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論語詳解120B雍也篇第六(2)仲弓、子桑伯子を°

論語雍也篇(2)要約:少なくとも戦国時代以降の加筆あり。弟子の冉雍ゼンヨウ(仲弓チュウキュウ)は、冉氏一族の優れた若者で、長老の冉耕子牛から、孔子先生はその教育を託されました。物わかりのよい冉雍が、先生の言葉足らずな人物評を、言外の意味まで悟って誉められた話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

仲弓問子桑伯子子曰可也簡仲弓曰居敬而行簡以臨其民不亦可乎居簡而行簡無乃大簡乎子曰雍之言然

  • 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱

校訂

諸本

  • 正平本:「子桑伯子」→「子桒伯子」。「桒」は「桑」の異体字、「サウ」と振り仮名あり。

東洋文庫蔵清家本

仲弓問子桑伯子/子曰可也簡/仲弓曰居敬而行簡以臨其民不亦可乎/居簡而行簡無乃太簡乎/子曰雍之言然

  • 「桑」字:宮内庁本同。京大本「桒」。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……間a,毋b乃大間乎?」子曰:109……

  1. 間、今本作「簡」。
  2. 毋、今本作「無」。

標点文

仲弓問、子桑伯子。子曰、「可也、間。」仲弓曰、「居敬而行間、以臨其民、不亦可乎。居間而行間、毋乃大間乎。」子曰、「雍之言然。」

復元白文(論語時代での表記)

仲 金文弓 金文問 金文子 金文乗 金文伯 金文子 金文 子 金文曰 金文 可 金文也 金文 間 金文 仲 金文弓 金文曰 金文 居 挙 舉 金文敬 金文而 金文行 金文間 金文 㠯 以 金文臨 金文其 金文民 金文 不 金文亦 金文可 金文乎 金文 居 挙 舉 金文間 金文而 金文行 金文間 金文 母 金文乃 金文大 金文間 金文乎 金文 子 金文曰 金文 雍 金文之 金文言 金文然 金文

※論語の本章は、「問」「也」「𥳑」(閒)「行」「乎」「然」の用法に疑問がある。「毋乃」(無乃)は戦国時代以降にならないと用例が無い。本章は少なくとも、戦国時代以降の加筆がある。

書き下し

仲弓ちうきう子桑伯子しせうはくしふ、いはく、よろしなるも、ひまあり。仲弓ちうきういはく、ゐやひまおこなひ、もつたみのぞむ、よろしからひまひまおこなふは、毋乃むしおほいなるひまならむいはく、ようことのはしかり。

論語:現代日本語訳

逐語訳

冉雍 孔子
仲弓が子桑伯子シソウハクシについて問うた。先生が言った。「悪くないが、隙間がある。」仲弓が言った。「慎み深い心を保って行動に隙間があるなら、民の前に出て、それもあるいは悪くはないではありませんか。(ですが)隙間のある心に隙間のある行動では、かえって隙間がありすぎではありませんか。」先生が言った。「雍の言葉は正しい。」

意訳

冉雍ゼンヨウ「子乗伯子とはどんな方でしょう。」
孔子「悪くないが、雑な奴だ。」
冉雍「なるほど。心が細やかな人なら、行動が雑なまま民の前に出ても、それはそれでいいかも知れませんが、心も行動も雑だというなら、雑にも程があるでたらめ人間だ、ということですね。」

孔子 楽
孔子「その通り。あの男は気配りは細やかだが、せっかくの気配りも行動に表れない。惜しいことだ。」

従来訳

下村湖人
仲弓が先師に子桑伯子(しそうはくし)の人物についてたずねた。先師がこたえられた。――
「よい人物だ。大まかでこせこせしない。」
すると仲弓がまたたずねた。――
「日常あくまでも敬慎の心を以て万事を裁量しつつ、政治の実際にあたっては、大まかな態度で人民に臨む、これが為政の要道ではありますまいか。もし、日常の執務も大まかであり、政治の実際面でも大まかであると、放慢になりがちだと思いますが。」
先師がいわれた。――
「お前のいうとおりだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

