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論語詳解061八佾篇第三(21)哀公よりしろを*

論語八佾篇(21)要約:後世の創作。弟子の宰我は古代人らしからぬ合理主義者。焼けた鎮守の森の再建方を、殿様に問われます。豊富な知識で歴代の由来を説明しましたが、時代的にありあえないオーパーツ話で、真に受けてはいけません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

哀公問社於宰我宰我對曰夏后氏以松殷人以柏周人以栗曰使民戰栗子聞之曰成事不說遂事不諫旣往不咎

  • 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱
  • 「說」字:つくりは〔兊〕。
  • 「遂」字:〔㒸〕は上下に〔八豕〕。

校訂

諸本

東洋文庫蔵清家本

哀公問社於宰我宰我對曰夏后氏以松殷人以柏周人以栗曰使民戰栗也/子聞之曰成事不說/遂事不諫/旣往不咎

  • 「殷」字:〔㐆〕→上下に〔戸干〕。
  • 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。
  • 「旣」字:〔皀〕→上下に〔白止〕。

後漢熹平石経

…㕥柏周人㕥栗白使民…往…

定州竹簡論語

[哀]公問主a於宰b我。對曰c:「夏后氏以松,殷人55……[以粟,曰],使民戰慄也d。」子聞之,曰:56……諫,旣往不咎。」57

  1. 主、阮本・『釋文』作「社」、鄭本作「主」。
  2. 宰、原訛従「幸」、以下同。
  3. 今本「對曰」前有「宰我」二字。約前一「宰我」下簡本脱重文符号。
  4. 阮本「栗」下無「也」字、皇本有「也」字。

標点文

哀公問主於宰我。宰我對曰、「夏后氏以松、殷人以柏、周人以栗。曰、『使民戰慄也。』子聞之、曰、「成事不說、遂事不諫、旣往不咎。」

復元白文(論語時代での表記)

哀 金文公 金文問 金文主 金文於 金文宰 金文我 金文宰 金文我 金文対 金文曰 金文夏 金文后 金文氏 金文㠯 以 金文 殷 金文人 金文㠯 以 金文柏 金文周 金文人 金文㠯 以 金文栗 甲骨文曰 金文使 金文民 金文戰慄也 金文 子 金文聞 金文之 金文曰 金文成 金文事 金文不 金文兌 金文遂 金文事 金文不 金文諌 金文既 金文往 金文不 金文咎 金文

※說→兌。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。本章は後世の儒者による創作である。

書き下し

哀公あいこうよりしろ宰我さいがふ。宰我さいがこたへていはく、夏后氏かこうしまつもちゐ、殷人いんびとひのきもちゐ、周人しうひとくりもちゐたるは、いはたみ使戰慄おどされしむなりと。これいていはく、れることげしこといさすでけるはとがと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

哀公 宰我
哀公が位牌の材料について宰我に問うた。宰我が答えて言った。「夏王朝ではマツで、殷王朝ではヒノキで、我が周ではクリで作るのが礼法です。これは民を脅すためです。」先生がこれを伝え聞いて言った。「終わったことは説明しない。してしまったことは叱らない。済んでしまったことはあれこれ言わない。」

意訳

祭殿の位牌について、若殿が孔子の弟子の宰我に材料を尋ねた。宰我が言った。「夏はマツ、殷はヒノキ、周ではクリで作ります。これで民をビックリさせたんですねえ。」
若殿「はっはっは。そうじゃろう。」

ある人1 孔子 人形
ある人「…と、いうことだったそうです。」
孔子「宰予のバカたれが。殿にだじゃれとはなんたる事か。とっちめる気にもならんわ。」

従来訳

下村湖人
哀公(あいこう)宰我(さいが)に社の神木についてたずねられた。宰我がこたえた。――
()の時代には(しょう)を植えました。(いん)の時代には(はく)を植えました。周の時代になってからは、(りつ)を植えることになりましたが、それは人民を戦慄(せんりつ)させるという意味でございます。」
先師はこのことをきかれて、いわれた。――
「出来てしまったことは、いっても仕方がない。やってしまったことは、諌めても仕方がない。過ぎてしまったことは、とがめても仕方がない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

哀公問宰我,製作土地爺用哪種木頭。宰我說:「夏朝用鬆,殷朝用柏,周朝用栗,說:使人膽戰心驚。」孔子聽後說:「以前的事不要再評說了,做完的事不要再議論了,過去了就不要再追咎。」

