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論語詳解130雍也篇第六(13)なんじ君子の儒*

論語雍也篇(13)要約:後世の創作。春秋時代、「小人」という言葉はありませんでした。対して後世の儒者が想定した「君子」とは、ひたすら学問と人格修養に励むべきで、つまりは汗流して働く人をおとしめた一節。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子謂子夏曰女爲君子儒無爲小人儒

校訂

東洋文庫蔵清家本

子謂子夏曰爲君子儒毋爲小人儒

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……□子夏曰:「[為a君子儒]!122……

  1. 今本「為」前有「女」字。

→子謂子夏曰、「爲君子儒、毋爲小人儒。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文謂 金文子 金文夏 金文曰 金文 為 金文君 金文子 金文 母 金文為 金文小 金文人 金文

※論語の本章は、「儒」の字が論語の時代に存在しない。「小人」の語が論語の時代に存在しない。

書き下し

子夏しかひていはく、君子よきひとじゆれ、小人よしなきひとじゆかれ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 子夏
先生が子夏を論評して言った。「道徳的な教養人の儒者になれ。つまらない儒者になるな。」

意訳

孔子 人形 子夏
孔子「子夏よ、高い教養と憐れみの心を持った儒者になれ。占いや口寄せやまじないで人を惑わして食うような、つまらない拝み屋になるな。」

従来訳

下村湖人
先師が子夏(しか)にいわれた。――
「君子の(じゅ)になるのだ。小人の儒になるのではないぞ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子對子夏說:「你要做君子式的學者,不要做小人式的學者。」

中国哲学書電子化計画

孔子が子夏に言った。「お前は君子の学者にならねばならぬ。小人の学者になってはならぬ。」

論語:語釈

、「( () 。」


子(シ)

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”(孔子)先生”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”言う”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

子夏(シカ)

孔子の弟子。本の虫、カタブツとして知られ、文学に優れると子に評された(孔門十哲の謎)、孔門十哲の一人。主要弟子の中では若年組に属する。詳細は論語の人物:卜商子夏を参照。

子 甲骨文 夏 甲骨文
(甲骨文)

「子」は貴族や知識人への敬称。開祖級の知識人や大夫(家老)級以上の貴族は場合は孔子や孟懿子のように「○子」”○先生”・”○さま”と呼び、弟子や一般貴族は子夏のように「子○」”○さん”と呼ぶ。初出は甲骨文。詳細は論語語釈「子」を参照。

「夏」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「日」”太陽”の下に目を見開いてひざまずく人「頁」で、おそらくは太陽神を祭る神殿に属する神官。甲骨文では占い師の名に用いられ、金文では人名のほか、”中華文明圏”を意味した。また川の名に用いた。詳細は論語語釈「夏」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

女(ジョ)

唐石経は「女爲君子~。」と子夏への呼びかけを記すが、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「女」字を記さず、清家本も記さない。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。論語の本章では定州本により、それを裏付けている。いずれにせよ定州本・清家本に従い、「女」字が無いものとして校訂した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

女 甲骨文 常盤貴子
「女」(甲骨文)

論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形はひざまずいた女の姿で、原義は”女”。甲骨文では原義のほか”母”、「毋」として否定辞、「每」として”悔やむ”、地名に用いられた。金文では原義のほか、”母”、二人称に用いられた。「如」として”~のようだ”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「女」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”する”→”なる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

君子(クンシ)・小人(ショウジン)

論語 君子 小人

論語の本章では、「君子」は”情け深い教養人”。「小人」は”卑しく無知なつまらない人”。

孔子の生前、「君子」とは従軍の義務がある代わりに参政権のある、士族以上の貴族を指した。「小人」とはその対で、従軍の義務が無い代わりに参政権が無かった。つまり「君子」を賞賛し「小人」を罵倒する理由がなかった。詳細は論語における「君子」を参照。

また春秋時代の身分については、春秋時代の身分秩序と、国野制も参照。

孔子の生前、「君子」=戦士は誰にも明らかで、わざわざ説明する必要が無かった。春秋末期、「卒」”徴集兵”と「弩」”クロスボウ”の組み合わせが実用化されると、戦士としての「君子」の価値が暴落した。このため「君子」は、わざわざ説明する必要のある言葉になった。

そこに登場したのが孔子没後一世紀に現れた孟子で、孟子は「君子」を「小人」と対比させ、ありがたそうな意味合いをつけ加えた。そして激しく「小人」をバカにし始めるのは、孟子より半世紀以上のちに生まれた、戦国末期を代表する儒者・荀子だった。

「君子」の用例は春秋時代以前の出土史料にあるが、「小人」との言葉が漢語に現れるのは、出土史料としては戦国の簡書(竹簡や木簡)からになる。その中で謙遜の語としての「小人」(わたくしめ)ではなく、”くだらない奴”の用例は、例えば次の通り。

