論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰回也其心三月不違仁其餘則日月至焉
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰回也其心三月不違仁其餘則日月至焉而已矣
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「回也、其心、三月不違仁。其餘、則日月至焉而已矣。」
復元白文(論語時代での表記)
焉
※仁→(甲骨文)。論語の本章は、「焉」が論語の時代に存在しない。ただし「焉」の字が無くとも文意はほぼ変わらない。
書き下し
子曰く、回也、其の心三月にして仁に違はざりき。其の餘は、則ち日月に至り焉り而已矣。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「回こそはその心が三ヶ月で貴族らしさから外れなくなった。そのほかは、普段からその境地に成り切り終えていた。」
意訳
顔回はなんと学んで三ヶ月で、貴族らしい精神を身につけた。その他の技能教養は、すでに入門前から身についていた。
従来訳
先師がいわれた。――
「囘よ、三月の間、心が仁の原理をはなれなければ、その他の衆徳は日に月に進んで来るものだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「顏回能做到三個月心中不違反仁道;其他人,衹能十天半個月而已。」
孔子が言った。「顔回は三ヶ月の間心の中が仁の道に違反しないように出来た。その他の弟子は、たった十日か半月そうできただけだ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
回(カイ)
論語の本章では、孔子の弟子、顔回子淵のこと。BC521ごろ – BC481ごろ。諱は回、字は子淵。顔淵ともいう。詳細は論語の人物・顔回子淵を参照。またもっと侮れない顔氏一族も参照。
「亘」(甲骨文)
「回」の初出は甲骨文。ただし「亘」と未分化。現行字体の初出は西周早期の金文。字形は渦巻きの象形で、原義は”まわる”。詳細は論語語釈「回」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで主格の強調に用いている。訳は”こそは”・”なんと”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
心(シン)
(甲骨文)
論語の本章では”精神”。初出は甲骨文。字形は心臓を描いた象形。原義は心臓。甲骨文の段階で”思う”・”思い”を意味し得、その他河川の名として用いられた。詳細は論語語釈「心」を参照。
其心(キシン)/其餘(キヨ)
論語の本章では、「其心」→”貴族に相応しい心構え”、「其餘」→”精神以外の、貴族に相応しい技能教養”。下記するとおりこの二句は「回」ディレクトリの下位にある対句になっており、ともに顔回(顔淵)の属性。
孔子塾は庶民が入門して、貴族に相応しい技能教養を身につけて春秋の君子=貴族に成り上がる場だったが、孔子の母の名が顔徴在であることから分かるように、孔子と顔淵は縁戚で、かつ顔氏一族は諸侯国に臨時兵力を提供する傭兵団と、放浪する巫女の情報ネットワークを束ねる一大勢力だった(もっと侮れない顔氏一族)。
孔子の一番弟子は子路とされるが、顔淵は孔子と親子ほど年の差があり、入門はその分遅れた。だが顔氏一族内で、君子に相応しい技能教養をある程度身につけていたと考えられる。ただ貴族の心構えについては、実際に仕官している孔子の指導を仰がねばならず、それには三ヶ月ほど必要とした、というのが論語の本章の論旨。
三月(サンゲツ)
論語の本章では”三ヶ月で”。既存の論語本では藤堂本で、新注に従い”いく月も”と解する。ただし論語の時代の漢語では、例えば『春秋』の経文(もともと年代記に記されていた部分)で「○月」と言えば、こよみ上の「なん月」の意で、「○ヶ月間」という期間を表さない。
だが孔子と入れ替わるように春秋末戦国初を生きた墨子は、「速者數月」”早くて数ヶ月で”と記す。孔子没後一世紀に現れた孟子は、「今既數月矣」”すでに数ヶ月過ぎた”と記す。すでに「甲骨文合集」120に「十三月」とあり、これは”期間”と解するしかない。
ただし論語の本章が”三ヶ月間”か、”三ヶ月で”かは、この部分だけでは決まらない。ここで章末の大げさで意味が無い接尾辞「而已矣」は、定州竹簡論語と古注を対比すると、おおむね古注になってから取り付けられたお飾りなので、切り取れば次のような対句と解せる。
- 回也”顔回こそは”
-
- 其心、三月不違仁。”その心は三ヶ月で仁に違わなくなった。”
- 其餘、則日月至焉。”その余りはつまり日月で至り終えていた。”
「其心」と「其餘」は共に「回」=顔淵のそれであり、新注に臭いの元を発する一部の解釈に言う「其餘」→”その他の弟子”には理が無い。
次に「三月」-「不違仁」だが、漢文でSVO1O2の形を取る場合、通常はO1がO2を包摂する。「包摂する」と曖昧なことしか言えないのは残念だが、文法が極端に少ない漢文の特性として理解して頂きたい。ベン図ですっぽり包むようなことで、O2→O1ということ。
