論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
樊遲問知。子曰、「務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣。」問仁。*曰、「仁者先難而後獲、可謂仁矣。」
校訂
武内本
清家本により、曰の前に子の字を補う。
定州竹簡論語
樊遲問智。子曰:「務民之義,敬鬼a而遠之,可謂智b矣。」129
- 今本「鬼」下有「神」字。
- 智、今本作「知」。
→樊遲問智。子曰、「務民之義、敬鬼而遠之、可謂智矣。」問仁。曰、「仁者先難而後獲、可謂仁矣。」
復元白文
※矣→已・仁・獲→(甲骨文)
書き下し
樊遲知を問ふ。子曰く、民之義きことを務め、鬼を敬い而之を遠ざくるを、知と謂ふ可き矣。仁を問ふ。曰く、仁者は難きを先に而て獲るを後にす、仁と謂ふ可き矣と。
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逐語訳
樊遅が知を問うた。先生が言った。「民が正しいとすることの実現に務め、亡霊を敬いつつ遠ざける。これを知と言っていい。」仁を問うた。先生が言った。「仁者は難しい仕事を先に行って報酬を後で受け取る。これを仁と言っていい。」
意訳
ボディーガード樊遅「知って何です?」
孔子「治水のような民が望む政策推進に励み、妖怪話は敬う振りして真に受けないことだな。」
樊遅「仁って何です?」
孔子「貴族が難しい仕事を終えた後で、自分の報酬を受け取ることだな。それでこそ立派なサムライだ。」
従来訳
樊遅が「知」について先師の教えを乞うた。先師がこたえられた。――
「ひたすら現実社会の人倫の道に精進して、超自然界の霊は敬して遠ざける、それを知というのだ。」
樊遅はさらに「仁」について教えを乞うた。先師がこたえられた。――
「仁者は労苦を先にして利得を後にする。仁とはそういうものなのだ。」
現代中国での解釈例
樊遲問智,孔子說:「做事順應民心,尊重宗教卻遠離宗教,就算明智了。」又問仁,答:「吃苦在前、享受在後,就算仁了。」
樊遅が智を問うた。孔子が言った。「民の心にかなったことを行い、宗教を重んじつつ遠ざければ、つまり明智と言って良い。」また仁を問うた。答えた。「目前の苦労を味わい、収穫をその後で受け取れば、つまり仁と言って良い。」
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樊遲(遅)(ハンチ)
(金文)
孔子の最も若き弟子の一人で二代目身辺警護役。詳細は論語の人物:樊須子遅を参照。
義
(金文)
”正しい原則”と解しておくと、論語ではたいてい間に合う。詳細は論語語釈「義」を参照。論語での「民」とは、為政者としていたわってやる対象であるだけでなく、ひとたび怒らせれば一揆を起こして、君子=為政者層を皆殺しにかかる恐ろしい生き物でもあった。
鬼神
(金文)
論語ではオニのような恐ろしい神「きじん」ではなく、「鬼」は”亡霊・死霊”、「神」は”地祇=山川草木あらゆる所に宿るそれぞれの神霊・精霊”。なお最高神たる天の神は「帝」。のち人間界の”皇帝”を意味するようになった。
「皇」は”きらぎらしく輝く天の神”。二つ合わせて人間界の最高君主「皇帝」としたのが、有名な始皇帝。
仁
(金文大篆)
一般に論語における最高の人徳とされるが、孔子の生前では、道徳的な意味は全くない。単に弟子が目指すべき”貴族(らしさ)”。説教臭い意味が付け加わったのは、孔子没後から一世紀のちに現れた孟子からである。詳細は論語における「仁」を参照。
獲
論語の本章では”得る”。この文字の金文は戦国期のものしか見つかっていないが、甲骨文より存在する。詳細は論語語釈「獲」を参照。
論語:解説・付記
子路アニキと並んで論語二大筋肉ダルマでおバカ扱いの、樊遅くん質問の章。孔子は同時代の賢者ブッダと同じく、質問者によって教え方を変える「応病与薬」な答え方をしていた。ただし樊遅くんは決してバカではなく、根は非常に素直だったので、孔子としても教え甲斐があったと思われる。
樊遅は孔子より40~50ほど年下とされるから、孔子が放浪に出た頃はまだ生まれたばかりで、入門したのは孔子の帰国後だろう。その直前、魯国に斉軍が押し寄せたときに(BC484)、魯軍の半分を率いた孔子の弟子、冉有と共に出陣した。恐らく元服間もない少年兵である。
樊遅は冉有の乗る戦車に同乗し、言わば護衛を務めようとしたのだが、魯国宰相の季康子に「この坊やでは、まだ無理なんじゃないか」と危ぶまれている。戦車の搭乗員だったことから、そこそこの家の出だと思われるが、戦を経て、貴族とはなんだろう、と思ったのだろう。
そしておそらく、戦で親しくなった冉有に誘われて、孔子に弟子入りしたのだろう。孔子は樊遅に御者を務めさせるなど、そば近く置いて可愛がった。本章はそんな折の師弟の問答を、こんにちに伝えるものである。
吉川本によると「民之義」とは、古注では「人民を感化教導するについての道理」、新注では「漠然と人間の道理」を意味するという。しかし孔子が言ったのはそういう高尚ぶったことではなく、「民間のニーズ」ということに過ぎない。
孔子が初めて部署の長として公務に就いたのは、孟孫子の下役としての司空(土木監督官兼判事)であり、後世の儒者たちのように実務には全く携わらず、偉そうに古注新注のようなことを言って済ませられる仕事ではなかった。民間のニーズ無くして成り立たない職である。
また吉川本には、「孔子は鬼神の存在を否定する無神論者ではなかった。しかし神よりも先ず人を、と考える合理主義者」という。その通りだろうが、「黄帝は三百年も生きたと言いますが、そりゃ人ですか?」と真正面から疑問を抱く宰我のような徹底は孔子になかった。
孔子の教えを徹底すると、こうしたいわば過激派が出てしまうわけで、この点は無常・非我の教えを徹底したあまり、弟子から自殺者が出てしまった同時代の賢者・ブッダと共に、師匠としては頭の痛い所だろう。両賢者共に、中庸(論語雍也篇29)を説くのももっともである。
コメント
[…] 「子は怪力乱神を語らず」と論語述而篇に言う。「鬼神を敬して遠ざく」と論語雍也篇に言う。孔子の回復を神頼みする子路を、論語述而篇ではたしなめた。「神に仕える法など知らん」と論語先進篇では突き放した。孔子は、その目に神が見える人ではなかったのだ。 […]
[…] 論語雍也篇22 […]