仲弓問子桑伯子這人怎樣,孔子說:「還行,辦事簡明。」仲弓說:「計劃嚴密而又行動簡明,以此來管理百姓,不也可以嗎?計劃粗糙而又行動草率,不也太隨便了嗎?」孔子說:「你說得對。」

中国哲学書電子化計画

仲弓が子桑伯子の人柄を問うた。孔子が言った。「まあまあだ。仕事が簡潔だ。」仲弓が言った。「計画が緻密で行動が簡潔なら、それで人民を管理するのは、出来るのではありませんか? 計画が粗雑で行動も軽率なら、非常にでたらめではありませんか?」孔子が言った。「お前の言い分は正しい。」

論語:語釈

、「 。」 、「    ()、( (。」 、「 。」


仲弓(チュウキュウ)

孔子の弟子、孔門十哲の一人、冉雍仲弓のこと。詳細は論語の人物:冉雍仲弓を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

子桑伯子(シソウハクシ)

古来誰だか分からない。「子」が付いているからには平民ではなかったろうし、「伯」は長男を意味するから、貴族のお坊ちゃんに生まれたのだろう。「桑伯子」で、”桑家のご長男”の意だが、その頭に「子」がつくとなると、”桑家のご長男先生”とも解せる。

別に”桑伯大先生”とも解せる。論語の時代、「子○」は”貴族の○さん/様”の意であり、「○子」は”学派棟梁の○先生”の意で、孔子などが相当する。ただし墨家だけは大仰に、墨子を「子墨子」と呼んでいる。”墨子先生先生”の意で、”大先生”に当たるだろうか。

既存の論語本では吉川本も誰だか分からないという。宮崎本では子桑伯子の正体について、戦国時代の『荘子』に出て来る子桑戸、さらに後漢の『風俗通義』に出て来る桑扈ソウコではないかと書いている。ただし「中国哲学書電子化計画」の『風俗通義』には、その名が見えない。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

桑 甲骨文 桑 字解
「桑」(甲骨文)

「桑」の初出は甲骨文。字形はクワの木の象形。原義は”クワ”。金文は西周中期のものが出土しているが、画像を確認できない。甲骨文では地名に用い、戦国時代の竹簡では原義に用いた。詳細は論語語釈「桑」を参照。

白 甲骨文 百 字解
「白」(甲骨文)

「伯」の字は論語の時代、「白」と書き分けられていない。初出は甲骨文。字形の由来は蚕の繭。原義は色の”しろ”。甲骨文から原義のほか地名・”(諸侯の)かしら”の意で用いられ、また数字の”ひゃく”を意味した。金文では兄弟姉妹の”年長”を意味し、また甲骨文同様諸侯のかしらを意味し、五等爵の第三位と位置づけた。戦国の竹簡では以上のほか、「柏」に当てた。詳細は論語語釈「伯」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

可(カ)

可 甲骨文 可 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”悪くない”。積極的に褒める意味は無く、日本古語の「よろし」にあたる。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

簡(カン)→間(カン)

現存最古の論語本である定州竹簡論語は、一部しか簡が残っていないが「間」と記し、唐石経・清家本は「簡」と記す。時系列に従い、定州本の簡のある部分は「間」と校訂した。万が一、簡の欠損部分が「簡」と記している可能性が無いわけではないからだ。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

簡 金文 論語 竹簡
(金文)

論語の本章では”粗雑”。この語義は春秋時代では確認できない。旧字体は「𥳑」。新字体は「簡」。初出は西周末期の金文。中国・台湾・香港では、「簡」が正字としてコード上取り扱われている。同音は「閒」(間)・「蕑」”フジバカマ・ハス”のみ。字形は「⺮」+「閒」”すきま”で、竹札を編んで隙間のある巻物の姿。原義は”ふだ”。詳細は論語語釈「簡」を参照。

間 金文 間 字解
(金文)

