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論語詳解121雍也篇第六(3)哀公問う弟子*

論語雍也篇(3)要約:後世の創作。漢の帝国儒者が大喜びででっち上げた顔回神格化ばなし。理由ははっきりしませんが、登場人物や細部を変えて、論語の中にコレデモカとそっくりな話が出て来ます。一体どういうつもりなのでしょう。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

哀公問弟子孰爲好學孔子對曰有顔回者好學不遷怒不貳過不幸短命死矣今也則亡未聞好學者也

校訂

諸本

  • 武内本:釋文、一本亡の字なし。下句に続けてよむ。按ずるに亡の字先進第七章によって加る所、刪るべし。

東洋文庫蔵清家本

哀公問曰弟子孰爲好學孔子對曰有顔回者好學不遷怒不貳過不幸短命死矣今也則亡未聞好學者也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

公]問a:「弟子孰為好學?」孔[子對曰]:「有顏回者好學,110……過。不幸短命死矣,今也則亡,未聞好學者也。」111

  1. 皇本、高麗本「問」下有「曰」字。

標点文

哀公問、「弟子孰爲好學。」孔子對曰、「有顔回者、好學。不遷怒、不貳過、不幸短命死矣。今也則亡、未聞好學者也。」

復元白文(論語時代での表記)

哀 金文公 金文問 金文 弟 金文子 金文孰 金文為 金文好 金文学 學 金文 孔 金文子 金文対 金文曰 金文 有 金文顔 金文回 金文者 金文 好 金文学 學 金文 不 金文遷 金文 不 金文貳 金文過 金文 不 金文幸短命 金文死 金文矣 金文 今 金文也 金文則 金文亡 金文 未 金文聞 金文好 金文学 學 金文者 金文也 金文

※論語の本章は「怒」「幸」「短」の字が論語の時代に存在しない。「問」「孰」「過」「未」「也」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

哀公あいこうふ、弟子ていしたれまなびこのむとす。孔子こうしこたへていはく、顔回がんくわいなるものあり、まなびこのめり。いかりうつあやまちふたたびせるも、さちならいのちみじかくしてたりいますなはし。いままなびこのものかざるなり

論語:現代日本語訳

逐語訳

魯 哀公 孔子 肖像
哀公が問うた。「弟子では誰が学問を好むと言えるか。」孔子が答えて言った。「顔回という者がいました。学問を好みました。怒っても八つ当たりしませんでした。間違いは二度と繰り返しませんでした。不幸にも短命で死にました。今はもう居ません。(ですから)学問を好む者はもう居ません。」

意訳

哀公 孔子 人形
若殿の哀公「お弟子では誰が学問好きじゃ?」
孔子「顔回という者がおりました。怒っても八つ当たりせず、間違いは二度としませんでしたが、残念ながら若死にしました。あのような者はもう、出ませんでしょうなあ。」

従来訳

下村湖人
哀公が先師にたずねられた。――
「門人中で誰が一番学問が好きかな。」
先師がこたえられた。――
「顔囘と申すものがおりまして、大変学問が好きでありました。怒りをうつさない、過ちをくりかえさない、ということは、なかなか出来ることではありませんが、それが顔囘には出来たのでございます。しかし、不幸にして短命でなくなりました。もうこの世にはおりません。顔囘亡きあとには、残念ながら、ほんとうに学問が好きだといえるほどの者はいないようでございます。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

哀公問:「您的學生中誰好學?」孔子答:「有個叫顏回的好學,不對人發怒,不重複犯錯。不幸短命死了,現在卻沒有,沒聽說過誰好學。」

中国哲学書電子化計画

哀公が問うた。「あなたの弟子の中で、誰が学問を好みますか。」孔子が答えた。「一人だけ顔回という者がいまして学問を好みました。人に怒らず、間違いを二度としませんでした。不幸にも短命で死にました。今はもういません。誰かが学問を好むという話も聞いていません。」

論語:語釈

哀公(アイコウ)

孔子晩年時代の魯の君主。位BC494-BC467。魯の第27代君主。名は将。父親は魯の第26代君主定公。 詳細は論語八佾篇21語釈『史記』魯世家:哀公を参照。論語語釈「哀」論語語釈「公」も参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

