論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰學而時習之不亦說乎有朋自逺方來不亦樂乎人不知而不愠不亦君子乎
- 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。
※唐末期の開成二年(837)に、儒教経典の文字列統一のために唐朝廷によって刻石。現在では一部摩耗があるがそれ以前の写しが全文現存し、刻石以降中国では論語の標準文字列とされ、日本にも大きく影響したが、それまでの伝承を、唐朝廷に都合良く改めた箇所が少なくない。
校訂
諸本
- 武内本:釋文云、說音悅。有朋、釋文云、一本友朋に作る。有恐らくは友の字の仮借。
- 乾隆御覽四庫全書薈要本『白虎通義』:「朋友自遠方來」
東洋文庫蔵清家本
子曰學而時習之不亦悅乎/有朋自逺方來不亦樂乎/人不知而不愠不亦君子乎
- 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。
※論語の本章は、物証として現存最古の論語の版本である定州竹簡論語に全体を欠き、破片のみ残る漢石経にもほとんどを欠き、次いで古いのは慶大蔵論語疏だが、子罕篇と郷党篇のみ残る。次いで古いのは唐石経になるが、伝承の文字列とかなり異なる。以降の中国伝承論語は、唐石経を踏襲している。よって定州竹簡論語・漢石経・慶大本に欠く章では、現存最古の論語の経(本文)は、原則として東洋文庫蔵清家本の文字列と言える。詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
なお東洋文庫蔵清家本は初版年と筆写年があきらかなので、原則として異体字の攻究はしない。
後漢熹平石経
…人不知…
- 「不」字:〔一八个〕
※通名「漢石経」。後漢末、熹平年間に刻字を始めたので熹平石経とも言う。同じく霊帝期の光和六年(183)に完工。現在は残石のみ残る。漢石経も年代が明らかなので、コードの見つからない異体字は通用字に改めて記す。
定州竹簡論語
(なし)
※定州漢墓竹簡のうち『論語』は、発掘前にすでに盗掘による焼損を経ており、発掘後も地震と紅衛兵の乱暴によって破壊された。学而篇はしまうにしても、棚の一番端や箱の一番上に置かれただろうから、真っ先に害を被り、ただ一章分を残し「ない」のは当然かも知れない。
なお定州竹簡論語は元画像が非公開なので、異体字の攻究はする方法が無い。
標点文
子曰。「學而時習之、不亦悅乎。朋友自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」
復元白文(論語時代での表記)
阿辻哲次『漢字の歴史』は、春秋時代に用いられた漢字の書体は、金文や甲骨文に近い形で、しかも地域差が大きかったという。原始『論語』がどのような書体だったかは想像するしかないが、ほぼ金文に近かっただろう。そこで金文など同時代以前の漢字で白文を復元した。
もし復元すべき漢字が無いなら、論語のその部分は後世の創作と分かる。漢字の進化はおおむね甲骨文→金文→篆書→隷書→楷書の順で、詳細は論語に用いられた漢字を参照。
※習→(甲骨文)・悅→兌。論語の本章は、「有」の表記に疑問がある。「習」は論語の時代に存在しない可能性がある。
書き下し
子曰く、學び而之を習ふに時るは、亦た悅しから不乎。朋友の遠き方自り來る、亦た樂しから不乎。人知ら不し而慍ら不、亦た君子なら不乎。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。学んで復習するまでに時間を置くのは、それもまた晴れ晴れした体験ではないかね。遠い異国から来た対等の友人や仲間がいるのは、響き合うように、それもまた楽しいことではないかね。他人に知識がないからと言って怒らないのは、それもまた貴族にふさわしいではないかね。
意訳
教わったことは頭に定着するまで待ってから復習する。そうすると勉強が面白くなる。
いろんな身分や外国の学友と語り合う。そうすると塾生活が楽しくなる。
出来ない者をバカにしない。しているうちは自信がないと知る。
…これが入塾心得だ。
従来訳
先師がいわれた。――
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。何と生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなつたら、何と人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「經常學習,不也喜悅嗎?遠方來了朋友,不也快樂嗎?得不到理解而不怨恨,不也是君子嗎?」
孔子は言った。「いつも学び続けるのは、うれしいことではないか? 遠くから友達が来た、楽しいことではないか? 理解されなくても怨まない、これこそ君子ではないか?」
論語:語釈
