論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰人而不仁如禮何人而不仁如樂何
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰人而不仁如禮何人而不仁如樂何
後漢熹平石経
…白人而不仁如禮何人而不仁如樂何
※「不」字は〔一八个〕。「禮」字は〔礻豊〕。
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「人而不仁、如禮何。人而不仁、如樂何。」
復元白文(論語時代での表記)












※仁→(甲骨文)。論語の本章は、「何」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、人にし而仁なら不らば、禮の如きや何にせん。人にし而仁なら不らば、樂の如きや何にせん。
論語:現代日本語訳
逐語訳

先生が言った。「人であって貴族らしさを持たないのなら、貴族の一般常識が何になる。人であって貴族らしさを持たないのなら、音楽が何になる。」
意訳

貴族に成り上がる気が無いのに貴族のまねごと? あんたにゃ要らん要らん。おかえんなさい。
従来訳
先師がいわれた。――
「不仁な人が礼を行ったとて何になろう。不仁な人が楽を奏したとて何になろう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「對於不仁的人,禮法有何用?音樂有何用?」
孔子が言った。「不仁な人に対して、礼法が何の役に立つ?音楽が何の役に立つ?」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。

(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
漢石経では「曰」字を「白」字と記す。古義を共有しないから転注ではなく、音が遠いから仮借でもない。前漢の定州竹簡論語では「曰」と記すのを後漢に「白」と記すのは、春秋の金文や楚系戦国文字などの「曰」字の古形に、「白」字に近い形のものがあるからで、後漢の世で古風を装うにはありうることだ。この用法は「敬白」のように現代にも定着しているが、「白」を”言う”の意で用いるのは、後漢の『釈名』から見られる。論語語釈「白」も参照。
人(ジン)

(甲骨文)
論語の本章では”人間一般”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
而(ジ)

(甲骨文)
論語の本章では”~かつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
不(フウ)

(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
仁(ジン)

(甲骨文)
論語の本章では、「もののふ」と訓読して”貴族”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
仮に孔子の生前なら、単に”貴族(らしさ)”の意だが、後世の捏造の場合、通説通りの意味に解してかまわない。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」の意味。詳細は論語における「仁」を参照。
如~何(~のごときやなににせん)

論語の本章では”~のようなものが何になるか”。「如何」の間に目的語の「~」を挟んだ形、ではなく、”~のようなものは何”の意で、挟まない「何如」”どうしましょう”とは意味が異なる。「如」も「何」もこの語義は春秋時代では確認できない。
「如何」も「何如」も、漢文のお作法としては「いかん」と読み下すのだが、意味が異なり混乱の原因になっている。
- 如何:何に従う(べき)か→”どうしましょう
- 何如:何が付き従うか→”どうな(なる)でしょう”
漢文は甲骨文の昔から現代中国語に至るまで、一貫してSVO型の言語だから、「如何」はVO、「如何」はSV。「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。
「如」の初出は甲骨文。原義は”ゆく”。”~のようだ”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「如」を参照。
「何」の初出は甲骨文。原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
禮(レイ)

(甲骨文)
論語の本章では「よきつね」と訓読して”貴族の一般常識”。”礼儀作法”「ゐや」はその一部。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
孔子生前の「礼」は、書き記された教科書があったわけではない。しかも礼法や作法だけでなく、広く貴族の一般常識を指した。従って本章の場合、訓読は礼儀作法「ゐや」でなく、貴族の一般常識「よきつね」と読むのが適切。詳細は論語における「礼」を参照。
樂(ガク)

