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儒家の道統と有若の実像

論語には少なからず、後世の創作が含まれている。登場人物も同様で、孔子との対話が記されていないか、対話が偽作と判明している場合、その人物は孔子の直弟子とは言えない。例えば曽子がその一人。そして有若もその一人。

だが有若は曽子同様「有子」と孔子並みに尊称され、論語の第二章という特等席から、2500年後の論語読者に説教を垂れている。いったい有若とは何者なのか。

儒家の道統

現伝儒教はほぼ朱子学と言ってよい。名高い陽明学は朱子学と比べ、ユダヤ教とキリスト教ほどの違いは無い。朱子学は元帝国の頃から中国で国教と見なされ、江戸幕府も朱子学を国教に近い地位に据えた。その朱子学では、孔子以来の代々の宗家の系譜を、道統と呼ぶ。

論語 孔子論語 曽子論語 孔伋子思?論語 孟子

  1. 孔子:BC551-BC479
  2. 曽子:BC505-BC432?
  3. 子思:BC492-BC431
  4. 孟子:BC372?-BC289?

うち曽子は孔子の直弟子とされ、子思は孔子の孫とされる。孔子に男子は一人だけで、その孔鯉は孔子に先立って世を去った。ともあれこうした道統は、儒者に言わせれば、唐代(618-907)には分からなくなっており、大儒・韓愈(768-824)は「歎いて」こう言っている。

周道衰,孔子沒,火於秦,黃老於漢,佛於晉、魏、梁、隋之間。其言道德仁義者,不入於楊,則入於墨。不入於老,則入於佛。入於彼,必出於此。入者主之,出者奴之。入者附之,出者汙之。噫!後之人其欲聞仁義道德之說,孰從而聽之?老者曰:「孔子,吾師之弟子。」佛者曰:「孔子,吾師之弟子也。」為孔子者,習聞其說,樂其誕而自小也,亦曰:「吾師亦嘗師之云爾。」不惟舉之於其口,而又筆之於其書。噫!後之人,雖欲聞仁義道德之說,其孰從而求之?甚矣!人之好怪也。不求其端,不訊其末,惟怪之欲聞。

韓愈
周の政道が衰え、孔子が世を去り、儒教経典は秦が焼いてしまい、道家が漢で流行り、仏教が三国から南北朝にかけてはびこった。道徳や仁義を語る者は、楊朱の学派でなければ墨家に入り、道家でないなら仏教に入った。

どこかへ入った者は必ずどこかに見切りを付けた者で、入った者は聞くに堪えないおべんちゃらを言って歓迎されたが、出て行った者は捨て台詞を残して元の仲間にこき下ろされた。ああ、こんな具合では、後世の人が正しい仁義道徳を聞こうと思っても、聞ける場所がどこにもない。

道家は勝手に「孔子は老子の弟子だ」という。坊主は勝手に「孔子はお釈迦様の弟子だ」という。世の儒家は、こうしたデタラメを真に受けて、「これでいいのだ」と開き直り、「私の師匠は、そのまた師匠がかくかくと言った話をしかじかと言った」と称して済ませている。口で言うだけでなく、本にまでそう書いている。

ああ、だから本当の仁義道徳は、どこへ行っても聞けないのだ。世の人の、デマを信じたがるバカバカしさよ。出所を確かめず、尾ひれが付いた先を想像もしない。ただ珍しい話というだけで飛び付くのだ。(韓愈「原道」)

ヒマラヤ山脈
韓愈センセイが言う通り、ヒマラヤ越えをしなかった孔子が同時代人とはいえブッダの弟子ではありえないが、孔子が「礼」を老子に習った話は『史記』孔子世家や老子伝にあり、史実と仮定しても無理がない。ともあれ韓愈は嘆きのついでに、上掲のような道統を言い始めた。

孟軻師子思,子思之學,蓋出曾子。自孔子沒,群弟子莫不有書,獨孟軻氏之傳得其宗,故吾少而樂觀焉。


孟子は子思に学び、子思の学派は、おそらく曽子から引き継いだ。孔子が世を去ってから、あまたの弟子で自説を立てなかった者は無いが、ただ孟子だけが、孔子の正統な学問を引き継いだ。だから私は、子供の頃から経典『孟子』を学んだ。(韓愈「送王秀才序」)

ただし孟子が子思に学んだと言うのは年代的に無理で、『史記』孟子伝が「受業子思之門人」と言う通り、仮に学んだにせよ子思の弟子からだろうが、その些細に目をつぶれば、この道統が南宋時代の朱子によって正統とされ、曽子と孟子は偉い宗家の一人に加えられた。

聖聖相承…夫道統之傳,若吾夫子,則雖不得其位,而所以繼往聖、開來學,其功反有賢於堯舜者。然當是時,見而知之者,惟顏氏、曾氏之傳得其宗。及曾氏之再傳,而復得夫子之孫子思,則去聖遠而異端起矣。…自是而又再傳以得孟氏,為能推明是書,以承先聖之統,及其沒而遂失其傳焉。

論語 朱子 新注
聖人は聖人に道を伝えた。…これを道統の伝えという。わが孔子先生は君主でも大臣でもなかったが、堯舜以来の聖人の道を引き継ぎ、学塾を開いて弟子に教えた。その功績は堯舜にも劣らない。

