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論語詳解134雍也篇第六(17)誰か能く出るに°

論語雍也篇(17)要約:やる気がない者ほど教え方が悪いと言い、教師や教材に文句をつけます。そして早道を探し回りますが、勉強も稽古も積み重ね、やるべき事をやらねば身に付きません。孔子先生はその事実を、弟子に諭したのでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰誰能出不由戸何莫由斯道也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰誰能出不由户者何莫由斯道也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)


→子曰、「誰能出不由戶者。何莫由斯道也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 誰 金文能 金文出 金文不 金文由 金文戶 金文者 諸 金文 何 金文莫 金文由 金文斯 金文道 金文也 金文

※論語の本章は、「誰」「由」「何」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、たれづるにものたるをあたはん。なんかかみち

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「誰か戸を通らないで出ることが出来る者になれるだろうか。どうしてこのような状況の道を通らないでいられるか。」

意訳

孔子 ぼんやり
要点や裏口ばかり聞きたがる弟子がいた。
孔子「あのな、誰でもドアから外に出るだろう。どうしてまともにやらないんだ。」

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「外に出るのに戸口を通らないものはない。然るに、どうして人々は、人間が世に出るのに必ず通らなければならないこの道を通ろうとしないだろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「誰能出門不走門,為什麽沒人走我這條路呢?」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「誰かドアを通らないで出られる者がいるか、なぜ人は私のこの道を通らないのか。」

論語:語釈

、「   。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

誰(スイ)

誰 金文 不明 字解
「誰」(金文)

論語の本章では”だれ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。字形は字形は「ケン」”小刀”+「𠙵」”くち”+「隹」だが由来と意味は不詳。春秋までの金文では”あお馬”の意で用い、戦国の金文では「隹」の字形で”だれ”を意味した。詳細は論語語釈「誰」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

出(シュツ/スイ)

出 金文 出 字解
(甲骨文)

論語の本章では”外に出る”。初出は甲骨文。「シュツ」の漢音は”出る”・”出す”を、「スイ」の音はもっぱら”出す”を意味する。呉音は同じく「スチ/スイ」。字形は「止」”あし”+「カン」”あな”で、穴から出るさま。原義は”出る”。論語の時代までに、”出る”・”出す”、人名の語義が確認できる。詳細は論語語釈「出」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

由(ユウ)

由 甲骨文 由 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…を通る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はともし火の象形。「油」の原字。ただし甲骨文に”やまい”の解釈例がある。春秋時代までは、地名・人名に用いられた。孔子の弟子、仲由子路はその例。また”~から”・”理由”の意が確認できる。”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡からという。詳細は論語語釈「由」を参照。

戶(コ)

戸 甲骨文 戸 字解
(甲骨文)

論語の本章では”扉”。新字体は「戸」。「と」は訓読み。初出は甲骨文。字形は片開きのドアの象形。原義は”とびら”。甲骨文では原義に、金文では氏族名に、戦国の竹簡では原義で用いた。詳細は論語語釈「戸」を参照。

既存の論語本では吉川本によると、裏座敷と表座敷の間にある、東南の扉で、中国の古代の母屋は以下のようになっているという。

者(シャ)

唐石経は第一句の句末を「戸」で終え、対して論語の本章に関して現存最古の古注本である清家本はその後ろに「者」を記す。唐開成二年(837)に完工した唐石経は、最古の古注完本である東洋文庫蔵清家本の筆写年である正和四年(1315)より古いが、唐朝廷の都合でそれまでの文字列を少なからず書き換えている。対して清家本は独自の改変が少なく、古い文字列を伝えていると言える。ゆえに清家本に従って「者」があるものとして改訂した。

論語の伝承について、詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”する者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

莫(ボ・バク)

莫 甲骨文 莫 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。漢音「ボ」で”暮れる”、「バク」で”無い”を示す。字形は「ボウ」”くさはら”+「日」で、平原に日が沈むさま。原義は”暮れる”。甲骨文では原義のほか地名に、金文では人名、”墓”・”ない”の意に、戦国の金文では原義のほか”ない”の意に、官職名に用いた。詳細は論語語釈「莫」を参照。

斯(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では、”この高い程度にある”。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
「道」(甲骨文・金文)