(甲骨文)
論語の本章では”音楽”。初出は甲骨文。新字体は「楽」。原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は文字史的には偽作の疑いがないのだが、定州竹簡論語に無く、なんと後漢初期の『漢書』翟方進伝まで先秦前漢の誰も引用していない。「何」の用法に疑問があることを含めて、戦国時代以降に、儒者が偽作した可能性がある。その場合の解釈は、従来訳の通り。
解説
論語の本章は、「仁」の語義を儒者にだまされて”情け深さ”とか信じ込んでいる限り、見当違いの解釈をしてしまう。本章の要旨は、現代日本にたとえるなら、「医者になるつもりも無いのに医学部へ入るな」ということ。孟子没後の儒者も漢学教授も、全員読み間違えている。
古注では、本章に注を付けたのは新から後漢初期の包咸のみ。
古注『論語集解義疏』
註苞氏曰言人而不仁必不能行禮樂也

注釈。包咸「人なのに仁でない者は必ず礼儀作法や音楽が出来ないのだ。」
ここでの「仁」は、”貴族”と解しうる余地を残しているが、必ずそうだとは言いかねる。また「人而不仁」は論語泰伯編10にも記述があり、そこには前漢中期の孔安国が注を付けているが、この男は避諱すべき高祖劉邦の「邦」を平気で記すなど、実在が如何わしい。
古注『論語集解義疏』泰伯編10
人而不仁疾之已甚亂也註孔安國曰疾惡大甚亦使其為亂也

本文「人なのに仁でない者が貧乏に腹を立てると、無茶をやらかす。」
注釈。孔安国「憎む程度が激しいと、その怒りが人に無茶をさせるのだ。」
新注では次のように書いている。
新注『論語集注』
游氏曰「人而不仁,則人心亡矣,其如禮樂何哉?言雖欲用之,而禮樂不為之用也。」程子曰:「仁者天下之正理。失正理,則無序而不和。」李氏曰:「禮樂待人而後行,苟非其人,則雖玉帛交錯,鐘鼓鏗鏘,亦將如之何哉?」然記者序此於八佾雍徹之後,疑其為僭禮樂者發也。
游酢「人でありながら不仁な者は、つまり人間の心を失っている。ならば礼儀作法や音楽はどうなるだろう。礼楽を習いたいと口で言っても、礼楽はその者の役には立たない。」
程頤「仁とは天下の正しい道理だ。正しい道理を失っては、必ず秩序が無くなり喧嘩が始まる。」
李郁「礼楽とは、ふさわしい人が学んではじめてものになる。ふさわしくない人が学んだところで、貴重な道具や供え物は取り散らかるし、鐘や太鼓を上手に叩いても、それでもどうなるというのだろうか。」
ところで本章をここ八佾篇の前章、家老が分不相応に雍の歌を用いた後に記したのは、おそらく分不相応の者が礼楽をいじくり回しているのを告発するためだ。
論語の本章の、初の再出である『漢書』の記述は次の通り。
孔子曰:『人而不仁如禮何!人而不仁如樂何!』言不仁之人,亡所施用;不仁而多材,國之患也。

(後に王莽が出る外戚の一人が権勢を欲しいままにした。それに反対して翟方進が成帝に上奏した。)
「孔子は言いました。人でなしが礼儀作法を立派にやってのけたからと言って、それが何になる。人でなしが音楽を巧みに奏でたからと言って、それが何になる、と。つまり人でなしは、使い道がありません。人でなしのくせに多芸な者は、のさばらせると国を滅ぼします。」(『漢書』翟方進伝11)
この文脈から見れば、「不仁」は”人でなし”と解するより他にない。そして『漢書』を編んだ班固がウソを書いていないとするなら、前漢末期の成帝(位BC33-BC7)の頃には、この言葉が孔子のそれとして流布されていたことになる。
なお上掲の引用を見ると、翟方進はまるで正義の味方に見えるが、実は他人を弾劾して地位から追いやるのを繰り返して宰相になった陰険な男で、王莽の新王朝が前漢の歴史を編めぬまま滅び、漢の復興を大義名分にした光武帝劉秀が天下を取ったから、善玉として書かれた。
後漢王朝は王莽とその一党を悪党に描かないと、反乱を起こし天下を取った大義名分が成り立たないからだ。確かに前漢末の王一族は権勢家だったろうが、翟方進も同類の悪党で、あまりにやり口が陰険なことから、「星の巡りが悪い」のを理由に、成帝によって自殺させられた。
見届けた成帝は、しばらく翟方進が生きている演技を続けたと言うから芸が細かい。

