論語詳解001学而篇第一(1)学びて時に’

論語学而篇(1)要約:孔子塾の入塾心得。復習を強要するお説教ではなく、体で技術を習得する楽しさと、身分や出身で差別してはいけない、差別は自分の自信のなさからという、現代にも通用する当たり前の教えでした。
(動画版あり)

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰。「學而時習之、不亦說*乎。有*朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」

校訂

武内本

悅、唐石経說に作る。釋文云、說音悅。有朋、釋文云、一本友朋に作る。有恐らくは友の字の仮借。

定州竹簡論語

(なし)

※定州漢墓竹簡のうち『論語』は、発掘前にすでに盗掘による焼損を経ており、発掘後も地震と紅衛兵の乱暴によって破壊された。学而篇はしまうにしても、棚の一番端や箱の一番上に置かれただろうから、真っ先に害を被り、ただ一章分を残し「ない」のは当然かも知れない。

その他

論語義』:說→悅/『白虎通義』:有朋→朋友


→子曰。「學而時習之、不亦悅乎。朋友自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」

復元白文(論語時代での表記)

阿辻哲次『漢字の歴史』によれば、春秋時代に用いられた漢字の書体は、金文や甲骨文に近い形で、しかも地域差が大きかったという。原始『論語』がどのような書体だったかは想像するしかないが、ほぼ金文に近かっただろう。そこで金文や、同時代の石鼓文で白文を復元した。

もし復元すべき文字が無いなら、論語のその部分は後世の創作と分かる。漢字の進化はおおむね甲骨文→金文→篆書→隷書→楷書の順で、詳細は論語に用いられた漢字を参照。

子 金文曰 金文 学 學 金文而 金文時 石鼓文習 金文之 金文 不 金文亦 金文兌 金文乎 金文 朋 金文友 金文自 金文遠 金文方 金文来 金文 不 金文亦 金文楽 金文乎 金文 人 金文不 金文智 金文而 金文不 金文慍 金文 不 金文亦 金文君 金文子 金文乎 金文

※悅→兌。論語の本章は、文字史的には論語の時代に遡れるが、意味内容に疑問がある。「乎」「有」の用法に疑問がある。以下、論語の本章を、暫定的に史実として訳し、解説する。

書き下し

いはく、まなときこれならふ、おほいよろこばしから朋友ともとほかたきたる、おほいたのしからひといかおほい君子くんしなら

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

孔子別像
先生が言った。座学の理解度を見計らいながら、十分と思えたら、そこで初めて実演してみるのは、目からうろこが落ちるように、たいそう晴れやかな体験ではないか。遠い異国から来た対等の友人や仲間がいるのは、響き合うように、たいそう楽しいことではないか。他人に知識がないからと言って怒らないのは、まことに貴族らしいではないか。

意訳

マニュアルを読んだら必ず体でやってみる。そうすると勉強が面白くなる。
いろんな身分や外国の学友と語り合う。そうすると塾生活が楽しくなる。
出来ない者をバカにしない。しているうちは自信がないと知る。

…これが入塾心得だ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。何と生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなつたら、何と人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「經常學習,不也喜悅嗎?遠方來了朋友,不也快樂嗎?得不到理解而不怨恨,不也是君子嗎?」

中国哲学書電子化計画

孔子は言った。「いつも学び続けるのは、うれしいことではないか? 遠くから友達が来た、楽しいことではないか? 理解されなくても怨まない、これこそ君子ではないか?」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

子(シ)

子 甲骨文 孔子 キメ
(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。論語では例外はあるが、ほぼ孔子を指す。初出は甲骨文。

藤堂明保 藤堂明保 学研漢和大字典
藤堂明保『学研漢和大字典』による原義は、小さい子ども、という。

白川静 白川静 字通
白川静『字通』による原義も、小さな子供を描いた象形文字、という。

諸橋轍次 諸橋轍次 大漢和辞典
諸橋轍次『大漢和辞典』は、「父母の間に生まれたもの、小兒(児)をいふ」という。

香港中文大学 漢語多功能字庫
香港中文大学が運営する「漢語多功能字庫」では、「父」の対語だという。ただしそれが貴族への敬称に変わった経緯を、次のように説明するがハテどうだろう。「漢語多功能字庫」の信頼性については、「漢和辞典ソフトウェア比較・レビュー#漢語多功能字庫」を参照。

早くから人類は、”子供”を意味する言葉を男性貴族の敬称に用いてきた。古代ローマやマヤ文明がそうである。だから甲骨文の「子」は、殷王家の同族の族長を意味し得た。

詳細は論語語釈「子」を参照。

孔子など「○子」とある場合は、”○先生・○様”。弟子の子貢など「子○」とある場合はあざ名で、”○さん”に近い。もとは子供、とりわけ王子を意味し、それが貴族への、ついで専門職への敬称に派生した。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

『字通』では「𠙵」を「サイ」と読んで、祈祷文を入れた容器だとし、それを土台に多くの漢字を説明するが、根拠は白川博士がそう思ったから。つまり個人的感想であり、白川漢字学で漢文を読解する時には、別の辞書もよく調べる必要がある。詳細は論語語釈「𠙵」を参照。

