論語121雍也篇第六(3)弟子だれか学を

論語雍也篇(3)要約:顔回は孔子先生の最も優れた弟子でした。しかし生涯貧しく、若くして亡くなり、晩年の先生をすっかり気落ちさせるほど嘆かせました。そんな顔回を思い出して、若殿様に先生が語った一節。

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

哀公問、「弟子孰爲好學。」孔子對曰、「有顏回者、好學。不遷怒、不貳過、不幸短命死矣。今也則亡、未聞好學者也。」

書き下し

哀公あいこうふ、弟子ていしたれがくこのむとす。孔子こうしこたへていはく、顏回がんくわいといふものあり、がくこのめり。いかりうつさず、あやまちふたたびせざりき、不幸ふかう短命たんめいにしてたりいますなはし。いまがくこのものかざるなり

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逐語訳

哀公が問うた。「弟子では誰が学問を好むか。」孔子が答えて言った。「顔回という者がいました。学問を好みました。怒っても八つ当たりしませんでした。間違いは二度と繰り返しませんでした。不幸にも短命で死にました。今はもう居ません。ですから学問を好む者はもう居ません。」

意訳

論語 哀公 論語 孔子 哀
若殿の哀公「お弟子では誰が学問好きじゃ?」
孔子「顔回という者がおりました。怒っても八つ当たりせず、間違いは二度としませんでしたが、残念ながら若死にしました。あのような者はもう、出ませんでしょうなあ。」

従来訳

 哀公が先師にたずねられた。――
「門人中で誰が一番学問が好きかな。」
 先師がこたえられた。――
「顔囘と申すものがおりまして、大変学問が好きでありました。怒りをうつさない、過ちをくりかえさない、ということは、なかなか出来ることではありませんが、それが顔囘には出来たのでございます。しかし、不幸にして短命でなくなりました。もうこの世にはおりません。顔囘亡きあとには、残念ながら、ほんとうに学問が好きだといえるほどの者はいないようでございます。」

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

哀公

論語 哀 金文 論語 公 金文
(金文)

孔子晩年時代の魯の君主。詳細は論語八佾篇21を参照。

孰(シュク)

論語 孰 金文大篆 論語 温 孰 字解
(金文)

論語の本章では「たれか」と読んで”誰が”。『学研漢和大字典』によると原義は”煮る”ことだが、音をかりて、選択を求める疑問詞に用いる、という。

顔回

論語 顔 金文 論語 回 金文
(金文)

孔子の弟子。詳細は論語の人物:顔回を参照。

遷(セン)

論語 遷 金文 論語 遷
(金文)

論語の本章では”移す・(怒りを無関係の人に)八つ当たりする”。『大漢和辞典』の第一義は”移る・移す”。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、僊の右側の字(音セン)は「両手+人のしゃがんだ形+〔音符〕西(水がぬけるざる)」の会意兼形声文字で、人がぬけさる動作を示す。遷はそれを音符とし、辶を加えた字で、そこからぬけ出て中身が他所へうつること。

死(精気が散りうせる)・西(水がぬけるざる、光が散りうせる方角)と同系。僊(セン)(魂が肉体からぬけ出て、空に遊ぶ仙人(センニン))と最も縁が近い、という。

貳(ジ)

論語 貳 金文 論語 貳
(金文)

論語の本章では『大漢和辞典』第二義の”かさねる”。『大漢和辞典』の第一義は”添える”。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、弍は「弋(ヨク)(棒ぐい)+〔音符〕二」で、二本並んだ棒を示す。貳は「貝(財貨)+〔音符〕弍」。「弐」は「貳(ジ)」の古い字形を用いて、筆画を簡単にしたもの、という。

論語:解説・付記

既存の論語本では、昭和34年に口述筆記された吉川本に「顔回が孔子最愛の弟子であったことは論語のあちこちに見え…先進篇第十一に、季康子への答えとして同じようなことが見えるのは、この条のヴァリアントであるかもしれない」とある。

