論語詳解124雍也篇第六(7)回やその心三月*

論語雍也篇(7)要約:顔回は孔子先生の教説の中心である仁義の心を、たった三ヶ月で習得し、それ以外の徳目は、入門以前からすでに身につけていた、というでっち上げ話。内容的にも文字史からも、漢語の歴史からも本物と言えません。

このページの凡例このページの解説

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「回也、其心、三月不違仁。其餘、則日月至焉而已矣。」

校訂

定州竹簡論語

(無し)


→子曰、「回也、其心、三月不違仁。其餘、則日月至焉而已矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 回 金文也 金文 其 金文心 金文三 金文月 金文不 金文違 金文仁 甲骨文 其 金文余 金文 則 金文日 金文月 金文至 金文而 金文已 金文㠯 以 金文

※仁→(甲骨文)・矣→以。論語の本章は、「焉」が論語の時代に存在しない。「其」「則」の用法に疑問がある。本章は後漢前期ごろの儒者による創作である。

書き下し

いはく、くわいこころげつにしてじんたがはず。あまりは、すなは日月ひごろいた已矣おはんぬ

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

孔子別像
先生が言った。「回こそはその心が三ヶ月で仁の情けの境地に至った。そのほかは、普段からその境地に成り切り終えていた。」

意訳

顔回大明神
顔回はなんと学んで三ヶ月で、その心に仁の情けを身につけた。その他の徳目は、もともと普段から身につけ終えていた。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「囘よ、三月の間、心が仁の原理をはなれなければ、その他の衆徳は日に月に進んで来るものだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「顏回能做到三個月心中不違反仁道;其他人,衹能十天半個月而已。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「顔回は三ヶ月の間心の中が仁の道に違反しないように出来た。その他の弟子は、たった十日か半月そうできただけだ。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

回(カイ)

顔回

論語の本章では、孔子の弟子、顔回子淵のこと。BC521ごろ – BC481ごろ。いみなは回、あざなは子エン。顔淵ともいう。詳細は論語の人物・顔回子淵を参照。またもっと侮れない顔氏一族も参照。

亘 回 甲骨文 回 字解
「亘」(甲骨文)

「回」の初出は甲骨文。ただし「セン」と未分化。現行字体の初出は西周早期の金文。字形は渦巻きの象形で、原義は”まわる”。詳細は論語語釈「回」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで主格の強調に用いている。訳は”こそは”・”なんと”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は農具の。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

心(シン)

心 甲骨文 心 字解
(甲骨文)

論語の本章では”こころ”。初出は甲骨文。字形は心臓を描いた象形。原義は心臓。甲骨文の段階で”思う”・”思い”を意味し得、その他河川の名として用いられた。詳細は論語語釈「心」を参照。

三月(サンゲツ)

論語の本章では”三ヶ月で”。既存の論語本では藤堂本で、新注に従い”いく月も”と解する。ただし論語の時代の漢語では、例えば『春秋』の経文(もともと年代記に記されていた部分)で「○月」と言えば、こよみ上の「なんガツ」の意で、「○ヶ月間」という期間を表さない。

「○月」が期間を意味するようになったのが確認できるのは戦国時代からで、孔子と入れ替わるように春秋末戦国初を生きた墨子は、「速者數月」”早くて数ヶ月で”と記す。孔子没後一世紀に現れた孟子は、「今既數月矣」”すでに数ヶ月過ぎた”と記す

本章は文字史上も、引用・再録の実情からも、史実の孔子の発言ではなく、おそらく後漢になって創作された章であることから、”三ヶ月”と解してよい。ただし”三ヶ月間”なのか、”三ヶ月で”なのかは、この部分だけでは決まらない。

顔回子淵神格化運動は、前漢中期に董仲舒がいわゆる儒教の国教化とともに進めたが、本章の成立はすでに神格化された後だから、”たったの三ヶ月しか仁の境地にいられなかった”と解しうる状況は考えづらい。”たったの三ヶ月で仁の境地に至った”と解する方が筋が通る。

三 甲骨文 三 字解
「三」(甲骨文)

「三」の初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。

月 甲骨文 月 字解
「月」

「月」の初出は甲骨文。「ガツ」は慣用音。呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「ゴチ」。字形は月を描いた象形。「日」と異なり、甲骨文で囲み線の中に点などを記さないものがあり、「夕」と字形はまったく同じ。分化するのは戦国文字から。甲骨文では原義のほか、こよみの”○月”を意味した。詳細は論語語釈「月」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

違(イ)

