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論語詳解125雍也篇第六(8)季康子問う、仲由は’

論語雍也篇(8)要約:使われた文字は春秋時代に遡れますが、内容的に後世の儒者による創作の疑いが。元ネタは公冶長篇で、質問者と弟子の名前を少し変えただけ。それにしても儒者は学を誇るなら、もっと芸を見せられなかったのでしょうか。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

季康子問仲由可使從政也與子曰由也果於從政乎何有曰賜也可使從政也與曰賜也達於從政乎何有曰求也可使從政也與曰求也藝於從政乎何有

校訂

東洋文庫蔵清家本

季康子問仲由可使從政也與子曰由也果/於從政乎何有曰賜也可使從政也與子曰賜也達/於從政乎何有曰求也可使從政也與子曰求也藝/於從政乎何有

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……康子問:「中a[由可]114……曰:」由也[果,於從正乎何有?」□□□]可使從正也[歟]b?」115……[可使從政也與?」曰:「求也□,於從政乎]116……

  1. 中、今本作「仲」。
  2. 歟、今本作「與」。

標点文

季康子問、「中由可使從正也與。」子曰、「由也果、於從正乎何有。」曰、「賜也可使從正也歟。」曰、「賜也達、於從正乎何有。」曰、「求也可使從正也與。」曰、「求也藝、於從正乎何有。」

復元白文(論語時代での表記)

季 金文康 金文子 金文問 金文 中 金文由 金文可 金文使 金文従 金文正 金文也 金文与 金文 子 金文曰 金文 由 金文也 金文果 金文 於 金文従 金文正 金文乎 金文何 金文有 金文 曰 金文 賜 金文也 金文可 金文使 金文従 金文正 金文也 金文与 金文 子 金文曰 金文 賜 金文也 金文達 金文 於 金文従 金文正 金文乎 金文何 金文有 金文 曰 金文 求 金文也 金文可 金文使 金文従 金文正 金文也 金文与 金文 子 金文曰 金文 求 金文也 金文芸 金文 於 金文従 金文正 金文乎 金文何 金文有 金文

歟→與。論語の本章は「問」「也」「與」(歟)「果」「何」「藝」の用法に疑問がある。

書き下し

季康子きかうしふ、中由ちういうまつりごとしたが使なるいはく、いうたけし、まつりごとしたがふにおいなにらむ。いはく、まつりごとしたが使なるいはく、さとし、まつりごとしたがふにおいなにらむ。いはく、きうまつりごとしたが使なるいはく、きうざえあり、まつりごとしたがふにおいなにらむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

季康子
季康子が問うた。「仲由は政治に従事させる事が出来るか。」先生が言った。「由は決断力がありますから、政治に従事させるには、何があるでしょうか。」言った。「賜は政治に従事させる事が出来るか。」先生が言った。「賜は能力がありますから、政治に従事させるには、何があるでしょうか。」言った。「求は政治に従事させる事が出来るか。」先生が言った。「求は技術が有りますから、政治に従事させるには、何があるでしょうか。」

意訳

若家老・季康子「お弟子の政治の腕前は?」
孔子 人形
孔子「子路は果断、子貢はめはしが利き、冉有ゼンユウは職人ですから、政治を司らせても何の問題もありません。」

従来訳

下村湖人
大夫の季康(きこう)子が先師にたずねた。――
仲由(ちゅうゆう)は政治の任にたえうる人物でしょうか。」
先師がこたえられた。――
(ゆう)には決断力があります。決して政治が出来ないことはありません。」
季康子――
()は政治の任にたえうる人物でしょうか。」
先師――
()は聰明です。決して政治が出来ないことはありません。」
季康子――
(きゅう)は政治の任にたえうる人物でしょうか。」
先師――
「求は多才多能です。決して政治が出来ないことはありません。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

季康子問:「可以讓仲由當官嗎?」孔子說:「仲由果斷,當好官沒問題!」問:「可以讓子貢當官嗎?」答:「子貢精明,當好官沒問題!」問:「可以讓冉求當官嗎?」說:「冉求多才多藝,當好官沒問題!」

