論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
仲弓問子桑伯子。子曰、「可也。簡。」仲弓曰、「居敬而行簡、以臨其民、不亦可乎。居簡而行簡、無乃大*簡乎。」子曰、「雍之言然。」
校訂
武内本
太、唐石経大に作る。
定州竹簡論語
……間a,毋b乃大間乎?」子曰:109……
- 間、今本作「簡」。
- 毋、今本作「無」。
→仲弓問子桑伯子。子曰、「可也。間。」仲弓曰、「居敬而行間、以臨其民、不亦可乎。居間而行間、毋乃大間乎。」子曰、「雍之言然。」
復元白文
※桑→(甲骨文)。論語の本章は、也の字を断定で用いているなら、戦国時代以降の儒者による捏造の可能性がある。
書き下し
仲弓子桑伯子を問ふ、子曰く、可き也。間なればなり。仲弓曰く、敬に居り而間を行ひ、以て其の民に臨む、亦た可からず乎。間に居り而間を行ふは、乃ち大いに間なる無からむ乎。子曰く、雍の言然り。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
仲弓が子桑伯子について問うた。先生が言った。「悪くない。簡素だからだ。」仲弓が言った。「敬いの心を保って簡素でありながら、民の前に出るなら、それもまたよろしいでしょうが、簡素な心の上に簡素な態度では、簡素すぎませんか。」先生が言った。「雍の言葉は正しい。」
意訳
冉雍「子桑伯子とはどんな方でしょう。」
孔子「悪くない。簡素だからだ。」
冉雍「そうでしょうか。簡素は雑でもありえます。心が細やかな人が、飾り気の無い態度で民に接するなら、それはそれでいいでしょうが、心が雑な人ら、飾り気の無さもただの雑です。それはただの適当人間ではないですか。」
孔子「お前の言う通りだ。」
従来訳
仲弓が先師に子桑伯子の人物についてたずねた。先師がこたえられた。――
「よい人物だ。大まかでこせこせしない。」
すると仲弓がまたたずねた。――
「日常あくまでも敬慎の心を以て万事を裁量しつつ、政治の実際にあたっては、大まかな態度で人民に臨む、これが為政の要道ではありますまいか。もし、日常の執務も大まかであり、政治の実際面でも大まかであると、放慢になりがちだと思いますが。」
先師がいわれた。――
「お前のいうとおりだ。」
現代中国での解釈例
仲弓問子桑伯子這人怎樣,孔子說:「還行,辦事簡明。」仲弓說:「計劃嚴密而又行動簡明,以此來管理百姓,不也可以嗎?計劃粗糙而又行動草率,不也太隨便了嗎?」孔子說:「你說得對。」
仲弓が子桑伯子の人柄を問うた。孔子が言った。「まあまあだ。仕事が簡潔だ。」仲弓が言った。「計画が緻密で行動が簡潔なら、それで人民を管理するのは、出来るのではありませんか? 計画が粗雑で行動も軽率なら、非常にでたらめではありませんか?」孔子が言った。「お前の言い分は正しい。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
仲弓
(金文)
孔子の弟子、孔門十哲の一人、冉雍仲弓のこと。詳細は論語の人物:冉雍仲弓を参照。
子桑伯子(シソウハクシ)
「桑」(甲骨文)
古来誰だか分からない。「子」が付いているからには平民ではなかったろうし、「伯」は長男を意味するから、貴族のお坊ちゃんに生まれたのだろう。「桑伯子」で、”桑家のご長男”の意だが、その頭に「子」がつくとなると、”桑家のご長男先生”とも解せる。
別に”桑伯大先生”とも解せる。論語の時代、「子○」は”貴族の○さん/様”の意であり、「○子」は”学派棟梁の○先生”の意で、孔子などが相当する。ただし墨家だけは大仰に、墨子を「子墨子」と呼んでいる。”墨子先生先生”の意で、”大先生”に当たるだろうか。
簡→間
(金文)
論語の本章では「簡単」と言うように、簡素なこと。『大漢和辞典』の第一義は”(文字を書く)木や竹のふだ”。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、間は、門のすきまがあいて、月(日)がそのあいだから見えることを示す会意文字。簡は「竹+(音符)間(カン)」で、一枚ずつ間をあけてとじる竹の札、という。詳細は論語語釈「簡」を参照。
論語の他の箇所では、公冶長篇21で「吾が党の小子狂簡にして」と孔子の発言がある。狂はもの狂い、狂おしいほど物事に熱中することで、簡はやり方が粗雑でおおざっぱなことを言う。
居