弟子(テイシ)

論語の本章では”(孔子の)弟子”。「デシ」は慣用音。「弟」が”若い”を、「子」が”学ぶ者”を意味する。現代日本での学生生徒児童は敬称ではないが、論語の時代、学問に関わる者は尊敬の対象であり、軽い敬意を世間から受けた。

孔子が”孔先生”の意であり、弟子の子貢は”お弟子の貢さん”の意。孔子が弟子に呼びかける「君子」は”諸君”と訳して良いが、もとは「諸君子」の略であり、「君子」とは論語の時代、すなわち貴族を意味する。また孔子やその他の者が孔子の弟子連を「二三子」と呼ぶ場合があるが、これも「二三人の君子」の意で、軽い敬意がこもっている。

また後世の「諸子」は、これも「諸君子」の略であり、目下の若者に使う言葉ではあるが、軽い敬意がこもっている。

弟 甲骨文 論語 戈
「弟」(甲骨文)

「弟」の初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形はカマ状のほこ=「」のかねを木の柄にひもで結びつけるさまで、靴紐を編むのには順序があるように、「戈」を柄に取り付けるには紐を順序よく巻いていくので、順番→兄弟の意になった。甲骨文・金文では兄弟の”おとうと”の意に用いた。詳細は論語語釈「弟」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

孰(シュク)

孰 金文 孰 字解
(金文)

論語の本章では”誰が”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”作る”→”…であると見なす”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

好(コウ)

好 甲骨文 好 字解
(甲骨文)

論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。

學(カク)

学 甲骨文 学
(甲骨文)

論語の本章では”学び”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。

孔子(コウシ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。

論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もおそらくその一つ。詳細は論語先進篇11語釈を参照。

孔 金文 孔 字解
(金文)

「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「イン」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。

對(タイ)

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

顔回(ガンカイ)

孔子の弟子、孔門十哲の一人、顔回子淵。詳細は論語の人物:顔回を参照。

顔 金文 顔 字解
「顏」(金文)

「顏」の初出は西周中期の金文。新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。

亘 回 甲骨文 回 字解
「回」(甲骨文)

「回」の初出は甲骨文。ただし「セン」と未分化。現行字体の初出は西周早期の金文。字形は渦巻きの象形で、原義は”まわる”。詳細は論語語釈「回」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”(…という)者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

遷(セン)

遷 金文 遷 字解
(金文)

論語の本章では”移す・(怒りを無関係の人に)八つ当たりする”。『大漢和辞典』の第一義は”移る・移す”。初出は西周早期の金文。字形は「⺽」”両手”+「囟」”鳥の巣”+「廾」”両手”+「口」二つだが、あとは字の摩耗が激しく全てを判読できない。おそらく鳥の巣を複数人で大事に移すさまで、原義は”移す”。金文では”移す”を意味した。詳細は論語語釈「遷」を参照。

怒(ド)

怒 楚系戦国文字 怒 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”怒り”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「ヌ」は呉音。初出の字形は「女」+「心」で、「奴」は音符。原義は”怒る”。『大漢和辞典』で音ド/ヌ訓いかるは他に存在しない。同音に奴とそれを部品とする漢字群。そのいずれにも、”いかる”の語意は無い。詳細は論語語釈「怒」を参照。

貳(ジ)

貳 金文 貳 字解
(金文)

初出は西周末期の金文。新字体は「弐」。「ニ」は呉音。字形は「戈」+「二」+「貝」”財貨”で、字形の解釈は未詳。原義は”二”。金文では”二”の意に、戦国の金文では”ふたごころ”の意に用いた。詳細は論語語釈「貳」を参照。

過(カ)

過 金文 過 字解
(金文)

論語の本章では”間違い”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。

幸(コウ)

幸 金文 幸 字解
(戦国末期金文)

事実上の初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。戦国の金文から「十」字形+「羊」の字形が見え、”さいわい”の意は戦国時代より始まると思われる。『大漢和辞典』で音コウ訓さいわいに「穀」があり、初出は西周早期の金文だが、上古音が違いすぎる上に、”さいわい”の語義は文献時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「幸」を参照。

短(タン)