子(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”(孔子)先生”。論語では例外はあるが、ほぼ孔子を指す。初出は甲骨文。字形は赤子の象形。甲骨文から”子供”・”王族”を意味し、春秋末期までに貴族への敬称に用いた。知識人への敬称でもあるが、その初出は事実上孔子。孔子のような学派の開祖や、孟懿子(魯国政界での孔子の友人)のような大貴族は、「○子」と記し”○先生・○様”。弟子の子貢のような学徒や、一般貴族は「子○」と記し、あざ名で”○さん・○どの”の意。詳細は論語語釈「子」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
この漢語を「のたまわく」と訓み下す例が過去に多かったが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。孔子への敬意と言うより、初学者を脅すためのハッタリだったから、現代の論語読者が従う必要はないだろう。
『字通』では「𠙵」を「サイ」と読んで、祈祷文を入れた容器だとし、それを土台に多くの漢字を説明するが、根拠は白川博士がそう思ったから。つまり個人的感想であり、白川漢字学で漢文を読解する時には、別の辞書もよく調べる必要がある。詳細は論語語釈「𠙵」を参照。
學(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”学ぶ”。座学だけではなく実技演習をも意味する。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
論語時代の算術や占いには算木が用いられ、大人がその算木を交差させて占う様子を子が見ている象形、と宮崎本に言う。論語の時代の漢字の字形は金文とされるから、この説は年代的に無理がない。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…すると共に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
時(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「ときふる」と訓読して”時を過ごして”。「ふる」は小野小町「我が身世にふる」の「ふる」。名詞でも形容詞でも副詞でもなく、動詞であることに留意。初出は甲骨文。「ジ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は「之」(止)+「日」で、その瞬間の太陽の位置。石鼓文の字形はそれに「又」”手”を加えた形で、その瞬間の太陽の位置を記録するさま。詳細は論語語釈「時」を参照。
伝統的には「時に」と訓み下すが、この場合「に」は格助詞ではなく動詞「なり」の連用形で、”…となって”・”…が満ちて”の意。”…に対して”・”~で”の意ではない。原文の語順が「時習之」となっているから、「時」は「習」の目的語ではないからだ。格変化も助詞もない漢文では、語順は語の役割を定める決定的要素で、みだりに変えることはゆるされないし、みだりに変えれば誤読してしまう。
また「學而時」とあり、「而」は前後が分かちがたく一体となっていることを示すから、「時」は「學」と主語を同じくする動詞と解釈しなければならない。
加地伸行は副詞”常に”の意とするが、品詞の判別からすでに誤っているし、原義から見れば無常に変化するのが太陽の日陰であり、そぐわない。”常に”の語釈は『大漢和辞典』になく、『学研漢和大字典』にも『字通』にもない。「漢語多功能字庫」には戦国末期の金文の例に、「時常」があるとするが、それは解釈の一つであり得ても、「時」→”常に”を必ずしも証明しないし、論語の時代の語釈でもない。
加地の論拠は中国儒者の注釈。一般に中国儒者の注釈には論拠が示されておらず、個人的感想に過ぎない。日本の論語業界では、こうした中国儒者が書いた中国南北朝時代までの注釈を古注と言い、南宋の時代に朱子が書いたのを新注と言う(論語の本章の新古注釈)。
いずれも日本の漢文界では、通時代的に尊重されてきた。加地やその他の漢学教授が、無批判に真似したのも、伝統芸能として無二念にコピペを行ったに過ぎない。だがにわかに信じられないことだろうが、中国の儒者は真面目な文章に、平気で出任せを書く。
古注『論語集解義疏』
所學竝日日修習不暫廢也。
皇侃「学問というものは毎日休まず続けるもので、片時もやめてはならない。」
これは個人的なお説教を熱く語ったものではあっても、論語のここがなぜそう読めるかという説明にはなっていない。おいおい書いていくが、後漢から南北朝時代の儒者の間には信じがたいほどの偽善がはびこっており、古注は真に受けられない(論語解説「後漢というふざけた帝国」)。
新注もその点変わらない。
新注『論語集注』
程子曰「習,重習也。時復思繹,浹洽於中,則說也。」
程頤(程伊川)「習うとは、復習することだ。時復=常に思考を重ねて、思いが頭に満ちてきたら、そこで語ったのだ。」
新注でも一切根拠を言っていない。新注を編んだ朱子も、論語の本章の解釈は自分で論証せず、程伊川という権威に語らせて済ませている。要はハッタリだ。
- 論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」
