譲る。それが本当の強者の条件だ。なぜか? いつでも再挑戦できるからで、今度こそ取り返してやろうと自分を鍛える。鍛え続ける人間だけが強くなれる。宗教やなんたら思想やかんたらリズムの洗脳は、弱虫のすることだ。
そして強くなければ自分も人も守れない。つまりいつまでも優しくなれない。
訳者はロシア語以外の欧米語を、隻言半句も解さないが、『資本論』の英語版もドイツ語版も、おそろしく難解であるらしい。数学の出来ないおっさんが、科学を名乗って経済を説いたからには当然だ。漢学界で、白川静の著作がむやみに難解な言い廻しなのとよく似ている。
西田哲学が難解かつ無内容なのとも似ている。論語里仁篇15余話「ネズミ男」を参照。
「それを描けなければ、それを理解出来ない」とアイシュタインは言ったらしい。書き手も見えていない事を文章にすれば、マルクスや西田や白川のような文章になるのが理の当然といってよく、それなのに金を取って人に読み聞かせ、「信じろ」という。つまり宗教経典だ。
訳者が読み通したマルクスの著作は、岩波文庫『賃金・価格および利潤』だけだが、これは趣味人向けの演説をもとに、広く一般労働者を扇動する目的で書かれたらしい。だが断言できる。こんな無茶苦茶な文章を人々に読ませようとした動機は、ただ威張りたかっただけだ。
あらゆる難読文が読めない責任は、徹頭徹尾書き手にあり、読み手のせいでは全くない。
マルクスは数学が出来なかったからいけないと言うのではない。誰もが津軽海峡を泳いで渡れないように、数学の出来は向き不向きの問題だからだ。だがヒトも動物でその営みである経済は自然現象だ。数理的裏付けのない自然現象の解釈は、言い出した者を開祖とする宗教だ。
無論ブッダの言葉のように、数式一切無しで現代宇宙物理学と同じ結論に達することはある。だが岩波文庫が正しければ、ブッダは死没の寸前まで、発光した梵天に頼まれただの、天から琵琶弾きが下りて来るだの、沙羅双樹が咲くだのと、じたばたと絵空事を弟子に語り続けた。
死なねばいつまで続いたか分からない。存外うんざりした者による暗殺かも知れない。
開祖の言葉や経典を疑わず信じろと宗教は強制する。従わない者を異教徒や異端と呼び、殺してもかまわないと平気で言う。訳者はそんなことで死にたくない。現在の人類がペニシリンやハーバーボッシュ法の恩恵を受けている裏で、信仰は思考停止で知性の敗北にほかならない。
宗教はパイの切り分けをうるさく言っても、パイの大きくさせ方を知らないからだ。政治を伴うなんたら思想のたぐいも同様で、必ず人間を差別して、高位の者だけで社会の資源を独占する。ひとえに科学=批判を許すことを許さず、自然界の原理を理解出来ないからだ。
マルクス主義流行の裏には、中ソの見かけ上の躍進もあったが、人文界はソ連崩壊後も奉じつづけており、今なお天動説を主張するに等しい。北センチネル島へ渡った島外人は、もれなく取って●われたと見られている。数理やITを拒む文系業者も、訳者には原住民同然に思える。
言葉→情報の売人が、ITを使わず情報処理しているのだから。もちろんセンチネルも津軽海峡の理屈で、生まれてしまった土地は、親の責任ではあっても当人のせいではない。ITを使えない文系業者の使えない理由も同様だが、えらく稚拙なことを言いふらしているのは免れない。
だから非業界人が、稚拙な業者の言いふらしを真に受けると損をする。だがITの発達により、個人の情報処理能力は飛躍的に増大したから、業者に頼らなくとも元データを自分でいじれる。今や人文は科学たり得るし、数学が出来る必要もない。嘘さえつかなければ十分だ。
知っていることを知っていると人に言うのはよろしい。だが知りもしないことを知っているとウソをつくのは、頭の悪い者のすることだ。(論語為政篇17)
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