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哀公が宰我に問うた。土地神にするにはどの樹がいいかと。宰我が言った。「夏王朝はマツを用い、殷王朝は杉の木を用い、周王朝は栗を用います。そのわけは、人のキモを恐れ震え上がらせるためです。」孔子は(その場で話を)聞き終えて言った。「以前の出来事は再度評論する価値が無い。出来上がったことは再度議論する価値は無い。過ぎ去ったことは再度とがめる価値が無い。」

※「聞」を”直に聞いた”と誤訳している。本章が後世の創作ゆえに正しい訳だとも言えるが、春秋時代では直に聞くのを「聴」、間接に聞くのを「聞」と使い分けた。

論語:語釈


哀公(アイコウ)

魯 哀公

論語では、孔子が晩年に仕えた魯国公。

?ーBC467。魯の第27代君主。名は将。父親は魯の第26代君主定公。前494年に父の定公に代わり第27代君主に即位した。 前468年に、魯の第15代君主の桓公の3兄弟を祖とし当時絶対的権力を握っていた三桓氏の武力討伐を試みるも三桓氏の軍事力に屈し、衛や鄒を転々とした後に越へ国外追放され、前467年にその地で没した。

『逸周書』諡法解に「蚤孤短折曰哀。恭仁短折曰哀。」”幼くして親を失った上に、若くして世を去った者を哀とおくり名する。慎み深く情け深いが、若くして世を去った者を哀とおくり名する。”という。魯の哀公はどちらにも相当しそうにない。

詳細は『史記』魯世家:哀公を参照。論語語釈「哀」論語語釈「公」も参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

社(シャ)→主(シュ)

論語の本章では”鎮守の森”。唐石経・清家本は「社」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「主」と記す。時系列に従い定州本によって校訂した。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

社 金文 主 甲骨文
「社」(金文)/「主」(甲骨文)

「社」の新字体は「社」。台湾・香港ではこちらが正字体とされる。現行字体の初出は戦国末期の金文。部品の「土」にも”大地神”の意があり、初出は甲骨文。字形は「示」”祭壇”もしくは”位牌”+「土」で、大地神を祭るさま。原義は”大地神”。「土」は甲骨文では”大地神”のほか”領土”、金文では加えて”つち”を意味し、「𤔲土」はいわゆる「司徒」を意味した。「社」は戦国の金文では「社稷」で”国家を意味した。詳細は論語語釈「社」を参照。

周が殷を滅ぼして国盗りをすると、後ろめたさから「申」”天神”の字を複雑化させて「神」(神)の字を作り、もったいをつけて”自分は天命を受けて乱暴な殷を滅ぼしたのだ”と宣伝した。そのため「土」も複雑化させて出来たのが現行の字体。「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。論語語釈「示」を参照。

藤堂本によると、論語の本章の「社」はゴウ社と言い、謀反人の処刑場でもあったという。また人の命に関わることを、軽々しく口にする宰我を孔子は嫌った、とする。

定州竹簡論語の「主」は論語の本章では、”位牌”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は位牌で、もとは「示」と同一だった。金文の時代では氏名や氏族名に用いられるようになったが、自然界の”ぬし”や、”あるじとする”の語義は戦国初期になるまで確認できない。戦国の竹簡でも「宔」の字形が多く見られ、のち「宗」が分化した。詳細は論語語釈「主」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

宰我(サイガ)

論語 宰我 宰予

論語では、孔子の弟子。論語の本章ではあざ名で呼んでおり敬称。生没年、孔子との年齢差未詳。姓氏は宰、名は予、字は子我。氏が「宰」”貴族家の執事または城郭都市の代官”であったことは、あるいは宰我の出身が他の孔子塾生と異なり、庶民ではなく士分以上の貴族だった可能性を示している。魯国出身。弁舌の才を子に評価され(孔門十哲の謎)、孔門十哲の一人。実利主義的で仁徳を軽視したとされる。人物の詳細は、論語の人物:宰予子我を参照。

『史記』によると斉国に仕えたが、政争に巻き込まれて一族皆殺しにされたともいうが、これは『左伝』によるとあざ名が同じの別人であって、たぶん司馬遷の勘違い。

宰我は古文書にある古代の聖王について、人間離れした寿命だから事実ではないと言い切ったこともあり(『大載礼記』五帝徳篇)、古代人らしからぬ合理主義の人だった。従って鎮守の森に何を植えようがどうでもいいと思っていたふしがあり、仮に論語の本章が史実としても、せいぜい座談で殿様を笑わせた、ということだろう。

