論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰回也非助我者也於吾言無所不說
- 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰回也非助我者也於吾言無所不說
- 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「回[也非助我者也,於]吾言無所不說。」263
標点文
子曰、「回也、非助我者也。於吾言、無所不說。」
復元白文(論語時代での表記)
※助→疋・說→兌。論語の本章は、「者」「也」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、回也我を助くる者に非ざる也。吾が言於說ば不る所無し。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「顔回は私の知識を増やす者ではない。私の話を聞いて喜ばないということがない。」
意訳
あー、これこれ顔回や。ちっとは私の仁や礼に批評でも加えてくれんかね。なに? ございません? んーまー、ありがたくはあるが、その何だ、付き合いもお父上の頃から長いのだし、私の欠点も目にしてるだろう。なに? ございません? 困ったねこりゃ。
従来訳
先師がいわれた。――
「囘はいっこう私を啓発してはくれない。私のいうことは、何の疑問もなく、すぐのみこんでしまうのだから。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「顏回對我沒幫助,我所說的一切他都洗耳恭聽。」
孔子が言った。「顔回は私に対して何の助けにもならない。私が説教した一切を、彼は全て耳を澄ませて恭しく聞く。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
回(カイ)
「亘」(甲骨文)
論語の本章では、孔子の弟子、顔回子淵のこと。「回」はいみ名であり、本章では目上の孔子ゆえに呼び捨てにしている。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。「回」の初出は甲骨文。ただし「亘」と未分化。現行字体の初出は西周早期の金文。字形は渦巻きの象形で、原義は”まわる”。詳細は論語語釈「回」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章、「回也」では、”…こそは”。主格の強調。「者也」では”である”。「なり」と読む断定。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
「非助我者也」については武内本は、「也は邪と同じ。非の上豈の字をそえて読むべし」という。すると「回や豈我を助くる者に非ざらん邪」(顔回がどうして私の助けにならないことがあろうか、いやとんでもない)と読解できる。だがひいきの引き倒しと思う。
古典の原文に犬とあったらイヌ、猫とあったらネコと解すべきで、後世の価値観を古典に押し付けるのは、古来中国人がやらかし現在までに及んでいる、身勝手なご都合主義に自分まで加わることになる。どうしても意味が通じない場合に限って、古典の原文を疑うべきだ。
非(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。
助*(ソ)
(秦系戦国文字)/「疋」(金文)
論語の本章では”補助する”。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。甲骨文・金文も比定されているが、字形が違いすぎる。字形は「且」”盛り上げる”+「力」。積み増すさま。同音は「鋤」「耡」「鉏」(三つとも農具のスキ)。「ジョ」は呉音。戦国最末期「睡虎地秦簡」に見え、”補助する”と解せる。論語時代の置換候補は「疋」。「足」と同根の字で、同様に”足す”の語義がある。詳細は論語語釈「助」を参照。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし(の家)”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~である者”。この語義は春秋時代では確認できない。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~を”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”ことば”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”…する事柄”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