學(カク)

学 甲骨文 学
(甲骨文)

論語の本章では”座学”。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”神聖な建物”。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。「ガク」は呉音。詳細は論語語釈「学」を参照。

宮崎市定
論語時代の算術や占いには算木が用いられ、大人がその算木を交差させて占う様子を子が見ている象形、と宮崎本に言う。いずれにせよ、屋根の下で学ぶことの象形で、体育や実技ではない、坐学を意味することば。

而(ジ)

而 甲骨文 学而 而 ジ
(甲骨文)

論語の本章では”…すると共に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”。金文になると、二人称や”そして”の意に転用され、原義では用いられなくなった。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

『学研漢和大字典』による原義は、柔らかくねばったひげの垂れたさま。『字通』による原義は、雨乞いをする時の、髪を剃った巫女ふじょの姿。接続詞としての「而」については研究が積み重ねられてきたが(ex.戸内俊介「上古中国語文法化研究序説」)、いずれもやはり単なる時間の前後や類似を意味しない。

時(シ)

時 石鼓文 時 字解
(石鼓文)

論語の本章では”良い頃合いを見計らって”。初出は春秋末期の石鼓文で、「日+之”行く”+又”手”」、太陽の移動を記録するさま。「又」を記さない古文字もある。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「時」を参照。

『学研漢和大字典』による原義は、太陽が天空を行くこと。『字通』による原義は、日景ひかげ・時間。

ニセ論語指導士養成講座 論語教育不救機構
加地伸行は”常に”の意とするが、”常に”の語釈は『大漢和辞典』になく、『学研漢和大字典』にも『字通』にもない。「漢語多功能字庫」には戦国末期の金文の例に、「時常」があるとするが、それは解釈の一つであり得ても、「時」→”常に”を必ずしも証明しない。

加地の論拠は中国儒者の注釈。一般に中国儒者の注釈には論拠が示されておらず、個人的感想に過ぎない。日本の論語業界では、こうした中国儒者が書いた中国南北朝時代までの注釈を古注と言い、南宋の時代に朱子が書いたのを新注と言う(→論語の本章の新古注釈)。

いずれも日本の漢文界では、通時代的に尊重されてきた。加地やその他の漢学教授が、無批判に真似したのも、伝統芸能として意図せずコピペを行ったに過ぎない。だがにわかに信じられないことだろうが、中国の儒者は真面目な文章に、平気でデタラメを書く。

古注『論語集解義疏』
所學竝日日修習不暫廢也。

皇侃
皇侃オウガン「学問というものは毎日休まず続けるもので、片時もやめてはならない。」

これは個人的なお説教を熱く語ったものではあっても、論語のここがなぜそう読めるかという説明にはなっていない。おいおい書いていくが、後漢から南北朝時代の儒者の間には信じがたいほどの偽善がはびこっており、古注は真に受けられない(→後漢というふざけた帝国)。

新注もその点変わらない。

新注『論語集注』
程子曰「習,重習也。時復思繹,浹洽於中,則說也。」

程伊川
程頤(程伊川)「習うとは、復習することだ。時復=常に思考を重ねて、思いが頭に満ちてきたら、そこで語ったのだ。」

新注でも一切根拠を言っていない。むろん中国にも学問はあり、新注の書かれた宋代には、音から論語の原義に迫ろうとする試みはあったが、この箇所はそうでない。新注を書いた朱子も自分で論証せず、程伊川という権威に語らせて済ませている。要はハッタリだ。

下記するように「習」が”実践演習”だとすると、実技の前にはマニュアルを十分読みこなす必要がある。それが不足では礼法であれば恥をかくし、武術であれば大けがをする。従って座学によって、頭で理解する時間を過ごして、と解釈した。

郭沫若 郭沫若
なお儒者のこういう根拠無きデタラメは、現代中国の漢学教授にもしっかり受け継がれており、中国共産党の御用学者で、中国漢学界のボスとして君臨し続けた郭沫若の古文字解釈は、今なお学界の定説になっているが、どれも根拠の無い出任せで全然信用できない。

郭沫若は変転常ならぬ時の権力者を渡り歩いたオトコ喜び組の一人で、温厚な知識人のふりをして、日本の司馬遼太郎を手懐けて中共の忠実な回し者に仕立てたり、神田の内山書店に乞われて看板を揮毫するなど、日本人の対中クルクルパーに貢献した大物世間師でもあった。

21世紀の今になって、郭沫若をあがめ奉る日本の漢学教授や論語業者がいるが、漢文が読めないことはもちろん、自分で考える脳みそがないことを白状しているのだから、その者どもの言うことは真に受けない方がいい。こちらの脳みそまでやられる危険性が高いからだ。

習(シュウ)