だが当時、孔子の教説を学び尽くせたのは、顔淵と曽子だけだった。だから曽子が儒家の宗家となり、孔子先生の孫である子思に伝えた。異端が出来始めたのもこのころである。

…正統派の学説が孟子に伝わると、孟子は子思の書いた『中庸』をよく理解出来たので、いにしえの聖人の道を引き継げた。しかし道統はそこまでで、孟子没後は失伝してしまった。(朱子『中庸集注』序)

以上がおおむね「正統な」儒教の系譜だが、ここに異聞が一つある。それはほかでもない宗家の一人に数えられた孟子の言い分で、孔子没後にあとを継いだのは曽子ではなく、論語第二章の発言者、有若だという。

子貢反,築室於場,獨居三年,然後歸。他日,子夏、子張、子游以有若似聖人,欲以所事孔子事之,彊曾子。曾子曰:『不可。江漢以濯之,秋陽以暴之,皜皜乎不可尚已。』


(孔子先生が亡くなって、三年の喪が明けた。)子貢だけはなお、墓のそばに小屋がけして、更に三年の喪に服したが、その後で(任国の斉へ)帰ってしまった。しばらくして、子夏と子張と子游が、有若の顔が聖人に似ているからと言って、孔子と同様に師匠として仰ごうとし、曽子にも「お前もそうしろ」と言った。

曽子「いやですね。大河でジャブジャブ洗った上に、秋の陽にカンカンと晒した布のように、有若の頭の中は真っ白だ。こんな馬鹿を拝むなんてとんでもない。」(『孟子』滕文公上4)

この伝説は、『史記』にすこし文を違えて、より長く記されている。

孔子が亡くなった。弟子は思慕のあまり、有若の見た目が孔子に似ていたので、相談して有若を二代目の師匠に据えた。一門が有若を敬う態度は、孔子と同じだった。ある日、ある弟子が有若に問うた。

「昔、孔子先生がお出かけになる時に、お天気だったのですが、弟子に雨具を持たせたことがありました。そうしたら雨が降りました。弟子が孔子先生に問いました。先生はどうして分かったんですか、と。そうしたら孔子先生は、詩にあるだろう、畢の月が終われば、大雨が降ると。昨晩、月は畢の位置にあっただろう、と。しかし別の日、月は畢にありましたが、とうとう雨は降りませんでした。

また商瞿が歳を取ったのに、子が無いので、その母がめかけを取ろうとしました。孔子先生が商瞿を斉へ使いに出そうとすると、母親がめかけを下さいと願いました。そうしたら孔子先生は、心配するな、四十歳を過ぎたら、丈夫な五人の男の子に恵まれるよ、と言いました。この予言も当たりました。そこでです、なぜ孔子先生はこれらが分かったのですか。」

有若は黙ったまま、答えられなかった。弟子は立ち上がって言った。
「有先生、その座を降りなさい。そこはあなたが座っていい場所ではありません。」(『史記』仲尼弟子列伝98)

すると儒家の道統には修正の必要が出てくる。

  1. 孔子:BC551-BC479
  2. 有子(有若):BC518-BC458?
  3. 曽子:BC505-BC432?

ところがこの有若、一体誰なのか分からない。

有若なんていなかった?

論語 有若
有若は儒家の二代目であるだけでなく、論語の第二章という特等席で、お説教を垂れもした。論語の冒頭学而篇には、そのほか二章の言葉が載り、さらに論語顔淵篇9にも言葉が載る。ところが孔子との対話が一つも載らず、孔子の直弟子だった証拠がない。

後世の史料は、有若について次のように言う。

有若は、孔子より四十三歳年少である。
〔引き続いて論語学而篇12の引用・論語学而篇13の引用・上掲有若二代目解任劇〕(『史記』弟子伝・有若)

有若,魯人,字子有。少孔子三十六歲,為人強識,好古道。


有若は魯の出身で、あざ名は子有。孔子より三十六歳年少で、人となりは記憶力に優れ、いにしえの道を好んだ。(『孔子家語』七十二弟子解・有若)

『史記』の成立は前漢中頃、『孔子家語』の成立はやや下るが、前漢宣帝期に埋蔵の定州漢墓竹簡に含まれている。そして『史記』は解任劇を記したものの、有若のあざ名すら記していない。その『史記』から40年ほどで、急に有若のあざ名や人となりが判明するのは不可解だ。

前漢年表

前漢年表 クリックで拡大

どちらも300年以上の昔を見てきたように記しており、必ずしも当てには出来ない。だが『史記』では有若のあざ名すら知られなかったし、弟子伝の27番目に出るのが重大事で、二代目宗家ともあろう人物が、孔子に「バカ」と言われた子羔よりもあとの扱いを受けている。