短 秦系戦国文字 短 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”短い”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に「耑」とそれを部品とする漢字群、「鍛」・「斷」(断)など。字形は「矢」+「豆」で、「豆」に”まめ”の意は文献時代にならないと見られない。原義は”みじかい”・”小さい”と思われるが、字形から語義を導くのは困難。詳細は論語語釈「短」を参照。

『大漢和辞典』によると、”みじかい”を意味する漢字は以下の通りだが、このうち叕(テツ)などに金文が存在している。
短い 大漢和辞典

命(メイ)

令 甲骨文 令字解
「令」(甲骨文)

論語の本章では”生涯”。初出は甲骨文。ただし「令」と未分化。現行字体の初出は西周末期の金文。「令」の字形は「亼」”呼び集める”+「卩」”ひざまずいた人”で、下僕を集めるさま。「命」では「口」が加わり、集めた下僕に命令するさま。原義は”命じる”・”命令”。金文で原義、”任命”、”褒美”、”寿命”、官職名、地名の用例がある。詳細は論語語釈「命」を参照。

死(シ)

死 甲骨文 死 字解
(甲骨文)

論語の本章では”死亡”。字形は「𣦵ガツ」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…てしまった”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

今(キン)

今 甲骨文 今 字解
(甲骨文)

論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「シュウ」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味した。詳細は論語語釈「今」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「今也」では「や」と読んで主格の強調に用いている。「者也」では「なり」と読んで断定の意。詠歎「かな」と解してもかまわないが、論語の本章は「幸」字の論語時代における不在から、後世の創作が確定するので、詠歎に解する理由がない。断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”つまり”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

亡(ボウ)

亡 甲骨文 亡 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見えない”→”いない”。初出は甲骨文。「モウ」は呉音。字形は「人」+「丨」”築地塀”で、人の視界を隔てて見えなくさせたさま。原義は”(見え)ない”。甲骨文では原義で、春秋までの金文では”忘れる”、人名に、戦国の金文では原義・”滅亡”の意に用いた。詳細は論語語釈「亡」を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”今まで…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 甲骨文
(甲骨文1・2)

論語の本章では”聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は”耳の大きな人”または「斧」+「人」で、斧は刑具として王権の象徴で、殷代より装飾用の品が出土しており、玉座の後ろに据えるならいだったから、原義は”王が政務を聞いて決済する”。詳細は論語語釈「聞」を参照。

今也則亡、未聞好學者也。

武内本の言う通り、もと亡の字なく、下の句に続けて読むべきとするなら、次の通り。

「今也則未聞好學者也」
今や則ち未だ学を好む者を聞かざる也。


”今となっては、学問を好む者がいるという話を聞かなくなってしまいました。”

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、論語先進篇6に質問者を季康子に変えて全く同意の章がある。いずれも顔淵(顔回)称揚のために偽作された話で、定州竹簡論語と、それにやや先行する前漢中期の『史記』弟子伝に本章と同じく哀公との対話として載る。それ以外に先秦両漢の誰一人引用も再録もしていない。

解説

董仲舒
顔淵は孔子にとって必要不可欠ではあったが、聖人君子ではなかった(→理由)。顔淵称揚運動を始めたのは、いわゆる儒教の国教化を推進した、司馬遷と同時代人である董仲舒。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。また董仲舒による顔淵神格化の詳細は、論語先進篇3解説を参照。

対して戦国時代の孟子や荀子は、顔淵を大物と記していない。孟子は「顔回」と呼び捨てにまでしている。

孟子
孟子が申しました。「禹や稷と、顔回は同じだ。禹は天下に溺死者が出るのを思ったが、自分のせいだった。稷は天下に餓死者が出るのを思ったが、それも自分のせいだった。だから家にも帰らずイソイソ働いた。もし顔回先生が禹や稷と同じ立場だったら、同じように働いただろう。今仮に、同じ部屋にいる人がケンカを始めるとしたら、ざんばら髪になって冠が飛んでも助太刀しようと思う、これはまあいい。だが近所でケンカがあると聞いて飛び出すのは、血迷ったと言われても仕方がない。部屋に閉じこもっていても、非難は出来ないのだ。」(『孟子』離婁下)
前漢年表