宰 甲骨文
「宰」甲骨文

「宰」の初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「ケン」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。論語時代では一家を治める”執事”や、都市の”代官”を意味した。孔子が初めて就いた行政職も、「中都宰」だった。また大きな行事の取り仕切り役も「宰」と呼ばれた。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。

我 甲骨文
「我」(甲骨文)

「我」の初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。

對(タイ)

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

論語の本章では”回答する”。論語では身分が同格以上の者から問われた回答に用いる。

字の初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。

夏后氏(カコウシ)

夏禹王 墨子

論語の本章では、夏王朝の王室のこと。中国で漢字が発明されたのは夏王朝よりのちの殷王朝中期であることから、夏王朝は後世の創作で実在しない。現中共政府が御用学者を集めて夏王朝の実在を「立証」したという国家事業を行ったが、真に受けてはならない。

夏王朝の伝説は、すでに孔子の生前からあったが、詳細な伝説が創作されたのは、孔子没後に墨子が現れて儒家を圧倒した墨家を立てて後のことで、儒家が始祖と仰いだ周公や周の文王・武王より先立つ聖王として、禹王を創作して自派の得意な土木技術の開祖とした。

「夏」の初出は甲骨文。字形はかしこまって太陽を仰ぐ人のさまで、太陽神を崇める人のこと。詳細は論語語釈「夏」を参照。

「后」の初出は甲骨文。字形は軍事権と祭祀権を持った女性のさまで、后妃のこと。春秋時代では男女を問わず”君主”を意味した。詳細は論語語釈「后」を参照。

「氏」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「以」と同じで、人が道具を手に提げたさま。血統のつながりを意味する「姓」に対し、「氏」は血縁のない山賊だろうと同業集団であれば同じ氏を名乗り得た。詳細は論語語釈「氏」を参照。

夏王朝は『墨子』の文中ですでに「夏后」と呼ばれており、春秋時代以降では「夏王」と同義になる。

以(イ)

唐石経・清家本・定州竹簡論語は「以」と記し、漢石経は「㕥」と記す。『大漢和辞典』によると音「シン」訓「吟ずる」だが、「国学大師」は「同以字」といい、台湾教育部異体字字典は「以之異體」という。これらに従い「㕥」字は「以」字の異体字として取り扱う。

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”もちいる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

ナントカの一つ覚えのように「…をもってす」と読むのは間抜けだからもう止めた方がいい。

松 金文 松 字解
(金文)

論語の本章では”マツ”。初出は戦国時代の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に誦、頌、訟。異体字に㮤。いずれにせよ”マツ”の意で春秋時代には遡れない。字形は「木」+「公」。「公」は音符で、藤堂説ではスキマの空いた葉の姿を意味するとする。原義は”マツの木”。戦国時代の晋の金文で氏族名を、他の金文で「樅」の代わりに地名を意味し、戦国の竹簡で原義に用いた。この文字の出現以前、漢語でマツをどのように呼んだかは明らかではない。詳細は論語語釈「松」を参照。

殷人(インひと)

殷 甲骨文 人 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”殷王朝時代の人々”。殷はBC17CごろからBC1046まで中国を支配したとされる王朝で、たびたび都を変えた。後期の都である殷墟から甲骨文が出てきたので、漢字を発明した集団とされる。「殷」は他称で、”人の生きギモを取る残忍な奴ら”の意。自称は「商」で、”おおいなる都・国”を意味した。異民族を捕らえたり、服属国から献上を強いたりして、祭祀のたびに大量の人間を生け贄に投じたので、怨まれた末に西方の周に滅ぼされた。

日本の漢文読解の約束事として、”どこそこの人”は”どこそこ”を音読みで、”人”を訓読みで読み下すことになっている。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)では「インジン」。呉音では「オンニン」。

論語語釈「殷」論語語釈「人」も参照。
論語 地図 殷

柏(ハク)