說(エツ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”喜ぶ”。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。原義は”言葉で解き明かす”こと。戦国時代の用例に、すでに”喜ぶ”がある。論語時代の置換候補は部品の「兌」で、原義は”笑う”。詳細は論語語釈「説」を参照。
人名としては著名な歴史人物に、中行説(チュウコウ・エツ)という前漢時代の宦官がいる。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に含まれ、文字史上は全て論語の時代に遡れる。だが春秋戦国を含め先秦両漢の引用・再録は、後漢末期の徐幹『中論』まで下る。
故曰:『回也非助我者也,於吾言無所不說。』(『中論』智行)
その後の引用も、南北朝時代に編まれた『後漢書』に和帝の詔書として「蝗蟲之異,殆不虛生,萬方有罪,在予一人,而言事者專咎自下,非助我者也。」が見えるのみ。おそらくこちらは論語の引用ではない。
内容的には、論語の中で指折りに愚劣な偽作である、論語子罕篇11「顔淵喟然として」の焼き直しで、顔淵をコレデモカと褒めちぎる、至ってうさんくさいゴマすりに過ぎず、『公羊顔氏記』をこしらえて顔淵の神格化に熱心だった、董仲舒の作文である疑いが極めて強い。文字史的に春秋に遡れたのはただの偶然で、訳者は董仲舒による偽作と断定したい。
だがそれでは科学にならない。物証に基づき、とりあえず史実の孔子の発言として扱う。
解説
戦国時代の孟子は顔淵を「回」と呼び捨てにしている。荀子は「顔淵」”顔淵さん”と一般的な敬称で呼んだだけで、「顔子」”顔回先生”と孔子に次ぐような神格化は行っていない。
『漢書』芸文志は、前漢の時代『公羊顔氏記』なる書物が十一篇あったという。公羊とは春秋時代の史書『春秋』の注釈者の一つ、『春秋公羊伝』を指すが、誰が書いたかははっきりしない。ただし史上初めて言い回ったのが、前漢の董仲舒だったことは史料上明らかだ。
…故漢興至于五世之閒,唯董仲舒名為明於春秋,其傳公羊氏也。(『史記』儒林伝)
…そういうわけで、漢帝国建国から五代の皇帝の閒、董仲舒だけが『春秋』を明らかに読むことが出来た。その読み方は、公羊氏の学問を受け継いだのである。
董仲舒とは、いわゆる前漢代の儒教の国教化を提唱した儒者で、言わば当時の儒学界のボスの一人である。政治的には必ずしも他の儒者官僚を従えてはいなかったが、後世に与えた影響は甚大で、いわゆる現伝の儒教経典の多くが、一旦董仲舒の手を経ているとみてよい。
ゆえに『公羊顔氏記』なる書物も、董仲舒の手に成るとみるのが妥当だろう。現に芸文志には、公羊伝の思想で司法を述べた董仲舒の書、『公羊董仲舒治獄』十六篇の直前に記されている。そして『公羊顔氏記』以外、顔氏にかかわるとみられる書物は『漢書』芸文志に無い。
董仲舒については、論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。その董仲舒が顔淵をどのように神格化したかは、役人が互いに陰口を言い足を引っ張り合い、あわよくば刑殺してしまおうとしのぎを削った武帝時代の、時代精神をよく反映している。
顏淵死,子曰:「天喪予。」子路死,子曰:「天祝予。」西狩獲麟,曰:「吾道窮,吾道窮。」三年,身隨而卒。天命成敗,聖人知之,有所不能救,命矣夫。
顔淵が死んで、孔子先生は「天が私を滅ぼした」と言った。子路が死んで、先生は「天が私を”祝”した」と言った。西の郊外でメスの麒麟が捕らえられ、言った。「もうおしまいだ。私の道は行き詰まった。」その三年後、その通りに体が衰えて世を去った。天の定めが滅亡を決めたのだから、聖人がそれを知っても、こればかりは救いようが無い。そういう運命なのである。(『春秋繁露』隨本消息)