習(シュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”復習する”。初出は甲骨文だが、周代の金文になると姿を消し、再出は戦国の竹簡。従って殷周交替で一旦滅んだ漢語、つまり論語の時代の言葉ではない可能性がある。字形は”羽箒”+”甲骨”で、炙った甲骨をよくすす払いするさま。甲骨文での語義は”繰り返す”で、金文は出土例無し、”学習”の意が生じるのは戦国時代からになる。詳細は論語語釈「習」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「これ」と読み、”学んだ内容”を指す。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
學而時習之
論語の本章では”勉強してその復習までに時を置く”。「A而B」は”Aするなら必ずB」という、両者が分かちがたく一体となることを示し、B=「時習之」。「時」が動詞で「習之」が目的語だから、訓読は「これをならふにときふる」。
通説では「時」を副詞として解し、「ときにこれをならう」と訓読するが、「A而B」のBのうち「而」の直後は、Aが動詞であれば同じく動詞であるのが理にかない、副詞に解さなくても文意を解せるなら動詞として解した方がいい。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
論語時代の中国語は漢字の種類が少なく、字の意味も統一されていなかったので、同音や近音が意味も同じである例が少なくない。このように、音を通じて別の意味を表現することを、仮借(仮りて借りる)、または音通という。詳細は論語における「音通」を参照。
亦(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”それもまた”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。
この箇所の語義は”おおいに”である可能性が提示されている。
藤堂明保『漢文概説』
「不亦楽乎」を「マタ楽シカラズヤ」と型どおりに読めたからといって、それで十分な翻訳になっているだろうか。「また」とはいったい何の意味であろう。
- 「これもまずまず」というほどの弱い語気なのか
- 「これだって」というぐらいのやや強い語気なのか
- 「これはなんと楽しいではないか」というごく強い調子なのか。
わからない。まったくわからない(今では私は2.か3.のどちらか、むしろ強調に傾いた言い方であろう、と考えている)つまり訓読しただけでは、オヨソの見当がつくだけで、本当の翻訳にはならないのである。
論語の本章に後世の創作の疑いがあることから、”おおいに”と読みたいところ。しかし知識を抱え込んで特権化するのが常識だった春秋時代、孔子は中国で初めて塾を開いて情報の公開に努めた一人であり、”他にも楽しいことはあるだろうが、めったに無い学びの体験を繰り返すのも、楽しいではないかね”と解するのには無理が無い。
說(エツ)→悅(エツ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”喜ぶ”。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。原義は”言葉で解き明かす”こと。戦国時代の用例に、すでに”喜ぶ”がある。論語時代の置換候補は部品の「兌」で、原義は”笑う”。詳細は論語語釈「説」を参照。
古注『論語集解義疏』では「悅」(悦)と記す。頭のもやが晴れたような気持で”喜ぶ”こと。こちらも初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「悦」を参照。
古注は後漢末から南北朝・梁時代(502-557)にかけての編纂で、現伝の論語が底本としている、唐末期の唐石経(833-837)より古い。その証拠に古注は隋代以前の写本が日本に残っており、のち中国では消滅したが、清末になって逆輸出された。現伝の古注が必ずしも当時の文字列を保存しているとは限らないが、特に反証のない限り、唐石経よりは論語の古形を伝えていると見てよい。
「兌」(甲骨文)
そして「説」も「悦」も論語の時代に無いが、”よろこぶ”を意味する部品の「兌」はあり、初出は甲骨文。字形は〔八〕”笑みのしわ”+「大きく口を開けた人」で、人の笑う姿とされるが、頭にかぶせられたものを取り除く姿と見るべきで、「脱」の原字。原義は”笑う”・”喜ぶ”。甲骨文では「閲」”けみす”の意に用いられ、金文では加えて人名に用いられた。「脱」”抜け出す”の用例は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「兌」を参照。
なお清末の程樹徳は『論語集釋』で「皇侃論語義疏本(下簡稱皇本)「說」字作「悦」。翟灝四書考異(下簡稱翟氏考異):古喜說、論說同字,後漢增從「心」字別之。」と引用し、「按:翟灝四書考異【考證】精博。」”翟灝四書考異の言うとおりではないか”という。ただし儒者の「考証」には根拠が見られないことがほとんどなので、参考程度に止めるべき。
乎(コ)
(甲骨文)/「鐃」奈良国立博物館蔵
論語の本章では、”…であるなあ”と訳し、感嘆の意を示す。文末・句末におかれる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
不亦~乎