『史記』弟子伝の順序は次の通り。


  1. 顔回・子淵(孔門十哲。孔門KGB長官?→もっと侮れない顔氏一族)
  2. 閔損・子騫(孔門十哲。弟子と言うより友人?→論語雍也篇9)
  3. 冉耕・伯牛(孔門十哲。新興士族冉氏の長老→侮りがたい冉氏一族)
  4. 冉雍・仲弓(孔門十哲。冉氏一族)
  5. 冉求・子有(孔門十哲。冉氏一族、政戦両略の才があった)
  6. 仲由・子路(孔門十哲。一番弟子)
  7. 宰予・子我(孔門十哲。後世になって嫌われた)
  8. 端木賜・子貢(孔門十哲。政才商才に最も優れた)
  9. 言偃・子游(孔門十哲。ヤラセを辞さない如何わしい人物)
  10. 卜商・子夏(孔門十哲。石頭の文学青年)
  11. 顓孫師・子張(やんちゃ坊主で孔子に可愛がられた→論語為政篇18)
  12. 曾參・子輿(曽子。直弟子でない?→論語学而篇4)
  13. 澹臺滅明・子羽(実在が怪しい→論語雍也篇14)
  14. 宓不齊・子賤(孔子曰く「君子なるかな」→論語公冶長篇2)
  15. 原憲・子思(孔子の孫とは別人。孔子家の執事→論語雍也篇5)
  16. 公冶長・子長(孔門の諜報員?→論語公冶長篇1)
  17. 南宮括・子容(魯国門閥の一家の当主・孟懿子の弟→論語憲問篇6)
  18. 公皙哀・季次(→wikipedia)
  19. 曾蒧・皙(曽子の父)
  20. 顏無繇・路(顔淵の父)
  21. 商瞿・子木(→wikipedia)
  22. 高柴・子羔(孔子曰く「バカ」→論語先進篇17)
  23. 漆雕開・子開(「役所勤めに自信がありません」→論語公冶長篇5)
  24. 公伯繚・子周(孔門に不和の種を撒いた→論語憲問篇38)
  25. 司馬耕・子牛(孔子に政治利用された一門唯一の上級貴族→論語述而篇22解説)
  26. 樊須・子遲(孔子の二代目警護役→論語子路篇4)
  27. 有若
  28. 公西赤・子華(外交官として活躍→論語雍也篇4)

キリが無いからここで止めるが、司馬遷にとって有若は、記すに足りないと思ったし記すに足る資料も手元になかったのだろう。論語の時代について『史記』なみに頼れる文献は『春秋左氏伝』しかないが、そこには有若について心細い記述がそれも一件しかない。

(哀公)八年…三月,吳伐我。…微虎欲宵攻王舍,私屬徒七百人,三踊於幕庭,卒三百人,有若與焉,及稷門之內,或謂季孫曰,不足以害吳,而多殺國士,不如已也,乃止之。


哀公八年(BC487)…三月、呉が攻めてきた。…魯の微虎が呉王の陣屋に夜襲をかけようとし、自家の使用人を七百人集めて三度高飛びをさせて体力測定し、選抜して足軽三百人に編成したが、〔有若/まだ幼い者〕も加わっていた。部隊が魯の城門内に集結したとき、ある人が筆頭家老の季康子に言った。「これでは呉軍に太刀打ちできない。むざむざ討ち死にを出すだけだ。止めた方がいいでしょう。」季康子は同意して取りやめになった。(『春秋左氏伝』哀公八年2)

原文の「有若」は〔有若/まだ幼い者〕のいずれにも決めがたいが、有若が孔子の直弟子なら士分のはずで、微虎の使用人であるわけがないし、「卒」=足軽に引っ張られるわけがない。別の戦で孔門の冉有は魯軍の部将を務め、樊遅は将校として戦車の乗員になった。

つまり有若の実在を証せる同時代史料は、皆無になってしまう。また戦国末期に儒家の代表格だった荀子は、儒家の他派閥を口汚く罵っているが、有若について一切述べていない。つまり有若派なるものは、もしあったとしても戦国の末には、すでに消失していたことになる。

有若は架空の人物なのだろうか。

有若とは誰か

有若の名がかろうじて後世に伝わったのは、論語に四章の発言があることと、孟子が上記のように解任劇を記しただけでなく、それなりに敬意を払った記述も残しているからだ。

(孟子)曰:「宰我、子貢、有若智足以知聖人。汙,不至阿其所好。宰我曰:『以予觀於夫子,賢於堯舜遠矣。』子貢曰:『見其禮而知其政,聞其樂而知其德。由百世之後,等百世之王,莫之能違也。自生民以來,未有夫子也。』有若曰:『豈惟民哉?麒麟之於走獸,鳳凰之於飛鳥,太山之於丘垤,河海之於行潦,類也。聖人之於民,亦類也。出於其類,拔乎其萃,自生民以來,未有盛於孔子也。』」

孟子
孟子が申しました。「宰我や子貢や有若は、孔子が聖人だと知るだけの知能を備えていた。卑屈になって孔子の好みにへつらう事も無かった。

その宰我が言うには、”孔子先生の偉さは堯舜をも凌ぐ”という。子貢が言うには、”孔子先生は一国の礼のさまを見れば政治の状態を判断でき、演奏を聴けば奏でさせた者の徳を判断できた。百世代のちのいかなる君主だろうと、この判断を誤らなかっただろう。こんな事が出来たのは、人界で孔子先生ただ一人だ”という。

有若が言うには、”孔子先生は身分低く生まれたが、その同類と言えるだろうか。聖獣の麒麟は獣の仲間で、吉鳥の鳳凰は鳥の仲間で、聖山の泰山も山の仲間で、黄河や大海も水たまりの仲間だ。聖人も民の一人ではあるものの、そこから出て抜きん出て、途方もない高みに登った。人界始まって以来、孔子先生ほど偉い人はいない”と。」(『孟子』公孫丑上2)