定州竹簡論語の「閒」の初出は西周末期の金文。新字体は「間」。ただし唐石経も清家本も新字体と同じく「間」と記す。ただし文字史からは旧字「閒」を正字とするのに理がある。「ケン」は呉音。”簡素”の語義は春秋時代では確認できない。字形は「門」+「月」で、門から月が見えるさま。原義は”かんぬき”。春秋までの金文では”間者”の意に、戦国の金文では「縣」(県)の意に用いた。詳細は論語語釈「間」を参照。

居(キョ)

居 金文 居 字解
(金文)

論語の本章では”居座る”→”そのように振る舞う(行動する)”。初出は春秋時代の金文。字形は横向きに座った”人”+「古」で、金文以降の「古」は”ふるい”を意味する。全体で古くからその場に座ること。詳細は論語語釈「居」を参照。

敬(ケイ)

敬 甲骨文 敬 字解
(甲骨文)

論語の本章では”慎み深く”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”~かつ~”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

行(コウ)

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”…で”は、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

臨(リン)

臨 甲骨文 臨 字解
(甲骨文)

論語の本章では”見守る”→”…の前に姿を見せる”。字形は大きな人間が目を見開いて、三人の小人を見下ろしているさま。原義は”下目に見る”・”見守る”。金文では原義に用いられ、戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「臨」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。原義は農具の。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

民(ビン)

民 甲骨文 論語 唐太宗李世民
(甲骨文)

論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱ヒキして「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

亦(エキ)

亦 甲骨文 学而 亦 エキ
(甲骨文)

論語の本章では”それもまた”。初出は甲骨文。原義は”人間の両脇”。春秋末期までに”…もまた”の語義を獲得した。”おおいに”の語義は、西周早期・中期の金文で「そう読み得る」だけで、確定的な論語時代の語義ではない。詳細は論語語釈「亦」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「や」と読んで疑問の意を示す。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

無乃(ブダイ)→毋乃(ブダイ)

論語の本章では”むしろ~ではないだろうか”。ただしこの言葉が見られるのは戦国の竹簡からで、孔子や直弟子の口から出た言葉とは言えない。春秋時代以前の漢語は一語(=一字)一義が原則で、熟語は見られない。

『学研漢和大字典』
反問をあらわすことば。かえって…ではあるまいか。どちらかといえば…ではないだろうか。いっそ。むしろ。▽文末に反問の助辞をおく場合とそうでない場合がある。

また定州本は「毋」と記し、唐石経・清家本は「無」と記す。戦国時代の用例は全て「毋乃」で、「無乃」は見られない。定州本に従い、「毋乃」に校訂した。

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

「無」の初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

毋 金文 毋 母 字解
(金文)

定州竹簡論語の「毋」の、現行書体の初出は戦国文字で、無と同音。春秋時代以前は「母」と書き分けられておらず、「母」の初出は甲骨文。「毋」と「母」の古代音は、頭のmが共通しているだけで似ても似付かないが、「母」məɡ(上)には、”暗い”の語義が甲骨文からあった。詳細は論語語釈「毋」を参照。

乃 甲骨文 不明 字解

「乃」の初出は甲骨文。字形の由来と原義は不明。甲骨文・金文では”そこで”、”お前の”、”お前”、”だから”の意に用いた。漢代の金文では、”やっと”の意に用いた。詳細は論語語釈「乃」を参照。

大(タイ)

大 甲骨文 大 字解
(甲骨文)

論語の本章では”大いに”。初出は甲骨文。「ダイ」は呉音。字形は人の正面形で、原義は”成人”。春秋末期の金文から”大きい”の意が確認できる。詳細は論語語釈「大」を参照。

上掲武内本に言う通り、京大蔵唐石経は「大」になっており、『論語集釋』は「注疏本”大”字作”太”」と記す。宮内庁蔵南宋本『論語注疏』を確認すると、確かに「太」になっている。「太」の初出は楚系戦国文字。論語時代の置換候補は「大」。詳細は論語語釈「太」を参照。

