論語詳解001学而篇第一(1)学びて時に゚

論語学而篇(1)要約:孔子塾の入塾心得。復習を強要するお説教ではなく、体で技術を習得する楽しさと、身分や出身で差別してはいけない、差別は自分の自信のなさからという、現代にも通用する当たり前の教えでした。
(動画版あり)

このページの凡例

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰。「學而時習之、不亦說*乎。有*朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」

→子曰。「學而時習之、不亦悅乎。友朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」

校訂

武内本

悅、唐石経說に作る。釈文云、說音悅。有朋、釈文云、一本友朋に作る。有恐らくは友の字の仮借。

復元白文

論語 子 金文論語 曰 金文 論語 学 學 金文論語 而 金文時 金文論語 習 金文之 金文 論語 不 金文論語 亦 金文兌 金文論語 乎 金文 論語 有 金文論語 朋 金文論語 自 金文論語 遠 金文論語 方 金文論語 来 金文 論語 不 金文論語 亦 金文論語 楽 金文論語 乎 金文 論語 人 金文論語 不 金文智 金文論語 而 金文論語 不 金文慍 金文 論語 不 金文論語 亦 金文論語 君 金文論語 子 金文論語 乎 金文

※悅→兌。

書き下し

いはく、まなときこれならふ、おほいよろこばしからず有朋とも遠方えんぱうきたる、おほいたのしからずひとらずしいからず、おほい君子くんしならず

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子別像
先生が言った。時間を掛け座学したことを体で実践してみるのは、目からうろこが落ちるように、たいそう晴れやかな体験ではないか。遠い異国から来た仲間や対等の友人がいるのは、響き合うように、たいそう楽しいことではないか。他人に知識がないからと言って怒らないのは、まことに貴族らしいではないか。

意訳

マニュアルを読んだら必ず体でやってみる。そうすると勉強が面白くなる。
いろんな身分や外国の学友と語り合う。そうすると塾生活が楽しくなる。
出来ない者をバカにしない。しているうちは自信がないと知る。

…これが入塾心得だ。

従来訳

論語 下村湖人
先師がいわれた。――
「聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。何と生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなつたら、何と人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「經常學習,不也喜悅嗎?遠方來了朋友,不也快樂嗎?得不到理解而不怨恨,不也是君子嗎?」

中国哲学書電子化計画

孔子は言った。「いつも学び続けるのは、うれしいことではないか? 遠くから友達が来た、楽しいことではないか? 理解されなくても怨まない、これこそ君子ではないか?」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

論語 子 甲骨文 論語 子 金文
(甲骨文・金文)

論語の本章では”貴族・師匠への敬称”。論語ではほぼ孔子を指す。孔子など「…子」とある場合は、”…先生・…様”。弟子の子貢など「子…」とある場合はあざなで、”…さん”に近い。

白川静 白川静 字通
白川静『字通』によると、原義は小さな子供を描いた象形文字で、本来は王の子供を指す。そうした子供が各地の諸侯に取り立てられたので、敬称へと変化したという。

書体 甲骨文 金文 篆書 楷書
A 論語 子 甲骨文 論語 子 金文 論語 子 篆書
B 論語 子 甲骨文 論語 子 金文 論語 子 篆書

藤堂明保 藤堂明保 学研漢和大字典
一方、藤堂明保『学研漢和大字典』によると象形文字で、もと二系統の字体があり、Aは小さい子どもを描いたもの。Bは子どもの頭髪がどんどん伸びるさまを示し、おもに十二支の子の場合に用いた。のちAとBは混同して子と書く。絲(シ)(=糸。小さく細いいと)と同系で、小さい意を含む。また、茲(ジ)(ふえる)・字(親字から分化してふえた文字)と同系で、繁殖する意を含む、という。

より詳細な語釈は、論語語釈「子」を参照。

曰(エツ/いわク)

論語 曰 金文
(金文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。詳細は論語語釈「曰」を参照。

學(学)

論語 学 學 甲骨文 論語 学 學 金文
(甲骨文・金文)

論語の本章では”座学”。論語時代の算術や占いには算木が用いられ、大人がその算木を交差させて占う様子を子が見ている象形、と宮崎本に言う。いずれにせよ、屋根の下で学ぶことの象形で、体育や実技ではない、坐学を意味することば。

論語 学
『学研漢和大字典』によると、メ印は師弟の交流、宀印は屋根のある家を示す。學は、「両方の手+宀(やね)+子+音符コウ」の会意兼形声文字で、もと伝授の行われる場所。つまり、学校のこと。效(効、ならう)-コウ(まねる)と同系のことば。交流の交ときわめて近い、という。