史実では孔子没後、一旦滅びた儒家を再興したのは孟子で、『史記』が言う通り孟子が曽子→子思の系統を引き、曽子が有若に取って代わって宗家の座に座ったのなら、孟子は曽子や子思の持ち上げを書く動機はあるが、有若を持ち上げる動機が無く、悪口を言う方がふさわしい。

また有若は論語の第二章に、「有子」とその名が記されている。○子というのは孔子のように開祖級の学者か、季康子のように大貴族でないと名乗れない。のちに衛や斉の宰相となった子貢ですら、呼び名は子貢であって貢子ではない。有若は孔子と同格に置かれているのだ。

また戦国から前漢に掛けて編まれた『小載礼記』にこういう。

有若之喪,悼公吊焉,子游擯,由左。


有若が世を去った。魯の悼公は葬儀に出席し、子游がその左隣で介添え役を務めた。(『小載礼記』檀弓下132)

これが史実なら、有若はその葬儀に国公の参加があるほどの大物だったことになる。論語や左伝のか細い記述と比べると、全く別人と言っていいほどだ。『礼記』を最終的にまとめた漢儒は、孟子の後継を自称したから、この記述が偽作ならその動機が無い。

ないないづくしの有若には一つだけ、無いはずのあざ名という突破口がある。繰り返すが『史記』まで有若のあざ名は知れず、『孔子家語』から「子有」と記した。そしてこのあざ名を共有する孔子の有力弟子に、孔門十哲の一人・冉求子有がいる。

論語 冉求 冉有
その詳細は人物図鑑を参照して頂きたいが、孔子亡命中にも魯国に残って、筆頭家老の季孫家で執事を務め、下掲の斉とのいくさでは魯軍の半分を預かったばかりか、自家からの兵を出し渋る主家を説得して魯の戦勝を導いている。季孫家からよほど信用がないと出来ない事だ。

孔子が帰国できたのも、冉有が武勲を背景に、季康子に孔子帰国を説得したからだ。

その明くる年(哀公八年、BC487、孔子65歳)、冉有は李氏の将軍になり、斉と郎の地で戦って勝った。李康子が言った。「そなたはどこで戦いを学んだのか。生まれつき才があったのか。」冉有が言った。「孔子先生に教わりました。」

李康子が言った。「孔子はどんな人なのか。」冉有は答えた。「先生を用いれば諸国でのあなたの評判が良くなり、その採用は、民衆に知らせても、先祖の霊や山川の神に当否を問うても、後悔することがありません。先生を呼び戻せば、きっとそうなるでしょう。ただし、たとえ千社=二万五千戸の領地を与えて厚遇すると言っても、先生はそれにつられてふらふらとやって来るような方ではありませんぞ。」

李康子が言った。「では私は孔子を呼ぼうと思うが、良いか。」と。冉有は答えた。「先生を呼ぶなら、有象無象の凡人が、先生をうんざりさせるようなことをせねば、まあよろしいでしょう。」(『史記』孔子世家55)

齊伐魯。季氏用冉有有功,思孔子,孔子自衛歸魯。


斉が魯を伐ち、季氏は冉有の武勲を認め、孔子を呼ぼうと思い、こうして孔子は衛から魯に帰った。(『史記』魯周公世家)

このように冉有の活動は儒者と言うより春秋の君子=貴族で(論語における「君子」)、もともと孔子塾は君子に成り上がりたい庶民が入って、君子にふさわしい技能教養を身につけて仕官する場だったから、卒業生としてはむしろ冉有の方が当たり前で、学者の方が珍しい。

孔子の逝去時、一門で最も社会的地位が高かったのは、故国の衛や東方の斉で宰相格だった子貢で、魯の宰相家の執事だった冉有はそれに次いだ。だが孔子の喪が明けると名の知れた者は、冉有と子游、そして政治的にも学問的にも何の実績も無い曽子しか魯国に残らなかった。

孔子は死に際して、誰にも「あとを継げ」とは言わなかった(孔子はなぜ偉大なのか)。しかし諸国政界にそれぞれ根を張った儒家の宗家を、誰かが管理しなくてはならない。『荀子』によれば、子游は開き直って冠婚葬祭業に徹したようだし、曽子には一門をまとめる力量が無い。

衆目の見るところ、儒家の宗家を継ぐのは冉有しかいなかっただろう。一族内に冉雍仲弓という有力な弟子仲間もいたし、新興士族としてそれなりに自前の兵力まで持っていたからだ。そして冉有もまた、有若同様「冉子」という孔子並みの敬称が、論語に記されている。

  1. 論語雍也篇4:冉子爲其母請粟/冉子與之粟五秉
  2. 論語子路篇9:子適衞、冉子僕
  3. 論語子路篇14:冉子退朝

つまり冉有は、大貴族の一人として扱われていた。その春秋の君子らしい武勲は上掲の通りだが、いくさばかりが君子の仕事ではない。政治の才もあらねばならないが、冉有は政治の中でも最も難しい、税制改革に奔走してそれに成功したと読める記録がある。

哀公十一年(BC484)、魯国宰相の季孫家当主・季康子が、耕地の面積に基づく新税法を施行しようとした。そこで冉有を孔子の下へ使わして意見を聞いた。
孔子「知らん。」