習 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”復習”ではなく体を使った”実践演習”。初出は甲骨文。『大漢和辞典』『学研漢和大字典』による原義は、巣立とうとする鳥の雛が羽ばたき飛ぶ練習をする象形。甲骨文では占いの作業を繰り返すことで、”学習”の意が生じるのは戦国時代からになる。詳細は論語語釈「習」を参照。

多くの論語本が”復習”と解釈しているが、無批判に中国儒者を受け売りしただけであり、賛成できない。その儒者の一人である前漢の劉向は言う。

君子博學,患其不;既之,患其不能行之;既能行之,患其不能以讓也。

劉向
君子は多く学んでも、復習できない事に悩む。復習を終えたら、実行できないことに悩む。実行できたら、功績を誇らずにはいられないのを悩む。(『説苑』談叢71)

中国儒者がこう言うに至ったのは、おそらく「習」のカールグレン上古音dzi̯əp(入)の同音に「襲」があり、”重ねる”を意味するから。だが「襲」の原義は”引き継ぐ”ことであり、”重ねる”は派生義だから、”復習”は儒者の反射的な思い付きで、その説には従えない。

ベルンハルド・カールグレン

カールグレン
1889-1978。スウェーデンの音韻学者。中国語音韻学の開祖であり、古代の上古音を復元した。後継者は日中を含め複数おり、『学研漢和大字典』を編んだ藤堂明保博士もその一人だが、今でもカールグレン音が最も普遍的に受け入れられている。(→wikipedia)

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では「これ」と読んで”そこでやっと”。初出は甲骨文。原義は進むことで、”…の”のような用法は、戦国時代にならないと現れない。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

一般に「これ」と読んで指示詞(≒代名詞)として解釈するが、指示すべき言葉が「之」以前に存在しないので誤り。仮に「学」がそうだとしても、”学ぶ”という動詞に読んだ以上、名詞ではないので指示対象にならない。

句や節が名詞化するのは、中国語にも英語にもありふれた現象で、論語の本章もその例外ではないが、一つの単語が、同時に複数の品詞を兼任するなどということが、言語学的にあり得るのだろうか? 少なくとも漢文について、そのような説明は聞いたことがない。

一般に漢文で「之」が持つ意味は、指示詞”これ”か、動詞”行く”か、そうでなければ副詞。動詞の直後に置かれ、意味内容を持っていない。その代わり直前の動詞を強調するので、本章では”そこでやっと”と訳した。

学而時習 学びて時にこれ習う。
学びながら頃合いを見計らって、そこでやっと実習する。

學而時習之

以上から、「まなびてときにこれならう」と読んで、”座学の理解度を見計らいながら、十分と思えたら、そこで初めて実演してみる”の意。

孔子塾で教えられたのは六芸リクゲイといって、礼楽射御書数(礼儀作法、音楽、弓術、戦車術、読み書き、算術)だった。いずれもやり方を座学で覚えてから、体や手を動かして実演してみる必要があり、その二つが「而」で分かちがたく結びつけられたのがこの句。

何かの習い事の前に、座らされてくどくどとウンチクや説教をされている最中、誰もが感じる「早くやらせろよ」との思い、頭で思っていたことを実際にやって見て、「あ、出来た!」という喜び、孔子はこれを強調したのであり、決して”復習は楽しい”と言ったわけではない。

學而時習之。

また漢文は英語と同じくSVO型の言語だから、主語は句頭に来る。この句の場合、「学」が主語になり得るが、直後に「而」が付いているので「時」と分かちがたく、となると「学」は名詞で主語か、名詞でなくて主語でないと判断できる。

名詞と判断した場合、”学と時は必ずセットで、ともに実践する”となるが、文意がよく分からない。従って「学」を名詞ではなく動詞と判断し、主語は省略されていると解釈して、”学びながら時を見計らい、そこでやっと実践する”と解釈するのが最も妥当と言える。

不(フウ)

不 甲骨文 花の構造
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

論語時代の中国語は漢字の種類が少なく、字の意味も統一されていなかったので、同音や近音が意味も同じである例が少なくない。このように、音を通じて別の意味を表現することを、仮借カシャ(りて借りる)、または音通という。詳細は論語における「音通」を参照。

亦(エキ)

亦 甲骨文 学而 亦 エキ
(甲骨文)

論語の本章では”おおいに・たいそう”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。詳細は論語語釈「亦」を参照。

伝統的に「また」と読むが、ここではorの意味ではない。論語ではほとんどの場合に”おおいに”の意で、それが「また」という読みに統一されているのは、平安朝以来の因習に過ぎない。

藤堂明保『漢文概説』

「不亦楽乎」を「マタ楽シカラズヤ」と型どおりに読めたからといって、それで十分な翻訳になっているだろうか。「また」とはいったい何の意味であろう。

  1. 「これもまずまず」というほどの弱い語気なのか
  2. 「これだって」というぐらいのやや強い語気なのか
  3. 「これはなんと楽しいではないか」というごく強い調子なのか。

わからない。まったくわからない(今では私は2.か3.のどちらか、むしろ強調に傾いた言い方であろう、と考えている)つまり訓読しただけでは、オヨソの見当がつくだけで、本当の翻訳にはならないのである。