『字通』によると字の初形(訳者注。最も古い字体)は論語 外字 コウ 学。屋上に千木のある形。それに子を加えるのはメンズハウスの意。臼は後に加えたものだが、ボク文(訳者注。=甲骨文)にすでにみえる、という。

『大漢和辞典』によると会意形声。教とケイと臼との合字。冂はまだ字の読めない子供、教はおしえ、教と冂とを合せてまなびや、臼は音符、という。

詳細は論語語釈「学」を参照。

而(ジ)

論語 而 金文 論語 而 篆書
(金文・篆書)

論語の本章では”~して”。原義は”ヒゲ”。また神職が髪を剃って雨乞いをすることにも関係がある。漢文ではほぼ接続辞に使い、論語でも同様。古くは、意外性のある記述内容を導く接続辞だったが(戸内俊介「上古中国語文法化研究序説 ――「于」「而」「其」の意味機能変化を例に――」)、のちに順接にも使われるようになった。

『学研漢和大字典』によると、柔らかくねばったひげの垂れたさまを描いたもの。古くから中称の指示詞niəg・nəgに当て、「それ」「その人(なんじ)」の意に用いた。また指示詞から接続詞に転じて、「そして」「それなのに」というつながりを示す、という。

論語 学而 而 ジ
『字通』によると、頭髪を切って、結髪をしない人の正面形。雨乞いをするときの巫女ふじょの姿。頭髪を落とす刑をこんといい、而は髠の形。巫祝にその状のものが多かったのであろう、という。

『大漢和辞典』によると、口ひげの象形。音がに通じて”それ”の意に、また”お前”の意に転用されたという。

詳細は論語語釈「而」を参照。

論語 時 甲骨文 論語 時 金文
(甲骨文・金文)

論語の本章では”時を置いて”。カールグレン上古音はȡi̯əɡ。同音に塒(ねぐら)、市、恃、侍。甲骨文から存在するが、「之日」と二文字で書かれていた時代と、「時」と一文字で書かれていた時代の区別は曖昧である。

論語指導士養成に熱心な、加地伸行・大阪大学名誉教授の説では”常に”の意とするが、論拠は中国の儒者が書いた注釈で、その儒者は個人的感想を書き連ねているだけで、根拠が無いから賛成しない。

昔の中国人が酒飲んで、一杯機嫌で書いたデタラメだったらどうするのだろうか。

論語の業界では、こうした中国儒者が書いた中国南北朝時代までの注釈を古注と言い、南宋の時代に朱子が書いたのを新注と言う(→論語の本章の新古注釈)。にわかに信じられないことだろうが、中国の儒者はしらふどころか真面目くさった顔で、デタラメを書くのである。

古注
所學竝日日修習不暫廢也。

論語 皇侃
皇侃オウガン「学問というものは毎日休まず続けるもので、片時もやめてはならない。」(『論語集解義疏』)

これは個人的なお説教を熱く語ったものであっても、論語のここがなぜそう読めるかという説明にはなっていない。おいおい書いていくが、後漢から南北朝初期の儒者の間には信じがたいほどの偽善がはびこっており、儒者の説は真に受けない方がよい。新注もその点変わらない。

新注
程子曰「習,重習也。時復思繹,浹洽於中,則說也。」

論語 程伊川
程伊川「習うとは、復習することだ。時復=常に思考を重ねて、頭脳をうるおし終えたら、語ったのだ。」(『論語集注』)

新注でも一切根拠を言っていない。むろん中国にも学問はあり、新注の書かれた宋代には、音から論語の原義に迫ろうとする試みはあったが、この箇所はそうでない。新注を書いた朱子も自分で論証せず、程伊川という権威に語らせて済ませている。要はハッタリだ。

また「時」の語義として、”常に”の意味は『大漢和辞典』になく、『学研漢和大字典』にも『字通』にもない。

下記するように「習」が”実践演習”だとすると、実技の前にはマニュアルを十分読みこなす必要がある。それが不足では礼法であれば恥をかくし、武術であれば大けがをする。従って読み込む時間をおいて、と解釈した。

『字通』によると、「寺」にある状態を持続する意があり、日景(ひかげ)・時間に関しては時という。古くは之と日の組み合わせで記され、之にものを指示特定する意がある。またそのときを持つ意に用いる古例もある、という。従って、太古の昔には「之日」または「止日」と二文字で書かれた。