成帝は前漢を滅亡に追いやり、張飛燕にうつつを抜かした暗君という事になっているが、万巻の書を読んだと言われる翟方進の陰険より、一枚上を行くワル智恵を発揮したわけで、暗君だからと言って必ずしもアホウではないのが、中国史の油断のならなさというものだ。
変転常ならぬ中国政界では、皇帝だろうとこの程度のワル知恵がないと、いつ殺されるか分からない。従って史書にあまた記される中華皇帝のアホウ伝説も、実は当人が身を守るために演じていた可能性すらあるわけだ。加えて臣下にとって、皇帝はアホウの方が都合が良い。
皇帝を取り囲んでいるのは、儒者官僚と宦官と外戚だが、三者はいずれもワイロ取りのために試験勉強に励んだり、ナニを切り取ったり、娘を呉れてやったわけで、皇帝がなまじ真面目で有能だと、ワイロ取りを追求され首をちょん切られるので、みな迷惑するのである。
だからよってたかって、皇帝をアホウに躾けようとする。
清の康煕帝と言えば、中国史上指折りの名君とされるが、その日常を間近で見たイエズス会士のマガリャンイスが書いている。ある時イエズス会士が献上した鍵盤楽器を、皇帝が一押しして「ポン」と音が出ると、周りの宦官どもはその都度、「陛下すごいすごい!」と喝采。
「~こうして育った者に、常人並みの知性があるのは奇跡に近い」とマガリャンイスは書いている(矢沢利彦『西洋人の見た中華皇帝』)。理由は恐らく康煕帝が中華皇帝だけではなく、満洲人やモンゴル人のハーンも兼ねていたからで、熊や虎と何匹も格闘したのもそれゆえだ。
ひょろひょろに従う遊牧狩猟民はいない。加えて万巻の書も読んだのは、もちろん漢人を黙らせるためである。超人と言ってよいが、実は孔子も超人に近かった。2mを超す身長、50を越えてから放浪に出た体力、人の寿命が30ほどの時代に70過ぎまで生きた生命力。
加えて同時代人の誰より博識で、琴の名手で、武芸の達人だった。だから社会の底辺に生まれて宰相格にまでなった。仮に論語の本章が史実とするなら、本章はそれを踏まえて理解すべきで、礼儀作法や音楽は弟子にとって、徹頭徹尾孔子同様に成り上がるための手段だった。
孔子にとっても同様で、孔子が理想とした社会のありようとは、長い間固く信じられてきたような、周初の復元では決してない。能力によって人が地位に就く世の中であり、滞在した陳や蔡が滅びかかるにまかせたのも、無能な政府は潰れてしまえ、と思ったからだ。
余話
乗れない名馬は無いのも同じ
論語の本章、新注に見える游酢は、程頤(伊川)の協力者で、北宋には珍しい真面目な儒者だったらしい。だがそれにもからくりがあり、北宋滅亡(1127)の4年前に死没しているからで、もっと若かったら程頤のような空理空論を、どれほどもてあそんだか分からない。
空理空論をもてあそぶのはまだしも、それで現実政治の足を引っ張り、国を不幸にした儒者は多い。なお本章の新注では李郁の名も見えるが、「郷貢進士」(科挙によらず推薦でなった進士)だったことが『宋史』高宗本紀に見えるだけで、伝が立てられていない。
鄉貢進士李郁為右迪功郎郁以布衣入見所呈皆當世務上批郁學通世務議論可采故有是命
郷貢進士の李郁は右迪功郎(従九品、高級官僚のほぼ末席)に取り立てられた。李郁は庶民の身分のまま、高宗に引見されて時局の対策について意見を述べた。李郁は学問によって現実行政への理解が深く、その意見には採用すべき所があったので、特別にこの職に任じられたのだった。(『宋史』高宗紀七)