子曰:唯君子能好其駜(匹),小人剴(豈)能好亓(其)駜(匹)。古(故)君子之友也


子曰く、唯だ君子のみ好く其のともたるを能う。小人豈に好く其の匹たるを能うや。故に君子の友也。(『郭店楚簡』緇衣42・戦国中期或いは末期)

孔子は平民から貴族への成り上がり塾として六芸を教えたのだから、孔子の言う「君子の儒」とは、礼儀作法に限らず貴族に必要なあらゆる技能教養を身につけたものを言う。対して「小人の儒」とは、お札の販売や読経や占いや口寄せで手っ取り早い稼ぎをする拝み屋を言う。

ただし本章に限ると、箸と筆とワイロ以上に重い物を持とうともせず、肉体労働をひたすら嫌い賤しんだ後世の儒者の創作であり、「君子の儒」とはひたすら高尚な儒者のことで、史実の孔子が教えた武術やその他実技とはまるで縁が無い。

儒(ジュ)

儒 隷書 儒者
(前漢隷書)

論語の本章では、”儒者”。論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。部品の「需」は若干音が違い、春秋末期までに”みこ”の用例が無い。「儒」のカールグレン上古音はȵi̯u(平)で、「需」のカールグレン上古音はsni̯u(平)。同音は「需」を部品とする漢字群と「乳」。

論語の時代、みこは教職と宗教職を兼ねた冠婚葬祭業者で、口車を買われて臨時外交官を任されることもあった。その中には国公祭殿の管理人から、字の読める葬列のチャルメラ吹きまで、社会的影響力の点でさまざまな者がいる。詳細は論語語釈「儒」を参照。

孔子より約200年のち、斉国の宰相に成り上がり、儒者の本流を自覚していた荀子は、「小人の儒」の一つについてこんな事を言っている。

荀子
衣冠を正し、容貌を整え、口にものを含んだような顔をして、一日中ものを言わずに黙っている。それが子夏氏の系統を引く腐れ学者だ。(『荀子』非十二子篇)

格好ばかり取り澄まして、何でも知っているような顔をして、自分では何もものを言わず、聞かれても「これはこうである」と断定しない。それでは人がものを聞いても役立たない。子夏派の儒者はかかる卑怯者の学者先生だと。

無(ブ)→毋(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…するな”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

日本語の「無い」は形容詞だが、漢語の「無」は動詞。

毋 金文 毋 母 字解
(金文)

京大蔵清家本では「毋」と記す。「毋」の、現行書体の初出は戦国文字で、無と同音。春秋時代以前は「母」と書き分けられておらず、「母」の初出は甲骨文。「毋」と「母」の古代音は、頭のmが共通しているだけで似ても似付かないが、「母」məɡ(上)には、”暗い”の語義が甲骨文からあった。詳細は論語語釈「毋」を参照。

定州竹簡論語はこの部分が欠損し、中華書局本『論語義疏』は無注記で「無」と記し、宮内庁書陵部蔵の南宋本も「無」と記す。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、「儒」の字が論語の時代に存在せず、定州竹簡論語にはあるのだが、それ以外に先秦両漢で引用・再録したのは、前漢中期成立の『史記』弟子伝ただ一つだけ。「小人」の語も春秋時代の漢語に見られず、本章は戦国以降の創作と判断するのが妥当。

解説

孔子生前の一門は「儒」を自称しなかった。論語の中で「儒」の字が見えるのも、本章だけ。よその街に出掛けた子路は、帰ってきて城門の番人に問われたとき、自らを「孔氏」と答えている(論語憲問篇41)。血統を意味する姓と違い、氏は例えば山賊仲間でも名乗れたからだ。

論語 墨子
孔子没後約10年に生まれた墨子は、著書にその名もズバリ「非儒篇」などを記して儒家の悪口を書いている。戦国時代、「儒」とは”こびと”を意味し、こびとのみこは『春秋左氏伝』に記述があるが、「儒」そのものは”みこ”や”儒者”を意味しない。

夏、日照りが続いたので、雨乞いに失敗したこびとのみこを、(魯国公の)公は焼き殺そうと考えた。

(家老の)ゾウ文仲「そんなことでは日照りは収まりません。城壁を堅固にして飢えた賊の襲来を防ぎ、食事を質素にして出費を減らし、農耕に力を入れて貧者に配給し、労働力を増すのが、当面のやるべき事です。みこなど焼き殺して何になるのですか。天がみこを殺すおつもりなら、今なおのうのうと生きている道理が無いではないですか。」(『春秋左氏伝』僖公二十一年(BC639))

ゆえに墨子はそれこそ「小人」として、儒家を「儒」と呼んだのだろう。

また墨家は土木技術で知られるが、汗流して働くことを貴んだ。対して孟子以降の儒者は、筆と箸より思い物を持とうともせず、帝国儒者になると、役人として持とうとした物にワイロが加わる。ともあれ自ら力仕事に励んだ墨子の、儒家への批判は4つに大別できる。