論語 時  金文 中山王鼎 論語 時 解字
(中山王壺)

『学研漢和大字典』によると「時」は会意兼形声文字で、之(シ)(止)は、足の形を描いた象形文字。寺は「寸(て)+(音符)之(あし)」の会意兼形声文字で、手足を働かせて仕事すること。

時は「日+(音符)寺」で、日が進行すること。之(いく)と同系で、足が直進することを之といい、ときが直進することを時という、という。詳細は論語語釈「時」を参照。

論語 習 甲骨文 論語 習 金文
(甲骨文・金文)

論語の本章では”復習”ではなく体を使った”実践演習”。『大漢和辞典』『学研漢和大字典』によれば、巣立とうとする鳥の雛が羽ばたき飛ぶ練習をする象形であり、『字通』も祭祀の動作を﹅﹅﹅繰り返すと解しており、多くの論語本が復習と解釈しているのは誤り。

そして恐らくは、上掲した新注の受け売りであり、そうだとすると救いがたい権威主義だ。詳細は論語語釈「習」を参照。

論語 之 金文
(甲骨文・金文)

『学研漢和大字典』を参照すると、論語の本章では、直前が動詞であることを示す助辞で、意味内容を持っていない。その代わり直前の動詞を強調するので、本章では”必ず”と訳した。

学而時習 学びて時にこれ習う。
学んでから時間を置いて必ず実習する。

伝統的には「学びて時にこれ習う」と読み下すが、「これ」の内容がないので却ってわかりにくくなっている。「之」の『学研漢和大字典』による原義は、足が先へと進んでいくさまで、「これ」という指示詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だという。

詳細は論語語釈「之」を参照。

論語 不 甲骨文 論語 不 金文
(甲骨文・金文)

漢文で最も多用される否定辞。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。詳細は論語語釈「不」を参照。

亦(エキ)

論語 亦 甲骨文 論語 亦 金文
(甲骨文・金文)

論語の本章では”おおいに・たいそう”。原義は人間の両脇。伝統的に「また」と読むが、ここではorの意味ではない。論語ではほとんどの場合に”おおいに”の意で、それが「また」という読みに統一されているのは、平安朝以来の慣習に過ぎない。原義は”人間の両脇”。
論語 学而 亦 エキ

藤堂明保「漢文概説」
藤堂明保
「不亦楽乎」を「マタ楽シカラズヤ」と型どおりに読めたからといって、それで十分な翻訳になっているだろうか。「また」とはいったい何の意味であろう。

  1. 「これもまずまず」というほどの弱い語気なのか
  2. 「これだって」というぐらいのやや強い語気なのか
  3. 「これはなんと楽しいではないか」というごく強い調子なのか。

わからない。まったくわからない(今では私は2.か3.のどちらか、むしろ強調に傾いた言い方であろう、と考えている)つまり訓読しただけでは、オヨソの見当がつくだけで、本当の翻訳にはならないのである。

藤堂博士が歎いたように、訓読だけでは意味が分からないのは、漢文をいい加減に読み下した平安朝のおじゃる公家の猿真似が、伝統とか言って今なお続いているからで、もし論語に何が書いてあるか知りたければ、真面目に辞書を引いて訓読すれば、意味は明瞭になるものだ。

加地伸行は、伝統を踏まえない漢文解釈を「好事家説」と言って小ばかにするが、ならば伝統的な訓読を踏まえた上で、地道に辞書を引けばいい。誰だか知らない中国人のおじさんのコピペに終始するより、よほど漢文が読めるようになる。詳細は論語語釈「亦」を参照。

說/説→悅/悦(エツ)

論語 説 金文大篆 論語 説 篆書
(金文大篆・篆書)

論語の本章では”喜ぶ”。悦(エツ)と同じ。頭のもやが晴れたような気持で喜ぶこと。論語時代の中国語は、まだ文字の数が少なく、文字の意味も統一されていなかったので、音が同じだと意味も同じである例が少なくない。このように、音が同じか似通った文字を借りて別の意味を表現することを、仮借カシャ(りて借りる)という。

同じ「よろこぶ」とむ漢字、喜・慶・歓…などの中から、孔子が「説」を選んだのにはわけがある。ことばで得た知識を、体でやってみることで初めて分かる「出来た!」という体験を指しているのだ。通信教育で黒帯を取っても、そうした体験はいっかな得られないが。

