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論語詳解259先進篇第十一(6)季康子問う弟子*

論語先進篇(6)要約:後世の創作。加えて、論語雍也篇3と質問者を変えてまったく同じ。若家老「お弟子の中で、一番勉強が好きなのは誰ですか。」「顔回というものがいましたが、若くして死にました。今はもういません」と孔子先生。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

季康子問弟子孰爲好學孔子對曰有顔回者好學不幸短命死矣今也則亡

校訂

武内本

清家本により、學の下に不遷怒不貳過の六字を、亡の下に未聞好學者也の六字を補う。二句十二字諸本なし、此本(=清家本)蓋し雍也第三章によって補益する所、削るべし。

東洋文庫蔵清家本

季康子問弟子孰爲好學孔子對曰有顔回者好學不遷怒不貳過不幸短命死矣今也則亡未聞好學者也

  • 京大蔵清家本、宮内庁蔵清家本、京大蔵正平本二句あり。
  • 宮内庁蔵南宋本『論語注疏』二句なし。

定州竹簡論語

……短命死矣,今也a則b。」265

  1. 也、原脱漏、又補加於旁。
  2. 皇本、高麗本”亡”下有”未聞好學者”五字。

標点文

季康子問、「弟子孰爲好學。」孔子對曰、「有顏回者好學、不遷怒不貳過、不幸短命死矣。今也則亡。」

復元白文(論語時代での表記)

季 金文康 金文子 金文問 金文 弟 金文子 金文孰 金文為 金文好 金文学 學 金文 孔 金文子 金文対 金文曰 金文 有 金文顔 金文回 金文者 金文 好 金文学 學 金文 不 金文遷 金文不 金文貳 金文過 金文 不 金文幸短命 金文死 金文已 金文 今 金文也 金文則 金文亡 金文

※論語の本章は、「怒」「幸」「短」が論語の時代に存在しない。「問」「過」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

季康子きかうしふ、弟子ていしたれまなびこのむとす。孔子こうしこたへていはく、顔回がんくわいなるものあり、まなびこのめり。いかりうつあやまちふたたびせるも、さちならいのちみじかくしてたりいますなはし。

論語:現代日本語訳

逐語訳

季康子 孔子
季康子が問うた。「弟子では誰が学問を好むか。」孔子が答えて言った。「顔回という者がいました。学問を好みました。怒っても八つ当たりしませんでした。間違いは二度と繰り返しませんでした。不幸にも短命で死にました。今はもう居ません。」

意訳

同上

従来訳

下村湖人

大夫の季康子がたずねた。――
「お弟子のうちで、だれが学問の好きな人でしょう。」
先師がこたえられた。――
「顔囘というものがおりまして、学問が好きでございましたが、不幸にして若くて死にました。もうこの世にはおりません。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

季康子問:「您的學生中誰好學?」孔子答:「有個叫顏回的好學,不幸短命死了,現在沒有。」

中国哲学書電子化計画

〔若家老の〕季康子が問うた。「あなたのお弟子の中で学問を好む者は?」孔子が答えた、「顔回という者がおりまして学問を好みました。不幸にも短命で死にました。今はもういません。」

論語:語釈

、「 。」 、「       、           。」


季康子(キコウシ)

?-BC468。別名、季孫肥。魯国の門閥家老「三桓」の筆頭、季氏の当主、魯国正卿。BC492に父・季桓子(季孫斯)の跡を継いで当主となる。この時孔子59歳。孔子を魯国に呼び戻し、その弟子、子貢冉有を用いて国政に当たった。

季 甲骨文
「季」(甲骨文)

「季」は”末っ子”を意味する。初出は甲骨文。魯の第15代桓公の子に生まれた慶父・叔牙・季友は、長兄の第16代荘公の重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏にそれぞれ分かれた。辞書的には論語語釈「季」を参照。

康 甲骨文
「康」(甲骨文)

「康」の初出は甲骨文。春秋時代以前では、人名または”(時間が)永い”のいで用いられた。辞書的には論語語釈「康」を参照。

子 甲骨文
「子」(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。赤子の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いられた。辞書的には論語語釈「子」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

弟子(テイシ)

論語の本章では”(孔子の)弟子”。「デシ」は慣用音。「弟」が”若い”を、「子」が”学ぶ者”を意味する。現代日本での学生生徒児童は敬称ではないが、論語の時代、学問に関わる者は尊敬の対象であり、軽い敬意を世間から受けた。