おじゃる公家
藤堂博士が歎いたように、訓読だけでは意味が分からないのは、漢文をデタラメに読み下したおじゃる公家の真似が、今なお続いているからで、本来漢文の解釈は、中国古語→日本古語に変換する訓読だけで終了のはず。だから意味不明の訓読は、訓読の失敗に他ならない。

說(エツ)→悅(エツ)

説 楚系戦国文字
(楚系戦国文字)

論語の本章では”喜ぶ”。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「兌」。原義は”解き放つ”こと。説明するのを”とく”と言うのは漢語も同じ。詳細は論語語釈「説」を参照。

『論語義疏』=古注では「悅」(悦)と記す。頭のもやが晴れたような気持で”喜ぶ”こと。こちらも初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。詳細は論語語釈「悦」を参照。

論語 歴代王朝と孔子
古注は南北朝・梁時代(502-557)の編纂で、現伝の論語が底本としている、唐末期の唐石経(833-837)より古い。その証拠に古注は隋代以前の写本が日本に残っており、のち中国では消滅したが、清末になって逆輸出された。現伝の古注が必ずしも当時の文字列を保存しているとは限らないが、特に反証のない限り、唐石経よりは論語の古形を伝えていると見てよい。

兌 甲骨文 兌 字解
「兌」(甲骨文)

そして「説」も「悦」も論語の時代に無いが、”よろこぶ”を意味する部品の「タイ」はあり、初出は甲骨文。字形は「八」”笑みのしわ”+「大きく口を開けた人」で、人の笑う姿。原義は”笑う”・”喜ぶ”。甲骨文では「閲」”けみす”の意に用いられ、金文では加えて人名に用いられた。「脱」”抜け出す”の用例は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「兌」を参照。

このように漢字には、音が似ていなくても、部品が派生義をあわせ持つことがある。これを漢字の通用という(→詳細)。

同じ「よろこぶ」とむ漢字、喜・慶・歓…などの中から、孔子が「説」を選んだのにはわけがある。ことばで得た知識を、体でやってみることで初めて分かる「出来た!」という体験は、やりたい思いを晴らすことでもあるからだ。

乎(コ)

乎 甲骨文 鐃
(甲骨文)/「ドウ」奈良国立博物館蔵

論語の本章では、”…であるなあ”と訳し、感嘆の意を示す。文末・句末におかれる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「乎」を参照。

有朋(ユウホウ)→朋友(ホウユウ)

論語の本章では、”対等の仲間とかばい合う仲間”。論語の時代は原則として熟語が無く、一文字一語義と解するべきだが、説明の都合上まとめて解説する。

有 甲骨文 有 字解
「有」(甲骨文)

「有」の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は腕で”抱える”さま。詳細は論語語釈「有」を参照。

友 甲骨文 友 字解
「友」(甲骨文)

武内本が引く隋の陸徳明が編んだ『経典釈文』では、一説に「有」は「友」だという。初出は甲骨文。甲骨文の字形は複数人が腕を突き出したさまで、原義は”共同する”。詳細は論語語釈「友」を参照。

朋 甲骨文 朋 字解
「朋」(甲骨文)

「朋」の初出は甲骨文。原義は”対等な仲間”。詳細は論語語釈「朋」を参照。

後漢初期の『白虎通義』では、論語の本章を引用して「朋友﹅﹅自遠方來」(辟雍3)と記す。参照した版本は1919年からの四部叢刊版だから、必ずしも古代の論語がそうなっていた証拠にはならないが、「そうでなかった」証拠もない。
白虎通義4-158

こういう、古典の言葉の重箱の隅をつ突き回すのを「考証」というが、趣味人の暇つぶしにはなっても、普通の人にとっては「どうでもいいだろうが」という話になる。だからTOPページでこの「論語詳解」を「おすすめしません」と記したから、開き直って話を続ける。

この部分を「有朋」と記したのは古注だが、「疏」=注の付け足しに変なことが書いてある。

古注『論語集解義疏』

疏…此第二段明取友交也同處師門曰朋同執一志為友朋猶黨也共為黨類在師門也友者有也共執一志綢繆寒暑契闊飢飽相知有無也


付け足し…この第二段(「朋…乎」を指す)は、交友の法を明らかにしている。同じ師匠に教わる者を朋と言い、同じ志を共にする者を友という。朋は党とも言い、共に共通目標を師匠のもとで行うことである。友は有とも言い、共に同じ志を共有して、暑さ寒さ、餓えや渇きを分かち合い、互いの過不足を知り合う仲間である。

これを素直に読めば、南朝梁の儒者である皇侃が読んだ原文は、「朋友」になっていたことになる。古注は『白虎通義』よりも400年ほど時代が下るから、古注より『白虎通義』の方が、より論語の古形を伝えていると言ってよい。