違 金文 違 字解
(金文)

論語の本章では”そむく”。初出は西周早期の金文。字形は「辵」”あし”+「韋」”めぐる”で、原義は明らかでないが、おそらく”はるかにゆく”だったと思われる。論語の時代までに、”そむく”、”はるか”の意がある。詳細は論語語釈「違」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 仁 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”慈悲深さ”。本章は後世の創作が確定しているので、通説通り「仁義」の意で解すべき。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

孔子の生前、「仁」は単に”貴族(らしさ)を意味したが、孔子没後一世紀後に現れた孟子は「仁義」を発明し、それ以降は「仁」→「仁義」となった。詳細は論語における「仁」を参照。

餘(ヨ)

余 甲骨文 餘 秦系戦国文字
「余」(甲骨文)/「餘」(秦系戦国文字)

論語の本章では、”…以外の事柄”。新字体は「余」だが、本来別系統の字。「餘」の初出は秦系戦国文字。「余」の初出は甲骨文。甲骨文「余」の字形は「亼」”あつめる”+「木」で、薪や建材など木材を集積したさま。おそらく原義は”豊富にある”→”あまる”。甲骨文から”私”との一人称に転用されたのは、音を借りた仮借としか考えようがない。詳細は論語語釈「余」を参照。

新古の注釈の解釈では、「其餘」=「餘人」”顔回以外の弟子”とするが、下記するように「日月」の解釈を本章の偽作された後漢初期のもの、”普段から”に合わせると、「餘」を”その他の弟子”とすれば、”その他の弟子は普段から(仁の境地に)至っていた”になってしまう。

其餘、則日月至焉
その余、則ち日月ひごろに至り

これでは本章が顔回賛歌にならない。他の弟子に対して、顔回は仁を習得するのに三ヶ月もかかったダメな弟子、と前半が言ったことになるからだ。「其餘」=「(仁)以外の徳目」と解すると、”顔回は…仁以外の境地について、普段から至っていた”となり、顔回賛歌になりうる。

なお古注のうち原注は、詳細に読むと「餘」とは何かをぼかして書いており、実は注釈者も読めていなかった可能性が極めて高い。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…の場合は”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

日月(ジツゲツ)

論語の本章では”普段から”。『春秋』の経文には見られない。『墨子』は「不知日月安不足乎」”普段の入り用が足りないはずが無いのを知らない”と記し『孟子』では”太陽と月”の意味でしか使っていない『荀子』は両方の意味で用いている

前漢中期に成立した『史記』も『荀子』同様、”太陽と月”・”普段”の意味でしか用いておらず、論語の本章について通説となっている”いち日かひと月で”・”速やかに”の用例は見られない。後漢中期の『潜夫論』になると、”つきひ”の用例が見られるが、やはり”速やかに”の用例は見られない。

後漢末から南北朝にかけて成立した古注『論語集解義疏』では、次のように注を付ける。

註言餘人暫有至仁時唯回移時而不變也


注釈。その他の弟子は短い期間仁の境地にいることが出来ただけだが、顔回だけは時間が過ぎても仁の境地のまま変わらなかった。

注記者が不明で、早くとも三国魏の何晏より先と見なすことは出来ないが、「移時而不變」とあることから、「日月」を”普段”の意で用いている事が分かる。本章は後漢前期の『論衡』に見られるから、”普段”の意で解すべく、朱子の付けた新注『論語集注』は勝手な想像と断じて構わない。

日月至焉者,或日一至焉,或月一至焉,能造其域而不能久也。

朱子
「日月にして至る」とは、ある弟子は一日間、ある弟子は一ヶ月間、その境地にいることは出来たが、長続きしなかったというのである。

なお「日月」を”普段”と解している古注の原注ではあるが、三国魏の滅亡後に書き加えられた「疏」”付け足し”の部分では、「為仁並不能一時或至一日或至一月故云日月至焉而已矣」”その他の弟子は、仁でいられるのは一日か一ケ月の間だけだった。だから”日月”と言った」と記しており、解釈が変わったことを示している。

日 甲骨文 日 字解
「日」(甲骨文)

「日」の初出は甲骨文。「ニチ」は呉音。原義は太陽を描いた象形文字。甲骨文から”昼間”、”いちにち”も意味した。甲骨文では曲線を刻みにくいので、四角く描いたが、「口」と区別するため真ん中に一本棒を入れた。金文になると角が取れて、丸くなったものが見られるようになる。骨に小刀で文字を刻む甲骨文と異なり、固まる前の粘土の鋳型に、曲線を描くのは簡単だったからだ。それが再び四角く書かれるようになったのは、後漢時代の隷書以降になる。詳細は論語語釈「日」を参照。