ともあれ、第一句だけでは”三ヶ月間仁に違反しなかった”のか、”三ヶ月で仁に違反しなくなった”のかは決まらない。
そこで第二句を参照すると、O1O2に「則日月」-「至焉」とある。”とりもなおさず普段から”-”そうなっていた”としか解しようがない。「至」とは矢が飛んできて的や着地点に届くことだからだ(下記語釈参照)。その場にあったり離れたりすることではない。
やはり新注に臭いの元を発する、”その他の弟子は一日か一ヶ月しか仁の境地に居られなかった”という解釈は、その境地に居たり居なかったりするわけで、そう解するのは春秋時代での「至」の語義を知らないからだ。
第二句は全体で、”心以外の事柄は、とりもなおさず普段から(仁に)到達した”の意。すると第一句の「三月」も”三ヶ月間で”と解することに理がある。従って論語の本章での「三月」は、”三ヶ月の期間で”の意と考えるのが筋が通る。
なお「日月」を”普段から”と解した理由は後述。
「三」(甲骨文)
「三」の初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。
「月」
「月」の初出は甲骨文。「ガツ」は慣用音。呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「ゴチ」。字形は月を描いた象形。「日」と異なり、甲骨文で囲み線の中に点などを記さないものがあり、「夕」と字形はまったく同じ。分化するのは戦国文字から。甲骨文では原義のほか、こよみの”○月”を意味した。詳細は論語語釈「月」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
違(イ)
(金文)
論語の本章では”そむく”。初出は西周早期の金文。字形は「辵」”あし”+「韋」”めぐる”で、原義は明らかでないが、おそらく”はるかにゆく”だったと思われる。論語の時代までに、”そむく”、”はるか”の意がある。詳細は論語語釈「違」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”貴族らしさ”。通説は「仁義」の意で解し”慈悲深さ”とするが、これは孔子没後一世紀に現れた孟子の発明品。詳細は論語における「仁」を参照。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
餘(ヨ)
「余」(甲骨文)/「餘」(秦系戦国文字)
論語の本章では、”…以外の事柄”。新字体は「余」だが、本来別系統の字。「餘」の初出は秦系戦国文字。「余」の初出は甲骨文。甲骨文「余」の字形は「亼」”あつめる”+「木」で、薪や建材など木材を集積したさま。おそらく原義は”豊富にある”→”あまる”。甲骨文から”私”との一人称に転用されたのは、音を借りた仮借としか考えようがない。詳細は論語語釈「余」を参照。
新古の注釈の解釈では、「其餘」=「餘人」”顔回以外の弟子”とするが、上記のように論語の本章を二句の対句として解釈すれば、この解には理が無い。
なお古注のうち原注は、詳細に読むと「餘」とは何かをぼかして書いており、実は注釈者も読めていなかった可能性が極めて高い。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”とりもなおさず”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
日月(ジツゲツ)
論語の本章では”普段から”。
「日月」は『春秋』の経文には見られない。『墨子』は「不知日月安不足乎」”普段の入り用が足りないはずが無いのを知らない”と記し、『孟子』では”太陽と月”の意味でしか使っていない。『荀子』は両方の意味で用いている。
前漢中期に成立した『史記』も『荀子』同様、”太陽と月”・”普段”の意味でしか用いておらず、”いち日かひと月で”・”速やかに”の用例は見られない。後漢中期の『潜夫論』になると、”つきひ”の用例が見られるが、やはり”速やかに”の用例は見られない。
後漢末から南北朝にかけて成立した古注では、次のように注を付ける。
古注『論語集解義疏』
註言餘人暫有至仁時唯回移時而不變也
注釈。その他の弟子は短い期間仁の境地にいることが出来ただけだが、顔回だけは時間が過ぎても仁の境地のまま変わらなかった。
注記者が不明で、先行する宮内庁書陵部蔵『論語注疏』にも同文があるが無記名のため、早くとも三国魏の何晏より先と見なすことは出来ないが、「移時而不變」とあることから、「日月」を”普段”の意で用いている事が分かる。本章は後漢前期の『論衡』に見られるから、”普段”の意で解すべく、朱子の付けた新注『論語集注』は勝手な想像と断じて構わない。
新注『論語集注』
日月至焉者,或日一至焉,或月一至焉,能造其域而不能久也。
「日月にして至る」とは、ある弟子は一日間、ある弟子は一ヶ月間、その境地にいることは出来たが、長続きしなかったというのである。