紙本で現存最古の論語本は、古注の一部が近年発見されたようだが一部に過ぎず、所蔵する某塾が仕舞い込んでネット公開したがらないから、参照できない。ネット公開された最古の紙版は、宮内庁書陵部蔵の南宋本『論語注疏』だが、そこでは「有朋」になっている。ただし画像の利用規程には申請しろだのと面倒くせえことが書いてあったので、ここでは掲示しない。

そして現伝論語の定本となっている唐石経は、京大蔵のものでは「有朋」になっている。ただし「朋」の字がどういうわけか、斜体で書いてあるのが気に掛かる。下掲画像の最終部分がそれに当たる。
京大蔵唐石経『論語』

結論として、「朋友」→「友朋」→「有朋」に書き換わっていったのが真相ではないか。

儒者による論語原文のいじくりは、少なくとも後漢滅亡後までは続いた。宋儒にもその疑いがある。現伝の論語の言葉にナニガシとあったとしても、孔子や高弟がナニガシと言った保証はない。「論語とはこういうもの」という色眼鏡を外さないと、論語は読み解けないだろう。

自(シ)

自 甲骨文 吾
(甲骨文)

論語の本章では”…から”。初出は甲骨文。「ジ」は呉音。原義は人間の”鼻”。春秋時代までに、”鼻”・”みずから”・”…から”・”…により”の意があった。戦国の竹簡では、「自然」の「自」に用いられるようになった。詳細は論語語釈「自」を参照。

遠方(エンホウ)

遠 甲骨文 方 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”遠い地方”。「○方」という表現は甲骨文以来の古い表現で、殷代では”○と名を呼ぶ異民族”を意味した。

「遠」の初出は甲骨文。原義は手に衣を持つ姿で、それがなぜ”遠い”を意味したかは分からない。ただし”遠い”の用例は甲骨文からある。詳細は論語語釈「遠」を参照。

「方」の初出は甲骨文。原義は諸説あって明らかにしがたい。詳細は論語語釈「方」を参照。

論語当時の中国は諸侯国に分裂し、厳しい身分制度の下にあった。しかし孔子は出身国や身分に関わらず弟子を取った。

來(ライ)

来 甲骨文 来 解字
(甲骨文)

論語の本章では”来た”。初出は甲骨文。新字体は「来」。原義は穂がたれて実った”小麦”。西方から伝わった作物だという事で、甲骨文の時代から、小麦を意味すると同時に”来る”も意味した。詳細は論語語釈「来」を参照。

樂(ラク)

楽 甲骨文 楽 字解
(甲骨文)

論語の本章では”楽しい”。初出は甲骨文。新字体は「楽」。原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。その場合の漢音は「ガク」。ただし春秋時代に”楽しませる”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。

同じ「たのしい」と訓む漢字の中でも、孔子が「楽」を選んだのにはわけがある。出身国や身分を超えて、同じ塾生として同列に並ぶ事の楽しさを、楽器の響き合いとして表現したのだ。漢字はたとえ訓読みが同じでも、文字が違えば意味が違う。そうでなければ方言の違いだ。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”他人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

不知(フウチ)

知 智 甲骨文 知 字解
「知」(甲骨文)

論語の本章では”知らない”。「知」の現行書体の初出は秦系戦国文字。孔子在世当時の金文では「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は明瞭でない。ただし春秋時代までには、すでに”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。現在最古の論語のテキストである、定州漢墓竹簡論語は、「知」を「智」の古書体「𣉻」で書いている。詳細は論語語釈「知」を参照。

「不知」を伝統的な論語本では”自分を理解してくれない”と解するが、後ろに”自分”を意味する目的語が無いし、そのように解する根拠も無い。”知らない”・”勉強が出来ない”と解する方が単純で、「オッカムのカミソリ」=理屈は単純な方が正しい、に合う。

論語の全512章のうち、「知」が用いられた章は72ケ章で、”(誰かが)自分を知る・知らない”と明確に解釈出来るのは4ケ章しかない。しかもそれらは、全て「我・吾・己」という目的語を伴っている。

大宰知我乎。(論語子罕篇6)
不吾知也(論語先進篇25)
莫我知也夫。…知我者,其天乎。(論語憲問篇37)
莫己知也。(論語憲問篇42)

それなのに本章を”自分が知られない”と伝統的に解釈する元ネタは、過去の中国の儒者の説。

古注『論語集解義疏』

人をて知らしめずして、我怒らざるは、此れを是れ君子の徳なり。

古注 何晏
何晏カアン「人に知られないでも怒らないのが、まさに君子の道徳だ。」

新注『論語集注』

学はおのれに在り、知る知ら不るは人に在り、何のうらみかこれ有らん。

朱子
朱子「学問するのは自分で、それを知るも知らないも他人次第だ。何のうらみがあろうか。」

いずれも個人的なお説教に過ぎない。

しかも古注の何晏カアンは三国時代・魏の人で、没年で比較すれば孔子より728年も後の人。新注を編んだ朱子に至ってはなおさらで、1679年間も時代が下る。今から728年前と言えば、鎌倉時代で、二度の元寇が終わっただいたい十年後。1680年前と言えば古墳時代だ。