論語の本章では”正しいやり方”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。

学問とは積み重ねなのに、その積み重ねを嫌がって、すぐ金になる葬祭の式次第や、官吏登用の想定問答の解答を聞きたがる弟子を叱ったことば。

ただしその前提として、孔子は論語述而篇23で「二三子、我を以て隠せりとなすか、吾隠すことなし」(奥義を教えてくれないと言うのか、そうではないぞ)と言っている。情報の独占で初学者や世間を脅かしてお金を巻き上げるようなことはしなかった。

それを踏まえた上で孔子は、論語雍也篇21で「中人以上、可以語上也。中人以下、不可以語上也」(基礎も学ばないで、いきなり奥義を聞こうというのかお前は)と言った。それが孔子の学習論だった。

斯道

論語の本章では単に”この道”。これをシドウと読ませて、何かものすごい真理を含んだ含蓄ある言葉であると、ウンチクを垂れる者がいる。何ら根拠の無い口から出任せであり、真に受けるべきではない。こういう、何でもないことにもったいをつけて、無知な人を脅かして、結局は金をせびる行為を、儒教の世界では微言大義という。
微言大義 大漢和辞典 サーブ37ビゲン

孔子が自信を持って、自分の教説やカリキュラムを「斯道」と呼んだことは疑いない。ただそれは春秋時代でごく普通に聞かれる”このやり方全体”の意味に過ぎない。古代人には珍しく、神秘主義を嫌った孔子の言葉を、黒魔術のように読むのは、それこそ「斯道」から外れている。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで詠歎の意に用いている。「由也」のように「名前+也」では「や」と読んで主格の強調に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、前漢宣帝期埋蔵の定州竹簡論語には欠けているが、やや先行する前漢中期の儒者でいわゆる儒教の国教化を推進した董仲舒が、『春秋繁露』の中で引用している。春秋戦国での引用は無いが、文字史的に偽作を疑う理由が無く、本章は史実の孔子の発言と断じてよい。

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。

解説

重複を恐れず記せば、孔子塾とは庶民の弟子が入門し、孔子から貴族にふさわしい技能教養の教授を受けて、習得の後に仕官して貴族に成り上がる場だった。孔子の存命中、”クロスボウ”の実用化によって、貴族に独占されていた参戦権とそれに伴う参政権がゆらいでいた。

貴族でなくとも、庶民を徴収すれば強力な打撃部隊が出来たからだ。すると貴族は世間に対して、特権の理由を従軍だけで説明できなくなり、君子=貴族の価値も暴落した。その結果従来の身分秩序ではあり得ないような、下層民から身を起こして高位の貴族になる者が出た。

孔子はまさにその一人だった。だが同じ様な人物は、こんにち伝わらないだけで、他にも大勢いたに違いない。論語陽貨篇1で孔子と対談している陽虎は、孔子の先駆者でもあった。あるいは孔子のように、貴族成り上がり塾を開いた者もいたことだろう。

孔子が処刑してしまったと『史記』が伝える、少正卯もその一人だったろうし、論語公冶長篇23に見える微生高もそうだったろう。だが孔子は自分の教説こそ、理想の貴族にふさわしい技能教養であると言える自信があった。それが本章の言葉となって記録されたと思われる。

その意味で古注の注釈は当たっている。

古注『論語集解義疏』

…註孔安國曰言人之立身成功當由道譬由人出入要當從户也

孔安国
注釈。孔安国「人の立身出世は必ず正しい方法でかなう。例えば出入りするのに必ず扉を経るようなものである。」

前漢前半の孔安国が、実在が疑わしいことはいつもの通り。論語の本章の新注は、現代人が論語とどう向き合うべきか、その種を示している。

新注『論語集注』

言人不能出不由戶,何故乃不由此道邪?怪而歎之之辭。○洪氏曰:「人知出必由戶,而不知行必由道。非道遠人,人自遠爾。」

論語 朱子 新注 洪興祖
本章が何を言っているのかと言えば、人は扉を経ないで外に出ることが出来ないはずなのに、どうして余計な事を考えて(乃)、この方法に従わないのか、不思議に思い、また歎いた話である。

洪興祖「人は外に出るとき扉を経るのを当然知っている。それなのに正しい道に従うことを知らないのは、道が人から遠いからではない。人が自分から遠ざかっているのだ。」

新注儒者の言葉の無意味さと、彼らの素行の悪さは、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。上掲の洪興祖は論語の本章に言葉を付け足したようでいて、論語を読む者、儒教を学ぶ者への僅かな助けにもなっていない。要するに自分の官暦を盾に取り、自尊心を慰めているだけだ。