なお宮内庁蔵南宋本『論語注疏』では章の順番が入れ替わっており、本章と前章は、論語雍也篇10の後ろに収められている。理由は今のところ分からないが、南宋本『論語注疏』は現存最古の論語の紙本であるものの、それ以前に日本には古注『論語集解義疏』が伝わっており(慶大本・清家本)、そこでは唐石経と同様、現伝論語通りの章順になっている。

雍(ヨウ)

雍 甲骨文 不明 字解
(甲骨文)

論語の本章では、冉雍仲弓のいみ名。初出は甲骨文。同音は「雍」を部品とする漢字群、「邕」”川に囲まれたまち”、「廱」”天子の学び舎”、「癰」”できもの”。字形は「隹」”とり”+「囗」二つで、由来と原義は不明。甲骨文では地名・人名に用い、金文では”ふさぐ”、”煮物”、擬声音に用い、戦国の竹簡では”ふさぐ”に用いられた。詳細は論語語釈「雍」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

言(ゲン)

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

論語の本章では”言い分”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

然(ゼン)

然 金文 然 字解
(金文)

論語の本章では”その通り”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、一例を除き先秦両漢の誰一人引用も再録もしていない。定州竹簡論語にあることから、前漢中期には論語の一章として成立していたのだろう。文字史的には論語の時代に遡りうるので、史実として扱ってよい。ただし熟語「無乃」の存在から、戦国時代以降に書き付けられたことは確実で、このような師弟の対話はあったろうが、言葉がまるまる春秋時代の漢語とは言えない。

解説

定州竹簡埋蔵時に22歳ほどだった前漢後期の劉向は、『説苑』の中で論語の本章を引いて記述している。

孔子曰可也簡。簡者,易野也,易野者,無禮文也。孔子見子桑伯子,子桑伯子不衣冠而處,弟子曰:「夫子何為見此人乎?」曰:「其質美而無文,吾欲說而文之。」孔子去,子桑伯子門人不說,曰:「何為見孔子乎?」曰:「其質美而文繁,吾欲說而去其文。」故曰,文質脩者謂之君子,有質而無文謂之易野,子桑伯子易野,欲同人道於牛馬,故仲弓曰太簡。上無明天子,下無賢方伯,天下為無道,臣弒其君,子弒其父,力能討之,討之可也。當孔子之時,上無明天子也,故言雍也可使南面,南面者天子也,雍之所以得稱南面者,問子桑伯子於孔子,孔子曰:「可也簡。」仲弓曰:「居敬而行簡以道民,不亦可乎?居簡而行簡,無乃太簡乎?」子曰:「雍之言然!」仲弓通於化術,孔子明於王道,而無以加仲弓之言。

劉向
孔子は簡なる者を悪くないと言った。簡とは、易野エキヤ=単純質素で荒削りを言う。易野な者は、礼儀や飾りごとをしない。

孔子が子桑伯子と会った所、子桑伯子は普段着のまま冠もかぶらずに座っていた。弟子曰く、「先生はなぜこんな人と会ったのですか?」孔子曰く、「このお人は人間が出来ているが、残念なことにお行儀が良くない。だからお説教してやろうと思ったのじゃ。」

孔子が辞去して、子桑伯子の門人は不満げに言った。「何で孔子と会ったのですか?」子桑伯子の曰く、「孔子どのはお人がよいが、お行儀が良すぎる。だからお説教して、良すぎるお行儀を控えさせようと思ったのじゃ。」

だから世に、お行儀も中身も良い人を君子と言い、中身は良いがお行儀の良くない人を易野と言う。子桑伯子は易野な人で、牛馬と同じような飾りのなさで人の世を生きようとした。だから冉雍は、太簡=デタラメが過ぎる人間、と言ったのだ。

上に名君がおらず、下に賢臣がいなければ、天下に原則はなくなる。臣下は君主を殺し、子は父を殺し、殴刂つける力がある者は、遠慮会釈無しに人を殴刂つける。孔子の時代、上には名君が居なかった。だから冉雍を南面させようとまで言ったのだ。

