論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
宰我問曰仁者雖吿之曰井有仁焉其從之也子曰何爲其然也君子可逝也不可陷也可欺也不可罔也
校訂
東洋文庫蔵清家本
宰我問曰仁者雖吿之曰井有仁者焉其從之也與/子曰何爲其然也君子可逝也不可䧟也/可欺也不可罔也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
宰我a曰:「仁者,唯b告之曰,井有仁者c焉。其從也之d?」子131……「何爲其然也?君子可選e,不可陷也;可欺f,不可罔也。」132
- 今本「我」下有「問」字。
- 唯、今本作「雖」。唯借為雖。
- 阮本「仁」下無「者」字、皇本有「者」字。
- 也之、阮本作「之也」、皇本作「之與」。
- 可選、今本作「可逝也」。
- 今本「欺」下有「也」字。
標点文
宰我曰、「仁者唯吿之曰、『井有仁者焉。』其從也之。」子曰、「何爲其然也。君子可選、不可陷也。可欺、不可罔也。」
復元白文(論語時代での表記)
焉
※仁→(甲骨文)・欺→諆。論語の本章は、「焉」の字が論語の時代に存在しない。ただし無くとも文意が変わらない。「問」「唯」「何」「然」の用法に疑問がある。
書き下し
宰我曰く、仁なる者は之に吿げて、井に仁なる者有り焉と曰ふと唯も、其の從ふ也之か。子曰く、何爲れぞ其れ然らむ也。君子は選る可きも、陷るる可から不る也。欺く可きも、罔ふ可から不る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
宰我が問うて言った。「仁者はその人に、井戸に人が落ちてしまったと言っても、その人は従うのがこの通りですか。」先生が言った。「どうすればそのようになるか。君子を行かせる事は出来るが、落とし入れることは出来ないぞ。だますことは出来るが、ものを見えなくさせることは出来ないぞ。」
意訳
宰我「それでは我らが目指すべき立派な貴族サマとは、”人が井戸に落ちた!”といえば、ノコノコ出てきて、イソイソと井戸に入るようなまぬけに他ならない、ということですな。」
孔子「何を言うか。貴族はそう聞いて井戸までは行くだろうが、中に入りはしない。だませはするが、眼力までは奪えぬぞ。理想の貴族ならなおさらだ!」
従来訳
宰我が先師にたずねた。――
「仁者は、もしも井戸の中に人がおちこんだといって、だまされたら、すぐ行ってとびこむものでしょうか。」
先師がこたえられた。――
「どうしてそんなことをしよう。君子はだまして井戸まで行かせることは出来る。しかし、おとし入れることは出来ない。人情に訴えて欺くことは出来ても、正しい判断力を失わせることは出来ないのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
宰我問:「作為一個仁慈的人,如果有人告訴他:『有個仁慈的人落井了』,他會跳下去嗎?」孔子說:「怎麽能這樣?君子可以去救人,卻不可陷進去;可以受欺騙,卻不可以盲目行動。」
宰我が問うた。「仁慈のある人をだまして、もし彼にこう言ったとします。”仁慈のある人が井戸に落ちた。”彼は飛び込みますか。」孔子が言った。「どうしてそうなる?君子には人を救わせることはできるが、それでもだまして行かせることは出来ない。だまされはしても、むやみな行動は出来ない。」
論語:語釈
宰我(サイガ)
論語では、孔子の弟子。生没年、孔子との年齢差未詳。姓は宰、名は予、字は子我。姓が宰であったことは、あるいは宰我の出身が他の孔子塾生と異なり、庶民ではなく士分以上の貴族だった可能性を示している。詳細は論語の人物:宰予子我を参照。
「宰」甲骨文
「宰」の初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「䇂」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。論語時代では一家を治める”執事”や、都市の”代官”を意味した。孔子が初めて就いた行政職も、「中都宰」だった。また大きな行事の取り仕切り役も「宰」と呼ばれた。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。
「我」(甲骨文)
「我」の初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。定州竹簡論語では欠いている。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国時代の竹簡以降になる。詳細は論語語釈「問」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。詳細は論語における「仁」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では、”…である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
仁者
論語の本章、「仁者雖吿之曰」では、”理想の貴族”。「井有仁者」の方は、定州竹簡論語がわざわざ「者」を付けて「仁者」に仕立てているが、漢帝国儒教特有の偽善ともったい付けで、単に”人”。論語語釈「者」も参照。
おそらく事情はこうだろう。
- 誰かが「井有人」と言った、と宰我が言った
- うっかり者が「人」→「仁」と書き間違えた。古代音で同音同調。
- もったい付け儒者が「人」であることに気付きつつも、重々しくするため「仁者」にした
- それで文意がわけ分からなくなった
孟子以降の儒教では、「仁者」とは情け深い人のことであり、同業が井戸に落ちてやっと助けに行った、同業でない者なら知らんぷり、では分けが分からないだろう。孔子の言葉なら「仁者」=貴族だが、立派なおサムライなら、誰が井戸に落ちようと助けに行く、と解さねばならない。