中国哲学書電子化計画

季康子が問うた。「仲由を役人にしてよいか?」孔子が言った。「仲由は決断力があります。まさに役人にうってつけで問題ありません。」問うた。「子貢を役人にしてよいか?」言った。「子貢は頭がよろしい。まさに役人にうってつけで問題ありません。」問うた。「冉求を役人にしてよいか?」言った。「冉求は多芸多才です。まさに役人にうってつけで問題ありません。」

論語:語釈

、「( 使 ( 。」 、「 ( 。」、「 使 ( 。」、「 ( 。」、「 使 ( 。」、「 () 。」


季康子(キコウシ)

?-BC468。別名、季孫肥。魯国の門閥家老「三桓」の筆頭、季氏の当主、魯国正卿。BC492に父・季桓子(季孫斯)の跡を継いで当主となる。この時孔子59歳。孔子を魯国に呼び戻し、その弟子、子貢冉有を用いて国政に当たった。

季 甲骨文
「季」(甲骨文)

「季」は”末っ子”を意味する。初出は甲骨文。魯の第15代桓公の子に生まれた慶父・叔牙・季友は、長兄の第16代荘公の重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏にそれぞれ分かれた。辞書的には論語語釈「季」を参照。

康 甲骨文
「康」(甲骨文)

「康」の初出は甲骨文。春秋時代以前では、人名または”(時間が)永い”のいで用いられた。辞書的には論語語釈「康」を参照。

子 甲骨文
「子」(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。赤子の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いられた。辞書的には論語語釈「子」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

仲由(チュウユウ)→中由(チュウユウ)

唐石経・清家本は「仲由」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「中由」と記す。時系列に従い「中由」と校訂した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

論語 子路

論語の本章では、孔子の弟子、子路の実名(いみ名)。質問者は若者ではあっても、魯国筆頭家老の季康子なので、呼び捨てに当たるいみ名で呼んだ。同格の孟孫家当主・孟武伯が、子路を「子路は仁なるか」”子路さん﹅﹅は貴族としてどうですかね”と問うた論語公冶長篇7との対比は明らかで、同じ魯国門閥家老=三桓でも、孔門との間に親しさの差があったように儒者が表現した。論語の人物・仲由子路も参照。

仲 金文
「仲」「中」(西周末期金文)

定州竹簡論語は「中由」と記しているが、意味は変わらない。金文まで、「中」と「仲」の書き分けは微妙だった。西周末期だと、同じ字形で両方を表している場合がある。詳細は論語語釈「仲」論語語釈「中」を参照。

由・賜・求

論語 子貢 論語 冉求 冉有

それぞれ孔子の弟子、仲由子路端木賜子貢冉求子有の本名。子路と冉有は、季氏に仕えたことがある。また子貢は季康子の指示で、呉国との外交交渉に当たったことがある。

孔子が季康子と対談しそうなのはは帰国時以降だが、『史記』弟子伝に従うなら、孔子の帰国時数え年で子路は59歳、子貢は37歳、冉有は39歳。孔子出国前と考える事も出来るが、部屋住みの季康子が偉そうに「政治を任せられるか」と問うとは考えづらい。

由 甲骨文 由 字解
「由」(甲骨文)

「由」の初出は甲骨文。上古音は「油」と同じ。字形はともし火の象形だが、甲骨文では”疾病”の意で、また地名・人名に用いた。金文では人名に用いた。”よって”・”なお”・”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡から。平芯の石油ランプが出来るまで、人間界では陽が落ちると事実上闇夜だったから、たしかに灯火に”たよる・したがう”しかなかっただろう。詳細は論語語釈「由」を参照。

賜 金文 賜 字解
「賜」(金文)

「賜」の現行字体の初出は西周末期の金文。字形は「貝」+「鳥」で、「貝」は宝物、「鳥」は「易」の変形。「易」は甲骨文から、”あたえる”を意味した。戦国早期の金文では人名に用い、越王家の姓氏名だったという。詳細は論語語釈「易」を参照。

求 甲骨文 求 字解
「求」(甲骨文)

「求」の初出は甲骨文。ただし字形は「」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。論語の時代までに、”求める”・”とがめる””選ぶ”・”祈り求める”の意が確認できる。詳細は論語語釈「求」を参照。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…できる”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”~のがよい”・当然”~すべきだ”・認定”~に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