三度問い直しても黙っているので、冉有は言った。「先生は国の元老です。先生の同意を得て税制を行おうとしているのに、どうして何も仰らないのですか。」それでも孔子は黙っていた。だがおもむろに「これは内緒話だがな」と語り始めた。

「貴族の行動には、礼法の定めによって限度がある。配給の時には手厚く、動員の時はほどほどに、徴税の時は薄くと言うのがそれだ。そうするなら、従来の丘甲制で足りるはずだ。もし礼法に外れて貪欲に剥ぎ取ろうとするなら、新しい税法でもまた不足するぞ。

御身と季孫家がもし法を実行したいなら、もとより我が魯には周公が定めた法がある。その通りにすれば良かろう。そうでなく、もしどうしても新税法を行いたいなら、わしの所へなぞ来なくてよろしい。」そう言って許さなかった。(『春秋左氏伝』哀公十一年)

ここで孔子が冉有を「御身」と敬称で呼んでいるのは、訳者の潤色ではなく、原文に「子季孫」とあり、”御身と季孫家当主”を意味する。論語で「子曰く」と言えばほぼ孔子の事だが、その孔子が弟子の冉有を呼ぶのにも、また「子」という敬称を用いたことになる。

十二年,春,王正月,用田賦。


翌十二年(BC483)、春、王の正月、新税法が施行された。(『春秋左氏伝』哀公十二年)

魯国門閥家老筆頭の季氏は、周王の直臣である周公より富んでいた。ところが季氏の執事・冉求は、せっせと税を取り立てて、益々季氏を太らせた。
孔子「あんなのもう弟子じゃない! …コリャお前達、太鼓をドンドン叩いて、冉求(=冉有)をこらしめてやりなさい!」(論語先進篇16)

新税法施行の4年後、孔子は世を去る(BC479)。その間冉有との関係は必ずしも良くなかったようで、上掲先進篇のほかにも、まるで嫌味のようなことを孔子は言った(論語子路篇14)。これは孔子没後の弟子たちの感情に、少なからぬ影響を与えたことだろう。

そして論語に唯一記された有若の対話も、この税制の話題だった。

哀公「今年は飢饉じゃ。税収が足りぬ。」
有若「前例通りになさいませ。」
哀公「十分の二取ったがなお足りぬ。前例通りになどできるか。」
有若「民が足りたならそれは殿が足りたこと。資源は共有するものでございますよ。」(論語顔淵篇9)

哀公の治世中、『春秋左氏伝』に饑饉の記録があるのは十四年(BC481)だけで、上掲対話がこの時とするなら、税制改革の2年後になる。税制改革には必ず既得権益の破壊がつきまとい、その実務担当は必ず嫌われる汚れ仕事だ。冉有はさぞかしうんざりしただろう。

論語 弩 戦車戦
当時の税制は兵制と一体で、武将でもある冉有は、改革の必要を理解していただろう。戦場の主役が戦車から、歩兵に切り替わりつつあったからだ。だが既得権益層には必ず貴族が含まれ、春秋の貴族は気に入らないことがあると、気軽に暴カに訴える厄介な存在だった。

二二六事件で高橋是清がなぜ殺されたかを思うとよい。日本帝国は日露戦後に為すべき軍縮を放置し、そのツケが巨大になってやっと手を付けたが、昇進を閉ざされた軍人が勝手に暴れ出した。日本帝国の滅亡の原因はひとえにこれだが、武装した既得権益ほど凶暴なものは無い。

冉有は、役所の看板に隠れて増税を嬉しがる、現代の財務官僚とは事情が違う。つまり税制改革は文字通り命がけで、だからこそまだ国外にいた孔子の力も借りようとした。国際傭兵団の顔濁鄒親分と盃を交わした孔子の援助が得られたら、願ったり叶ったりだったに違いない。

そしてもし有若→冉有なら、上掲対話は「もう一度税制改革をやるなどまっぴらだ」と言ったと理解出来る。政界での活動が全く記されない有若が、偉そうに殿様に説教する不可解も、有若→冉有なら説明が付く。ならば有若は冉有の、後世つけ加えられた称ではなかったか。

誰が有若を作ったか

なお『春秋左氏伝』は孔子没後なお11年、哀公二十七年(BC468)まで記述があり、冉有についての最後の記述は、哀公二十三年(BC472)、宋の景公の母の葬儀に際し、季康子が冉有を弔問に派遣した記事になる。戦国時代の孟子は冉有について一切述べず、荀子は冉子と尊称した

孟子
孔子没後一世紀に現れた孟子は、それなりに孔子存命中の儒家の情報を知っていたはずで、冉有について何も記さないのは不可解だ。そして孟子も論語に偽作を押し込んでいる。となると有若とは、孟子によって書き換えられた、冉有のことではないかと思いたくなる。

孟子が生まれたのはスウと言うまちで、孔子の時代にはチュと呼ばれ、魯国に取り囲まれた小国だった。孟子存命中に楚国に併合されてしまったが、孔子の時代では魯国に占領されたこともある(『春秋左氏伝』哀公七年)。攻め込んだ兵には当然、冉氏一族もいただろう。

孟子にとって冉有は、孔門十哲に加えるべき先達と同時に、祖国の鄒を脅かした張本人でもあり、忌まわしい存在でもあるわけで、出来れば論評を避けたい人物でもあった。しゃべっていないと死んでしまうような性格の孟子が、冉有を語らなかったのはそれゆえだ。