道場で体を動かして稽古するからこそ、技のかけ方外し方が分かるし、強くもなれる。孔子塾での教科六科目のうち、座学で済むのは古典と算術だけで、あとは体育か実技。だから「出来た!」喜びを孔子は強調したのであり、それゆえに「説」ということばを用いたのだ。

なお「悅」「説」の字は、孔子生前に通用した金文や、それ以前の甲骨文には見られず、楚・秦の戦国文字から見られるようになるが、同音同訓のエツの字が、甲骨文(うらないの文)や西周末期の青銅器に見られる。従って論語の時代には、兌と書かれていたのだろう。
兌 甲骨文 兌 金文
「兌」(甲骨文・金文)

詳細は論語語釈「説」を参照。

乎(コ/や・か)

論語 乎 金文 論語 兮 乎
(金文)

論語の本章では、”~であるなあ”と訳し、感嘆の意を示す。文末・句末におかれる。『学研漢和大字典』による原義は息の漏れるさまだが、『字通』によると拍子を取る鳴子の形という。

詳細は論語語釈「乎」を参照。

有朋→友朋

論語 有 金文 論語 朋 金文
(金文)

論語の本章では、”かばい合う仲間と対等の仲間”。

武内本によると、陸徳明(中国・隋唐時代の儒者)の釈文に、あるテキストでは「友朋」と書いていると言う。従っておそらく「有」は「友」の仮借(音を借りて転用すること)であるとする。『学研漢和大字典』によると、「有」と「友」の音の変遷は以下の通り。

  上古音(先秦) 中古音(隋唐) 中原音韻(元) 現代北京語音 ピンイン
ɦɪuəg ɦɪəu iəu iəu yǒu・yòu
ɦɪuəg ɦɪəu iəu iəu yǒu

ここから、孔子の時代から論語が現伝の姿となる後漢代まで、「有」と「友」は、混同されてもおかしくないことばだったとわかる。従って「有」は「友」と解しうる。

論語 友 金文 論語 朋 金文
「友朋」(金文)

『学研漢和大字典』によると「友」の原義は互いの手を取り合ってかばい合うことで、「朋」の原義は、数個の貝をひもでつらぬいて二すじ並べたさまを描いた象形文字で、同じようなものが並んだ姿と言う。つまりかばい合う友達と、対等の友達を合わせて呼んだことば。

論語の時代の中国語は、原則として一文字一語義。この言葉は「永久」「幸福」のように、似たものをまとめて呼んだ、古い熟語と解してもいいが、論語の他の章では、「朋友」と書く。この差はニュアンスの異なる二種類の「とも」の、先に挙げた順が違うだけだろう。

  1. 朋友交りまことなら。(論語学而篇4)
  2. 朋友交りて言いまことらば、(論語学而篇7)
  3. 朋友にしばしばせば、ここうとんぜられ。(論語里仁篇26)
  4. 朋友は之に信ぜらる。(論語公冶長篇25)
  5. 朋友死して、帰る所無し。(論語郷党篇16)
  6. 朋友には切切偲たれ。(論語子路篇28)

詳細は論語語釈「有」論語語釈「友」論語語釈「朋」を参照。

遠方

論語 遠 金文 論語 方 金文
(金文)

論語の本章では”遠い地方”。論語当時の中国は諸侯国に分裂し、厳しい身分制度の下にあった。しかし孔子は出身国や身分に関わらず弟子を取った。

論語 春秋時代地図

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「○方」という表現は甲骨文以来の古い熟語で、当時は”○と名を呼ぶ異民族”を意味した。「方」の原義は『大漢和辞典』では連ねた舫い船、『学研漢和大字典』ではT字形の鋤の取っ手、『字通』では境界にさらされた異民族のいけにえ。

論語 方 字解
詳細は論語語釈「遠」論語語釈「方」を参照。

有朋自遠方來

武内本の「有朋」→「友朋」という校訂を受け入れない場合、「有朋自遠方來」は伝統的に二系統の訓読がされた。

有朋自遠方來。
a.とも有り遠方り來たる。
b.朋の遠方自り來たる有り。

藤堂明保『漢文概説』では、「これは原文に区切れを入れるか否かという問題にも関係するので、どちらが間違いだとは言い切れない。しかし原則としてはb.のほうが正確であろう」とやや歯切れの悪い説明をしている。しかしこの文から「有」を取り去ってみるといい。

朋自遠方來。

朋(は)遠方自り來たる。

これでも文(松下文法では断句)として成立している。ということは「朋自遠方來」は一つの言明、一つの概念として独立するわけで、その概念が「有」ると論語の原文は言ったわけ。このことからも、a.の訓読には理がなく、b.が正しいと言うべきだろう。