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本章が前漢後期の定州竹簡論語に入っているのも、董仲舒による運動の結果で、後漢末から南北朝にかけて成立した古注にも、もちろん入っている。ただし誰が付けた注か分からない。おそらくは「義疏」が付く前の、三国時代に『論語集解』を編んだ何晏と思われる。

古注『論語集解義疏』

註凡人任情喜怒違理顔淵任道怒不過分遷者移也怒當其理不移易也不貳過者有不善未嘗復行也


注釈。凡人は感情のままに喜んだり怒ったりし、道理に外れる。顔淵は怒るにしても道理に従ったから、身分相応を超した怒り方はしなかった。遷とは移すことである。怒るにも道理に従って怒ったから、無関係の人に八つ当たりしなかったのである。不貳過とは、よくないことを繰り返したことが一度も無いということである。

新注は他章に比べて量が多い。ただしいわゆる宋学のバカバカしさがよく分かってよろしい。

新注『論語集注』

好,去聲。亡,與無同。遷,移也。貳,復也。怒於甲者,不移於乙;過於前者,不復於後。顏子克己之功至於如此,可謂真好學矣。短命者,顏子三十二而卒也。既云今也則亡,又言未聞好學者,蓋深惜之,又以見真好學者之難得也。

論語 朱子 新注
好の字は尻下がりに読む。亡は無と同義である。遷は移すことである。貳は再度行うことである。甲に怒っても乙に八つ当たりしなかったという事である。以前やった間違いは、二度としなかったというのである。顔淵先生が自分を躾ける程度は、ここまでに至ったのである。本当に学問を好んだと言うべきである。

短命とは、顔淵先生が三十三で亡くなったことを指す。孔子は”今はいない”とすでに言ったのに重ねて、”あれほどの学問好きはいませんでした”と言ったわけは、おそらく深く惜しんだからである。またこの話から、真の学問好きとはそうはいないことが分かるのである。


程子曰:「顏子之怒,在物不在己,故不遷。有不善未嘗不知,知之未嘗復行,不貳過也。」又曰:「喜怒在事,則理之當喜怒者也,不在血氣則不遷。若舜之誅四凶也,可怒在彼,己何與焉。如鑑之照物,妍媸在彼,隨物應之而已,何遷之有?」又曰:「如顏子地位,豈有不善?所謂不善,只是微有差失。纔差失便能知之,纔知之便更不萌作。」

論語 程伊川
程頤「顔淵先生の怒りは、対象に怒ったのであり自分勝手に怒ったのではない。だから八つ当たりが無かった。よくないことを仕出かしたのは、それがよくないと知らなかったからで、知ってからは二度としなかったので、”ふたたびしない”と言われた。」

「然るべきことがあって喜んだり怒ったりするのは、必ずそうすべき道理が伴っており、血の気のせいではないから、八つ当たりが無かった。聖王の舜は四人の悪党を死刑にしたが、悪党だから怒ったのであり、死刑以外にすることがない。自分を鏡のようにしてありのままに対象を見たら、善いも悪いも対象のせいだから、その善悪に従って相手をするだけで、八つ当たりが起きようはずもない。」

「顔淵先生のような境地にいたら、どうして不善がありえよう。本章で不善と言ったのも、ほんの些細な過ちに過ぎない。だがその些細な過ちにも気づき、気付いたからこそ二度としなかった。」


張子曰:「慊於己者,不使萌於再。」

張載
張載「自分の成長に満足していない者には、二度の過ちを犯すきざしもない。」


或曰:「詩書六藝,七十子非不習而通也,而夫子獨稱顏子為好學。顏子之所好,果何學歟?」程子曰:「學以至乎聖人之道也。」

論語 ある人1 論語 程伊川
ある人「詩書と六芸は、七十人のお弟子がみな学んだと言いますのに、孔子先生は顔淵先生だけを、好学の者と讃えました。顔淵先生が好んだのは、果たしてどの分野だったのでしょう。」
程頤「どの分野に限ったのではなく、ただ聖人の説く学問の道を学んだのだ。」