漢代の漢語で「祝」は、子路の死で天が孔子を”呪った”とも読めるし、”祝った”とも読める。当時口車回しの代表が東で董仲舒なら、西はキケロだが、キケロは後の初代皇帝となるオクタヴィアヌスを「誉むべき若者」と言った。ラテン語では「殺すべき若者」をも意味するらしい。
キケロの口からそう出たら、どう解するべきかローマ市民なら「誰でも知っていた」とモンタネッリは書いた(『ローマの歴史』)。漢文読みとしては”祝った”と解するべきで、凡百の愚儒同様に董仲舒も、子路をおとしめ、それで顔淵の偉さを引き立てたのである。
ただ『公羊顔氏記』は現在では失伝しているし、他の書籍に引用された部分も、見つけることが出来ない。中国哲学書電子化計画の「先秦両漢」「漢代之後」のどちらで引いても、「顏氏記」「顏記」では結果は0。つまりシュワルツシルト半径の向こう側に消え去った。
- 論語先進篇6余話「正直爺さん」
それらは現代人には物理学上の現象同様、シュワルツシルト半径上に永遠に貼り付いたように見える後ろ姿=書名が分かるだけ。だがこうは言える。もし顔回の神格化を言い始めた儒者がいたなら、それは董仲舒以外に証拠が無い。そして董仲舒は、前漢儒教の大立て者だった。
次に学界のボスが言い出したことは、事実の如何を問わず、その当時の常識となる。森鴎外というトーダイ出のクズな軍医総監のせいで、大勢の日本兵や国民が壊血病でバタバタ死に、反対論が出るたび、鴎外は威嚇して黙らせた。黙らなかったのは武装していた海軍だけである。
このでんで行くなら、顔淵の神格化は董仲舒に始まり、いわゆる儒教の国教化と共に進展した。一つの証拠が顔淵の称号で、「顔子」=顔回先生という呼び方は、『孟子』に三例あるのを除き、全て後漢以降になる。『孟子』該当部分は以前も引用したが再度記す。
禹、稷當平世,三過其門而不入,孔子賢之。顏子當亂世,居於陋巷。一簞食,一瓢飲。人不堪其憂,顏子不改其樂,孔子賢之。孟子曰:「禹、稷、顏回同道。禹思天下有溺者,由己溺之也;稷思天下有飢者,由己飢之也,是以如是其急也。禹、稷、顏子易地則皆然。今有同室之人鬬者,救之,雖被髮纓冠而救之,可也。鄉鄰有鬬者,被髮纓冠而往救之,則惑也,雖閉戶可也。」(『孟子』離婁下57)
現代語訳はこちらを参照して頂きたい。一読しておかしいと思えるのは、「顔子」のうち二つが地の文であること、孟子が科白の中でかたや「顔回」と呼び捨てにし、かたや「顔子」と敬称していることで、これは後世の儒者が中途半端に文をいじった結果だろう。
その証拠に、孟子はこれ以外の箇所では顔淵を「顔淵」と呼ぶ。姓+あざ名の呼び方で、「宰我」「冉有」、後世の「諸葛孔明」と同様、ふつうに先達を敬称する場合の物言いに過ぎない。編集の粗雑から見て、『孟子』をいじくったのはおそらく頭の悪い後漢儒者だろう。
要するに孟子は顔回神格化に手を貸さなかった。その後の前漢時代に董仲舒が『公羊顔氏記』を書いた。その後の後漢時代に、儒者は揃って「顔子」=顔回先生と言い始めた。董仲舒の使用前と使用後で、このような効果が! いかがでしょうか、奥さま! 今なら大バーゲン!
というわけで、顔淵神格化のニオイの元は、前漢の董仲舒である。実は「顔子」の使用後の初出は、前漢宣帝期の易の注釈書である『焦氏易林』で、宣帝は儒教の国教化を進めた武帝の、事実上の後継者である。だからますます董仲舒下手人説が深まるようで、そうでない。
肝心の『焦氏易林』が、『漢書』芸文志に載っていない。記し漏れたのだと言い張ることは出来るが、そもそもあやしい占い本だから、もったいを付ける必要があり、「いにしえからの言い伝えじゃぞ」ということででっち上げられた可能性もある。
だがそれでも、顔淵神格化董仲舒下手人説は揺るがない。
論語の本章、新古の注は次の通り。古注は前章と一体化しているが、本章部分のみ記す。
古注『論語集解義疏』
子曰囘也非助我者也於吾言無所不說註孔安國曰助猶益也言囘聞言即解無可發起增益於己也
本文「子曰囘也非助我者也於吾言無所不說」。
注釈。孔安国「助は足してやる、のような意味である。本章で言っているのは、顔回は孔子の言葉を聞くと即座に理解してしまい、余計な質問をしないので、孔子自身の勉強に役立たないということである。」