南面するとはすなわち天子になることで、冉雍がそこまで褒められたのは、孔子との問答が優れていたからだ。

子桑伯子について孔子に問うた時、孔子は「悪くない。ただし雑だ」と言った。対して冉雍、「慎み深い心を持つ人なら、行動が雑なまま民を導いても、悪くはないかも知れませんが、心も行動も雑ならば、ただのでたらめ人間ではないですか?」孔子は「その通りだ」と言った。

冉雍は民を導くすべを知っていた。孔子は王者のあるべき道を明らかにしたが、冉雍の言葉に何もつけ加える必要が無かった。(『説苑』脩文31)

そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

『説苑』と論語の本章との異同について言えば、「以臨其民」→「以道民」”それで民を導く”となっているが、大きく文意を変える異同ではない。「臨」の原義が”大いなる者が小さき者を見守る”だからだ。

本章のわかりにくさは、「簡」とは何かが分からないことにある。「簡」とは木や竹の文字札のことであり、「間」とは門のすき間を意味し、すき間から月が見えるさまを字にしたもの。「簡」の意に用いられたのも、冊子に編んだときに隙間が出来ることからだろう。

論語 竹簡

論語の本章は、孔子が「お前の言う通り」と言ったところで終わってしまったから、子桑伯子の「隙間」が、心のそれか行動か、どちらであるかは明言されていない。だが孔子が子桑伯子を「可」”悪くない”と言っていることから、心か行動かどちらかは、細やかな人物だっただろう。

さらに冉雍が、”行動だけに隙間があるのは悪くない”と言ったのに対し、孔子はそれを肯定したのだから、孔子が評価した子桑伯子の側面とは、心のそれであったに違いない。つまり孔子は、”気配りの行き届いた男だが、惜しいことに行動は雑なままだ”と評したことになる。

なお冉雍は同族の冉有と同じく、自分の学派を残さなかったから、冉雍派なる者がいて、本章を創作したとも思われない。孔門の別伝と言える『孔子家語』『孔叢子』には、冉雍と孔子の、刑罰の運用に関する問答が載るが、もっともらしくて面白くないし、史実でもなかろう。

『書経』にいわく、「憐れみ敬いながら裁判を行え」と。冉雍が問うた。「どういう意味ですか。」

孔子「昔の判事は、被告の貧しさや身分の低さを重々理解しており、独り者を憐れみ、老いたり幼かったりして弁明が上手でない者については、取り調べで十分罪状が明らかであっても、必ず憐れんで厳罰を科そうとしなかった。

死者が生き返らないように、判事は誰の味方をしてもいけない。幼い者や老人を罰するのを、法の精神に背くという。体に障害のある者を罰するのを、いじめという。罪を許さないのを、天に逆らうという。小さな間違いを取り上げて罰するのを、サドという。

だから間違いを許しささいな罪を見逃し、老人や幼い者には罰を与えないのが、いにしえの聖王の政道だった。だから書経にいわく、”死刑囚でも万一の誤審が無いかと疑え”と。さらにこうも言う。”罪の無い者を死刑に処すより、罪を犯した者を取り逃がす方がよい”と。」(『孔叢子』刑論6)

論語の本章の古注では、『孔子家語』の編者である王粛が、珍しく注を記している。ただし「可也簡」を「可なり。簡なればなり」と読むよう仕向け、論理を「簡だから可」と決め、文意を分からなくさせた原因は古注にある。論語解説「後漢というふざけた帝国」も参照。

古注『論語集解義疏』

…註王肅曰伯子書傳無見也…註以其能簡故曰可也…註孔安國曰居身敬肅臨下寛略則可也…註苞氏曰伯子之簡大簡也子曰雍之言然

孔安国 包咸
注釈。王粛「子桑伯子とは誰なのか、伝説が残っていない。」

注釈。「何事も簡素に振る舞えたので、悪くない、と孔子は言った。」

注釈。孔安国「敬い慎み深い態度をとりつつ、目下の者に寛大でこまごましたことを求めないのを、悪くない、と仲弓は言った。」

注釈。包咸「子桑伯子の簡素を大簡と言った。」(『論語集解義疏』)