孔子が”孔先生”の意であり、弟子の子貢は”お弟子の貢さん”の意。孔子が弟子に呼びかける「君子」は”諸君”と訳して良いが、もとは「諸君子」の略であり、「君子」とは論語の時代、すなわち貴族を意味する。また孔子やその他の者が孔子の弟子連を「二三子」と呼ぶ場合があるが、これも「二三人の君子」の意で、軽い敬意がこもっている。

また後世の「諸子」は、これも「諸君子」の略であり、目下の若者に使う言葉ではあるが、軽い敬意がこもっている。

弟 甲骨文 論語 戈
「弟」(甲骨文)

「弟」の初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形はカマ状のほこ=「」のかねを木の柄にひもで結びつけるさまで、靴紐を編むのには順序があるように、「戈」を柄に取り付けるには紐を順序よく巻いていくので、順番→兄弟の意になった。甲骨文・金文では兄弟の”おとうと”の意に用いた。詳細は論語語釈「弟」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

孰(シュク)

孰 金文 孰 字解
(金文)

論語の本章では”いずれ”→”誰が”。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”作る”→”…であると見なす”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

好(コウ)

好 甲骨文 好 字解
(甲骨文)

論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。

學(カク)

学 甲骨文 学
(甲骨文)

論語の本章では”学び”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。

孔子(コウシ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。

論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もおそらくその一つ。詳細は論語先進篇11語釈を参照。

孔 金文 孔 字解
(金文)

「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「イン」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。

對(タイ)

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

顏回(ガンカイ)

孔子の弟子、孔門十哲の一人、顔回子淵。詳細は論語の人物:顔回を参照。

顔 金文 顔 字解
「顏」(金文)

「顏」の初出は西周中期の金文。新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。

亘 回 甲骨文 回 字解
「回」(甲骨文)

「回」の初出は甲骨文。ただし「セン」と未分化。現行字体の初出は西周早期の金文。字形は渦巻きの象形で、原義は”まわる”。詳細は論語語釈「回」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”(…という)者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

遷(セン)

遷 金文 遷 字解
(金文)

論語の本章では”移す・(怒りを無関係の人に)八つ当たりする”。『大漢和辞典』の第一義は”移る・移す”。初出は西周早期の金文。字形は「⺽」”両手”+「囟」”鳥の巣”+「廾」”両手”+「口」二つだが、あとは字の摩耗が激しく全てを判読できない。おそらく鳥の巣を複数人で大事に移すさまで、原義は”移す”。金文では”移す”を意味した。詳細は論語語釈「遷」を参照。

怒(ド)

怒 楚系戦国文字 怒 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”怒り”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。「ヌ」は呉音。初出の字形は「女」+「心」で、「奴」は音符。原義は”怒る”。『大漢和辞典』で音ド/ヌ訓いかるは他に存在しない。同音に奴とそれを部品とする漢字群。そのいずれにも、”いかる”の語意は無い。詳細は論語語釈「怒」を参照。

貳(ジ)

貳 金文 貳 字解
(金文)

論語の本章では”再度する”。初出は西周末期の金文。新字体は「弐」。「ニ」は呉音。字形は「戈」+「二」+「貝」”財貨”で、字形の解釈は未詳。原義は”二”。金文では”二”の意に、戦国の金文では”ふたごころ”の意に用いた。詳細は論語語釈「貳」を参照。

過(カ)

過 金文 過 字解
(金文)

論語の本章では”間違い”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。

不遷怒不貳過

唐以降の中国伝承本はこの句を欠き、日本伝承本は記す。ただし武内博士による懐徳堂本は省いているが、校勘記には何も記されていない。理由は上掲武内本通り「蓋し雍也第三章によって補益する所」と判断したからだろう。定州竹簡論語では欠損部分で、なかった証拠が無い。

清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝承しており、唐石経を訂正しうる。ゆえにこの句をあったものとして解した。武内本の言う「削るべし」には従わない。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
中国 定州竹簡論語 (欠損) (欠損) …短命死矣
唐石経 有顏回者好學 (なし) 不幸短命死矣
南宋本『論語注疏』
四庫全書本『論語集解義疏』
日本 清家本 不遷怒不貳過
正平本
懐徳堂本 (なし)