新注『論語集注』
子曰:「回也非助我者也,於吾言無所不說。」說,音悅。助我,若子夏之起予,因疑問而有以相長也。顏子於聖人之言,默識心通,無所疑問。故夫子云然,其辭若有憾焉,其實乃深喜之。胡氏曰:「夫子之於回,豈真以助我望之。蓋聖人之謙德,又以深贊顏氏云爾。」
本文「子曰:回也非助我者也,於吾言無所不說。」
說の音は悅である。助我とは、子夏が質問したことで孔子の発想が広がった類のことで(論語八佾篇8)、疑問を問いかけることで互いの知識を豊富にした。だが顔淵先生は聖人の言葉を聞いても、黙って理解し真意を悟り、疑問が一切起こらなかった。だから孔子先生は本章のように愚痴を言った。その言いようは愚痴のようだが、実は深く喜んでいるのに違いないのである。
胡寅「孔子先生は顔回については、どうして自分の補助者になってくれと期待しただろうか。これはたぶん聖人の謙遜であり、深く顔氏を讃えただけである。」
余話
火事場泥棒
現伝の儒教は、孟子を道統の頭領たる宗匠の一人に数え、対立した荀子を異端扱いすることが多い。荀子は孟子から見れば60ほど年下の若造だったが、孟子が滅びかけの殿様を一人だまくらかしたに過ぎない(『孟子』滕文公篇現代語訳)のと違い、大国斉の宰相まで務めた。
荀子没後17年ほどで秦が中国を統一する。それまで冠婚葬祭業と世間師稼業に精を出さねばならなかった儒者が、帝国の博士官として気楽な生活を送れるようになったのは秦帝国からだが、年代から見て採用された儒者は、おおむね荀子の系統を引く者どもと見てよい。
そして秦が滅び漢が興り、武帝の時代にいわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒は、せっせと顔淵を神格化したことから見られるように、孟子よりむしろ荀子の系統を引く。当然で、「民本主義」を唱えた孟子の説が、独裁皇帝を気取る漢の武帝の気に入るはずがなかったからだ。
今也制民之產、仰不足以事父母…則盍反其本矣。
今は税が重くて、民は父母を養うにも事欠いています。…とりもなおさず、民という根本に逆らった政治なのです。(『孟子』梁恵王)
孟子が孔子に次ぐ尊敬を受けるようになったのは、唐中期の韓愈に始まり(儒家の道統と有若の実像)、書き物『孟子』は北宋も半ばになってやっと科挙の試験項目に加わり、人物孟子は公爵に叙爵された。背景には、民本主義を言い訳に皇帝権を制限したい儒者の思惑があった。
対して帝権は孟子を認めたがらなかった。孔子の筆頭弟子顔淵は唐の玄宗から公爵に叙爵され、孔子の孫弟子の子禽ですら、孟子の約80年前に侯爵ではあるが授爵している。「孟子」の呼称が孔子と同格を意味するのとちぐはぐだから、現伝漢籍に後世の改竄があるのを疑う。
孟子が認められなかった理由の一つは、唐までは半ば貴族制ゆえに、民本主義を唱えると貴族が袋叩きにしたからだ。対して荀子の教説が法家に近いのは教科書の通りで、貴族や絶対君主にとって都合がよかった。帝政期の日本で「民主主義」と言えなかったのに似ている。
democracyは”多数派による支配”の意で、現代は「民主主義」と訳してかまわないが、「テ冫丿-は神サマじゃ」と政府が言い回った帝政日本では、修身が基づいた孟子の言い廻しを利用して「民本主義」と言い換えた。暇を持て余した頭のおかしな連中が押しかけ騒ぐからだ。
孟子を持ち上げた宋学の総括者が朱子で、日本で江戸時代の国教は朱子学だった。加えて維新の元勲には朱子マニアが多く、帝政日本の修身は多分に朱子学の影響を受けた。だがさかんに忠孝を説いた朱子と違い、孟子は戦国の人物でありながら、ほとんど忠孝を説かなかった。
「忠」の字が漢語に現れるのは戦国時代も後半からで、孔子生前には無かった。ゆえに忠を説く論語の章はなべて偽作なのだが、この言葉が現れたのにはそれなりの理由がある。戦争の規模が変わり、負ければ領地領民は併合され、王室は皆殺しに遭うようになったからだ。
ゆえに領民に忠義を擦り込んで、地獄の戦場から逃げ出さないように洗脳したのだが、孟子の時代ではそこまでには至っていなかった。「五十歩百歩」の元ネタが『孟子』であるように、孟子の同時代の徴集兵はまことに中国人らしく、命が危なくなればさっさと逃げた。