論語の本章では、”それもまた~ではないかね”。漢語「不」は直後の動詞を否定するので、「亦」を動詞として解釈するのには理があるが、そうすると「不亦悅乎」「不亦樂乎」「不亦君子乎」の「亦」に引き続く動詞「悅ぶ」「樂しむ」「君子たり」の解釈が困難になる。
よって「亦」は”それもまた~である”と副詞として理解し、「不」が否定するのは「亦A」という、副詞を伴う動詞として理解するのが良い。
「不亦悅乎」でなく「亦不悅乎」も「またたのしからずや」と訓読出来、”それもまた楽しくないかね”と現代日本語訳は同じになるが、前者が”他に楽しいことはいろいろあろうが、これも楽しくないかね?”と軽い気持でつけ加える語気であるのに対し、後者は”他に楽しくないことがいろいろあって、これさえもそうなのかね?”とやや押し付けるように否定する説教になる。
「亦不悅乎」:「不悅」”楽しくない”を「亦~乎」”それも同様なのかね”と否定的に言う。
「結果として日本語では同じになる」翻訳は、何も漢文に限ったことでないが(論語述而篇32余話「ウダレーニエ」)、本章の「不亦~乎」はその一例。
有朋(ユウホウ)→朋友(ホウユウ)
論語の本章では、”対等の仲間とかばい合う仲間”。論語の時代は原則として熟語が無く、一文字一語義と解するべきだが、説明の都合上まとめて解説する。
「有朋」はもと「朋友」ではなかったかと思われる。
本章は定州竹簡論語に欠いているので、前漢中期以前の文字列を証す物証が無い。だが後漢初期の『白虎通義』では、論語の本章を引用して「朋友自遠方來」(辟雍3)と記す。武内本が引く中国南朝最末期の陸徳明が編んだ『経典釈文』でも一説に「有」は「友」だという。
参照した『白虎通義』版本は1919年からの四部叢刊版だから、必ずしも古代の論語がそうなっていた証拠にはならないが、「そうでなかった」証拠もない。「乾隆御覽四庫全書薈要」版でも「朋友」と記す。

四部叢刊『白虎通義』
こういう、古典の言葉の重箱の隅をつ突き回すのを「考証」というが、趣味人の暇つぶしにはなっても、普通の人にとっては「どうでもいいだろうが」という話になる。だからTOPページでこの「論語詳解」を「おすすめしません」と記したから、開き直って話を続ける。
「朋友」”とも”と記した『白虎通義』よりも400年ほど時代が下る、後漢末から南北朝にかけて成立した古注は、現存する最古の版本である宮内庁蔵清家本では、この部分を「経」=本文で、現伝論語と同じく「有朋」”ともあり”と記している。注には特に経を覆すようなことは書いていない。
有朋自遠方來不亦樂乎苞氏曰同門曰朋也
本文「有朋自遠方來不亦樂乎」。
注釈。包咸「同門を朋と呼ぶ。」(宮内庁蔵清家本)
ただし清家本には欠くが、文明本(1477)を祖本にした懐徳堂本を見ると、「疏」=注の付け足しに変なことが書いてある。
古注『論語集解義疏』
疏…此第二段明取友交也同處師門曰朋同執一志為友朋猶黨也共為黨類在師門也友者有也共執一志綢繆寒暑契闊飢飽相知有無也
付け足し…この第二段(「朋…乎」を指す)は、交友の法を明らかにしている。同じ師匠に教わる者を朋と言い、同じ志を共にする者を友という。朋は党とも言い、共に共通目標を師匠のもとで行うことである。友は有とも言い、共に同じ志を共有して、暑さ寒さ、餓えや渇きを分かち合い、互いの過不足を知り合う仲間である。
これを素直に読めば、南朝梁の儒者である皇侃が読んだ原文は、「朋友」”とも”になっていたことになる。つまり経を「有朋」”ともあり”と記す現伝の古注は、疏とちぐはぐであると分かる。そして中国での古注は南宋から元にかけて、一旦一冊残らず消失した。
だがその前に日本には遅くとも隋代の版本が伝わり、今に至るまで現存している。
今回公開する『論語疏』の注目点は以下の 3 点です。…本書に記された文字の字体字様を詳細に比較検討した結果、本書は遣隋使、遣唐使によってもたらされた、隋以前の中国写本であると推定されます。(慶應義塾大学プレスリリース2020/09/10)
日本の古注は経と疏がちぐはぐのまま、江戸儒者の根本武夷が発見して広めたのが1721年。「有朋」”ともあり”と記す。

鵜飼文庫・根本本『論語義疏』
紙本で現存世界最古の論語本は、引用した通り慶大蔵論語疏だが、子罕篇と郷党篇しか残っておらず本章では参考に出来ない。そして現伝論語の底本となっている唐(618-907)末期の唐石経は、京大蔵のものでは「有朋」”ともあり”になっている。ただし「朋」の字がどういうわけか、斜体で書いてあるのが気に掛かる。下掲画像の最終行がそれに当たる(ただし論語学而篇4の「朋」も斜体)。

京大蔵唐石経『論語』
「友朋」”とも”はカールグレン上古音でgi̯ŭɡ(上)・bʰəŋ(平)と発音し、「有朋」”ともあり”もgi̯ŭɡ(上)・bʰəŋ(平)で全く同じ。唐石経の刻まれた頃の中古音でも、ji̯ə̯u(上)・bʰəŋ(平)で全く同じ。聞き間違えて当然、勘違いして当たり前、書き写し間違えても無理はない。
結論として、後漢初期の『白虎通義』が論語から引いた文と、後漢末~南北朝時代の古注の経と疏の食い違いから、元の経文は「朋友」”とも”だったと解するのが理屈に合う。「朋友」”とも”→「友朋」”とも”→「有朋」”ともあり”に書き換わっていったのが真相ではないか。