余話

半可な英語をペラペラと

そんな連中が現代日本にもなおいて、それが「斯道」を大げさに言う論語業者で、それは例えば夏目漱石の『三四郎』で小ばかにされている「広田先生」のたぐいだ。

「先生は東京がきたないとか、日本人が醜いとか言うが、洋行でもしたことがあるのか」

「なにするもんか。ああいう人なんだ。万事頭のほうが事実より発達しているんだからああなるんだね。その代り西洋は写真で研究している。パリの凱旋門がいせんもんだの、ロンドンの議事堂だの、たくさん持っている。あの写真で日本を律するんだからたまらない。きたないわけさ。それで自分の住んでる所は、いくらきたなくっても存外平気だから不思議だ」

「三等汽車へ乗っておったぞ」

「きたないきたないって不平を言やしないか」

「いやべつに不平も言わなかった」

「しかし先生は哲学者だね」

「学校で哲学でも教えているのか」

「いや学校じゃ英語だけしか受け持っていないがね、あの人間が、おのずから哲学にできあがっているからおもしろい」

「著述でもあるのか」

「何もない。時々論文を書く事はあるが、ちっとも反響がない。あれじゃだめだ。まるで世間が知らないんだからしようがない。先生、ぼくの事を丸行燈まるあんどんだと言ったが、夫子ふうし自身は偉大な暗闇だ」

「どうかして、世の中へ出たらよさそうなものだな」

「出たらよさそうなものだって、――先生、自分じゃなんにもやらない人だからね。第一ぼくがいなけりゃ三度の飯さえ食えない人なんだ」

三四郎はまさかといわぬばかりに笑い出した。

うそじゃない。気の毒なほどなんにもやらないんでね。なんでも、ぼくが下女に命じて、先生の気にいるように始末をつけるんだが――そんな瑣末さまつな事はとにかく、これから大いに活動して、先生を一つ大学教授にしてやろうと思う」

漱石は自分の過去をモデルにしたか、同僚にこのような者が居たのだろう。一説には岩元禎という実在人物だったともいわれる。ともあれその「先生」が、英語をさも高級な人間の話し言葉のようにもったいを付けている箇所がある。

「その脚本のなかに有名な句がある。Pity’sピチーズ akinアキン toツー loveラッブ という句だが……」それだけでまた哲学の煙をさかんに吹き出した。…

「少しむりですがね、こういうなどうでしょう。かあいそうだたほれたってことよ」

「いかん、いかん、下劣の極だ」と先生がたちまち苦い顔をした。

西洋に及ぼうと背伸びをして、帝国を自称した日本だが、そのコインの裏側は、このような劣等感に他ならない。「先生」は旧制一高(現・T大教養学部)の英語教師だが、自分で訳せないから三四郎にこう言われた。つまりは教師なのに英語がよく分かっていなかったのだ。

パリ リヨン駅

パリ・リヨン駅、090330

明治の昔は知らないし、経験者はご存じだろうが、ヨーロッパの都市は相当に汚い。たったタバコ1箱を求めて、パリの街をあちこちと、果てはスキンヘッドに入れ墨の連中がたむろしている地下街まで駆けずり回った事があるから断言できる。コロナの統計が裏付けてもいる。

パリのメトロは乗るたび異臭がした。欧米もさまざまで英米圏は比較的清潔だし、ついでに人種差別も少ない。王室と貴族を除いて自由主義の英国と、もとより自由主義の米国の、明るい半面がそこにある。役人が威張っているのに清潔なのは、日本とシンガポールぐらいだろう。

お互いに自由だから、不潔と思えば文句言わず自分で掃除するのである。「幼稚園がうるさい」と日本のDK世代が文句ばかり言うくせに公金は食い散らかす(論語述而篇19余話「せせら笑う漢文書き」)のは、連中の奉じるRed主義と相関性がある。「自分だけ自由」主義なのだ。

話を論語に戻そう。

知らないのを知るふりしているのは今なお「斯道」を振り回す論語業者も同様で、まともに漢文が読める者は居ない。誰かが読んだ漢籍の訳文を暗記しているだけで、未知の漢文を前にすると青菜に塩となるか、ハッタリで誤魔化すかのどちらかだ。真に受けるのはもうやめよう。

それは要らぬ中国崇拝を、すっかり抜き取り心を健康にすることにもなるのだから。

参考記事

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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