「井有仁者」はさすがにおかしいと思ったのか、唐石経では「仁」のみを記す。対して定州本、清家本は「仁者」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。本章ではこの事情を定州本が裏付けている。ただし、だからと言って宰予子我が「仁者」と言ったとは限らないのは上記の通り。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
雖(スイ)→唯(イ)
(金文)
論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
(金文)
定州竹簡論語の「唯」の初出は甲骨文。”たとえ…でも”の語義は春秋時代では確認できない。「ユイ」は呉音。字形は「𠙵」”口”+「隹」”とり”だが、早くから「隹」は”とり”の意では用いられず、発言者の感情を表す語気詞”はい”を意味する肯定の言葉に用いられ、「唯」が独立する結果になった。古い字体である「隹」を含めると、春秋末期までに、”そもそも”・”丁度その時”・”ひたすら”・”ただ~だけ”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「唯」を参照。
「唯」のカールグレン上古音di̯wər(平・上)は「雖」si̯wər(平)に近い。それゆえ意味が共通することは、『大漢和辞典』にも記載がある。ただし初出は戦国時代の『荀子』に付けられた唐の楊倞による注で、論語の時代には適用できない。
吿(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”告げる”。初出は甲骨文。新字体は「告」。字形は「辛」”ハリまたは小刀”+「口」。甲骨文には「辛」が「屮」”草”や「牛」になっているものもある。字解や原義は、「口」に関わるほかは不詳。甲骨文で祭礼の名、”告げる”、金文では”告発する”の用例がある。詳細は論語語釈「告」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
井(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”井戸”。初出は甲骨文。井桁の象形とされ、原義は”井戸”と言われる。ただし春秋末期までの出土物に、明確にそれと解せる例は無い。甲骨文・金文では国名「邢」に用いた。金文では”刑罰”、”法律・刑法”、”見習う”に用いた。戦国の竹簡では下に「土」が加えられ、”刑罰”・”かたどる”の意に用いた。詳細は論語語釈「井」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”いる”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「ぬ」と読んで、”し終えた”を意味する完了のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞や完了・断定の言葉と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、その用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうるし、完了・断定の言葉は無くとも文意がほとんど変わらない。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その者は”。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
從(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”従う”→”言う通りにする”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「其從也之」では「や」と読んで主格の強調。それ以外では「かな」と読んで詠歎の意。「なり」と読んで断定と解してもよいが、断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
其從也之(それしたがふやこれか)
論語の本章では”そういう人=仁者がすぐさま従うのはこの通りか”。「之」は字形が足元であるように直近の事物を指し、”井戸に落ちたと言われて、「我々が目の前で見るように」、のこのこ出掛けていきますかね”と、行動に出るのを”すぐさまやる”・”かならずやる”と強調した表現。
「其」は「之」に対してやや離れた事物を指し、冒頭で宰我が主題として挙げた「仁者」を指す。文字列上やや離れているだけでなく、宰我は自分とはあまり関係の無い人物のように軽い揶揄を伴って表現している。
この部分、唐石経は「其從之也」と記し、「其」=「仁者」であるのは変わらないが、「之」は「人が井戸に落ちたという話」。清家本はさらに句末に「與」を付すが、「也」も「與」も疑問の助辞であまり意味の無い一種の畳語でしかない。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
何(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では「爲費宰」では”作る”→”…になる”。「何爲」で”どうしてそうなる”。後者の語義は春秋時代では確認できない。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
然(ゼン)
(金文)
論語の本章では”そうなる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。