儒者による論語原文のいじくりは、少なくとも後漢滅亡後までは続いた。宋儒にもその疑いがある。現伝の論語の言葉にナニガシとあったとしても、孔子や高弟がナニガシと言った保証はない。「論語とはこういうもの」という色眼鏡を外さないと、論語は読み解けないだろう。
「有」(甲骨文)
「有」の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。
「朋」(甲骨文)
「朋」は論語の本章では”友人”。初出は甲骨文。字形はヒモで貫いたタカラガイなどの貴重品をぶら下げたさまで、原義は単位の”一差し”。春秋末期までに原義と”朋友”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「朋」を参照。
「友」(甲骨文)
「友」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義はおそらく”共同する”。論語の時代までに、”友人”・”友好”の用例がある。詳細は論語語釈「友」を参照。
自(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~から”。初出は甲骨文。「ジ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。原義は人間の”鼻”。春秋時代までに、”鼻”・”みずから”・”~から”・”~により”の意があった。戦国の竹簡では、「自然」の「自」に用いられるようになった。詳細は論語語釈「自」を参照。
遠方(エンホウ)
(甲骨文)
論語の本章では”遠い地方”。「○方」という表現は甲骨文以来の古い表現で、殷代では”○と名を呼ぶ異民族”を意味した。
「遠」の初出は甲骨文。原義は手に衣を持つ姿で、それがなぜ”遠い”を意味したかは分からない。ただし”遠い”の用例は甲骨文からある。詳細は論語語釈「遠」を参照。
「方」の初出は甲骨文。字形は「人」+「一」で、字形は「人」+「一」で、甲骨文の字形には左に「川」を伴ったもの「水」を加えたものがある。原義は諸説あるが、甲骨文の字形から、川の神などへの供物と見え、『字通』のいう人身御供と解するのには妥当性がある。おそらく原義は”辺境”。論語の時代までに”方角”、”地方”、”四角形”、”面積”の意、また量詞の用例がある。詳細は論語語釈「方」を参照。
論語当時の中国は諸侯国に分裂し、厳しい身分制度の下にあった。しかし孔子は出身国や身分に関わらず弟子を取った。
來(ライ)
(甲骨文)
論語の本章では”来た”。初出は甲骨文。新字体は「来」。原義は穂がたれて実った”小麦”。西方から伝わった作物だという事で、甲骨文の時代から、小麦を意味すると同時に”来る”も意味した。詳細は論語語釈「来」を参照。
樂(ラク)
(甲骨文)
論語の本章では”楽しい”。初出は甲骨文。新字体は「楽」。原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。
同じ「たのしい」と訓む漢字の中でも、孔子が「楽」を選んだのにはわけがある。出身国や身分を超えて、同じ塾生として同列に並ぶ事の楽しさを、楽器の響き合いとして表現したのだ。漢字はたとえ訓読みが同じでも、文字が違えば意味が違う。そうでなければ方言の違いだ。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
知(チ)
「知」(甲骨文)
論語の本章では”知る”。「知」の現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。現在最古の論語のテキストである、定州漢墓竹簡論語は、「知」を「智」の古書体「𣉻」で書いている。詳細は論語語釈「知」を参照。
不知(しらざる)
「不知」を伝統的な論語本では”自分を理解してくれない”と解するが、後ろに”自分”を意味する目的語が無いし、そのように解する根拠も無い。”知らない”・”勉強が出来ない”と解する方が単純で、「オッカムのカミソリ」=理屈は単純な方が正しい、に合う。
論語の全512章のうち、「知」が用いられた章は72ケ章で、”(誰かが)自分を知る・知らない”と明確に解釈出来るのは4ケ章しかない。しかもそれらは、全て「我・吾・己」という目的語を伴っている。
それにもかかわらず本章を”自分が知られない”と伝統的に解釈する元ネタは、過去の中国の儒者の説。
古注『論語集解義疏』
人を見て知らしめずして、我怒らざるは、此れを是れ君子の徳なり。
何晏「人に知られないでも怒らないのが、まさに君子の道徳だ。」
新注『論語集注』
学は己に在り、知る知ら不るは人に在り、何の慍みかこれ有らん。
朱子「学問するのは自分で、それを知るも知らないも他人次第だ。何のうらみがあろうか。」
いずれも個人的なお説教に過ぎない。
しかも古注の何晏は三国時代・魏の人で、没年で比較すれば孔子より728年も後の人。新注を編んだ朱子に至ってはなおさらで、1679年間も時代が下る。今から728年前と言えば、鎌倉時代で、二度の元寇が終わっただいたい十年後。1680年前と言えば古墳時代だ。
現代日本人が当時の日本をどれだけ知っているだろう? 学者だろうと、古代人に出会って滞りなく会話できるだろうか? そもそも論語が古くて読めないから、こうした注釈書が作られたのであり、注釈を書いた儒者たちも誰一人、孔子と同様に論語を理解したとは限らない。