柏 甲骨文 柏 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ヒノキ科の常緑の針葉樹”。初出は甲骨文。字形は「白」”どんぐり”+「木」で、ドングリのなる木。原義は”カシワ”。のちに指す樹木の種類が増え、もっぱらドングリを付けないヒノキ科の側柏(コノテガシワ)や扁柏(ヒノキ)、圓柏(カイヅカイブキ)、羅漢柏(アスナロ)を意味するようになった。詳細は論語語釈「柏」を参照。

周人(シュウひと)

論語 周 甲骨文 人 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”周王朝時代の人々”。重箱読みする理由は上掲の「殷人」と同じ。詳細は論語語釈「周」を参照。

栗 甲骨文 栗 字解
(甲骨文)

論語の本章では”クリ”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。金文は未発掘。字形はトゲの付いた実をつけた木の姿で、原義は”クリ(の実)”。甲骨文では地名・人名に、戦国の竹簡では原義で用いた。詳細は論語語釈「栗」を参照。

使(シ)

使 甲骨文 使 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。

民(ビン)

民 甲骨文 論語 唐太宗李世民
(甲骨文)

論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱ヒキして「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。

戰慄(センリツ)→戰栗(センリツ)

戦 金文 慄 隷書
「戰」(戦国金文)/「慄」(隷書)

論語の本章では”おそれおののく”。「戰」の新字体は「戦」。この文字の初出は上掲戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。同音も存在しない。字形は「單」”さすまた状の武器”+「戈」”カマ状の武器”。原義は”戦争”。部品の單(単)は甲骨文から存在し、同音は丹や旦、亶などのほか、単を部品とする漢字群。いずれも”たたかう”の語義はない。

嘼 金文
「嘼」交鼎・殷代末期

また戦国の竹簡では「𡃣」「嘼」を「戰」と釈文する例があり、「嘼」字の初出は殷代末期の金文、春秋末期までに”戦う”と解せなくもない用例があるが、”おののく”の用例は無い。詳細は論語語釈「戦」を参照。

”たたかう”意では、甲骨文から鬥(=闘)が存在し、長柄武器を持った二人の武人が向き合う様。合、格にも”たたかう”意がある。闘トウ→単タン→戦セン、という連想ゲームは出来るが、ゲームに過ぎず、「セン」系統の”たたかう”言葉は、戦国時代の楚の方言といってよい。

「慄」の初出は後漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「忄」+「栗」(音符)で、原義は”おそれおののく”。詳細は論語語釈「慄」を参照。定州竹簡論語では「栗」と記す。語義は同じで、戦国末期の『荀子』に”おののく”の語義で用いている。ただしこの語義は春秋時代以前では確認できない。

也(ヤ)

定州竹簡論語と清家本は記すが、唐石経は記さない。清家本は年代的には唐石経や宋代の論語注疏さらに新注より新しいのだが、唐石経が唐儒の都合で論語の本文を書き換える(論語郷党篇19など)前の隋代に伝わった、古い文字列を伝えている。

従って清家本で唐石経を校訂しうるのだが、論語の本章の場合、「也」字が定州本にもあることによって、清家本が唐石経より古い文字列を伝えていることを証している。

也 金文 也 字解
(金文)

「也」は論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。「かな」と読んで詠歎に解すれば、論語の時代の用法と言えるが、本章には論語の時代に存在しない字があることから、そう解する必要は無い。

初出は春秋時代の金文。原義は諸説あってはっきりしない。「や」と読み主語を強調する用法は、春秋中期から例があるが、「也」を句末で断定に用いるのは、戦国時代末期以降の用法で、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

子(シ)

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 甲骨文
(甲骨文1・2)

論語の本章では”伝え聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その話”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

成(セイ)

成 甲骨文 成 字解
(甲骨文)

論語の本章では”やり終えた”。初出は甲骨文。字形は「戊」”まさかり”+「丨」”血のしたたり”で、処刑や犠牲をし終えたさま。甲骨文の字形には「丨」が「囗」”くに”になっているものがあり、もっぱら殷の開祖大乙の名として使われていることから、”征服”を意味しているようである。いずれにせよ原義は”…し終える”。甲骨文では地名・人名、”犠牲を屠る”に用い、金文では地名・人名、”盛る”(弔家父簠・春秋早期)に、戦国の金文では”完成”の意に用いた。詳細は論語語釈「成」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”出来事”。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。詳細は論語語釈「事」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

說(エツ)

説 楚系戦国文字
(楚系戦国文字)