使(シ)

使 甲骨文 使 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。

從(ショウ)

従 甲骨文 従 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”その道に従う”→”担当する”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。

政(セイ)→正(セイ)

政 甲骨文 政 字解
(甲骨文)

初出は甲骨文。ただし字形は「足」+「コン」”筋道”+「又」”手”。人の行き来する道を制限するさま。現行字体の初出は西周早期の金文で、目標を定めいきさつを記すさま。原義は”兵站の管理”。論語の時代までに、”征伐”、”政治”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「政」を参照。

正 甲骨文 論語 始皇帝
「正」(甲骨文)

定州竹簡論語では「正」と記す。文字的には論語語釈「正」を参照。理由は恐らく秦の始皇帝のいみ名「政」を避けたため(避諱ヒキ)。『史記』で項羽を本紀に記し、正式の中華皇帝として扱ったのと理由は同じで、前漢の認識では漢帝国は秦帝国に反乱を起こして取って代わったのではなく、正統な後継者と位置づけていた。

つまり秦帝国を不当に乗っ取った暴君項羽を、倒して創業した正義の味方が漢王朝、というわけである。だから項羽は実情以上に暴君に描かれ、秦の二世皇帝は実情以上のあほたれ君主に描かれると共に、寵臣の趙高は言語道断の卑劣で残忍な宦官として描かれた。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「從政也與」では「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。「由也」のように「名前+也」では「や」と読んで主格の強調に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

與(ヨ)→歟(ヨ)

論語の本章、季康子の問いで、現存最古の論語本である定州竹簡論語は、一度目はこの部分を欠損し、二度目のみ唐石経・清家本の記す「與」を「歟」と記し、三度目は唐石経・清家本と同じく「與」と記す。

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”…か”。疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

歟 篆書 歟 字解
「歟」(篆書)

定州竹簡論語の「歟」の初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。部品の「與」(与)と同じ”…か”の意。詳細は論語語釈「歟」を参照。

定州竹簡論語は「中由…」の句末を欠損し、「賜…歟」とあり、「求…與」と表記が揺れている。理に合わないが、とりあえず「中由…」の句末は物証として清家本・正平本・懐徳堂本(三本とも句末は全て「與」)に従い「與」と判定した。

現伝の論語の文字列が固まるのは後漢の時代で、その文字列を伝える最も古い史料である唐開成石経『論語』で「歟」の字を使っているのは、唯一論語学而篇2だけ。実在も怪しい有若が語っていることから、もちろん後世の創作。

也與(ヤヨ)(なるか)

論語の本章では”~であるか”。織田信長のように偉そうに聞こえたかどうかは分からない。本来「也」のみで疑問の意を示せるから、「與」の字は余計という事になる。それより論語の語句として問題になるのは、先秦の出土物でこの言い廻しが一例しか発掘されておらず、時代も戦国時代に下ることで、つまり論語の本章が少なくとも戦国以降の文字列であることを証している。

子羔昏(問)於孔子曰:「□(三)王者之乍(作)也,□(皆)人子也,而丌(其)父戔(賤)而不足□(偁)也與(歟)?殹亦城(成)天子也與(歟)?」孔子曰:「善,而(爾)昏(問)之也。舊(久)矣,丌(其)莫□…。」


子羔が孔子に問うた。「三人の王者がこの世に現れたのは、みな人の子としてです。(ならば)その父親は身分が低くて讃える価値が無いのではありませんか? あるいは、そもそも(王者は人の子ではなく)天の子と言うべきですか?
孔子が言った。「お前の問いはよろしい。…が無くなってずいぶん長くなった…。」(「上海博物館蔵戦国楚竹簡」子羔09)

子曰(シエツ)(し、いわく)

現存最古の論語本である定州竹簡論語は孔子の一度目の問いに「子曰由也果」とあり、二度目の「曰賜也達」の部分は欠損し、三度目の「曰求也藝」は「子」を記さない。要するに一度目の孔子の返答にしか「子」を記さない。