現代日本人が当時の日本をどれだけ知っているだろう? 学者だろうと、古代人に出会って滞りなく会話できるだろうか? そもそも論語が古くて読めないから、こうした注釈書が作られたのであり、注釈を書いた儒者たちも誰一人、孔子と同様に論語を理解したとは限らない。

「中国人だから」「古いから」という理由だけで、論語をおかしな風に読むのは、もうやめにしたらいい。それは現代人が病気になれば近所の医者に行き、誰も中国からまじない師を呼ばないのと同じだ。そして訳者が知る限り、中国人は古代も現代もウソの達者だ。

古注では何晏の言い分を疑わしいと思ったらしく、別解を記している。

古注『論語集解義疏』

疏…此有二釋一言古之學者為己己學得先王之道含章內映而他人不見知而我不怒此是君子之徳也有德己為所可貴又不怒人之不知故曰亦也又一通云君子易事不求備於一人故為教誨之道若人有鈍根不能知解者君子恕之而不慍怒之也為君子者亦然也

論語義疏
付け足し…ここの解釈は二つある。

一つは、昔の学徒は自分のために学んだ(論語憲問篇25)から、いにしえの聖王が示した道を読んで、それを心に抱いて行動規範にする。他人にはそれが見えないが、それでも怒らないのが君子の徳目だ。それを身につけただけで満足であり、他人に怒る理由がない、という。

もう一つは、君子を主人にすると、家来に何でも出来ることを要求して来ないので仕えやすい。人を教えるにあたっても、世の中には馬鹿たれがいて全然言うことを理解しないものだが、君子は「ああ、こいつは馬鹿なんだから仕方がない」と思いやって、怒ったりしないのである。

慍(ウン)

慍 金文 矣 慍 字解
(金文)

論語の本章ではうらむ、ではなく”怒る”。現行字体の初出は後漢の説文解字。異体字の初出は春秋時代の金文。先学による原義にはすでに従い難いが、最古の字体が「人」+「風呂桶」+「心」であることから、”怒る”と思われる。詳細は論語語釈「慍」を参照。

『学研漢和大字典』も『字通』も、部品の「𥁕」を釜をかまどに置いて焚き付けているさまと解するが、これは甲骨文出土前の古い解釈であり、現在では賛成しがたい。そもそも、「𥁕」の字は西周早期が初出で、甲骨文がある「溫」(温)の字の方が先行する。

温 甲骨文 溫 温 字解

」の字の甲骨文は、人を火あぶりにする暴君のしわざでなければ、皿=平たい容器に氵=水を満たし、そのなかに人が入っている姿、つまり温泉の象形であり、『大漢和辞典』にも”いでゆ”の語釈がある。慍はその部首をりっしんべんに替えた字で、”心が熱くなる”意となる。

漢字では、意味を表すへんと、音を表すつくりを組み合わせた文字を形声文字(形とおと)といい、異なる・同じ意味の漢字を組み合わせて別の意味を表す文字を会意文字(意を会わす)と言うが、慍は形声文字であり、また会意文字でもある。このような漢字を会意兼形声文字と呼ぶ。

「人不知而不慍」を”他人が理解してくれないからといって恨まない”と解するのは、「慍」を「うらむ」と訓読みする日本の慣習に引きずられるからで、「慍」は必ずしも”うらむ”を意味しない。現に新注も古注も、「怒ることだ」と解釈している。

古注『論語集解義疏』

註慍怒也凡人有所不知君子不愠之也


注釈。慍とは怒ることだ。他人の無知には、君子は怒らないものだ。

新注『論語集注』

慍,含怒意。


慍とは、怒りを含むことだ。

ならば原義に従って、人の無知に対して怒ること、と解するべきだろう。論語は最も古い中国古典の一つであるからには、用いられた漢字の意味は原義に近いと理解するべきだからだ。

さらに論語の本章を入塾心得と受け取るなら、孔子がまず警戒すべきは、塾内の不和に他ならない。孔子は出身や身分に関係なく弟子を取り、貴族にふさわしい技能と教養を教えた。つまり孔子塾生は、最下級の貴族=「士」に成り上がりたい平民以下がほとんどだった。

孔子塾は春秋時代の身分制度に挑戦する、革命政党でもあったのだ。

野心の固まりである若者を団結させるには、他人を見下して安心したがる未熟な若者を、固く押しとどめる必要があっただろう。しかも当時の貴族には従軍の義務があったから、孔子塾の必須科目には武芸が含まれる。そこでもしいじめが流行れば、血の雨が降っただろう。

論語と算盤 干戈
孔子存命中の塾は、青白い文弱の徒の集まりではない。弟子のゼン有やハン遅の武勲は、『春秋左氏伝』に記されている。子夏や子ユウのような、孔子晩年の若い弟子や、孔子没後に一派を作った曽子らは別として、主要な直弟子のほとんどは、武器を執って戦ったのだ。