論語の本章では”説教する”。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。”解き放つ”・”喜ぶ”・”説く”の意で部品の「兌」が置換候補になる。詳細は論語語釈「説」を参照。

遂(スイ)

遂 金文 遂 字解
(金文)

論語の本章では”し終える”。初出は西周早期の金文。金文では「述」で「遂」を表した例が多いという。字形は〔辶〕+〔㒸〕で、〔㒸〕は〔八〕”導く”+〔豕〕”ぶた”に分解できる。全体で路上を家畜を率いて通り行くさま。原義は”従える”。詳細は論語語釈「遂」を参照。

諫(カン)

諌 金文 諌 字解
(金文)

論語の本章では”とがめる”。異体字は「諌」。初出は西周末期の金文。字形は「言」+「カン」で、字形からは語義を説明できない。原義は”とがめる”。金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「諌」を参照。

既(キ)

既 甲骨文 既 字解
(甲骨文)

論語の本章では”すでに”。初出は甲骨文。字形は「ホウ」”たかつきに盛っためし”+「」”口を開けた人”で、腹いっぱい食べ終えたさま。「旣」は異体字だが、文字史上はこちらを正字とするのに理がある。原義は”…し終えた”・”すでに”。甲骨文では原義に、”やめる”の意に、祭祀名に用いた。金文では原義に、”…し尽くす”、誤って「即」の意に用いた。詳細は論語語釈「既」を参照。

往(オウ)

往 甲骨文 往
(甲骨文)

論語の本章では”し終えた”。初出は甲骨文。ただし字形は「㞷」。現行字体の初出は春秋末期の金文。字形は「止」”ゆく”+「王」で、原義は”ゆく”とされる。おそらく上古音で「往」「王」が同音のため、区別のために「止」を付けたとみられる。甲骨文の字形にはけものへんを伴う「狂」の字形があり、「狂」は近音。「狂」は甲骨文では”近づく”の意で用いられた。詳細は論語語釈「往」を参照。

咎(キュウ/コウ)

咎 甲骨文
(甲骨文)

論語の本章では”とがめる”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。字形は「スイ」(=止)+「人」で、人を踏みつけるさま。原義は”災い”。甲骨文では原義で、金文では「疒」を加えて”病気”を、戦国の金文では地名を、戦国の竹簡では原義、”追求する”、”舅”を意味した。詳細は論語語釈「咎」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章、「哀公問主(社)於宰我」は、先秦両漢の誰一人引用していないし、定州竹簡論語を除いて再録していない。それ以降は古注の原形に、孔安国が注を付けているが、例によってこの男は実在そのものが疑わしい。ただし新~後漢初期の包咸も注を付けている。

古注『論語集解義疏』

註孔安國曰凡建邦立社各以其土所宜之木宰我不本其意妄為之說因周用栗便云使民戰栗也…註苞氏曰事已成不可復說解也…註苞氏曰事已遂不可復諫止也…註苞氏曰事既往不可復追非咎也孔子非宰我故厯言三者欲使慎其後也

孔安国 包咸
注釈。孔安国「国を建てるときには鎮守の森を建立する。それには、それぞれ地域にふさわしい木を選ぶ。宰我はその本義に基づかず、でたらめなことを言った。だから”周はクリを植えて民を戦慄させた”と言ったのである。」…

注釈。包咸「”事、すでに成る”と言ったからには、説教できなかったのである。」…

注釈。包咸「”事、すでに遂げる”と言ったからには、もはや咎めることが出来なかったのである。」…

注釈。包咸「”事がすでに済んでしまったから咎めない”と言ったのは、孔子は宰我を非難して、三度繰り返して今後の慎みを求めたのである。」

馬融 鄭玄
存在の疑わしい孔安国や、学識の疑わしい馬融や鄭玄と違って、同じ古注の儒者でも包咸はまじめ人間だったが(論語先進篇8余話「花咲かじいさん」参照)、そのまじめ人間が、あまり意味の無い注釈を書き付けているからには、まじめと能力が必ずしも同居しない一例に見える。

「松」「柏」「栗」の再出については、下記の二例のみ。

夏后氏,其社用松,祀戶,葬牆置翣,其樂夏鑰、九成、六佾、六列、六英,其服尚青;殷人之禮,其社用石,祀門,葬樹松,其樂大濩、晨露,其服尚白;周人之禮,其社用栗,祀灶,葬樹柏,其樂大武、三象、棘下,其服尚赤。