また孟子の在世当時、魯国の門閥三家=三桓の筆頭だった季孫家は独立して費国を建てていた。その季孫家に武力を提供していた冉氏一族が、当時どうなっていたかは記録が無い。だが滅亡の記録も無いから、相変わらず鄒を脅かしうる勢力だった可能性がある。

孟子が冉有に対して抱いた感情はこの通り矛盾を抱えており、その解決には名前を変えてしまうのが手っ取り早い。この程度の改竄は、孟子ならずとも中国人なら平気でやるし、日本の儒者も稼ぐためなら、せっせとニセ文書を作っては売り歩いた(論語はどのように作られたか)。

孟子が儒家を再興したのは世間師稼業のためであり、再興できたのは儒家が絶えていて、文句の出るおそれが無かったからだ。だから好きなように経典を改竄できたし、気に入らない者の名は消しも出来た。哀れ冉有はその手によって、別人・有若へと書き換えられたのである。

荀子
対して荀子は冉有を「冉子」と尊称した。孟子から見て荀子は、60も年下の小僧に過ぎないが、荀子は孟子と違い世間師としても成功し、大国斉の宰相にまでなっている。その荀子がさかんに孟子に噛みついたのは儒教史の常識だが、それゆえ冉子と持ち上げる理由にもなる。

そして荀子は、「有若」「有子」「子有」のいずれも記さなかった。有若の存在を否定したわけだが、孟子による創作に気付いていたかも知れず、存在を否定する動機は十分にある。もし荀子が出なかったら、『春秋左氏伝』を含む冉有の記録は、消えていたかも知れない。

董仲舒
さらに後、漢帝国のいわゆる儒教の国教化を推し進めた董仲舒は、冉有を「冉子」と尊称している。漢儒はおおむね孟子の系統を引くが、冉有の扱いに関しては、孟子よりも荀子に近い。そして現伝の論語が確立するのは、前後の漢帝国の時代だった。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

だが有若→冉有と気付くには、孔子から三世紀というあまりに多くの時間が過ぎ去っていた。

道統の真相

孔子没後、有若→冉有が儒家の二代目となったとき、孔子の弟子は四分五裂しただろう。孔子存命中の孔門は、第一に官吏養成学校であり、第二に国際的ネットワークを持つ政治勢力だった。その弟子は言い換えるなら、かたや学者、かたや政治家だった。

政治家だった有若→冉有が二代目になったことは、学者的な弟子には受け入れがたかった。それが上掲の二代目解任劇になるのだが、その元は孔子のあまりの博覧強記にあった。ゆえに冉有ばかりでなく、同じく政治家だった子貢も、孔子の教説全てには通じなかった。

論語 子貢 思いで
子貢「先生の文系の話は良く分かったが、理系の話はよく分からなかった。」(論語公冶長篇12)

だがだからと言って、有若→冉有のあとを曽子が継いだというのも理屈が通らない。孔子は曽子を「ウスノロ」と罵倒しており(論語先進篇17)、冉有や子貢より学識に優れたとは到底思えないからだ。論語に孔子との対話が偽作の一章しかない曽子は、弟子とすら言いがたい。

その結果、三代目を担える弟子は、ただの一人もいなくなってしまった。だが宗家は必要で、ここで孔子の孫・子思が持ち出された。学問や政治に通じなくとも、血統の権威でみな納得したからだ。だが弟子たちは子思を中心に、儒家を盛り立てようとはしなかった。

子思
伯魚(=孔子の一人息子)は伋を生み、字は子思、享年六十二歳。宋で困窮した。子思は『中庸』を書いた。(『史記』孔子世家)

『中庸』を書いたというのは眉唾ものだが、子思は貧窮にあえいで、魯に止まることも出来ず、もとは宋出身だった孔子家の縁戚を頼って流れていった。孔子の直系子孫を名乗る家は今でもあるが、それが事実かどうかは、もはや誰にも確かめようがない。

子思を盛り立てる代わりに流行ったのは、派閥争いだった。

曽子「子張めは押しが強すぎて、とてもじゃないが仁の情けがあるようには見えないし、図々しくて付き合いきれない。」(論語子張篇16)
子夏の弟子「人付き合いの要点をご教示下さい。」
子張「子夏は何と教えたかね?」
子夏の弟子「出来が悪くなければ付き合え、悪ければ付き合うな、と仰せでした。」
子張「私がもれ聞いた孔子先生の教えは違うな。」(論語子張篇3)
子游「子夏の所の弟子は、掃除や客のあしらい、立ち居振る舞いは悪くないが、そんなチマチマしたことばかり熱心になって、根本が分かっていない。困ったもんだ。」
伝え聞いた子夏「やれやれ。子游は何も分かっちゃいない。」(論語子張篇12)

これに嫌気が差したのか、子夏は北方の魏国に招かれて魯を去り、魯の孔門に残ったのは曽子のほか、名も無い弟子ばかりになった。彼らは言わば「孔子テーマパーク」の興行師で、「礼楽音頭」を流しながら「孔子せんべい」や「顔回まんじゅう」を売るようにして暮らした。