  1. 冠婚葬祭業者としてのデタラメ
  2. 孔子自身の不行跡
  3. 孔子が陰謀で戦争を煽ったこと
  4. 儒者の高慢ちき

この中で最も多くの言葉を割いたのが1.冠婚葬祭業者としての儒家への非難で、それは孔子の教説である六芸のうち、「礼」のさらに一部でしかない。孔子が世を去ると、六芸に通じた弟子はみな諸国に散ったと『史記』孔子世家は言う。魯国にはろくな者が残らなかったのだ。

残った者の一つはお賽銭で食おうとした曽子と子思で、みごとに失敗して諸国を放浪するハメになった。もう一つは金儲けに徹して冠婚葬祭業の親玉になった子游一派で、「本場の儒家」でもあることから主流と見なされた。

需 金文 大 金文
「需」「大」殷代金文

「需」の字は通説では”雨止みを待つ姿”とし、止むのを”求める”が原義という。だが平明に字を眺めれば、頭を丸めた人が雨の中で濡れそぼつ姿であり、「大」”人の正面形”の金文と比較すると一層よく分かるだろう。濡らす雨止みを願う姿ではなく、願った雨が降った姿だ。

従って「需」に雨乞いを行う”みこ”の語釈を与えうる。ただし出土物では確認できない。墨子が非難したのはそういう「需」であり、「儒」とは記していなかった可能性がある。孔子没後一世紀に生まれた孟子は、たったの1回しか「儒」といわず、あと1つの「儒」は他人の発言。

夷子曰:「儒者之道,古之人『若保赤子』,此言何謂也?之則以為愛無差等,施由親始。」

?
墨家の夷子が言った。「儒者の道は、昔は”赤ん坊を世話するようなもの”と言った。これはどういうことか? これすなわち、愛に差別など無いことを示し、その始まりは子への親の愛という事だ。」(滕文公上5)


孟子曰:「逃墨必歸於楊,逃楊必歸於儒。歸,斯受之而已矣。今之與楊墨辯者,如追放豚,既入其苙,又從而招之。」

孟子
孟子が申しました。「墨家でやっていけなくなった者は楊朱一派に逃げ込み、楊朱の所でもしくじった者は結局儒家に戻ってくる。帰って来たのだから受け入れてやるがよい。今の世で、墨家や楊朱を論じ立てる者はそうでない。ブタを放牧して、ブタの方で檻に戻ってきたのに、戻ってこい戻ってこいと叫んでいる。」(尽心72)

孟子より60ほど年下で、始皇帝が統一戦争を始める10年ほど前まで生きた荀子になると、頻繁に「儒」という言葉を使うようになる。孔子を開祖に据え、孟子が再興し荀子が地位を高めた儒者は、戦国の終わりになって学派の一つと世間に認められ、儒者は学者の意味になった。

余話

ブッダマシーン

論語の本章に話を戻すと、六芸の中に確かに冠婚葬祭の礼儀作法や式次第は入っていたから、孔子の弟子ならいわゆる司祭が務まっただろう。孔子の母親・顔徴在もそうした司祭の一人だったし、それゆえに下層階級に生まれながら、孔子は母から文字の読み書きが習えた。

弟子の中にもアルバイトとして、もっともらしい儒者服を着て、冠婚葬祭の場で司祭を務めて生活費の足しにした者がいたはずだ。だがそれに専念してしまっては、ただの拝み屋が出来るだけで、孔子が世に送り出したかったのは、行政を担える士族としての人材だった。

若き日の孔子は、母の手伝いで読経もしたろうし口寄せや占いの真似もしただろう。それに怯える一般人を含め、そうした拝み屋の仕草がどんなに馬鹿馬鹿しいか、心底知っていたはずだ。それが孔子に透明な理性を持たせることになった。孔子はなぜ偉大なのかを参照。

本章の説教相手である子夏は、孔子が放浪に出たときにはまだ10歳ほどで、入門していなかった可能性が高い。孔子が帰国したときには23歳ごろ、おそらくここで入門し、孔子晩年の主要弟子となった。他の主要弟子がすでに仕官している中、弟子のまとめ役だったとみてよい。

その子夏を先頭にした弟子一同に対し、孔子が申し渡したように創作されたのが本章で、人徳に優れた君子は、ひたすら学問と人格修養に励むべきで、すぐに金になるからと言って、冠婚葬祭のチャルメラ吹きや読経マシーンで終わってはならない、ということだ。

もし論語の本章が史実なら、論語八佾篇3を読み合わせると理解しやすい。

貴族になる気が無いのにお作法? 音楽? 要らん要らん。おかえんなさい。

孔子没後、子夏は北方の魏国に移り、名君・文侯の相談役になった。

李克・呉起・西門豹といった、独立当初の魏を支えた名臣は、みな子夏の弟子とされる。引っ込み思案な子夏は(論語先進篇15)、それなりに押し出しが要る貴族に不向きかも知れないと孔子は危ぶんだが、本章の教えは実り、立派な仕官先で優れた弟子を育てたのだった。

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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