英語に暗い訳者は、ヴァリアントをググって、「勇気・勇敢・気高い雄々しさ」であると知った。だが論語に同じ話があることが、気高い勇気とはやはり合点がいかない。だから忘れることにして、顔回に話を戻せば、顔回は孔子の理想の人物を、体現して見せた弟子だった。

孔子は社会の底辺に生まれ、父親すら誰だか分からない。おそらくは母が取った客の一人で、『史記』が「野合」というのはその事だろう。私生児という不幸な生まれだったが、母が巫女であることで、孔子は当時の庶民に希有の事ながら、文字が読めるという技能を持った。

その力を発揮して、孔子は手当たり次第に入手できる本を読んだ(論語述而篇19)。本と言っても当時は紙がなく、細く薄い竹札に一行ずつ書いた文章を、革ひもで編んだ巻物である。だからかさばって重く、印刷技術もなかったから、相当高価だったに違いない。
論語 竹簡

図書館も本屋もない論語時代、本と言えば古記録だった。孔子はつてを頼って古記録を読み、昔の世には太平の時代があったと知った。そのような時代には聖王がいて、民は政治のあることすら知らず人生を楽しんだ。その聖王に、孔子は理想的人物像=仁者を見た。

孔子はあこがれるように、古記録の中から仁者らしい条件を集めた。それは論語では礼と呼ばれるが、当時『礼』と書かれた規定集があったわけではない。孔子は現代の造形師が、理想の異性を想像し、髪色肌色スリーサイズを定めるように、仁者を想像し創造した。
論語 仁 フィギュア 単体
従って論語に言う礼は、書物として出来上がったものではなく、孔子の脳内に蓄えられたスペックだった。孔子はそれを口伝えで、初期の弟子に熱く語った。初期の弟子のほとんどは、孔子と同じく地獄の乱世を鎮めたいと願ったが、必ずしも孔子の趣味には賛同しなかった。

論語 冉求 焦り 論語 孔子 説教
冉求ゼンキュウ「先生の理想に共鳴はしますが、私には無理です。」
孔子「言ったな? やりもしないで何が無理だ!」(論語雍也篇12

ところが顔回は、孔子の熱く語るスペックを、はいはいと逆らわず聞いたばかりか(論語為政篇9)、孔子の語るスペックに毛ほどの異論も言わず(論語先進篇3)、たった三ヶ月でスペックを身につけ、孔子の同時代人では唯一、仁者を体現して見せた。

論語 顔回 輝き
顔回はたった三ヶ月で、仁者を体現して見せた。その他の学問は一日か一ヶ月で修得した。(論語雍也篇7

理想の異性にあこがれて、日夜フィギュアの製作に励む世の造形師の所に、ある日等身大のフィギュアが訪れて、しかもしゃべったり飲み食いしたりする。絶対に手放さないだろう。

論語に話を戻せば、仁者は孔子のあこがれの的で、従ってその条件=礼は嫌が応にも煩瑣になり、誰にも体現できないと思われた。孔子自身ですら自分は仁者でないと言っている(論語述而篇33)。しかし同好の士ではない他人にとっては、ただの大げさと思われた。

主君に仕えるに当たって礼を尽くすと、人はそれをへつらいだと言う。(論語八佾篇18
論語 晏嬰
(斉の家老・晏嬰アンエイ曰く)そもそもあの孔丘という男は、もったいぶった顔つきをし、言葉を大げさにして世間をだましています。鳴り物で人を集め、宮殿の上り下りをわざとらしくして儀礼だと言い張り、貴人の前では小走りの礼を見せつけますから、確かに学問は立派でも、政治を議論させるわけにはいきません。(『墨子』非儒篇下

論語の本章に言う「学を好む」とは、孔子の熱く語るスペックを学び切ったことを意味する。それ以外の孔子塾の必須科目=六芸を指すと解してもいいが、それでは顔回のすごみがわからない。孔子は自分の妄想に過ぎない礼をまともに受け取り、体現した顔回を惜しんだわけ。

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