孔子の弟子や魯の人で、墓のそばに行って住まう者の家が百あまりあったので、「孔子の里」と名前を付けた。魯ではその墓を代々管理して残し、年に一度の供養を行った。さらにいろいろな儒者も墓にやってきて、そこで礼法を講義し、里の宴会を開き、弓術の大会を行った。(『史記』孔子世家)

孔子存命の頃から実権の無かった魯国公は、その後さらに衰微した。その魯国政府が、毎年孔子の墓の前で、盛大にチンチンどんどんをやったとは信じがたい。いずれ興行師の手によって、客寄せのためにイベントが定期的に開かれていたと見るべきだ。

その興行もうまく行ったとは思えず、だから御本尊の子思が宋に流浪のやむなきに至った。曽子は魏国に向かい、国公の相談役としてそれなりの栄達を果たしていた子夏をゆすってたかった。すでに子貢や冉有が世に在ったか定かではなく、存命でも相手にされなかったのだろう。

子夏喪其子而喪其明。曾子吊之曰:「吾聞之也:朋友喪明則哭之。」曾子哭,子夏亦哭,曰:「天乎!予之無罪也。」曾子怒曰:「商,女何無罪也?吾與女事夫子於洙泗之間,退而老於西河之上,使西河之民疑女於夫子,爾罪一也;喪爾親,使民未有聞焉,爾罪二也;喪爾子,喪爾明,爾罪三也。而曰女何無罪與!」子夏投其杖而拜曰:「吾過矣!吾過矣!吾離群而索居,亦已久矣。」


子夏は子に先立たれて、悲しみのあまり失明した。そこへ曽子がやって来た。

曽子「友人が失明したら、泣き声の礼をするのがお作法だ。では、わあわあ。」
子夏「うわわわわん。天よ! 私に何の罪がありましょう。」

曽子「何だと子夏、お前のどこが罪無きなのだ。ワシはお前と共に魯国で、孔子先生から学んだが、老いた今この魏国に来てみると、民どもは”子夏先生は孔子様の生まれ変わりじゃあ”とか言っている。そんな図々しいことを言わせていい気になっていたようだな。次にお前の身内が亡くなったとき、お前は弔問に来た民を追い返したそうだな。さらに子を死なせ、親から頂いた体を粗末にして失明した。それなのに”何の罪”とは、不見識にもほどがある。」

子夏はすがっていた杖を放り投げて、曽子を拝んで言った。「その通り、ワシが間違っていた。ワシは孔門をないがしろにして勝手に離れ、随分長いこと、一人でいい気になっていた。」(『小載礼記』檀弓上40)

こうして孔子没後百年が過ぎると、仮に魯に儒家の宗家が残っていたにせよ、著しく衰微していたと思われる。すでに戦国の世になっていたが、孟子が勝手に儒家を再興し、都合良く孔子の教説を書き換えても、文句を言えるような力は残っていなかった。

また孟子が儒家を再興する一方で、孟子に属さない多様な儒者が戦国の世にはいた。例えば孔子の直弟子、子張・子夏・子游の派閥はなお存続していた。始皇帝の中国統一(BC221)、その17年前まで生きた荀子は、孟子派に加えてこの三派の存在を記している。

略法先王而不知其統,然而猶材劇志大,聞見雜博。案往舊造說,謂之五行,甚僻違而無類,幽隱而無說,閉約而無解。案飾其辭,而祇敬之,曰:此真先君子之言也。子思唱之,孟軻和之。世俗之溝猶瞀儒、嚾嚾然不知其所非也,遂受而傳之,以為仲尼子弓為茲厚於後世:是則子思孟軻之罪也。


先王の教えを雑に理解し、教えの正しい系譜を知らないくせに、自分は何でも出来ると思い上がり、何でも知っている振りをしながら、ただのもの知りでことわりを知らず、過去について勝手なでっち上げを書き付けて、これを五行と呼んで世間に売り出している。

そのデタラメは他に類を見ないもので、問い詰められると口先で言いくるめて無知を誤魔化し、自分の手に負えないと悟ると口を閉ざして知らん顔する。物言いの上手さだけ稽古して、ただそれだけを尊んで、”これが君子の真実だ”という。

これは子思が言い出して、孟子が真似をした世間師稼業だが、馬鹿たれ儒者どもがわあわあともてはやし、そのデタラメに気付かない。だからありがたそうに学んでいるが、”これこそが孔子様や高弟様のありがたいお教えじゃあ”とか言っている。バカにも程があるが、これが子思と孟子の罪だ。


弟陀其冠,衶禫其辭,禹行而舜趨:是子張氏之賤儒也。正其衣冠,齊其顏色,嗛然而終日不言、是子夏氏之賤儒也。偷儒憚事,無廉恥而耆飲食,必曰君子固不用力:是子游氏之賤儒也。


曰くありげに冠をかぶり、言葉にもったいを付けて素人を脅かし、古来の作法だと言って珍妙な所作を見せつける。これが子張派の腐れ儒者だ。

厳めしく衣冠を整え、もっともらしい顔つきをし、黙ったまま何一つ教えない。これが子夏派の腐れ儒者だ。

どこかで葬儀があると聞くと、恥知らずによってたかって飲み食いするだけで、”君子は力仕事なんかしない”と言って何の役にも立たない。これが子游派の腐れ儒者だ。(『荀子』非十二子)