そもそも開祖の孔子が、逃亡を追認したようなことを、『韓非子』は書いている。
魯人從君戰,三戰三北,仲尼問其故,對曰:「吾有老父,身死莫之養也。」仲尼以為孝,舉而上之。以是觀之,夫父之孝子,君之背臣也。…仲尼賞而魯民易降北。
魯の民が主君に従って戦場に出、三度の戦いでそのたび逃げた。孔子が理由を聞くと、「年老いた父がいて、私が死ねば養う者が居ません。」孔子は孝行者だと誉めて、役人に採用するよう殿様に進言した。ここから考えると、親にとっての孝行者は、君主にとっては謀反人だが、孔子が誉めたものだから、魯の兵はまじめに戦わなくなった。(『韓非子』五蠹)
だから孔子は間抜けなのだ、と韓非が言っていることは、『韓非子』で孔子を誉めるときは「孔子」、けなすときはあざ名の「仲尼」と書く事から、本章も同様なのでそうだと分かる。だがこれが史実なら、まだ「忠」の無い春秋時代の民と権力者の、当たり前の風景だった。
古代人は迷信深い代わりに、現実主義だった。ペニシリンの無い時代、ささいな怪我であの世行きだった。だから絵空事に身を任すと、直ちに死なねばならなくなる。社会に絵空事が流行ると、皆いなくなって国が消える。だから庶民も権力者も、絵空事には耳を貸さなかった。
統計はその期間や母数によってまるで結果が違ってくる。迷信は短期的な統計や例外が溜まる前の過去の記憶で、それなりに実用性があった。現代人が古代の迷信を笑うのは自由だが、人類が続く限り統計の期間は長くなるから、常に未来の人間に笑われると覚悟せねばならない。
従って帝国儒教以降の、上位者にとってのみ一方的に都合の良い絵空道徳の責任を、孔子や孟子に求めるのはお門違いだ。前後の漢儒には多分にその責任があるが、最も責められるべきは、オカルトとポエムをもてあそんで、高慢ちきの限りを尽くした宋儒にあるといっていい。
詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。東西世界はともに、古代に一旦文明の頂点に至った後、精神的に退化してオカルトに走った。宋は近代に分類する説が有力だが、オカルトの最も流行った時代でもあり、中世に入れてしまう方が理解しやすい。
宋はモンゴルに滅ぼされ、宋儒がまともでもいずれ滅ぼされただろうが、モンゴルが不慣れな海戦までして、絶海の孤島に逃げていた宋の残党を、しつこく攻め滅ぼしたのは、反乱の火種を消すためだけではない。オカルトに当人までおかしくなった宋儒が、不気味だったからだ。
宋儒の言い分はこうである。人の形をした生き物には、中国人とそうでないのがいる。中国人だけが人間で、そうでないのは「禽獣」=トリやケダモノである。そんなのには、正直になる必要がない。だが宋儒はこういう絵空事が、趣味人の間にしか通用しないと分からない。
拖雷總右軍自鳳翔渡渭水,過寶雞,入小潼關,涉宋人之境,沿漢水而下。期以明年春,俱會於汴。遣搠不罕詣宋假道,且約合兵。宋殺使者,拖雷大怒曰:「彼昔遣茍夢玉來通好,遽自食言背盟乎!」乃分兵攻宋諸城堡,長驅入漢中,進襲四川,陷閬州,過南部而還。
(1230年、モンゴル帝国第二代オゴデイが金征服の軍を起こし、弟でフビライの父)トルイは右軍の総司令官として鳳翔(陝西省宝鶏市)から渭水を渡河し、宝鶏を経由して潼関(陝西省潼関市)で南宋との国境線に行き当たった。(父チンギス・ハンより、宋と同盟せよとの遺命があったため、)そこで漢水に沿って東下し、越冬した。
年が明け春になって、オゴデイの本隊と開封で合流した。その間、搠不罕(サクフカン・モンゴル名不明)を南宋に派遣して南宋領内のモンゴル軍通過を求め、さらに共同出兵を提案させたが、南宋の将軍・張宣*がこの使者を殺したので、トルイは激怒した。「奴らは以前、茍夢玉を使いに寄こして友好を約束しながら、今になって言葉をひるがえして盟約を破るのか!」
直ちに分遣隊を送って宋の都市を攻めた。分遣隊は漢中(陝西省漢中市)に攻め入り、進撃して四川を攻撃し、閬州(四川省北東部)を陥落させ、さらにその南部を荒らして帰還した。(『元史』拖雷伝)
*『新元史』拖雷伝「先遣搠不罕如宋假道,至青野原,為宋將張宣所殺」とあるが、『宋史』に伝が無く、王淮伝に「薦軍帥吳拱、郭田、張宣。」とあるほかは、理宗紀に「御前中軍統制」とあるだけで、誰だかよく分からない。