この問題は別の言い方をすれば、動詞「有」がどこまでを客語(≒目的語)として持つのか、ということになる。なおどうでもいいことだが、漢文ヲタク的には、”修飾語の修飾する範囲”を「管倒」という。

a. 自遠方來。
b. 朋自遠方來

a.の場合、「自遠方來」は無主語の文として独立は出来るが、では全く独立しているかと言えばそうではない。「朋」の補足説明として従属しているわけで、つまりは「有朋」という文の支配下にある。ならば最初からb.のように解せばいいので、問題を複雑にする必要は無い。

納得が行かないなら、「有朋自遠方來」では省略されている主語を補ってみるといい。ここで主語たり得るのは、「孔子塾」か孔子のお説教を聞いている塾生としての「吾」だろう。本章の場合、孔子は聞き手の塾生の立場を思いやって言っているから、「吾」に絞られる。

吾有朋自遠方來。

a.吾には朋有り、遠方自り來る。
b.吾には朋の遠方自り來る有り。

a.のようにわざわざ分割する必要があるだろうか? もしb.に違和感があるなら、それは中途半端な漢文慣れが原因だろう。

『元朝秘史』の書き出し、「天が産んだ一匹の蒼き狼がいた。妻の白き鹿がいた。海を渡って来た。」式の、言明同士に脈絡を付けない言い廻しに半可に慣れると、読んだ気にはなれても、誰がどの海を渡って来たのかと問われると返答に困る。それでは読めたとは言えない。

誰がどこをか分かった上で、あえて分割して読むというのもありはする。句読点も無い漢文の白文を読み下す場合は、まず小さく分割した方が文意を取りやすいからだ。だが列車はつながって走るから効率的なので、一両だけ取り出して「これはその列車じゃ無い」とは言えない。

藤堂明保
故藤堂明保博士によると、漢文は世界でも屈指の簡潔な言語で、分かりきったことは極力省くと言うが、だからといって解釈まで、脈絡を付けないでいいわけがない。そして書き下しとは古典中国語を古典日本語に訳す﹅﹅作業で、本来それだけで翻訳として成立すべきものだ。

古典日本語も日本語で、アルゴリズムで現代語に化けるからだ。言い換えると正しい翻訳機を通した時、現代日本人がわかる日本語になっている。曖昧さを排した時枝文法を知っている者なら、誰でもうべなうと確信する。恣意極まりない文系学問に、数少ない数理の光だからだ。

訓読は丁寧に行わねばならない。古典日本語は、簡潔な言語ではないからだ。平家物語は、入道相国の乱脈ぶりを言うのに、異朝の何人を例に引いているだろう。「秦のてうかう、漢のわうまう、梁のしうい、唐のろくさん」。漢文を読むなら、しつこく訳さなければならない。

なお「来」について詳細は論語語釈「来」を参照。

樂/楽

論語 楽 甲骨文 論語 楽 金文
(甲骨文・金文)

論語の本章では”楽しい”。語源的には手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。詳細は論語語釈「楽」を参照。

同じ「たのしい」と訓む漢字の中でも、孔子が「楽」を選んだのにはわけがある。出身国や身分を超えて、同じ塾生として同列に並ぶ事の楽しさを、楽器の響き合いとして表現したのだ。漢字はたとえ訓読みが同じでも、文字が違えば意味が違う。そうでなければ方言の違いだ。

不知

論語 不 金文 智 金文
「不」(金文)・「智」(金文)

論語の本章では”知らない”。伝統的な論語本では”自分を理解してくれない”と解するが、根拠がない。”知識がない”・”勉強が出来ない”と解する方が単純で、「オッカムのカミソリ」=理屈は単純な方が正しい、に合う。

論語の全512章のうち、「知」が用いられた章は72ケ章で、”(誰かが)自分を知る・知らない”と明確に解釈出来るのは4ケ章しかない。しかもそれらは、全て「我・吾・己」という目的語を伴っている。

大宰知我乎。(論語子罕篇6)
不吾知也(論語先進篇25)
莫我知也夫。…知我者,其天乎。(論語憲問篇37)
莫己知也。(論語憲問篇42)