古注では何晏の言い分を疑わしいと思ったらしく、別解を記している。
古注『論語集解義疏』
疏…此有二釋一言古之學者為己己學得先王之道含章內映而他人不見知而我不怒此是君子之徳也有德己為所可貴又不怒人之不知故曰亦也又一通云君子易事不求備於一人故為教誨之道若人有鈍根不能知解者君子恕之而不慍怒之也為君子者亦然也
付け足し…ここの解釈は二つある。
一つは、昔の学徒は自分のために学んだ(論語憲問篇25)から、いにしえの聖王が示した道を読んで、それを心に抱いて行動規範にする。他人にはそれが見えないが、それでも怒らないのが君子の徳目だ。それを身につけただけで満足であり、他人に怒る理由がない、という。
もう一つは、君子を主人にすると、家来に何でも出来ることを要求して来ないので仕えやすい。人を教えるにあたっても、世の中には愚か者がいて全然言うことを理解しないものだが、君子は「ああ、こいつは愚かなんだから仕方がない」と思いやって、怒ったりしないのである。
慍(ウン)
(金文)
論語の本章ではうらむ、ではなく”怒る”。現行字体の初出は後漢の説文解字。異体字の初出は春秋時代の金文。先学による原義はすでに古すぎて従い難いが、最古の字体が「人」+「風呂桶」+「心」であることから、”怒る”と思われる。詳細は論語語釈「慍」を参照。
『学研漢和大字典』も『字通』も、部品の「𥁕」を”釜をかまどに置いて焚き付けているさま”と解するが、これは甲骨文出土前の古い解釈であり、現在では賛成出来ない。そもそも、「𥁕」の字は西周早期が初出で、甲骨文がある「溫」(温)の字の方が先行する。
「温」の字の甲骨文は、人を火あぶりにする暴君のしわざでなければ、皿=平たい容器に氵=水を満たし、そのなかに人が入っている姿、つまり温泉の象形であり、『大漢和辞典』にも”いでゆ”の語釈がある。慍はその部首をりっしんべんに替えた字で、”心が熱くなる”意となる。
漢字では、意味を表す偏と、音を表す旁を組み合わせた文字を形声文字(形と声)といい、異なる・同じ意味の漢字を組み合わせて別の意味を表す文字を会意文字(意を会わす)と言うが、慍は形声文字であり、また会意文字でもある。このような漢字を会意兼形声文字と呼ぶ。
「人不知而不慍」を”他人が理解してくれないからといって恨まない”と解するのは、「慍」を「うらむ」と訓読みする日本の慣習に引きずられるからで、「慍」は必ずしも”うらむ”を意味しない。現に新注も古注も、「怒ることだ」と解釈している。
古注『論語集解義疏』
註慍怒也凡人有所不知君子不愠之也
注釈。慍とは怒ることだ。他人の無知には、君子は怒らないものだ。
新注『論語集注』
慍,含怒意。
慍とは、怒りを含むことだ。
ならば原義に従って、人の無知に対して怒ること、と解するべきだろう。論語は最も古い中国古典の一つであるからには、用いられた漢字の意味は原義に近いと理解するべきだからだ。
さらに論語の本章を入塾心得と受け取るなら、孔子がまず警戒すべきは、塾内の不和に他ならない。孔子は出身や身分に関係なく弟子を取り、貴族にふさわしい技能と教養を教えた。つまり孔子塾生は、最下級の貴族=「士」に成り上がりたい平民以下がほとんどだった。
孔子塾は春秋時代の身分制度に挑戦する、武装した革命政党でもあった。
野心の固まりである若者を団結させるには、他人を見下して安心したがる未熟な若者を、固く押しとどめる必要があっただろう。しかも当時の貴族には従軍の義務があったから、孔子塾の必須科目には武芸が含まれる。そこでもしいじめが流行れば、血の雨が降っただろう。
孔子存命中の塾は、青白い文弱の徒の集まりではない。弟子の冉有や樊遅の武勲は、『春秋左氏伝』に記されている。子夏や子游のような、孔子晩年の若い弟子や、孔子没後に一派を作った曽子らは別として、主要な直弟子のほとんどは、武器を執って戦った。
事を日本に移して考えてみるといい。孔子塾同様、極めて政治思想性の強い武力集団であり、成り上がりに燃えた若者の集まりだった新撰組は、すさまじい内部抗争と血の粛清に明け暮れた。革命政党が生き残るにはまず、党首が内部の不和を消して回らねばならない。
幕府や会津藩という権力の後ろ盾があっても、新撰組は内ゲバで半ば自滅した。後ろ盾が孔子個人の魅力しかない孔子塾なら、塾内不和こそ大敵で、それを和ませた顔淵に孔子は感謝を述べている。以上の背景を考えれば、本章を無名を恨む言葉として理解する必要は何もない。
君子(クンシ)
「君」(甲骨文)
論語では三つの使い分けがある。本章の場合は1。
- 「もののふ」平民以下に対する貴族・為政者・役人。
- 「きんだち」孔子の弟子に対する呼びかけ。諸君。
- 「よきひと」教養ある人格者。
「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
「子」は上掲通り、貴族や知識人に対する敬称。
孔子の時代、君子とは平民出身がほとんどである孔子塾生が目指した貴族のことで、当時の貴族はほぼ例外なく戦士だった。対して小人とは庶民のことで、もとはいくさと無関係だったが、孔子晩年の頃から徴兵されるようにになる。詳細は論語における「君子」を参照。