夏王は、やしろに松を用い、扉で祭祀を行い、墓室の壁にタペストリーを飾り、その音楽は夏鑰、九成、六佾、六列、六英(全て未詳だがそもそもでっち上げ)といい、礼服は青を重んじた。殷人の礼法では、やしろに石を用い、門で祭祀を行い、墓には松を植え、その音楽は大カク、晨露(共に開祖湯王が作ったという)、礼服は白を重んじた。周人の礼法では、やしろに栗を用い、かまどで祭祀を行い、墓には柏を植え、その音楽は大武(武王が作ったという)、三象(武王または周公が作ったという)、棘下(武王が作ったという)、礼服は赤を重んじた。(前漢武帝期『淮南子』斉俗訓15)

《尚書》亡篇曰:「太社唯松,東社唯柏,南社唯梓,西社唯栗,北社唯槐。」


『書経』の失われた篇にいわく、「王が天下を祭る大社には松だけを、東のやしろには柏だけを、南のやしろには梓だけを、西のやしろには栗だけを、北のやしろには槐だけを植える。」(後漢章帝期『白虎通義』社稷9)

なぜ失われた篇を知っている? でっち上げにも程がある。中国のインテリは大昔からこういう出鱈目をまじめな顔して言いふらすから、古代文明を誇ったにもかかわらず、その後は下落するばかりの歴史になった。現中共政府もこの点では全然変わらない(夏殷周プロジェクト)。

上記語釈でも記した通り、夏王朝の初代・禹王が創作されたのは、孔子没後に現れた墨子の仕業で、墨子は儒家を圧倒するため、彼らの崇拝した周の文王・武王に先立つ聖王として禹を創作し、自派の得意分野である土木技術の開祖に据えた。

従って孔子も宰我も哀公も、夏王朝の名は知っていたが禹王を知らず、その鎮守の森をどうこうとか、夏王朝の詳細を言うことがあり得ない。論語の本章は定州竹簡論語にあることから、前漢の宣帝期には存在したが、おそらく董仲舒等によって創作されたと考えるのが筋が通る。

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

論語八佾篇9「夏の礼は吾よく言えども」と孔子が言った章があるが、文字史的には論語の時代に遡れるが、本章と同じく内容的に如何わしい。

解説

董仲舒はいわゆる儒教の国教化に伴い、顔淵を神格化するため論語に少なからぬ贋作を混ぜ込んだ。本章では宰我のこき降ろしを行ったわけだが、その理由はよく分からない。ほかにはやはり漢儒の創作である『大載礼記』に、黄帝を疑って孔子に叱られる話を作文している。

宰我 孔子 激怒
宰我「黄帝は三百歳も生きたなんて、そりゃ人ですか、それとも何か妖怪のたぐいですか。」
孔子「こうらぁ~! このバチあたりがッ!」(『大載礼記』五帝徳篇)

宰我は子によって弁舌の才で孔門十哲に加えられたが(孔門十哲の謎)、後世に派閥が残った形跡が無く、同時代に何をしたのかの記録も無い。わずかに百官を監督する才を楚王に認められた記事が『史記』にあるのみ。

子西「王の官吏の目付役で、宰予ほどの者がいますか。」
楚王「おらぬ。」(『史記』孔子世家)

孟子は孔子没後一世紀に現れた人物だから、ぎりぎり孔子一門の実情を知った上で宰我を十哲に加えたのだろうし、すでに滅ぼし合いの世になっていた春秋末期の楚王が、根拠無く宰我を評価するわけもない。後世の儒者は揃って、宰我の悪口を創作するのみで参考にならない。

その僅かな例外が、『孔叢子』にある。

宰我が斉に使いに出て戻り、先生のお目にかかって言った。

「梁丘キョさまが毒蛇に噛まれまして、三十日ほど寝込んだ後に回復しました。そこで斉国公にご挨拶なされ、ご家老衆ともお会いになりましたが、みなさま駆けよって、お祝いを申されました。私もその席にいたのですが、お集まりの皆様、どの方もヘビ毒の治し方を梁丘さまに申されました。それで私はお歴々に申し上げました。

”皆様がお話しの療治法は、病の最中にこそ意味のあるものでしょう。いま梁丘さまはご回復なされたのに、皆様方は療治法を仰せになる。一体何の役に立つのです? 梁丘さまに、もう一度毒蛇に噛まれろとでも?”