なおほぼ同文の論語雍也篇3定州竹簡論語では「…過」とあり、雍也篇ではこの句があった証拠になる。

幸(コウ)

幸 金文 幸 字解
(戦国末期金文)

論語の本章では”さいわい”。事実上の初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。戦国の金文から「十」字形+「羊」の字形が見え、”さいわい”の意は戦国時代より始まると思われる。『大漢和辞典』で音コウ訓さいわいに「穀」があり、初出は西周早期の金文だが、上古音が違いすぎる上に、”さいわい”の語義は文献時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「幸」を参照。

短(タン)

短 秦系戦国文字 短 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”短い”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に「耑」とそれを部品とする漢字群、「鍛」・「斷」(断)など。字形は「矢」+「豆」で、「豆」に”まめ”の意は文献時代にならないと見られない。原義は”みじかい”・”小さい”と思われるが、字形から語義を導くのは困難。詳細は論語語釈「短」を参照。

命(メイ)

令 甲骨文 令字解
「令」(甲骨文)

論語の本章では”生涯”。初出は甲骨文。ただし「令」と未分化。現行字体の初出は西周末期の金文。「令」の字形は「亼」”呼び集める”+「卩」”ひざまずいた人”で、下僕を集めるさま。「命」では「口」が加わり、集めた下僕に命令するさま。原義は”命じる”・”命令”。金文で原義、”任命”、”褒美”、”寿命”、官職名、地名の用例がある。詳細は論語語釈「命」を参照。

死(シ)

死 甲骨文 死 字解
(甲骨文)

論語の本章では”死亡”。字形は「𣦵ガツ」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”…てしまった”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

今(キン)

今 甲骨文 今 字解
(甲骨文)

論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「シュウ」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味した。詳細は論語語釈「今」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで主格の強調に用いている。断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”つまり”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

亡(ボウ)

亡 甲骨文 亡 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見えない”→”いない”。初出は甲骨文。「モウ」は呉音。字形は「人」+「丨」”築地塀”で、人の視界を隔てて見えなくさせたさま。原義は”(見え)ない”。甲骨文では原義で、春秋までの金文では”忘れる”、人名に、戦国の金文では原義・”滅亡”の意に用いた。詳細は論語語釈「亡」を参照。

未聞好學者也

中国伝承の本には欠くが、ただし清代に日本から逆輸入した四庫全書本『論語集解義疏』は記す。日本伝承本は共に記す。武内博士による懐徳堂本の校勘記には何も記されていない。ただし現存最古の定州竹簡論語では前句の終端に終了記号が確認されており、この句が無かった証拠になる。

上掲「不遷怒不貳過」の句と異なり、現存最古の論語本である定州竹簡論語に「なかった」証拠があるからには、清家本にあろうともこの句はなかったと判断すべき。

中国 定州竹簡論語 今也則亡 (なし)
唐石経
南宋本『論語注疏』
四庫全書本『論語集解義疏』 未聞好學者也
日本 清家本
正平本
懐徳堂本

なおほぼ同文の論語雍也篇3定州竹簡論語では「未聞好學者也」とあり、雍也篇にはこの句があった証拠がある。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語にあり、それよりやや先行する『史記』弟子伝に論語雍也篇3と同じく哀公との対話として載る。それ以外に先秦両漢の誰一人引用も再録もしていない。文字史的に論語の時代に遡れないことから、前漢儒の創作とみてよい。

解説

論語の本章が論語雍也篇3と、質問者を変えただけの焼き直しであるのは明らかだが、雍也篇では顔淵ばなしが唐突に現れるのに対して、本章は先進篇で一連の顔淵死去ばなしを伝える冒頭にある。

顔回
顔淵の死去は魯哀公十四年(BC481)とされ、孔子は71歳だったとされる。

BC 魯哀公 孔子 魯国 その他
482 13 70 息子の鯉、死去 呉王夫差、黄池に諸侯を集めて晋・定公と覇者の座を争う。晋・趙鞅、呉を長と認定(晋世家)。呉は本国を越軍に攻められ、大敗
481 14 71 斉を攻めよと哀公に進言、容れられず。弟子の顔回死去。弟子の司馬牛、宋を出奔して斉>呉を放浪したあげく、魯で変死 孟懿子死去。麒麟が捕らわれる 斉・簡公、陳成子(田常)によって徐州で殺され、平公即位。宋・桓魋、反乱を起こして曹>衛>斉に亡命
480 15 72 弟子の子路死去 子服景伯と子貢を斉に遣使 斉、魯に土地を返還、田常、宰相となる。衛、出公亡命して蒯聵=荘公即位。
479 16 73 死去。西暦推定日付3/4。曲阜城北の泗水シスイ河畔に葬られる ギリシア、プラタイアの戦い