君子に従軍義務があったのは、それ無しでは特権を社会に説明できなかったからだ。春秋時代の諸侯国は、諸侯国同士の争いの他に、四方の異民族から軍事的脅威を受けており、その攻撃・略奪・拉致から民を守る事で特権を社会に認められた。
「君子」に”教養人”とか”人格者”とかいった偽善的な意味が付け加わったのは、孔子没後約一世紀のちに現れた、戦国の世間師・孟子によるもので、孟子は自分の商材として選んだ孔子の儒学を、でっち上げと曲解によって儒教に作り替えた。論語にも偽作を多数混ぜ込んでいる。
孟子ははるか後世の宋代、「四聖」として孔子に次ぐ「亜聖」とされたが、それまでは戦国時代を生きた儒家の大家としては知られても、亜聖とまでは思われていなかった。世間師にふさわしく話が面白いので、後世の儒家には好かれたが、孔子の教説を書き換えたには違いない。
『孟子』の面白さについて一例を挙げる。『孟子』滕文公上4現代語訳を参照。
さて孔子は古代人には珍しく、ほぼ無神論の立場を取った(孔子はなぜ偉大なのか)。教えたのも技能や教養で、何かを信じる思考停止を弟子に求めていない。対して世間師・孟子は、人間の不安に付け込んだ、新興宗教として孔子の教えを再構築した。金儲けのためである。
孔子は死んだらそれまでと達観しており、その合理主義から、弟子に儒家を受け継げとは言わなかった。『史記』によれば、弟子は孔子の喪が明けると、さっさと故国や仕官先に帰ってしまった。教える先生が居なくなったのだから、塾はそこでおしまいだからだ。
その結果孔子没後、儒家は一旦滅亡した。だから孟子がやりたい放題できたのである。
論語:付記
検証
論語の本章は、「學而時習之,不亦說乎」「人不知而不慍,不亦君子乎」は先秦両漢の誰一人引用していないし、再録していない。二句目の「有朋自遠方來,不亦樂乎」のみ、後漢前期の『白虎通義』(AD79「白虎観会議」の記録)に若干違う言葉で引用されている。
師弟子之道有三:《論語》:「朋友自遠方來。」朋友之道也。又曰:「回也,視予猶父也。」父子之道也。以君臣之義教之。君臣之道也。
師匠と弟子のあるべき関係は三つある。『論語』に「学友が遠方から来る」とある。これが一つ目の朋友の原則である。また『論語』に、「顔回は、私(孔子)をまるで父親のように見ていた」とある。これが二つ目の父子の原則である。君臣の正しいあり方で教育する。これが三つ目の君臣の道である。(『白虎通義』辟雍3)
ここでも「有朋」ではなく「朋友」となっている事が読み取れるが、それより重要なのは、論語の本章は孔子没後460年過ぎないと世に出なかったことで、それも一部だけになる。現伝の文字列の初出は事実上、後漢末から南北朝の時代に編まれた古注『論語集解義疏』になる。
つまり論語の本章は、文字史的には何とか論語の時代まで遡れるが、史実の孔子の発言であるかは極めて怪しく、後世の創作とするのが筋が通る。仮にそうなら、「君子」を”情け深い身分ある知識人”という、孟子の提唱した語義で解さねばならない。
またすでに、孔子塾が武装集団であることは忘れられていただろうから、「人知らずして慍みず」と読み、”人に理解されなくても怨まない”と解する従来の解釈が正しいことになる。だが偽作の物証を欠くので、とりあえず史実の孔子の言葉として翻訳した。
解説
孔子塾は、鉄器や小麦栽培や弩(クロスボウ)の実用化によって、変動を始めた春秋時代後期にあって、ほぼ庶民である弟子が入門し、貴族にふさわしい技能教養を身につけて、成り上がるための場だった。その当時の貴族は、座学で学べる事柄だけでは務まらない。
第一、当時の貴族はすなわち戦士であり、従軍義務があるから参政権を持った。従って孔子塾では、当時戦場の主力だった戦車の操縦「御」と、戦車上から遠方の敵を倒す弓術「射」を教えた。さらに将校や官吏の必須技能として、歴史と読み書き「書」と算術「数」を教えた。
さらに貴族の礼儀作法と一般常識「礼」、そして社交や交渉の場で必要な音楽と古詩「楽」を教えた。歴史や古詩の言葉を巧みに引用するのが、交渉には欠かせなかったし、琴の一つも弾けないようでは、貴族と認められなかったからだ。この孔子塾必修の六科目を六芸という。
孔子が六芸を教え得たのは、自身が社会の底辺から身を起こし、宰相格にまで上り詰めた過程で身につけたからだが、この大出世こそが、孔子の教説に裏付けを持たせた。自分で成り上がれなかった者が、いくら貴族のたしなみを説いたところで、入門者は現れないだろう。
また孔子自身が、身分制社会の春秋時代にあって、大変な秩序の破壊者であることが見て取れる。その裏には当時の権門の支持があった。変動期の社会で、軍事や行政を担える人材を、血統だけで選ぶわけに行かなくなったからだ。さもないと一族や国が滅ぼされる。
春秋時代の前半までは、諸侯国同士の戦争で負けても、併合される例は少なかった。しかし孔子在世のころから、敗戦国が併合されるようになった。血統貴族は自家を守るために、孔子のような新興の知識・技術階級の手助けを必要とし始めていた。
ここから通説が言う孔子の復古主義や、魯国の権門=三桓との対立は、後世の儒者がこしらえた、うそデタラメであることが明らかとなる。
余話
論語のリサイクル
かつて論語は、人を奴隷化する道具だった。だから世間から捨てられた。