それなのに本章を”自分が知られない”と伝統的に解釈する元ネタは、過去の中国の儒者の説。

古注『論語集解義疏』

人をて知らしめずして、我怒らざるは、此れを是れ君子の徳なり。

論語 古注 何晏
何晏カアン「人に知られないでも怒らないのが、まさに君子の道徳だ。」

新注『論語集注』

学はおのれに在り、知る知ら不るは人に在り、何のうらみかこれ有らん。

論語 朱子
朱子「学問するのは自分で、それを知るも知らないも他人次第だ。何のうらみがあろうか。」

いずれも個人的な鬱を吐き出しているに過ぎない。

しかも古注を作った何晏カアンは三国時代・魏の人で、没年で比較すれば孔子より728年も後の人。新注を作った朱子に至ってはなおさらで、1679年間も時代が下る。今から728年前と言えば、鎌倉時代で、二度の元寇が終わった十年後。1680年前と言えば古墳時代だ。

現代日本人が当時の日本をどれだけ知っているだろう? 学者だろうと、古代人に出会って滞りなく会話できるだろうか? そもそも論語が古くて読めないから、こうした注釈書が作られたので、注釈を書いた儒者たちに、根拠があって”人が自分を知らない”と訳したわけではない。

「中国人だから」「古いから」という理由だけで、論語をおかしな風に読むのは、もうやめにしたらいい。それは現代人が病気になれば近所の医者に行き、誰も中国からまじない師を呼ばないのと同じだ。そして訳者が知る限り、中国人は祖先も祖父もCeddin Deden、現代もウソの達者だ。
論語 まじない師

なお論語本章での「知」の意味は”知る”でよいが、論語独特の意味については、論語における「知」を参照。

論語 知 訟
「知」そのものの原義は、真っ直ぐ矢で射るように、事実をズバリと言い当てること。なお上掲の金文は「智」の字。甲骨文・金文で出自が明らかな文字は見つかっておらず、平易に考えれば「知」という文字は当時無かったことになる。

だがそのような基本単語が無かったとは考えがたいのだが、音チ訓しるで『大漢和辞典』を引いても、「知」以外の漢字は「訵」のみで、こちらも甲骨文・金文共に出てこない。

結論として、論語の時代に通用した金文で、「知」がどのように書かれていたかは判然としない。おそらく甲骨文から確認できる「智」と、区別されず書かれただろう。詳細は論語語釈「知」を参照。

慍(ウン)

慍 金文
(金文)

論語の本章ではうらむ、ではなく鬱屈した”不愉快な感情”一般。『学研漢和大字典』によるとへんはりっしんべんで”心”を意味し、つくりは釜をかまどに置いて焚き付けている象形。釜には蓋が閉まっており、中で沸騰してたぎっている様子を表している、という。

溫 温 字解
ただしこの解釈は、最古の甲骨文が参照できなかった古い説であり、「」の字の甲骨文は、皿=平たい容器に氵=水を満たし、そのなかに人が入っている姿、つまり温泉の象形であり、釜やかまどでは無い。慍はその部首をりっしんべんに替えた字で、”心が熱くなる”意となる。

漢字では、意味を表すへんと、音を表すつくりを組み合わせた文字を形声文字(形とおと)といい、異なる・同じ意味の漢字を組み合わせて別の意味を表す文字を会意文字(意を会わす)と言うが、慍は形声文字であり、また会意文字でもある。このような漢字を会意兼形声文字と呼ぶ。

「人不知而不慍」を”他人が理解してくれないからといって恨まない”と解するのは、儒者の個人的感想と、「慍」を「うらむ」と訓読みする慣習に引きずられるからで、「慍」は必ずしも”うらむ”を意味しない。現に論語の他の箇所では、”うらむ”の意味では使われていない。

令尹れいいん子文しぶんは、たびつかへて令尹れいいんりしも、よろこいろく、たびこれめられしも、うらいろ舊令尹きうれいいんまつりごとかならもつ新令尹しんれいいんぐ。(論語公冶長篇18)

単に「怒る」の意味で用いられている。

ちんりてりやうてり。したがものみてし。子路しろうらまみえていは君子くんしまたきうする。(論語衛霊公篇2)

やはり単に「怒る」の意味で用いられている。

いずれも”うらむ”と解せないことはないが、同時にそう理解する根拠もない。ならば原義に従って、人の無知に対して精神を熱くすること、と解するべきだろう。論語は最も古い中国古典の一つであるからには、用いられた漢字の意味は原義に近いと理解するべきだからだ。

論語の本章を入塾心得と受け取るなら、一層このように理解できる。孔子が先ず警戒すべきは、塾内の不和に他ならないからだ。野心の固まりである若者を一致団結させるには、未熟な若者特有の、人をおとしめて自我を保つ行為を、固く押しとどめる必要があっただろう。