なお「日月」を”普段”と解している古注の原注ではあるが、三国魏の滅亡後に書き加えられた「疏」”付け足し”の部分では、「為仁並不能一時或至一日或至一月故云日月至焉而已矣」”その他の弟子は、仁でいられるのは一日か一ケ月の間だけだった。だから”日月”と言った」と記しており、解釈が変わったことを示している。
「日」(甲骨文)
「日」の初出は甲骨文。「ニチ」は呉音。原義は太陽を描いた象形文字。甲骨文から”昼間”、”いちにち”も意味した。甲骨文では曲線を刻みにくいので、四角く描いたが、「口」と区別するため真ん中に一本棒を入れた。金文になると角が取れて、丸くなったものが見られるようになる。骨に小刀で文字を刻む甲骨文と異なり、固まる前の粘土の鋳型に、曲線を描くのは簡単だったからだ。それが再び四角く書かれるようになったのは、後漢時代の隷書以降になる。詳細は論語語釈「日」を参照。
至(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”(その境地に)至る”。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。春秋末期までに、時間的に”至る”、空間的に”至る”の意に用いた。詳細は論語語釈「至」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「たり」と読んで、”…てしまう”。完了の意。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
已(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”…し終える”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、「ぬ」と読んで”…てしまう”。完了の意。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
焉而已矣(エンジイイ)
唐石経は論語の本章の文末を「至焉」で終えるが、清家本は「至焉而已矣」と「而已矣」を加えて終える。清家本は年代こそ唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。論語の本章は現存最古の論語本である定州竹簡論語から全文が欠けており、事実上最古の文字列は清家本のものになる。従って「而已矣」があるものとして校訂した。ただし下記するように疑問が無いわけではない。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
「焉而已矣」は訓み下しによっては、四文字で「のみ」と読み、強い断定の助字とする。三文字「而已矣」・二文字「已矣」でも「のみ」と読み下す、漢文業界の座敷わらしになっている。
この文字列は、接続辞「而」があるから「焉」と「而已矣」に分割できる。四文字をそろえて無理に訳すると「あるんであるんである」という、まるで晩年にアルツハイマーにかかった大隈重信みたいになってしまう。
(至り終えて、終わってしまった。)
なお定州論語の校勘記を参照すると、「而已矣」という脂っこい表現は皇侃本=南北朝からのテキストの特徴であり、それ以前は無かったか、「已」か「矣」だけだったという。恐らく本章が初めて記されたときには「其餘則日月至焉」と書かれ、のちに「而已矣」が付け足されたのだろう。
論語:付記
検証
論語の本章は、先秦両漢で引用や再録したのはただ一つ、後漢前期の王充の『論衡』が前半を記すだけで、「焉」の字も論語の時代に存在しない。だが「焉」だけでなくそれ以降「而已矣」も無くても文意が変わらず、「焉」より前は史実の孔子の発言と考えて構わない。従って「仁」の語義も、孔子生前の意味である”貴族らしさ”となる。とはいえ、初の再録が後漢初期とはあまりに遅く、本章後半までを含めて全部を後世の創作と断じるのにも理が無くはないが、その場合問題となるのは解釈に限られる。ただし上記の通り漢語の用例や本章の対句構造から見て、新古の注の解釈には従いがたい。
解説
顔淵を孔子に次ぐ存在として神格化したのは、前漢武帝期にいわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒の企みによる。詳細は、論語先進篇3解説を参照。論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語義疏』
子曰回也其心三月不違仁其餘則日月至焉而已矣註言餘人暫有至仁時唯回移時而不變也疏子曰至已矣云回也其心三月不違仁者仁是行盛非體仁則不能不能者心必違之能不違者唯顔回耳既不違則應終身而止舉三月者三月一時為天氣一變一變尚能行之則他時能可知也亦欲引汲故不言多時也故苞述云顔子不違仁豈但一時將以勖羣子之志故不絶其階耳云其餘則日月至焉而已矣者其餘謂他弟子也為仁並不能一時或至一日或至一月故云日月至焉而已矣 註言餘至變也 既言三月不違不違故知移時也
本文「子曰回也其心三月不違仁其餘則日月至焉而已矣」。
注釈。他の者ならたまには仁の境地に至ることがあるが、ただ顔回だけは仁のままでずっといた。