至(シ)

至 甲骨文 至 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(その境地に)至る”。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。詳細は論語語釈「至」を参照。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「たり」と読んで、”…てしまう”。完了の意。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「也」は戦国時代以降では、疑問・反語・断定を意味した。詳細は論語語釈「焉」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”…と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

已(イ)

已 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…し終える”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代の語義は不詳だが、”…てしまう”など断定・完了の意は出土物に確認できない。詳細は論語語釈「已」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、「ぬ」と読んで”…てしまう”。完了の意。初出はおそらく西周早期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

ただし本章の場合、直前も置換候補の「已」であることから、「已已」となって視覚的にはおかしい。本章が後漢ごろの創作であることを証すことにもなる。

焉而已矣(エンジイイ)

訓み下しによっては、四文字で「のみ」と読み、強い断定の助字とする。三文字「而已矣」・二文字「已矣」でも「のみ」と読み下す、漢文業界の座敷わらしになっている。

大隈重信
四文字を無理に訳すると「あるんであるんである」という、まるで晩年にアルツハイマーにかかった大隈重信みたいになってしまう。

(ぬり)(て)(おわんぬる)(なり)
(至り終えてしまったのである。)

なお定州論語の校勘記を参照すると、「而已矣」という脂っこい表現は皇侃本=南北朝からのテキストの特徴であり、それ以前は無かったか、「已」か「矣」だけだったという。恐らく本章が初めて記されたときには「其餘則日月至焉」と書かれ、のちに「而已矣」が付け足されたのだろう。

論語:解説・付記

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論語の本章は、先秦両漢で引用や再録したのはただ一つ、後漢前期の王充の『論衡』が前半を記すだけで、文字史からももとより史実の孔子の発言ではない。ただ前半に限れば春秋時代まで遡れるが、その代わり「仁」の語釈は”貴族らしさ”へと改めねばならない。

いはく、くわいこころげつにしてじんたがはず。
先生が言った。「顔回は入門して三ヶ月で、貴族らしい心の持ちようを身につけた。」

とはいえ、初の再録が後漢初期とはあまりに遅く、本章後半までを含めて全部を後世の創作と断じるのにもそれなりに筋が通るが、その場合問題となるのは解釈に限られる。ただし上記の通り漢語の用例から見て、新古の注の解釈には従いがたい。

古注『論語義疏』

子曰回也其心三月不違仁其餘則日月至焉而已矣註言餘人暫有至仁時唯回移時而不變也疏子曰至已矣云回也其心三月不違仁者仁是行盛非體仁則不能不能者心必違之能不違者唯顔回耳既不違則應終身而止舉三月者三月一時為天氣一變一變尚能行之則他時能可知也亦欲引汲故不言多時也故苞述云顔子不違仁豈但一時將以勖羣子之志故不絶其階耳云其餘則日月至焉而已矣者其餘謂他弟子也為仁並不能一時或至一日或至一月故云日月至焉而已矣 註言餘至變也 既言三月不違不違故知移時也

古注 何晏 古注 皇侃
本文「子曰回也其心三月不違仁其餘則日月至焉而已矣」。
注釈。他の者ならたまには仁の境地に至ることがあるが、ただ顔回だけは仁のままでずっといた。

付け足し。先生は極致を言った。回也其心三月不違仁とあり、仁は勢い込んだ所で実践できていなければ無意味で、無意味なままでは必オトツイの方角にずれる。それが無かったのは顔回だけで、一旦仁モードに入ったあとは生涯そのままだった。三月とは春夏秋冬の一季節のことで、陽気が変わっても顔回には変化が無かった。他の季節でも同じだろう。加えてますます仁になろうとしたので黙ったままずっと過ごしたのだ。だから苞述が言った。「顔回先生の仁モードが一季節だけのはずがない。対して弟子仲間は仁を励まされる側だったから、仁モードの格差は埋まらないままだった。」其餘則日月至焉而已矣とは、その他の弟子は、ということであり、一季節どころか一日や一月も保たない連中だった。だから日月至焉而已矣と大げさに言ったのである。