だから孔子は本章で、”出来の悪い者を見下すな”と諭したのだ。孔子塾生は孔子の弟子であるばかりでなく、孔子の政治思想を実現させるための同志でもある。しかも当時の士族の常として、武芸も身につけている。そこでもしいじめが流行れば、血の雨が降ったに違いない。

論語と算盤 干戈
孔子存命中の塾は、青白い文弱の徒の集まりでは無い。士族は戦時には、将校として前線に出ねばならなかったからだ。弟子のゼン有やハン遅の武勲は、『左伝』に記されている。孔子没後に一派を作った曽子らは別として、主要な直弟子のほとんどは、武器を執って戦ったのだ。

事を本朝に移して考えてみるといい。孔子塾同様、極めて政治思想性の強い武力集団であり、成り上がりに燃えた若者の集まりだった新撰組は、すさまじいほどの内部抗争と血の粛清に明け暮れた。革命政党が生き残るにはまず、内部の不和を火消しして回らねばならない。

権力の後ろ盾があっても、新撰組は内ゲバで半ば自滅した。後ろ盾が孔子個人の魅力しかない孔子塾なら、塾内不和こそ大敵で、それを和ませた顔回に孔子は感謝を述べている(『史記』弟子伝)。そうした背景を考えれば、本章を無名を恨む言葉として理解する必要は何もない。

顔回は二十九歳で、髪がすっかり白くなり、若死にしてしまった。孔子は声を上げて泣き、わなわなと震えて言った。「顔回が入門してから、弟子の仲が良くなった。」

なお「慍」は甲骨文には見られず、「𥁕」=「温」が出土しているが、語義は上掲の通り”温泉”であって、”怒る・怨む”ではない。ただし春秋中期または末期の金文は見つかっており、孔子の時代からあった言葉だとわかる。詳細は論語語釈「慍」を参照。

君子

論語 君 金文 論語 子 金文
(金文)

論語では三つの使い分けがある。本章の場合は1。

  1. 平民以下に対する貴族・為政者・役人。
  2. 無知識階級に対する知識階級。
  3. 孔子の弟子に対する呼びかけ。諸君。

論語 君子 小人

「君子」に”教養人”とか”人格者”とかいった偽善的な意味が付け加わったのは、孔子没後約一世紀のちに現れた、希代の世間師・孟子によるもので、孟子は自分の商材として選んだ孔子の儒学を、でっち上げと曲解によって儒教に作り替えた。論語にも捏造を多数混ぜ込んでいる。

孔子の時代、君子とは平民出身がほとんどである孔子塾生が目指した貴族のことで、当時の貴族は一人の例外なく、戦士である。従ってたかがナイフ男が出ただけで、わあわあと逃げ散るしか能が無い者や、すくみ上がって刺される者は、まぎれもなく小人ということになる。

詳細は「君子」とは何かを参照。

論語:解説・付記

論語の本章と孔子塾

古来、論語を読もうと意気込む読者を、「勉強して復習するのは楽しいではないか」と言って叩きのめし、読まないように追い返してきた罪な一節だが、孔子が言いたかったのはそういうことではない。意訳のように、ごく当たり前な塾での共同生活の心得に過ぎない。

過ぎない、と書けば、孔子をバカにしているように受け取れるが、そうではない。勉強という行為そのものが珍しかった論語時代、庶民にもその道を開いた孔子が、座学ばかりでは必ず苦痛になるし、興味の持てないことを復習させるなどとんでもない、と気付いていた証拠。

論語 六芸
孔子塾で教えられた教科は『周礼シュライ』で六芸リクゲイと呼ばれ、礼法、音楽、古典、弓術、馬車術、算術だった。うち座学だけで済むのは古典と算術だけで、礼法には作法や儀式の実践演習が要るし、音楽も歌や楽器の演奏があるから同様。弓術と馬車術が体育なのは言うまでもない。

古典と算術も、座学だけでは済まなかった。論語の当時は商業がか細く、貨幣すら確認できない時代で、筆記に使う筆や墨、算術に使う算木や原始的な算盤そろばん(アバカス)は、自分で作らねばならなかった。孔子はそうした手仕事に実に巧みで、実作も授業の一環だっただろう。

弓術と馬車術が入っているのは、当時の貴族=君子にとって、必須の技能だったから。論語の時代、君子とは戦時には出陣する戦士であり、当時は戦車戦が主だったから、乗員として馬車術が要ったし、車長は戦闘の指揮にあたると同時に、弓で遠距離攻撃を担当した。