付け足し。先生は極致を言った。回也其心三月不違仁とあり、仁は勢い込んだ所で実践できていなければ無意味で、無意味なままでは必オトツイの方角にずれる。それが無かったのは顔回だけで、一旦仁モードに入ったあとは生涯そのままだった。三月とは春夏秋冬の一季節のことで、陽気が変わっても顔回には変化が無かった。他の季節でも同じだろう。加えてますます仁になろうとしたので黙ったままずっと過ごしたのだ。だから苞述が言った。「顔回先生の仁モードが一季節だけのはずがない。対して弟子仲間は仁を励まされる側だったから、仁モードの格差は埋まらないままだった。」其餘則日月至焉而已矣とは、その他の弟子は、ということであり、一季節どころか一日や一月も保たない連中だった。だから日月至焉而已矣と大げさに言ったのである。
注釈。他の弟子は保たないと言った。顔回は三ケ月保ち、保ったから長持ちしたと言える。
まあ要するに、顔回は仁モードに入りっぱなしだったが、その他の連中は長くて一月か一日だ、ということ。ただしいつも通り、何か根拠があって言っているわけではない。
新注『論語集注』
三月,言其久。仁者,心之德。心不違仁者,無私欲而有其德也。日月至焉者,或日一至焉,或月一至焉,能造其域而不能久也。程子曰:「三月,天道小變之節,言其久也,過此則聖人矣。不違仁,只是無纖毫私欲。少有私欲,便是不仁。」
三月とは、長期間を言う。仁とは心の徳であり、心が仁モードに入った者は、私利私欲が無くてその徳を身につけるのである。日月至焉とは、一日保った、一月保ったということで、モードを維持し続けられないということだ。
程頤「三ヶ月で季節が一つ変わる。長期間と言っていいが、それ以上に保つのは聖人だけだ。仁モードに入るとは、全く私利私欲が無くなることだ。少しでもあるなら、それは仁モードではない。」
尹氏曰:「此顏子於聖人,未達一閒者也,若聖人則渾然無閒斷矣。」張子曰:「始學之要,當知『三月不違』與『日月至焉』內外賓主之辨。使心意勉勉循循而不能已,過此幾非在我者。」
尹焞「顔回先生と聖人とでは、僅かだが境地に差があった。聖人ならシリアル仁モード全開バリバリだぜ。」
張載「お前らもの知らずに要点を教えてやるぞよ。三月不違と日月至焉の、主語と目的語を間違えてはならんぞよ。燃え尽き症候群になるまで励むがよい。それを過ぎれば脳みそがイカれて、なんとなく分かるようになるのであるぞよ。」
すでに記した事だが、新注に載っている儒者は、現代日本で言えばオカルト雑誌を毎月わくわくして読んでいるような重度の中二病患者で、何言ってるかワケわかめな世迷い言を、白昼公然と素面で言うので、真に受ける必要は全然無い。真に受けると頭が悪くなります。
- 論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」
既存の論語本の中では吉川本によると、「其餘」を”他の学問”と解するのは、伊藤仁斎に始まるという。また従来訳のような呼びかけ解釈は、荻生徂徠のものであるという。
宮崎本では「三月」の用例を求めて、
のように「學之」が補えるとし、また本章の「其心」は「惎」(キ、おしえる)の誤りではないかと言う。この結果本章は
(回やおしうること三月にして仁に違わずなりぬ)
と解せるという。だが「惎」は戦国文字が初出で、本章を史実とする限り、無理がある。
余話
ゴマスリが運の尽き
最後に、上掲古注で「餘」の解釈がぼかされている事情について補足しておこう。現伝の論語が固まるのが後漢の時代で、古注はその注釈として作られた。古注は論語の原文「経」と、漢から三国魏あたりに付けられた「註」(注)、後世の付け足し解説「疏」からなる。
論語の他の章に得々と出任せを書き付けた馬融と鄭玄は後漢儒だが、なぜか本章には何も書かない。現伝の「註」を書いた者の名も消されている。馬融と鄭玄は知的に劣悪で、本章を読めなかったこともあろうが、「餘」にだんまりを決め込んだのは命が惜しかったからだ。
店開きから三代目までを除く後漢帝国の通例を、ざっと挙げれば次の通り。
- 皇帝は幼少時に擁立され、親政できる年齢になると殺される
- 父帝から実子へ帝位継承できない
- 権力は外戚か宦官が握る
- 権力者は行政を放置し収賄と弾圧しかしない
- 権力交替には旧権力の根こそぎ虐殺が伴う
見敵必滅(和製漢語。漢語や現代中国語だと”敵に出会えば自分が滅ぶ”の意)、皆殺し。『漢書』を編んだ班固も、粛清された外戚・竇憲の支持者と見なされ殺された。竇憲の部下として出征したまではよかったが、ゴマスリの詩を書いてしまったのが運の尽きだった。
馬融や鄭玄もその身は安全でない。政治の派閥は学問にも及び、所属派閥を明確にしたり、明解な解釈を記すと後年の刑殺に繋がりかねない。だから注と称しても毒にも薬にもならないことしか書かないし、希に珍妙な解釈を言い張れるときには言い張って、収賄の手段にした。
官職への口利き料が取れたからだ。詳細は論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。
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