事を日本に移して考えてみるといい。孔子塾同様、極めて政治思想性の強い武力集団であり、成り上がりに燃えた若者の集まりだった新撰組は、すさまじい内部抗争と血の粛清に明け暮れた。革命政党が生き残るにはまず、党首が内部の不和を消して回らねばならない。

幕府や会津藩という権力の後ろ盾があっても、新撰組は内ゲバで半ば自滅した。後ろ盾が孔子個人の魅力しかない孔子塾なら、塾内不和こそ大敵で、それを和ませた顔淵に孔子は感謝を述べている。以上の背景を考えれば、本章を無名を恨む言葉として理解する必要は何もない。

顔淵は二十九歳で、髪がすっかり白くなり、若死にしてしまった。孔子は声を上げて泣き、わなわなと震えて言った。「顔回が入門してから、弟子の仲が良くなった。」(『史記』仲尼弟子伝)

君子(クンシ)

君 甲骨文 君子 小人
「君」(甲骨文)

論語では三つの使い分けがある。本章の場合は1。

  1. 平民以下に対する貴族・為政者・役人。
  2. 孔子の弟子に対する呼びかけ。諸君。
  3. 教養ある人格者。

「君」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「コン」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。詳細は論語語釈「君」を参照。

孔子の時代、君子とは平民出身がほとんどである孔子塾生が目指した貴族のことで、当時の貴族は例外なく戦士だから、たかがナイフ男が出ただけで、逃げ散るしか能が無い者は、まぎれもなく小人ということになる。詳細は論語における「君子」を参照。

孟子
「君子」に”教養人”とか”人格者”とかいった偽善的な意味が付け加わったのは、孔子没後約一世紀のちに現れた、希代の世間師・孟子によるもので、孟子は自分の商材として選んだ孔子の儒を、でっち上げと曲解によって儒に作り替えた。論語にも偽作を多数混ぜ込んでいる。

孔子は古代人には珍しく、ほぼ無神論の立場を取った(→孔子はなぜ偉大なのか)。教えたのも技能や教養で、何かを信じる思考停止を弟子に求めていない。対して世間師・孟子は、人間の不安に付け込んだ、新興宗教として孔子の教えを再構築した。全ては金儲けのためである。

孔子は死んだらそれまでと達観しており、その合理主義から、弟子に儒家を受け継げとは言わなかった。『史記』によれば、弟子は孔子の喪が明けると、さっさと故国や仕官先に帰ってしまった。教える先生が居なくなったのだから、塾はそこでおしまいだからだ。

その結果孔子没後、儒家は一旦滅亡した。だから孟子がやりたい放題できたのである。

論語:解説・付記

論語の本章と孔子塾

古来、論語を読もうと意気込む読者を、「勉強して復習するのは楽しいではないか」と言って叩きのめし、読まないように追い返してきた罪な一節だが、孔子が言いたかったのはそういうことではない。意訳のように、ごく当たり前な塾での共同生活の心得に過ぎない。

過ぎない、と書けば、孔子をバカにしているように受け取れるが、そうではない。勉強という行為そのものが珍しかった論語時代、庶民にもその道を開いた孔子が、座学ばかりでは必ず苦痛になるし、興味の持てないことを復習させるなどとんでもない、と気付いていた証拠。

六芸
孔子塾で教えられた教科は『周礼シュライ』で六芸リクゲイと呼ばれ、礼法、音楽、古典、弓術、馬車術、算術だった。うち座学だけで済むのは古典と算術だけで、礼法には作法や儀式の実践演習が要るし、音楽も歌や楽器の演奏があるから同様。弓術と馬車術が体育なのは言うまでもない。

古典と算術も、座学だけでは済まなかった。論語の当時は商業がか細く、貨幣すら確認できない時代で、筆記に使う筆や墨、算術に使う算木や原始的な算盤そろばん(アバカス)は、自分で作らねばならなかった。孔子はそうした手仕事に実に巧みで、実作も授業の一環だっただろう。

弓術と馬車術が入っているのは、当時の貴族=君子にとって、必須の技能だったから。論語の時代、君子とは戦時には出陣する戦士であり、当時は戦車戦が主だったから、乗員として馬車術が要ったし、車長は戦闘の指揮にあたると同時に、弓で遠距離攻撃を担当した。

孔子塾に入門した弟子たちは、その多くが論語で民と呼ばれる下層階級の出身で、身分差別と貧困に生きた。そこから抜け出し最下級の貴族=士になる方法は、孔子塾で貴族の技能を身につけるほかになかった。だから六芸に算術があり、役人として帳簿を付けられるようにした。

音楽が六芸に入っているのは、貴族のたしなみとして古歌が歌えないと、政治や外交の場で何も言えなくなるからで、古歌の歌詞を巧みに引用して交渉するのが、論語時代の政界の常識だった。また情操教育にもよく、孔子が最も得意とした技能だったからでもある。

また論語の時代、中国は諸侯国に分かれていたが、それぞれに言葉が違うのは現代中国の各地方と同じで、共通語として真っ先に挙がるのは、古語で書かれた歌詞だった。つまり孔子塾の音楽教育は、現代の英会話を兼ねており、外交をも取り扱う役人には必須の技能だった。