これに対し唐石経も同じで一度目の返答にしか「子」を記さないが、清家本は三度とも「子」を記す。清家本は年代こそ唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。しかし論語の本章の場合、さらに古い定州本が三度目の「子」を記さないことから、唐石経同様だった可能性が高い。これに従い、一度目のみ「子」があったとして校訂しなかった。

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

なお論語の本章での問い手である季康子は、孔子より一世代は下とは言え、身分は魯国筆頭家老家の当主であり、孔子より高い。これを反映して、論語では殿さまに問われたとき同様、孔子の回答は「孔子對曰」になる例が多い。これを「問い手を敬ったのである」とは論語の前章で朱子がのたもうたご託宣

「孔子對曰」と記すのは、主君を尊重するからである。(『論語集註』)

対して論語の本章のように、「(孔)子曰」と弟子相手のように記している場合もある。

これは帝政期以降に孔子と季康子の地位が逆転したことの反映で、つまり少なくとも帝政期以降にいじくられた文章であることを証している。

果(カ)

果 甲骨文 果 字解
(甲骨文)

論語の本章では”思い切りの良い”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は実った果実の象形で、上向きの所を見るといわゆるくだものではなく、草の実のたぐいか。原義は”み”。甲骨文では”果たして”の意、地名に用いた。金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「果」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”まあ”。「乎何有」で、”まあ、何の問題もありません”。ため息やほっとして出る息を示す。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

日本で発行された論語の訳本で、文法的に最も信用できる藤堂本では、この字を置き字として解釈していない。だからと言って他の文法をわきまえない自称「訳本」を参照しても意味が無い。困ったもんだ。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なにの…でしょうか”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

達(タツ)

達 甲骨文 達 字解
(甲骨文)

論語の本章では”有能な”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は↑+「止」”あし”で、歩いてその場にいたるさま。原義は”達する”。甲骨文では人名に用い、金文では”討伐”の意に用い、戦国の竹簡では”発達”を意味した。詳細は論語語釈「達」を参照。

藝(ゲイ)

芸 甲骨文 芸 字解
(甲骨文)

論語の本章では”技術に優れる”。この語義は春秋時代では確認できない。原字「埶」の初出は甲骨文。現行書体の初出は後漢の隷書。字形は人が苗を手に取る姿で、原義は”植える”。甲骨文では原義に、”設置する”に、金文でも原義に用いた。詳細は論語語釈「芸」を参照。

冉有は政才のみならず、武将としての能力も高かった。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、文字史的には論語の時代にまで遡れるが、おそらく論語公冶長篇7を元にした焼き直し。質問者を孟武伯→季康子に入れ替え、子華を子貢に取り替えたのみ。目的は論語の膨らましと、弟子の箔付け→その後裔である儒者の格上げだろう。だから誰も引用しない。

論語の本章の引用も再録も、先秦両漢の誰一人しておらず、事実上の初出は後漢末から南北朝にかけて編まれた古注。孔安国が注を付けているが、例によってこの男は高祖劉邦を避諱ヒキ(名前の文字をはばかって使わない)しないなど、実在が如何わしい。

古注『論語集解義疏』

…註苞氏曰果謂果敢決斷也…註孔安國曰達謂通於物理也…註孔安國曰藝謂多才能也

包咸 孔安国
注釈。包咸「果とは果敢に決断することを言う。」
注釈。孔安国「達とはもののことわりを心得ていることを言う。」
注釈。孔安国「芸とは技能を沢山持っていることを言う。」

孔子より一世代下の季康子と孔子が対面したとすれば、それは孔子が放浪の旅から帰国した晩年の事になる。上記の通り孔子出国前に対面はしたかも知れないが、部屋住みの季康子が「政治を任せられるか」と問うとは考えがたい。

BC 哀公 孔子 魯国 その他
488 7 64 衛・出公に仕える? 季康子、子貢を派遣して自分の出張を呉に撤回させる。邾を攻める。 呉、強大化し繒の会盟で無理な要求を魯に突きつける
487 8 65 斉と和睦 呉、邾の要請で魯を攻撃。斉、魯を攻め三邑を取る。邾、呉の力で復国
485 10 67 夫人の幵官氏死去。陳から衛に入る〔衛世家〕 子貢、呉から援軍を引き出す。呉と同盟して斉を攻める 斉・悼公、鮑牧に殺され簡公即位、田乞死去し田常継ぎ、魯を攻めんとして子貢諫止
484 11 68 衛を出て魯に戻る。
この時子路59歳、冉有39歳、子貢37歳。
弟子の冉求・樊遅、斉との戦に参陣(孔子帰国より前)。季康子に孔子の帰国を促す