論語の本章は冒頭だけあって、古注も新注も他章と比べて膨大な量を記しているが、一部をすでに検討したとおり、「孔子や高弟が何を言ったか」に迫るための資料にはならない。その代わり、「後世の中国人が古典をどのように利用したか」を知るよすがにはなる。
漢帝国以降、儒者は官僚や政治家を兼ねたから、自分の正当性を政敵に向かって主張するのに、論語をはじめとした儒教経典を利用した。可能であれば原文を書き換えたり偽作を加えたりしたし、そうでない場合は注釈によって、自分の正義を社会に宣伝した。
古代から現在に至るまで、政治に「清く正しく美しく」を求めるのは困難だが、中国も事情は同じで、しかも政治と儒教が一体化していたから、論語の本文(経)や解釈(注・疏)には、どうしても政治的事情を反映した、清く正しく美しくないものが入り込んでいる。
論語雍也篇9余話「漢文の本質的な虚偽」を参照。
そういう不純物を取り除き、孔子や一門の真の姿を探ろうとすれば、儒者の注釈に頼れるわけがないし、今なおその影響を受けている日中の漢学界の通説にも頼れない。従って現代人として論語を読むには、必ず一字一句を辞書引きし、自分で合理的な解釈をせざるを得ない。
もちろん個人の能力や時間には限界があるから、この作業はいつまでたっても終わらないのだが、例えば漢字それぞれを原始の甲骨文や金文に遡って調べる必要があるし、時代ごとの漢字の語義変遷も知らなくてはならない。そうかと言って、古代文字ばかり読んでも意義がない。
論語は儒教の基本だけに、中国知識人の頭には、時代を通じて論語があったからだ。現代日本人が論語を読むのは、それによって一つには人生の励ましを得、もう一つは中国と中国人を知るためだろう。従って現在に至るまで、日中で論語がどう読まれてきたかも知る必要がある。
それが外国の古典を誠実に読み、現代的意味を作り出すことだと確信している。
さて「人とは何か」に答えるのは難しいが、「中国人とは何か」に答えるのは、語義が限定される分だけ具体的に言いやすい。それは一つに「記録を残す者」と言える。古代では少数派と言うべきで、文字を持たず、持っても記録の保存に興味を持たない人類の方が多かった。
その中で中国人は漢字という、筆記にも読解にも手間の掛かる文字を使いながら、三千年以上の昔から、記録を残すことに熱心だった。論語の時代も同様で、孔子の生国・魯の宮殿が焼けた際、駆けつけた閣僚は消火隊に、「まず宮廷日誌を運び出せ!」と命じた。
詳細は論語郷党篇13余話「華であるわけがない」を参照。その記録の中で論語は、中国「最古」級の文献と位置づけられる。日本の物書きの頭に、常に『古事記』や『万葉集』があったように、中国の物書きの頭には、常に論語があった。だから古今日中共に、漢文の基本は論語である。
最古と言わない理由は、論語は同時代である春秋後期の金文はおろか、実は戦国の竹簡からも見つかっていないからで、実は前漢のいわゆる儒教の国教化と共に作られたと見てよい。詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。ただし中国人の意識は長らく、論語→中国最古のままだった。
かように記録魔だった代わりに、中国人は論理的思考力を育てられなかった。理由は現世が余りに過酷なためで、人間の力で何とかできるとは考えなかった。その結果、古代を理想郷と位置づけて、らちもなく拝んだりした。詳細は論語郷党篇15余話「まだシワ寄せ」を参照。
論語の解読もその延長線上にあり、勝手な希望をなすりつけた。さらには金儲けの手段として、ねじ曲げた解釈を書き込んだり、新たにでっち上げた話をつけ加えたりした。そうしたデタラメも年月を過ぎると、「昔はよかった教」の信仰ゆえに、事実として疑われなかった。
「批孔」、つまり「昔はよかった教を否定」した毛沢東が成功した背景には、これから社会が良くなるという、中国史上珍無類の幻想を人民に抱かせ得たからだ。
我们伟大的祖国进入了社会主义时代!
我らが偉大なる祖国は、ついに社会主義の時代へと進歩した!(「祖国颂」)
同様の例は、決起したマニ教徒の軍団がモンゴルを北方に追いやり、明帝国が出来た当初ぐらいだろう。だが毛沢東や明の幻想はすぐ裏切られ、自身が歴史上の珍無類だと証明した。
だから日中共に今も、論語の解釈は過去のデタラメを疑わない。二十一世紀の現在、その程度しか論語に期待していないからだが、その代わりITの力でデタラメを、根拠を持ってデタラメと判定できる。決して金儲けにはならないが、金のかからない暇つぶしとしては結構面白い。
過去のデタラメを、今なお漢文業界人が真に受けるのは、それなりに理由があるが、理由を知ってしまえば、従う必要もない。しかも漢文業界人は、過去の猿まねばかり書いてはいない。論語に書き加えられたあれこれの真偽を判定できれば、自分で確かと思える解読が出来る。
人間は万物への理解を、時の限界まで進めてきた。時と共に地動説が天動説に取って代わったように、より裏付けのある説に交替する、それが科学というものだ。同時に裏付けを伴って、捨てられた過去の説が生き返りもする。論語に記された史実の孔子の教説もそうではないか?
本サイトは、その調査の試みである。閲覧者諸賢の暇つぶしになるとよいのだが。
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