皆様方は声を失って、黙って仕舞われました。私の申し上げた話をどう思われますか?」

孔子「お前の話は良くない。たとえ名医だろうと、駆け出しの頃には患者の腕を三度折って、ようやく名医になれると言う。梁丘どのは噛まれて治ったが、今後同じ目に遭う者は必ず出るし、必ず療治の法を求めるだろう。だから皆様方は、ご存じの治療法を申されたのだ。それは人の病を癒したいからだろう。治療法を人に言う者は、それだけで善人と言って良い。ただその治療法に、効き目の優劣があるだけだ。」

『孔叢子』嘉言第一004:宰我使于齊
原文宰我使于齊而反,見夫子,曰:「梁丘據遇虺毒,三旬而後瘳。朝齊君,會大夫,眾賓而慶焉。弟子與在賓列。大夫眾賓並復獻攻療之方。弟子謂之曰:『夫所以獻方,將為病也。今梁丘子已瘳矣,而諸夫子乃復獻方,方將安施?意欲梁丘大夫復有虺害當用之乎?』眾

おそらく宰我は顔淵同様、人に語れない孔子一門の謀略部門を担い、長官の顔淵の下でエージェントとして、春秋諸国に派遣されていたのだと思う。だが子貢と違って、その場に合わせた腹芸が出来なかった。こういう性格は監察官に向いている。楚王が評価したのももっともだ。

余話

ただ中国人がいた

宰我の史実を伝える史料は皆無に近い。わずかな例外が論語雍也篇26で、「仁者に”人が井戸に落ちた”とウソを言えば、ノコノコと井戸に入るんですな」と人をせせら笑っている。だがこの言葉は、中華文明(論語学而篇4余話)の長所と短所をみごとに言い当てている。

中華文明の長所は、中国人には数理が分からないのに、長期間生き残り、広範囲に繁殖し、現代でも繁栄していることに表れている。短所は極めて合理的なのに数理を受け入れないから、おかしな宗教に酔い痴れたり、間抜けな死に方をする(論語述而篇21余話「中国人と物理法則」)ことに表れている。

神を拝むも人を拝むも同じ、なんたら主義は宗教の一種に他ならない。論語公冶長篇15余話「マルクス主義とは何か」を参照。

宰我の合理はこういう中華文明的合理の範疇から出ておらず、人をほく笑む(『列子』愚公山を移す)と必ず復讐されるという事実を分かっていない。自分が弱った時にもせせら笑っていられるのが本当の強者で、調子の良いときに人を笑う者は泣きわめいて死ぬことになる。

数理も漢文も出来る出来ないは、徹頭徹尾向き不向きの問題で、カネや権力のあるなし同様、結果は偶然が左右する。偶然に乗って我をせせら笑いに来る者に対する唯一解は、せせら笑い返すに限る。我が復讐しなくとも、そういう愚か者は嫌われて、泣き叫んで死ぬからだ。

惜しまれつつ世を去るのが、幸福な死に方の一つと思うのだが、宰我はそのような死に恵まれなかったに違いない。こういう性格では弟子を取ったこともないはずで、宰我の系統を引く儒者は出なかった。それでも孟子が孔門十哲に数えたのはなぜだろう。

孔子没後一世紀に生まれた孟子は、かろうじて孔門の史実を伝え聞けた最後の世代だろう。孟子に宰我の凄みを語った古老がいて、それを裏付ける何らかの痕跡を孟子は感じたからこそ、「言語」の達者に宰我を挙げた(論語先進篇2)。上古で「言語」は”弁舌”を意味する。

宰我の物言いに言いくるめられてしまう人が多かったことを物語る。上掲のように、部下の監視役にはこういう性格が向いている。ウソを見抜くのにも長けただろうから、革命政党の頭領としての孔子にとって、使い勝手のよい弟子であったには違いない。

漢文を読んで「天道是か非か」と司馬遷の貰い泣きをするまでもない。非に決まっているのである。決まっているから、ゆえなく人をせせら笑ってはいけないのである。司馬遷は平気でせせら笑った。人でなしの暴君に集った、ろくでなしの家臣の一人に過ぎない。

漢文にロマンなどありはしない。そこに中国人がいただけである。

参考記事

『論語』八佾篇:現代語訳・書き下し・原文
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