孔子が帰国したとき、すでに冉求は季氏に仕えており、子路は隣国衛で領主になっていた。さらに子路は放浪前に、すでに季氏に仕えた事がある。また子貢も常雇いかは定かではないが、孔子の帰国前にすでに季氏に仕えている。

季桓子
となると、季康子が三人の政才を尋ねるという前提が怪しくなり、人材を求めての事ならなおさらになる。質問者が季康子ではなく先代の季桓子だったり、弟子の三人が別人だったのが、長い間に入れ替わったのかも知れない。それとも孔子帰国前の手紙のやりとりだろうか。

そう考えるには無理がある。論語の本章は、同じ言葉の繰り返しが多く、無駄な文字が多い。つまり筆記材料を多く必要とする。紙がまだ無い論語時代、筆記は戦前の電報のように、なるべく省略して短く書くのが通例。

これは筆記材料の竹札を作るのに手間がかかり、持ち運びや保管にも、重くかさばった事情を考慮するとその可能性がある。紙が発明されたのは、教科書的には後漢の時代と言われており、それ以前にもあっただろうが、普及するのはやはり後漢と考えられる。
竹簡

また上掲「也與」の語は、戦国時代にならないと見られない。以上から本章は前漢前半までに、時系列に無頓着な儒者がこしらえた焼き直しと断じてよい。

解説

新注もどうでもいい事しか言っていない。

新注『論語集注』

與,平聲。從政,謂為大夫。果,有決斷。達,通事理。藝,多才能。程子曰:「季康子問三子之才可以從政乎?夫子答以各有所長。非惟三子,人各有所長。能取其長,皆可用也。」

論語 朱子 新注 論語 程伊川
與の字は平らな調子で読む。従政とは、家老職に就けることを言う。果は、決断できることを言う。達は、もののことわりに通じていることを言う。芸とは、才能が多いことを言う。

程頤「季康子はお弟子三人に政治の才があるか尋ねた。孔子先生はそれぞれの長所を答えた。このお弟子三人に限らず、人にはそれぞれ得意なことがある。その得意な点を生かせるなら、誰でも使い道はある。」

新注は言っていることが程頤らしくない。この男は精神医学上の病人で、科挙に受かる前に皇帝に説教文を送りつけ、気味悪がられて不合格にされた。のちに気の毒に思った司馬光の推薦で一時朝廷に出仕するが、人を捕まえては説教ばかりしていたので嫌われ叩き出された。

ともあれ論語の本章を元ネタ公冶長篇と比較すると、「也」をどうやっても断定にしか読めず、形式文の繰り返しでもあり、捏造の可能性が極めて高い。

本章 公冶長篇
季康子問、 孟武伯問、
「仲由可使從政也與。」 「子路仁乎。」
子曰、「不知也。」又問、
子曰、「由也果、於從政乎何有。」 子曰、「由也、千乘之國、可使治其賦也。不知其仁也。」
曰、「賜也可使從政也與。」 「求也何如。」
曰、「賜也達、於從政乎何有。」 子曰、「求也、千室之邑、百乘之家、可使爲之宰也。不知其仁也。」
曰、「求也可使從政也與。」 「赤也何如。」
曰、「求也藝、於從政乎何有。」 子曰、「赤也、束帶立於朝、可使與賓客言也。不知其仁也。」

余話

男は脅す生物

吉川幸次郎
既存の論語本では吉川本によると、「使從政」を一役人として政治に従わせるという解釈と、政権を握らせるという解釈があるという。もし前者ならただの雑談か人材捜しだが、後者なら、いま権力を握っている若家老の季康子が、孔子の弟子に怯えていることになる。

それに対して孔子が、「彼らに政治なんてチョロいチョロい」と脅したことになる。そう考えると論語の本章が愉快にはなるが、『史記』孔子世家・弟子伝や、『春秋左氏伝』と整合しそうにない。

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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