論語の本章では”そういう態度を取る”。「居敬而行間」とは、敬=慎み深い態度でありながら、行動が間=簡素だ、ということ。「居」の詳細は論語語釈「居」を参照。
亦(エキ)
論語の本章では、”それもまた”。詳細は論語語釈「亦」を参照。
可
論語の本章では、”悪くない”。積極的に誉める意ではない。詳細は論語語釈「可」を参照。
論語:解説・付記
誰だか分からない子桑伯子について、既存の論語本では吉川本も誰だか分からないという。ただ孔子より500年後の前漢末期、劉向が書いた『説苑』に次のような記述が見える。
孔子は簡なる者を悪くないと言った。簡とは、易野=単純質素で荒削りを言う。易野な者は、礼儀や飾りごとをしない。
孔子が子桑伯子と会った所、子桑伯子は普段着のまま冠もかぶらずに座っていた。弟子曰く、「先生はなぜこんな人と会ったのですか?」孔子曰く、「このお人は人間が出来ているが、残念なことにお行儀が良くない。だからお説教してやろうと思ったのじゃ。」
孔子が辞去して、子桑伯子の門人は不満げに言った。「何で孔子と会ったのですか?」子桑伯子の曰く、「孔子どのはお人がよいが、お行儀が良すぎる。だからお説教して、良すぎるお行儀を控えさせようと思ったのじゃ。」
だから世に、お行儀も中身も良い人を君子と言い、中身は良いがお行儀の良くない人を易野と言う。子桑伯子は易野な人で、牛馬と同じような飾りのなさで人の世を生きようとした。だから冉雍は、適当人間、と言ったのだ。
上に名君がおらず、下に賢臣がいなければ、天下に原則はなくなる。臣下は君主を殺し、子は父を殺し、殴りつける力がある者は、遠慮会釈無しに人を殴りつける。孔子の時代、上には名君が居なかった。だから冉雍を南面させようとまで言ったのだ。
南面するとはすなわち天子になることで、冉雍がそこまで褒められたのは、孔子との問答が優れていたからだ。子桑伯子について孔子に問うた時、孔子は「悪くない。大らかだ」と言った。対して冉雍、「敬いの気持を持ちつつ大げさな振る舞いはしない、それで民を導くとなれば、それもまた悪くないですが、心も態度も大らかでは、ただの適当人間ではないですか?」孔子は「その通りだ」と言った。
冉雍は民を導くすべを知っていた。孔子は王者のあるべき道を明らかにしたが、冉雍の言葉に何もつけ加えられなかったのだった。(脩文篇)
上記では論語の原文も、その解釈もずいぶん違う。説苑では論語の本章を以下のように記す。
「居敬而行簡以臨其民」(その民に臨む)が「居敬而行簡以道民」(民をみちびく)になっている。ただし和刻本『論語義疏』では上掲原文のままだから、異本がいろいろあるのだろう。訳者は図らずも『説苑』を読む前に「民を導く」と訳したのだが、漢代のとある異本はそうなっているらしい。
それはどうでもいいとして、冉雍は子桑伯子を「太簡=適当人間」と評したことになる。孔子と子桑伯子の会見談が、前漢までは残っていて、すね毛をぼりぼりかきむしりながら、我が師を迎えた子桑伯子を見て、「これじゃあ牛や馬と同じだ」と、会ってがっかりしたのかも。
なお宮崎本では本章「可也、簡」を、「可や簡」と読み、子桑伯子の本名が「可」であった可能性を記している。論語で孔子が人物評をする際、「AやB」(AはBな人間だ)と言っている例が多いのを理由とする。また子桑伯子という名はどう見ても、「桑さんと言う名の貴族の長男」と読め、本名は別にあるらしいのも理由という。
それはその通りで、ならば子桑伯子は孔子が呼び捨てにしてもいい、弟子の一人だったことになる。宮崎本では子桑伯子の正体について、『荘子』に出て来る子桑戸、さらに『風俗通』に出て来る桑扈ではないかと書いている。
荘子
宮崎本ではこの問題について、全集本で5ページにもわたってあれこれ言う。同じ中国学でも哲学や文学と違って、こういう暇つぶしができるのが史学のいい所と思う。
それはともかく、そうすると『説苑』にある子桑伯子との会見談は作り事になるのだが、事実はもはや2000年以上の昔、杳として誰にも知るよしがないし、知った所で大していいこともないだろう。
蛇足ながらこのサイトでの論語のテキストは、どうやら唐石経が底本のように思えるが、他の箇所ではしばしば「民」の字を、唐の太宗李世民の名をはばかって書き換えている(避諱)のに対し、本章は例外になっている。その理由も杳として誰も知るよしは無い。
ただし李世民は避諱を免ずる詔を出したと言われる。避諱の不徹底はそれゆえだろう。