さらに始皇帝の統一寸前まで生きた韓非はこう記している。

現在の世で流行している学問と言えば、儒家と墨家です。儒家は孔丘に始まりました。墨家は墨翟に始まりました。孔子の没後、子張派、子思派、顔氏派、孟子派、漆雕派、仲良派、孫派、樂正派に分裂しています。墨子の没後、相里派、相夫派、鄧陵派に分裂しています。だから孔子や墨子が世を去ったのち、儒家は八つに分かれ、墨家は三つに分かれたわけです。

その主張は互いに食い違いがあり、同じではありませんが、みな自派こそが真の孔子や墨子の教えを伝えていると言っています。孔子や墨子を生き返らせることが出来ないのに、いったい誰が本物の教えだと言えるでしょうか。

孔子と墨子はともに堯や舜を讃えていますが、その主張は互いに食い違って同じではありません。ですがどちらも自分たちが真の堯や舜の教えを引き継いでいると言います。堯や舜を生き返らせることが出来ないのに、いったい誰が儒家と墨家のどちらが正しいと言えるでしょうか。

殷と周で七百年あまり、堯舜と夏王朝で二千年あまりと言われますが、今の儒家も墨家も、その史実を明らかに出来る者はいません。堯舜など三千年も前の人物です。今の人間が、いったいどうやってその史実を知れるというのでしょう。

知っていると言い張る者は一人残らずニセモノです。証拠もないのに口から出任せを言う者をバカ者と言います。出来ない事を出来ると言い張る者をペテン師と言います。だから明らかに先王の道に従い、堯舜の道をブレなく理解している者は、バカ者でもペテン師でもありません。

バカ者とペテン師の説く学説は、本物の教えに勝手な個人的感想を混ぜ込み、言っているそばからボロボロと矛盾があります。賢明なる大王殿下(のちの始皇帝)には、どうかそうした者どもの意見をお採り挙げになりませんよう。(『韓非子』顕学1)

つまり確かに儒家は一度滅んだが、儒者は消滅したのでなく各地に散ったのであり、孟子が儒家を統一したわけでもない。道統そのものが、唐宋の儒者の必要から作り出された新造品で、春秋戦国の世の儒者や当時の中国人が、道統を儒家の系譜として受け入れたわけではない。

そもそも正統・異端の概念を、孔子は持っていなかったのだから(論語為政篇16)。

付記

戦国から前漢に掛けての『小載礼記』は、「有子」の発言として、「二度目に冉有を使わした」とあり、「有子」と「冉有」を別人として扱っている。「有若」については、上掲したその死没のほか、次のような話を記す。

曾子曰:「晏子可謂知禮也已,恭敬之有焉。」有若曰:「晏子一狐裘三十年,遣車一乘,及墓而反;國君七個,遣車七乘;大夫五個,遣車五乘,晏子焉知禮?」曾子曰:「國無道,君子恥盈禮焉。國奢,則示之以儉;國儉,則示之以禮。」


曽子「斉の宰相・晏嬰は、まことに礼を心得ていた。控えめで慎み深かった。」

有若「そうか? 晏嬰は三十年間かわごろもを一枚しか使わず、車も一両だけに乗り、墓参もそれで済ませた。国君はかわごろも七枚、墓参は七両、家老格は五枚、墓参は五両と決まっている。これでも晏嬰が礼を心得たと言えるのかね?」

曽子「無道な国では、君子は恥じ入って礼法を大げさにする。贅沢な国では、質素の見本を示す。貧乏な国では、礼法の手本を示す。晏嬰が質素だったのも当然だ。」(檀弓下159)

孺子𪏆之喪,哀公欲設撥,問於有若,有若曰:「其可也,君之三臣猶設之。」顏柳曰:「天子龍輴而槨幬,諸侯輴而設幬,為榆沈故設撥;三臣者廢輴而設撥,竊禮之不中者也,而君何學焉!」


哀公が子の孺子𪏆に先立たれた。哀公は特別な棺の縄「ハツ」を使おうとして有若に問うた。「いかんか?」有若「かまいません。殿に次ぐ三家老家も使っていますから。」

顔柳「有若よ、天子の葬儀には”龍チュン”の車に棺を載せ、漆塗りの外棺で覆う。諸侯の葬儀には輴車に載せ平凡な外棺で覆う。車を牽くときに楡の木の汁を引いて滑りを良くするから、撥が要るのだ。三家老家は輴も使わないのに、撥だけ使っている。礼法をよく知らないから勝手なことをやっているだけだ。一体君は、何を学んできたというのかね?」(檀弓下185)

「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

悼公之母死,哀公為之齊衰。有若曰:「為妾齊衰,禮與?」公曰:「吾得已乎哉?魯人以妻我。」


のちの悼公の母が死んだ。夫の哀公はそのために斉衰シサイの喪服を着た。
有若「正夫人でもないのに、斉衰を着るのは礼法に違反しますが。」
哀公「仕方がないだろう。領民はみな正妻だと思っているのだから。」(檀弓下186)

斉衰 大漢和辞典

『大漢和辞典』「斉衰」条 クリックで拡大

なお有若をカールグレン上古音でgi̯ŭɡ(上)・ȵi̯ak(入)と読む。対して冉有をȵi̯am(上)・gi̯ŭɡ(上)と読む。つまり有若は有冉と音が近い。しかしただそれだけのことだ。

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