貴族
古典と礼法も音楽同様、論語時代の貴族社会で生きていくためには、貴族らしい仕草や礼儀が必要で、古典は歴史と行政文書の書式のお手本でもあったから、これが分からないと役人や政治家として仕事が出来ない。つまり孔子塾は、今で言う公務員予備校だったのである。

論語時代にも学校はあり、弟子を取って教えた教師もいたのだが、それらの記録はほとんど残っていない。とりわけ孔子塾が異色だったのは、身分や出身国を問わす弟子を受け入れたことで、これは社会の底辺に生きる庶民にとって、広い中国にただ一つの希望でもあった。

そして同時に孔子塾は、論語で語られる孔子の政治構想を実現させるための、革命政党でもあった。孔子の政治的主張は、論語の当時としてははなはだ危険で、同時代の権力者と民衆をおびやかした。それゆえに孔子は失脚や亡命、そして十年以上にわたる放浪を余儀なくされた。

その政治的主張とは、通常言われる復古主義では全然ない。鉄器と小麦の普及という社会変動を前に、血統貴族が社会を統治しきれなくなった所へ、教育を受けた庶民を士族に成り上がらせ、行政の主役をそれらに委ねる事だった。血統貴族の公職世襲を一部否定したのである。

庶民にとっても迷惑だった。孔子生誕の頃まで、大多数の庶民は無税で従軍の義務も無かった(国野制)。だが庶民に教育を施し行政に組み入れるという事は、課税され徴兵され、司法の監視下に置かれることだった。だから孔子は魯国の上下から、こぞって嫌われたのである。

放浪
この孔子の放浪に従い、革命に共鳴する志士となったのは、一説に三千人と言われる弟子の中でもごく少数、論語の言う孔門十哲のさらに一部に過ぎない。孔子は塾経営者として弟子の希望を理解しており、その気のある者にのみ革命闘士への道を勧め、他の者には隠しさえした。

こうした複雑な性格を持つ孔子一門に、まだ白紙のまま入門してくる弟子たちに与えた言葉が論語の冒頭を飾る本章で、貴族の教養とは読み書きや座学だけではないとまず教えねばならなかったし、身分や出身を忘れろと説いたのは、学級崩壊やいじめを根絶するには必要だった。

また弟子の出来・不出来は集団で学ぶ以上避けられないが、不出来な者を見下すなと教えたのは、やはり塾内を和やかにする規則として必要だった。論語冒頭のこの言葉は、出来ないからと言ってバカにするようでは、貴族になれないぞ、と半ば脅したのでもある。

こうした背景を踏まえ、改めて論語を読み直すと、従来の解釈の中には、いかに荒唐無稽で人をおとしめるものが多いか、と気付いて愕然とする。そうなったにはそれだけの歴史的事情があるが、それはおいおい語るとして、孔子塾の持つ歴史的意味に、思いを致して頂きたい。

論語の本章の解釈

武内義雄 論語之研究
論語の本章(=この一回)の史実性については、武内義雄『論語之研究』によると、この学而篇と論語第十郷党篇は、もと二篇で独立した原『論語』の一種で、第二為政篇~第八泰伯篇までの原『魯論語』・第十一先進篇~第十五衛霊公篇までの原『斉論語』より新しいという
(→論語の成立過程まとめ)。

だが武内博士の学説はあまりに古く、しかもさまざまな儒者が語ったデタラメに、無理なつじつまを合わせたため、もはや現代では通用しない。本章に用いられた漢字=漢語は、何とか全て論語の時代に遡れるので、孔子の実の発言として訳を付けた(→論語の史実性の検討)。

ただ本章の意味内容、「學而時習之」「友朋自遠方來」「人不知而不慍」のどれ一つとっても、戦国時代の儒者に引用されず、「人不知而不慍」に至っては前後の漢帝国の儒者すら引用していない。すると本章は後漢末の成立である可能性があり、その場合の解釈は従来訳通り。

結論として論語の本章の史実性は、孔子の実の発言であることを文字史から信じるに足り、後世の創作であることを、定州漢墓竹簡論語に無く、後世に引用の無いことから疑える。古典は疑い出せば切りが無く、疑わしきはなんとやら、というから、とりあえず史実としておく。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だし、訳者に連絡のお気遣いも不要だが(ただしネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。

言い訳無用。訳者が「やった」と思えば全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。空港の刃物検査通過は、やったことがあるが存外簡単だ。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。朴ったら○すぞ。それでもやるなら、覚悟致せ。



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コメント

  1. […] 『論語』に「学びて時に之を習う」とあるのも、この四つを学習することを言う。詩書礼楽を学習して、その奥義に通達し、その道を行い得れば、君子の才徳は成就して、天下国家の役に立つ、これを「学(ぶ)者の成立」と呼んだのだ。 […]

  2. […] 論語詳解ページをしつこく冒頭から再改訂中。いらんものは削ってしまおう。衒学的なハッタリは処分処分。 […]