「學之道奈何?」曰:「天地儲精,得五行之秀者為人。其本也真而靜。其未發也五性具焉,曰仁、義、禮、智、信。形既生矣,外物觸其形而動於中矣。其中動而七情出焉,曰喜、怒、哀、懼、愛、惡、欲。情既熾而益蕩,其性鑿矣。故學者約其情使合於中,正其心,養其性而已。然必先明諸心,知所往,然後力行以求至焉。若顏子之非禮勿視、聽、言、動,不遷怒貳過者,則其好之篤而學之得其道也。然其未至於聖人者,守之也,非化之也。假之以年,則不日而化矣。今人乃謂聖本生知,非學可至,而所以為學者,不過記誦文辭之間,其亦異乎顏子之學矣。」

論語 ある人1 論語 程伊川
ある人「学問の道とはどういうことですか。」

程頤「天地の作りだした要素のうち、五行を全て備えたものを人という。その本質はまことであり、静けさである。備えた五行が作用を始めなくとも、五つの本性が備わっており、これを仁義礼智信という。人がその肉体を得て、外のものが人の肉体に触れると、人の中で作用を起こす。その動きの中から七つの感情が起きてくる。つまり喜怒哀懼(おそれ)愛悪(にくしみ)欲である。

こうした感情が爆発すると、本性を損なう。だから儒学を学ぶ者は、ほどほどに感情を抑制する。そして心を正すことに努めるが、それはひとえに、本性を保護育成するためである。だからまず自分の心に何が起きているのかを観察し、その行方を推測し、それが済んでから努力して向上を目指す。

顔淵先生の場合、礼法に背くものは見たり聞いたり言ったりやったりしないから(論語顔淵篇1)、八つ当たりせず間違いを二度としなかったのは、深く儒学を学んでその境地、つまり学問の道に至ったのだ。ただし聖人ではなかったから、儒学の教えを守り、人に説教しなかった。儒学の教えに従うにあたって、一年以上かけて修行するつもりでいたことも、ほんの数日で学び終えてしまった。

だが今どきの者は生まれつきの知性に従えば聖人になれると言い、学問をしなくてもよいと言う。学問も経典の暗記に過ぎないと考えているが、それは顔淵先生の学んだ道とはぜんぜん違うのだ。」

程頤の説教で、いわゆる宋学とは何かがだいたい分かるだろう。自然界の現象に名を付けて定義せず、その運動法則は思い付きに過ぎず、数理的証明や実験による検証を全く経ない。だから神学と同じで異教徒には何のことやら分からず、分かろうとすればするほど頭をやられる。

ご用心ご用心。

余話

宋儒のオカルトと高慢ちき

儒者のうち宋儒に強く認められる傾向は、儒学者ではなく儒業者であったことで、おおざっぱに言って、世間にハッタリをばら撒いてびっくりした人からお金をせしめる者どもだった。宋は科挙(高級官僚採用試験)の完成期で、科挙に受かりさえすれば高級官僚や政治家になれた。

試験秀才が社会を支配するのをメリットクラシーという。貴族がいいとは言わないが、守るべき領民を持たない学歴自慢はもっと残忍だ。対して論語の時代の大貴族は、領民にそっぽを向かれると、まず地位身分を全うできない。だけでなく、天寿を全うするのもおぼつかない。

孔子が仕えた魯の昭公や哀公は、国外に追放され客死した。孔子が亡命を余儀なくされたのも、任地におまわりをばらまき、陰険な密告支配を行ったからで、男女が互いに疫病病みのように避けて通るのを強制したから(『史記』孔子世家)、徹底的に嫌われて国を追われた。

一方亡命時に孔子が仕えた衛の霊公は、大国晋の圧迫の中でよく国をまとめ、反抗するかどうかを、商工民を含めた領民の同意を得てから決めている(『春秋左氏伝』定公八年)。斉の宰相・晏嬰は、領民の支持があったから失脚しなかった(『史記』斉太公世家)。

以降も唐代までは門閥貴族がはばを利かせており、科挙に受かった者でも最終の面接試験(礼部試)を通らねばならず、礼部の試験官は門閥のポストだったから、勉強だけでは官僚になれなかった。だから礼部や門下省(法令の審議機関)は、「貴族の牙城」と書き物ではおとしめられる。