高宗とは北宋が金によって滅ぼされた際に南方へ落ち延びて即位した皇帝で、南宋の初代とされる。時はまさに戦乱のさなかにあり、金軍の南下も恐れられたことから、高宗はそれまでのしきたりを破って人材を求めたらしい。科挙によらない進士を引見したのもそのためだ。
もっとも、この「郷貢進士」は科挙が始まった隋代の昔からあった。隋唐帝国は鮮卑族出身の軍閥や、元からの中国の名家が貴族として勢力を保っていたので、貴族の不満を逸らすには、こうした措置が必要だった。だが宋になると貴族は没落し尽くし、仕官は科挙に限られた。
ところが滅亡直前の北宋の徽宗が、この制度を復活させた。放蕩を繰り返して国を滅ぼしたとされる徽宗だが、危機感はあったらしい。高宗はこの制度を拡大して、ポエムと空理空論をもてあそぶ科挙官僚以外から、実務家を登用しようとしたのだった。
詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
ただし李郁は宋儒の中でも極めつけの悪党だった、楊時の婿だった。楊時は金軍が北宋の都・開封に押し寄せたときには姿を隠し、高宗が即位すると急に出てきて官職をねだり、とうてい勝ち目の無い金との講和を進める秦檜を批判した。空理空論で国を危うくした一人である。
もちろん空理空論は、利権争いの口実に過ぎない。李郁も義父との縁故から引退している。そして宋儒の空理空論のまとめ役だったのが新注を編んだ朱子なのだが、その朱子ですら、金軍と戦っても到底勝ち目が無いと思っていた。軍の扱いにくさを知っていたとも言える。
僩因問:「當初高宗若必不肯和,乘國勢稍振,必成功。」曰:「也未知如何,蓋將驕惰不堪用。」僩問:「如張韓劉岳之徒,富貴已極,如何責他死了,宜其不可用。若論數將之才,則岳飛為勝。然飛亦橫,只是他猶欲向前冢殺。」先生曰:「便是如此。有才者又有些毛病,然亦上面人不能駕馭他。若撞著周世宗趙太祖,那裏怕!他駕馭起皆是名將。緣上之舉措無以服其心,所謂『得罪於巨室』者也。」
弟子の僩因が問うた。「もし高宗陛下が講和を許されなかったら、それで国の勢いが奮い立ち、必ず華北を取り戻せたでしょうに。」
朱子「それはどうかな。当時の将軍たちは、思い上がりがひどくて役に立たなかったぞ。」
僩因「張憲・韓世忠・張俊・岳飛といった将軍たちは、富貴の極みにあって、彼らが刑殺の目に遭ったのも仕方がありませんし、役立たずとおっしゃるのも分かります。ですがその軍人としての才能だけを見れば、岳飛は優れていたと言えるでしょう。しかしこじつけによって殺されました。岳飛にも、やがて自分が謀殺されるだろうと分かっていたのでしょうか。」
朱子「まさにその通り。才能ある者は、とかく癖が強すぎる。上の者から見て使いやすいとは言えない。後周(宋が滅ぼした五代最後の王朝)の名君世宗でさえ、(家来で軍閥の頭領だった)宋の太祖に出くわすと、どれだけ怯えたことか。世宗が使役したのはみな名将だったが、殿上での無作法は謀反人を思わせた。つまり、”出世しすぎて罪を得る”のたぐいだったんだ。」(『朱子語類』本朝五22)
朱子が生まれたのは1130年で、北宋滅亡の3年後だが、宰相秦檜が主戦派を粛清して金と結んだ紹興の和議は1141年で、南宋初期の和戦両派の抗争を、少年時代に見聞きした最後の世代だった。対して僩因など若い弟子は実情を知らず、結果のみ伝え聞いて悔しがった。
だが実体験として朱子は、「名人も使えないなら居ないも同じ」と割り切っていたと見える。





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