前年には孔子の後ろ盾だった呉国が没落を始め、おそらく孔子は即座に閑職に追いやられて、息子の葬儀費用にも事欠く有様を記された(論語先進篇7)。もちろん追いやったのは、殿様の哀公と言うより、実権を握っていた論語本章の対話者・季康子である。

そして無位無冠だった顔回の葬儀も父親の顔路が費用に事欠き、孔子に援助を願い出たが、孔子は手元不如意ゆえに、上記論語先進篇7で断っている。「実の親のように見てくれた顔回を、子のように見てやれなかった」と孔子は痛恨の言葉を残している(論語先進篇10)。

従って論語の本章が仮に史実とするなら、穏やかな対話話ではなく、季康子への恨み言と解釈すべきだろう。「不幸、命を縮(しじ)めて」とは、孔子の悔しさが混じった言葉に聞こえる。”お前さんが私を左遷しなければ、顔回は死ななくて済んだのだ!”と。

論語の本章、新古の注は次の通り。古注は前章と一体化しているが、本章部分のみ記す。なお古注の本章部分は付け足し「疏」のみあって「注」が無い。

古注『論語集解義疏』

季康子問弟子孰為好學孔子對曰有顔囘者好學不幸短命死矣今也則亡未聞好學者疏季康子至學者 孫綽曰不應生而生為幸不應死而死曰不幸侃謂此與哀公問同而荅異者舊有二通一云緣哀公有遷怒貳過之事故孔子因荅以箴之也康子無此事故不煩言也又一云哀公是君之尊故須具荅而康子是臣為卑故略以相酬也故江熙曰此與哀公問同哀公雖無以賞要以極對至於康子則可量其所及而答也


本文「季康子問弟子孰為好學孔子對曰有顔囘者好學不幸短命死矣今也則亡未聞好學者」。付け足し。季康子が学ぶ者の極致を問うた。

孫綽「生きていてもしょうがない穀潰しが生きているのを幸運といい、死んではならない人が死んでしまったのを不幸という。」

注釈者の皇侃は、同じ質問を論語雍也篇3で哀公がしていると記し、ただし孔子の答えが違うと言う。元ネタは二通りあり、一つは哀公が他人に八つ当たりし同じ間違いを繰り返すため、孔子が顔淵の例を出して説教したというもの。だが季康子にはこういう欠点が無かったので、孔子はうるさいことを言わなかった。また一つは、哀公は主君だからその問いには詳しく答えたが、季康子は家臣という意味では同格だから、質問にはおおざっぱに答えたという。

江熙「本章は哀公の質問と同じだが、孔子は哀公には取り柄がないからと期待せず、話の極端まで言った。季康子に対しては、その人格に応じて答えた。」

新注『論語集注』

季康子問:「弟子孰為好學?」孔子對曰:「有顏回者好學,不幸短命死矣!今也則亡。」好,去聲。范氏曰:「哀公、康子問同而對有詳略者,臣之告君,不可不盡。若康子者,必待其能問乃告之,此教誨之道也。」


本文「季康子問:弟子孰為好學?孔子對曰:有顏回者好學,不幸短命死矣!今也則亡。」
好の字は尻下がりに読む。

范祖禹「哀公と季康子は同じ問いをしたのに、孔子の答えには量の増減がある。家臣として質問に答えるには、すっかり言い尽くしてしまわねばならないが、季康子のような者には、その能に応じてこたえてやる。これが教育の法というものだ。」

余話

正直爺さん

お祭りなんだからのんびり歩くんだぞ

論語の本章と論語雍也篇3の重出は上記の通りだが、儒者が個人的感想を書き連ねているように、どちらが元ネタなのかを好事家は知りたがる。どちらもしょせんニセモノで、現代の論語読者にとってはどうでもいい事ではあるが、ささいを大げさに言って食ったのが儒者だった。