しかしそう書いている者自身が、礼部試無き時代の科挙官僚だったり、本郷や吉田町あたりの文学部で威張り返っている学歴自慢の漢学教授だったりするから、その言い分はずいぶん割り引かねばならない。礼部試は五代を経て宋になると殿試に代わり、皇帝自らが試験官になった。

宋帝室はそうやって敵対勢力の貴族を政界官界から追い払ったのだが、代わりに学歴自慢をする高慢ちきによって公職が独占された。しかも今から千年以上も昔のことだから、試験で問うほど数理の重要性が理解されておらず、科挙の試験内容は儒教の経典とポエム作りだった。

つまり文系オタクにメルヘンを足しっぱなしにした高慢ちきが世にはばかったわけで、主張に地道な統計的根拠を持たずに政論を繰り返したから、宋帝国はおかしな政策を採って失敗することがしょっちゅうあった。南北合わせて319年続いたのはただの偶然である。

アルファー 洪水

宋は新儒教の始まった画期だと言われるが、それに携わった儒者には論理的思考能力が無かったから、互いに思い付きを言い合っていたに過ぎなかった。カルト教団が必ず過激化するように、そういう閉じた集団では互いによりオカルトであることを競おうとする。

周敦頤
周敦頤「無極は太極である。太極が動いて陽を生み、動きが極まって静かになる。静かなうちに陰を生み、陰が極まるとまた動きだす。動と静は、互いが互いの原因になっている。陰と陽が分かれて、二元論の元が確立する。陽が変化したり陰と合わさったりして、水火木金土をうむ。この五つの気が順調に回るから、四季が移ろうのである。だから五つの気の運動は、ひとえに陰陽である。陰陽は、ひとえに太極である。太極はもともと、無極であった。」(『近思録』巻一)

何言っているか分からなくて正解。オカルトで人をたぶらかすおマジナイだからだ。

つまり、「自分だけが知っている」ふりをして相手を恐れ入らせようと図る。そうなる理由も明らかで、数理という共通のOSを持たないからだ。各個人によってOSが違うのに、他人のアプリをインストールする=理解するのは無理である。そもそもアプリかどうかも疑わしい。

宋儒に言わせれば儒教がOSなのだろうが、その解釈をめぐってしばしば権力闘争が行われていたから、OSとしては極めて不安定で、再起動を繰り返してもぜんぜん動き始めないスマホ同然、宋の儒教が本当に社会の標準OSなら、不出来で社会の害悪になっていたといってよい。

出来の悪いOSを証す例が譲濮の議で、傍系から帝位を継いだ英宗が、亡き実父を「帝の父」と呼びたいと言い出し、ゴマをすって賛成する官僚と、威張りたくて「帝の伯父」と呼ぶべきと反対する官僚で、政府が二つに割れて4年間もめた。終息したのは英宗が死んだからだ。

死なねばいつまで続いたか分からない。存外うんざりした者による暗殺かも知れない。ここから論語や漢文を道徳的に読むのが、どんなに間抜けか分かるだろう。利権の源泉である皇帝が死んだからには、儒者には礼教的な賛否を言う理由が、綺麗さっぱり無くなったのだ。

宋は常に北方の契丹や女真族の脅威にさらされ、この政論の間も台風や土嵐や洪水で民は難儀していた。こんな下らないことに憂き身をやつしている儒者どもを孔子が見たら、怠惰と無責任にも程があると叱責したに違いない。孔子は政府の責務を次のように説いたからだ。

論語 孔子 熱
まず食糧の確保、次に国防と治安の維持。だがこれらが揺るぎないと民に信用して貰う事が、政府の最も大事な役割だ。(論語顔淵篇7)

宋儒のていたらくについては、論語先進篇3余話「火事場泥棒」も参照。

宋儒と春秋の貴族との違いはもう一つ、宋儒は范仲淹のような例外を除いて従軍せず、軍人を卑しい仕事だとこき下ろした。春秋の貴族が社会に自分の特権を説明するため、必ず従軍したのに対し、宋儒は自分の特権の根拠を、ただ試験に受かったことだけを説明すれば済んだ。