同じ話を清の『続資治通鑑』は「蘇巴爾罕至沔州青野原,金統制張宣殺之。圖壘聞蘇巴爾罕死,曰:宋自食言,背盟棄好,今日之事,曲直有歸矣!」と記す。南宋の『続資治通鑑長編』には張宣の名が見えない。
宋は、宦官や文官を前線司令官に当てることが珍しくなかった。北宋滅亡を招いた悪党に必ず入る宦官の童貫は、大尉(軍務大臣兼陸軍元帥)を長く務めているし、『水滸伝』の悪役高俅は、もと遊び人で徽宗皇帝の家内使用人に過ぎなかったが、近衛軍の一つ殿前軍の都指揮司(司令官)を務めた後、大尉に昇進している(『宋史』)。
そうでなくとも、武官は文官より格が低く、儒者の賛同なしに殺せたとは思えない。
南宋はこの時ばかりでなく、モンゴルが金を滅ぼした際、「北上しない」と約束しておきながら、モンゴルの本隊が北へ帰ると火事場泥棒で華北へ攻め入った。空き家だったから各都市は無血で占領できたが、怒り狂ったモンゴル軍に叩きのめされ、僅かな兵しか帰れなかった。
自端平初,孟珙帥師會大元兵共滅金,約以陳、蔡為界。師未還而用趙范謀,發兵據殽、函,絕河津,取中原地,大元兵擊敗之,范僅以數千人遁歸。追兵至,問曰:「何為而敗盟也?」遂縱攻淮、漢,自是兵端大啟。
端平年間(1234-1236)の初め、孟珙が宋軍*を率いてモンゴル軍と共に金を滅ぼし、陳、蔡の地(淮河流域。上掲地図の南宋北境にほぼ同じ。論語先進篇2参照)を国境と定めた。
宋軍が帰還する直前、孟珙は(その参謀で、左丞相の鄭清之の意を受けた)趙范の悪だくみに乗り、全軍に戦闘態勢を命じて戦端を開き、黄河の渡し場を包囲して閉鎖した。そのまま中原(この時代では古都長安のあった陝西省付近)を占領したが、モンゴル軍がとって返して撃破した。
孟珙はわずか数千人の兵と共に逃亡した。その後ろをモンゴル軍が追い、「なぜ約束を破った!」と責め立てた。追うついでにモンゴル軍は淮河や漢水一帯を荒らし回り、この一件で宋とモンゴルの大戦争が始まった。(『宋史』賈似道伝)
*この時の宋軍の規模を、『続資治通鑑』巻166は「招唐、鄧、蔡州壯士二萬餘人,號忠順軍」と記す。
人間が最も残忍になる直前は、いら立っていることが多い。モンゴル人は息をするようにウソをつく、宋儒の没義道にいら立ったのである。そうでなくともモンゴル人は、欧州人がアメリカ大陸で原住民を虐殺するまで、人類史上空前の殺戮と破壊を事とした。
「ジンギスカンは破壊し、チムールは建設した」と誰が言い出したのか訳者は知らない。だがおそらくイスラム教徒で、チムールが敬虔なムスリムだったからこう言われた。チムールも破壊と虐殺を繰り返し、チンギス・ハンはなおさらそうだった。地球環境まで変えたという。
宋儒はそのモンゴルを愚弄した。もちろん南宋人全てがふざけていたわけではない。軍人の呂文煥はよく前線を守り、襄陽(湖北省)に立てこもってモンゴル軍を悩ませた。だが南宋朝廷を牛耳る賈似道はどんちゃん騒ぎの毎日で、『宋史』に援軍や糧食を送った記述が無い。
賈似道は科挙の最終試験「殿試」合格者だが、理宗皇帝の愛妾の弟という縁故で、先立つべき試験を免除されている。殿試は皇帝自らが試験官になる立て前だから、受かるに値する教養があったか疑わしい。宋儒も末になるとこのように、高慢ちきを証す儒学すらあやふやだった。
『宋史』を編ませたのは滅ぼしたモンゴルの帝室だが(論語郷党篇12余話「せいっ、シー」)、かつての敵の、あまりのあんまりさに呆れ、また協力させられた元の儒者も同感だったらしく、わざわざ「姦臣伝」”国を滅ぼした穀潰し列伝”を作って賈似道を放り込んでいる。
これら宋儒の度重なる二枚舌は、フビライに討滅の口実を与えた。
中統二年…秋七月…朕即位之後,深以戢兵為念,故遣使於宋以通和好。宋人不務遠圖,伺我小隙,反起邊釁,東剿西掠,曾無寧曰。
中統二年(1261)…秋七月…(宋征服の軍を編成するに当たって天下に宣言した。)「ワシは即位してから、戦争はもううんざりだと思って、宋に使いを送って和平を求めた。ところが宋の連中はその場しのぎの二枚舌を使うだけで、ちまちまと我らの隙を狙っては、繰り返し国境を荒らした。連中は東で人殺しをするかと思えば、西で略奪に精を出すという始末。そのせいで、ただの一日も平和な日が無かった。」(『新元史』世祖紀)
宋を滅ぼしたのは宋儒自身だ。モンゴルのせいではあっても、論語や孔子のせいではない。
コメント