注釈。他の弟子は保たないと言った。顔回は三ケ月保ち、保ったから長持ちしたと言える。

まあ要するに、顔回は仁モードに入りっぱなしだったが、その他の連中は長くて一月か一日だ、ということ。ただしいつも通り、何か根拠があって言っているわけではない。

新注『論語集注』

三月,言其久。仁者,心之德。心不違仁者,無私欲而有其德也。日月至焉者,或日一至焉,或月一至焉,能造其域而不能久也。程子曰:「三月,天道小變之節,言其久也,過此則聖人矣。不違仁,只是無纖毫私欲。少有私欲,便是不仁。」

朱子 新注 程伊川
三月とは、長期間を言う。仁とは心の徳であり、心が仁モードに入った者は、私利私欲が無くてその徳を身につけるのである。日月至焉とは、一日保った、一月保ったということで、モードを維持し続けられないということだ。

程頤「三ヶ月で季節が一つ変わる。長期間と言っていいが、それ以上に保つのは聖人だけだ。仁モードに入るとは、全く私利私欲が無くなることだ。少しでもあるなら、それは仁モードでは無い。」


尹氏曰:「此顏子於聖人,未達一閒者也,若聖人則渾然無閒斷矣。」張子曰:「始學之要,當知『三月不違』與『日月至焉』內外賓主之辨。使心意勉勉循循而不能已,過此幾非在我者。」

尹焞 張載
尹焞「顔回先生と聖人とでは、僅かだが境地に差があった。聖人ならシリアル仁モード全開バリバリだぜ。」

張載「お前らもの知らずに要点を教えてやるぞよ。三月不違と日月至焉の、主語と目的語を間違えてはならんぞよ。燃え尽き症候群になるまで励むがよい。それを過ぎれば脳みそがイカれて、なんとなく分かるようになるのであるぞよ。」

すでに記した事だが、新注に載っている儒者は、現代日本で言えばオカルト雑誌を毎月わくわくして読んでいるような重度の中二病患者で、何言ってるかワケわかめな世迷い言を、白昼公然と素面で言うので、真に受ける必要は全然無い。真に受けると頭が悪くなります。

既存の論語本の中では吉川本によると、「其餘」を”他の学問”と解するのは、伊藤仁斎に始まるという。また従来訳のような呼びかけ解釈は、荻生徂徠のものであるという。

宮崎市定
宮崎本では「三月」の用例を求めて、

子在齊聞韶三月、不知肉味(『論語』述而篇13)
≒聞韶音學之三月、不知肉味(『史記』孔子世家)

のように「學之」が補えるとし、また本章の「其心」は「惎」(キ、おしえる)の誤りではないかと言う。この結果本章は

「回也、其心三月不違仁」→「回也、三月不違仁」
(回やおしうること三月にして仁に違わずなりぬ)

と解せるという。だが「惎」は戦国文字が初出で、本章を史実とする限り、無理がある。

さて最後に、上掲古注で「餘」の解釈がぼかされている事情について補足しておこう。現伝の論語が固まるのが後漢の時代で、古注はその注釈として作られた。古注は論語の原文「経」と、漢から三国魏あたりに付けられた「註」(注)、後世の付け足し解説「疏」からなる。

論語の他の章に得々とデタラメを書き付けた馬融と鄭玄は後漢儒だが、なぜか本章には何も書かない。現伝の「註」を書いた者の名も消されている。馬融と鄭玄は知的に劣悪で、本章を読めなかったこともあろうが、「餘」にだんまりを決め込んだのは命が惜しかったからだ。

後漢年表

後漢年表 クリックで拡大

店開きから三代目までを除く後漢帝国の通例を、ざっと挙げれば次の通り。

  • 皇帝は幼少時に擁立され、親政できる年齢になると殺される
  • 父帝から実子へ帝位継承できない
  • 権力は外戚か宦官が握る
  • 権力者は行政を放置し収賄と弾圧しかしない
  • 権力交替には旧権力の根こそぎ虐殺が伴う

見敵必滅(和製漢語。漢語や現代中国語だと”敵に出会えば自分が滅ぶ”の意)、皆殺し。『漢書』を編んだ班固も、粛清された外戚・竇憲の支持者と見なされ殺された。竇憲の部下として出征したまではよかったが、ゴマスリの詩を書いてしまったのが運の尽きだった。

馬融 鄭玄
馬融や鄭玄もその身は安全でない。政治の派閥は学問にも及び、所属派閥を明確にしたり、明解な解釈を記すと後年の刑殺に繋がりかねない。だから注と称しても毒にも薬にもならないことしか書かないし、希に珍妙な解釈を言い張れるときには言い張って、収賄の手段にした。

官職への口利き料が取れたからだ。詳細は後漢というふざけた帝国を参照。



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