特攻機桜花に他人を乗せた男は、戦中も戦後も逃げ延びた。論語における「君子」も参照。

ネットの情報は、現在htmlという規則プロトコルに従い記されている。これは文法の一種で、電卓のように未知の計算結果を期待する文章ではない。期待出来る文字列をアプリとか、プログラムとか呼ぶ。出来る出来ないの違いは一見すると分からないし、書いたことが無いと分からない。

同様にオカルトとメルヘンを足しっぱなしにした宋の儒教が、宇宙の真理や実用的な人生の指針として、大いばりで横行したのは、数式もオカルトも同じく文字で書けるからに他ならない。その結果宋儒の言い分を真に受けて不幸になった人は、過去どんなにいたか分からない。

これは大声で言うべき事だが、数学もアプリも漢文も、出来る出来ないは向き不向きの問題で、当人には全く責任がない。津軽海峡を誰もが泳ぎ渡れないのと同じだ。だが泳げもしないのに泳いだと言い張り、泳ぎ方を説教し、哀れな他人が溺れるのをせせら笑う者は罪深い。

現在では漢学を含めた人文が、世間から見放されたのは、財布もお腹も膨らまないからだ。その上共通のOSで議論しないから、他人に理解して貰えない上、ただの個人の感想が、通説としてまかり通ったり、マルクス主義や西田哲学のように、難読無内容の虚喝はったりが崇められもする。

だが今はITがある。論語ですら物証を伴って研究できるようになった。最後に、中国儒者自らの宋儒評を記しておこう。ほぼ独力で、過去の論語の注を参照した上に、全篇にわたって注釈を書き改めた清末民初の程樹徳は、『論語集釋』の前書きにこう記している。

研究《論語》之法,漢儒與宋儒不同。漢儒所重者,名物之訓詁,文字之異同。宋儒則否,一以大義微言為主。惜程朱一派好排斥異己,且專宣傳孔氏所不言之理學,故所得殊希。陸王派雖無此病,然援儒入墨,其末流入於狂禪,亦非正軌。


論語を研究した方法は、漢代の儒者と宋代の儒者では異なっている。漢儒が重んじたのは、名前と物との正しい対応や、版本により違っている文字の、どれが正しいか求めることだった。宋儒はそうでない。ひたすらに、些細な言葉から大げさな意義を引き出すことに熱心だった。残念ながら、朱子と程兄弟の一派は、他派閥を叩き潰すのを好み、孔子が言いもしなかったデタラメ、理学ばかりまき散らした。だから論語を理解するのに、ほとんど役に立たない。陸象山と王陽明にはこういう病気はないが、尻馬に乗った儒者たちが勝手な書き込みをし、はては𠮷外坊主のような事を言い出し、常軌を逸した。

そして論語学而篇5「千乗の国を」の新注について、こう書いている。

宋儒中如伊川之迂腐,龜山之庸懦,當時皆負有盛名,則以朱子標榜之力為多,讀《集注》者當分別觀之。


宋儒の中でも、程頤は回りくどいことばかり言う腐れ儒者で、楊時はつまないことしか言えないほど頭が悪い。この者どもが当時有名人になれたのは、朱子が大いに宣伝してくれたおかげだ。新注を読む者は、このことに十分気を付けなければならない。

こんにち論語の研究をするに当たって、宋儒がいかに頼りないかご理解頂けるだろうか。

参考記事

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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コメント

  1. 石渡健太郎 より:

    数十年にわたって疑問に思っていた 多くの章に 明快な解釈をお示しいただいて感謝しながら拝読させていただいております。ありがとうございます。さて つまらないことではありますが・・・・

    小生も 英語には強くありませんが 【ヴァリアント】なる語について 

    variant と綴るか valiant と綴るかで意味も異なるようです。後者ですと ここにお書きになったような意味ですが 前者ですと また違う意味があるようです。以下ググったものをご参考までに貼り付けました。

    精選版 日本国語大辞典の解説
    バリアント〘名〙 (variant)
    ① 著作物などで、本文の異同。異文。
    ※モオツァルト(1946)〈小林秀雄〉三「ノオトもなければヴァリアントもなく、修整の跡もとどめぬ彼の原譜は」
    ② 言語学で、ある語と少しだけ形の異なる語形。異形(いけい)。
    出典 精選版 日本国語大辞典
    精選版 日本国語大辞典について 情報

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