論語の本章が一連の顔淵死去ばなしの冒頭に置かれていることから、編者が意図的にここへ本章を配置したのは明らかで、対して論語雍也篇では前後の章とのつながりが無いが、だからといってどちらが元ネタかを示すわけではない。情報は決定的に失われているわけだ。

ブラックホールの周囲には、そこよりブラックホールに近づくと光ですら戻れなくなる境界線があり、ブラックホールの重心からその領域までの長さを、シュワルツシルト半径という。黒い盾シュワルツシルト*の外へは、物質はもちろん情報も全く出てこないから、因果関係が成立しない。

論語の本章の元ネタ論議も同様で、古代に戻る法が無い以上、どちらが元かは分からない。論語のような古典を研究する場合、周辺の情報を集めて「どうやらこういうことが言えそうだ」と古い姿の修復を言おうとすれば言えるが、それでも言う者の個人的感想を排除できない。

破損した情報の修復は、修復者が感情を持つ人間でなくとも自然界にある。遺伝子がAGCTの4つのデジタルで記述されていると高校の生物で習った。今はその修復まで教えるらしい。遺伝子は放射線の攻撃などが無くても、酸素呼吸するからには必ず活性酸素にやられて壊れる。

その頻度は1つの細胞につき1日5万~50万回に及ぶとwikiが言う。従って壊れた情報の修復機構が備わっているわけだが、DNAの配列には繰り返し部分があり、それが多すぎると機構が間違えて修復し損なったりするらしい。とりわけ人間の遺伝子には繰り返しが多いという。

おおかたの日本人なら、「正直じいさんポチ連れて、裏の畑を掘ったれば」と聞けば、「大判小判がざっくざく」と歌を続けることが出来るが、おおかたの中国人にとってはそうでない。似たような繰り返しがあると、そのあとを間違えて修復してしまうのは無理も無いことだ。

し損なった復元は程度がひどいと「もうどうにもならん」と細胞を死なせる機能もあり、正常を保つ「切り札」であるらしい。論語の本章に話を戻せば、情報が決定的に失われ、しかも繰り返しであることから、本章そのものを放り投げて無かったことにするのに例えうる。

そうしてしまっていいように思うが、それでは数理的には最適解でも、人文的には論語の研究にならない。本章から続く一連の顔淵ばなしは、半ばはうさんくさい作り話だが、とりわけ本章は明らかなニセモノの証拠がある。

論語の原型は、おそらく弟子それぞれがメモし、その派閥に伝承された雑多な記録をとりまとめたはずだから、ある章が前後の章とつながりが無い方が原形に近いと思われる(これが人文と不可分の個人的感想)。すると雍也篇が元で、本章は取って付けたのが真相ではあるまいか。

なおもしブラックホールに突入する者を、外から見る人間が見るなら、突入した者はどんどん暗く赤くなっていき、シュワルツシルトの直前で静止し、永遠に静止したまま見えるという。つまり突入者が突入したかどうかも分からないまま、存在だけがあるようにずっと見える。

見える→物理現実の現象で、突入者の像は実在する。像→光はエネルギーの振る舞いの一種で、エネルギーと物質は方程式で=に出来るから、突入者は観察者のいる宇宙の実存には違いない。だが観察者がいなければ、実在を確認する者がいない。無かったことになってしまう。

古代ローマ人は重刑の一種として、その者の一切の記録を消した。「そんなん平気だ」と現代人は思うだろうか。戸籍を失い、住所不定で名も分からない生き物になってしまう。人間であると証す書類も無いから人権も無い。理屈を言えば殺されても犯罪にされない。

カール5世がルターに下した刑罰もこれだった。ザクセン侯が保護してくれなければ、生き永らえ得たとは思えない。今も情報リストから外すことで、無かったことにされてしまう処分が横行している。力なき者は力ある者が書いたリスト次第で、一喜一憂を余儀なくされる。

俯瞰すれば馬鹿馬鹿しいことだが、時に生死を決めている。恐ろしいことだ。中国人が古来、死後をも無名を嫌がるのは、何か人間の根源にまとわりついた忌まわしい記憶がそうさせるのかも知れない。だから概して中国人は騒がしいし、軍事パレードのようなハッタリも好む。

パレードがキリリとした軍隊は実戦に弱いが、中国人民には知ったことではない。


*シュワルツシルトは提唱した天文学者の名。

『論語』先進篇:現代語訳・書き下し・原文
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