孔子塾に入門した弟子たちは、その多くが論語で民と呼ばれる下層階級の出身で、身分差別と貧困に生きた。そこから抜け出し最下級の貴族=士になる方法は、孔子塾で貴族の技能を身につけるほかになかった。だから六芸に算術があり、役人として帳簿を付けられるようにした。

音楽が六芸に入っているのは、貴族のたしなみとして古歌が歌えないと、政治や外交の場で何も言えなくなるからで、古歌の歌詞を巧みに引用して交渉するのが、論語時代の政界の常識だった。また情操教育にもよく、孔子が最も得意とした技能だったからでもある。

論語 貴族
古典と礼法も音楽同様、論語時代の貴族社会で生きていくためには、貴族らしい仕草や礼儀が必要で、古典は歴史と行政文書の書式のお手本でもあったから、これが分からないと役人や政治家として仕事が出来ない。つまり孔子塾は、今で言う公務員予備校だったのである。

論語時代にも学校はあり、弟子を取って教えた教師もいたのだが、それらの記録はほとんど残っていない。とりわけ孔子塾が異色だったのは、身分や出身国を問わす弟子を受け入れたことで、これは社会の底辺に生きる庶民にとって、広い中国にただ一つの希望でもあった。

そして同時に孔子塾は、論語で語られる孔子の政治構想を実現させるための、革命政党でもあった。孔子の政治的主張は、論語の当時としてははなはだ危険で、同時代の権力者と民衆をおびやかした。それゆえに孔子は失脚や亡命、そして十年以上にわたる放浪を余儀なくされた。

論語 放浪
この放浪に従い、孔子の革命に共鳴する志士となったのは、一説に三千人と言われる弟子の中でもごく少数、論語の言う孔門十哲(の一部)に過ぎない。孔子は塾経営者として弟子の希望を理解しており、その気のある者にのみ革命闘士への道を勧め、他の者には隠しさえした。

こうした複雑な性格を持つ孔子一門に、まだ白紙のまま入門してくる弟子たちに与えた言葉が論語の冒頭を飾る本章で、貴族の教養とは読み書きや座学だけではないとまず教えねばならなかったし、身分や出身を忘れろと説いたのは、学級崩壊やいじめを根絶するには必要だった。

また弟子の出来・不出来は集団で学ぶ以上避けられないが、不出来な者を見下すなと教えたのは、やはり塾内を和やかにする規則として必要だった。論語冒頭のこの言葉は、出来ないからと言ってバカにするようでは、貴族になれないぞ、と半ば脅したのでもある。

こうした背景を踏まえ、改めて論語を読み直すと、従来の解釈の中には、いかに荒唐無稽で人をおとしめるものが多いか、と気付いて愕然とする。そうなったにはそれだけの歴史的事情があるが、それはおいおい語るとして、孔子塾の持つ歴史的意味に、思いを致して頂きたい。

論語の本章の解釈

論語 武内義雄 論語之研究
論語の本章(=この一回)の史実性については、武内義雄『論語之研究』によると、この学而篇と論語第十郷党篇は、もと二篇で独立した原『論語』の一種で、第二為政篇~第八泰伯篇までの原『魯論語』・第十一先進篇~第十五衛霊公篇までの原『斉論語』より新しいという。
(→論語の成立過程まとめ)

加えて一章が長く、整理されているので、孔子の肉声そのものをじかに伝えた章ではなさそうだ。孔子が別の機会にそれぞれ言った話を、戦国時代以降の儒者が整理して一章にまとめ、論語の冒頭に置いたのだろう。その証拠に、「知」という漢字は、戦国末期までしか遡れない。

「説」という漢字も、現行書体は秦漢帝国以降の成立になる。だが孔子一門の特徴を、ズバリ言ったには違いない。少なくとも帝国の支配イデオロギーの創作者・維持管理人として現れた漢代の儒者の、意図通りに読んでやる必要は、まるで無いと言っていい。
(→論語の史実性の検討)

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。未だ人を斬ったことが無い。刀(登録証付)の手入れは毎日している。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回す。覚悟致せ。
斬首
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コメント

  1. […] 『論語』に「学びて時に之を習う」とあるのも、この四つを学習することを言う。詩書礼楽を学習して、その奥義に通達し、その道を行い得れば、君子の才徳は成就して、天下国家の役に立つ、これを「学(ぶ)者の成立」と呼んだのだ。 […]