論語の時代、つまり春秋時代の漢語として、「可也簡(間)」は”可とは簡だ”と解せる可能性はあるが、”簡だから可だ”と解せる記号は原文に無い。「里仁」に”仁のある里”という語順無視のデタラメ解釈を広めた後漢儒は、要するに論語を正しく読めていなかった。

新注もこの解釈に引きずられている。

新注『論語集注』

大,音泰。言自處以敬,則中有主而自治嚴,如是而行簡以臨民,則事不煩而民不擾,所以為可。若先自處以簡,則中無主而自治疏矣,而所行又簡,豈不失之太簡,而無法度之可守乎?家語記伯子不衣冠而處,夫子譏其欲同人道於牛馬。然則伯子蓋太簡者,而仲弓疑夫子之過許與?

仲弓蓋未喻夫子可字之意,而其所言之理,有默契焉者,故夫子然之。程子曰「子桑伯子之簡,雖可取而未盡善,故夫子云可也。仲弓因言內主於敬而簡,則為要直;內存乎簡而簡,則為疏略,可謂得其旨矣。」又曰:「居敬則心中無物,故所行自簡;居簡則先有心於簡,而多一簡字矣,故曰太簡。」

論語 朱子 新注 論語 程伊川
大は泰の音である。意味は自分から敬いの境地にいるということである。つまり自発的に、自分を厳しく律したという事である。であればこそ、行いを簡素にして民の前に出ると、必ず政令が簡素で民の心配事にならず、それを”悪くない”と孔子が評した。

もし自発的でなく簡素に振る舞うなら、それは必ず律する自分がいないからデタラメに陥る。その上行動が粗雑なら、どうして”大した簡素”の令名を失わず、守るべき法則を保てるだろうか。

『孔子家語』によると、子桑伯子は衣冠を正さないままだらしなく過ごしていたので、孔子先生が牛馬同然の子桑伯子を真人間にしようとして説教した。ところが子桑伯子は並外れた”簡素”だったので、仲弓は孔子の子桑伯子に対する評価を、誉めすぎだと疑った。

仲弓はおそらく、孔子先生が”悪くない”と評した意味が分からなかった。だが孔子の評はほのめかしただけではっきり言わなかったから、孔子は仲弓に”まあその通りだな”と言って話を終わらせた。

程頤「子桑伯子の簡素は、善の何たるかを全て実現はしなかったから、孔子先生は”悪くない”と評した。仲弓は先生の評が暗に、自発的に慎み深いことを簡という、と示していたので、ただ簡素なだけでなく率直である必要もあると思った。ただひたすらに簡素であるだけでは、ただのデタラメになるから、”悪くない”という評にはそこまでの暗示が含まれていた。」

程頤「慎み深く過ごしているのに、自発的でないと、行いが粗雑になる。簡素を心掛けるなら、まず自我まで簡素にならないよう気を付け、その上でひたすら簡素を心掛ける。そこまで出来れば、大いなる簡素と言える。」

新注がわけワカメなのは、宋儒の悪い癖で黒魔術を語って人を煙に巻いているからで、書き手の宋儒が何を言おうとしたか迫れば迫るほど、わけが分からなくなる。精神衛生上極めてよろしくなく、宋学のせいで人生を棒に振ったり騒動を起こした人物は、日中史上にあまたいる。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

積み重ねは学問とは限らない

その上で要らん付け足しを言うなら、人文系で地位を得た者が二言目にいう「学問とは積み重ねだ」が、話半分に聞くべきだとわかる。古注の儒者が「大簡」を何か悟った人のように記してしまったものだから、新注の宋儒はおろか現代の漢学教授まで、それに引きずられている。

つまりデタラメをどんなに積み重ねた所でデタラメの山でしかない。だから言語に限らず外国の研究で、恐ろしげな原書を「参考文献」としてむやみに書き上げる者にはおじけず、まず笑い飛ばすといい。次にその者が日本語でおかしなことを言っていないか、疑ってみよう。

とりわけ若い学徒諸子には、年かさのハッタリにくじけず、勉強を続けて頂きたい。

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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