君子(クンシ)
論語の本章では、”貴族”。”地位も教養もある立派な人”という通説的語義は、孔子没後一世紀に現れた孟子が提唱した「仁義」を実践する者の語義で、原義とは異なる。
孔子の生前、「君子」とは従軍の義務がある代わりに参政権のある、士族以上の貴族を指した。「小人」とはその対で、従軍の義務が無い代わりに参政権が無かった。詳細は論語における「君子」を参照。また春秋時代の身分については、春秋時代の身分秩序と、国野制も参照。
可(カ)
「可」(甲骨文)
論語の本章では”…できる”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”~のがよい”・当然”~すべきだ”・認定”~に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
逝(セイ)→選(セン)
(篆書)
論語の本章では”行く”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は、日本語音で同音の「𠧟」(廼)。字形は「辵」(辶)”ゆく”+「折」”折れる”で、「折」の意味するところは不明。原義は”行く”。”世を去る”の意は派生義。詳細は論語語釈「逝」を参照。
ここでは使役に読まないと意味が通じない。武内本によると、「よしと信じて進む」事だという。
「選」(金文)
定州竹簡論語の「選」の初出は西周中期の金文。字形は「巽」”従う”+「止」”あし”で、隷属する者に道を行かせるさま。原義は”行かせる”。詳細は論語語釈「選」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
陷(カン)
(甲骨文)
論語の本章では”穴に落ちる・落とし入れること”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。新字体は「陥」。「陥没」の「カン」。武内本によると、「悪と知りつつ押し通す」事という。初出は甲骨文。字形は「鹿」+「凵」”落とし穴”+「水」。落とし穴に獲物を落とし入れて溺れさせるさま。甲骨文の字形によっては、落とし入れられる対象に牛・羊・人がある。原義は”落とし穴で捕らえる”。甲骨文では原義に用いた。金文では”攻め入る”の意に用いた。戦国の竹簡では、”陥落させる”の意に用いた。詳細は論語語釈「陥」を参照。
欺(キ)
(前漢隷書)
論語の本章では”だます”こと。武内本によると、「いつわる」事という。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。「ギ」は慣用音。呉音は「コ」。字形は「其」+「欠」”身をかがめた人”で、「其」は音符とされる。原義は”だます”。論語時代の置換候補は「諆」。詳細は論語語釈「欺」を参照。
罔(ボウ)
「网」(甲骨文)
論語の本章では盲と音が通じて”暗い・暗くする”。武内本によると、「共謀して悪をなす」事という。「モウ」は呉音。原義は”あみ”。”くらい”を意味する同音の「亡」・「盲」と音が通じたので、”くらい”を意味するようになった。論語の時代には「亡」を省いた「网」と書かれ、「網」と書き分けられていない。音も同音。現代中国語では網やネットを「网」と書く。詳細は論語語釈「罔」を参照。論語語釈「網」も参照。
君子…罔也
「選」「陷」「欺」「罔」のうち「選」は他動詞で、「欺」も「君子」にする他動詞。「陷」「罔」は自動詞とも他動詞とも読め、じつは「欺」も”ダマシを信じる”という自動詞になり得る。春秋時代の中国語は受動態・能動態のような「態」が不明瞭で、使役を意味する補助動詞「使」などを伴わずに使役や他動詞を意味し得る。
中国語業界では、にもかかわらずこの句の主語は「君子」とし、主語は能動的に動作する「施事主語」と、本章のこの句のように受動的に動作させられる「受事主語」に分類できるという。だが現象に名前を付けただけでは、実は何も言っていないのと同じで説明にならない。
日本語で「この道は通れます」というように、中国語もまず言いたいことから言う言語で、孔子はまず「そもそも君子とはだな」と説教を始めた。人が井戸に落ちたと聞いて「可逝也」さあ大変だと駆けつけることがあるだろう、「不可陷也」だが井戸に落ちる事は無いぞ。「可欺也」だますことは出来るだろう、「不可罔也」だが目が見えなくなりはしないぞ、と言った。
動作の主体がころころ変わっているが、話のテーマは一貫して「君子はどうするか」でありブレがない。四つの動作を使役や自動詞他動詞に読むも読まないもそれぞれであり、一番話が見えやすいように訓読し、解釈すれば良い。英語文法の規則は、必ずしも中国語に通用はしないからだ。
論語:付記
検証
論語の本章は、後半のみを若干違う言葉で孟子が言ったほかは、先秦両漢の誰一人引用・再録していない。定州竹簡論語にあることから、前漢前半には論語の一章に含まれていたことが分かる。孟子が論語の一章、孔子と宰我の対話として、本章を知っていたかは分からない。
(萬章)曰:「然則舜偽喜者與?」
(孟子)曰:「昔者有饋生魚於鄭子產,子產使校人畜之池。校人烹之,反命曰:「始舍之圉圉焉,少則洋洋焉,攸然而逝。」子產曰「得其所哉!得其所哉!」校人出,曰:「孰謂子產智?予既烹而食之,曰:得其所哉?得其所哉。」故君子可欺以其方,難罔以非其道。彼以愛兄之道來,故誠信而喜之,奚偽焉?
(聖王舜は、弟に殺されかけても涼しい顔をして、弟に調子を合わせていた。)
弟子の万章「すると舜は、偽善者なのですか?」
孟子「いや、そうじゃない。むかし鄭の子産に生きた魚を贈った人がいて、子産は池の番人に渡して飼うよう命じた。ところが番人が勝手に煮て食ってしまった。そして…。」
番人「旦那様、あの魚、はじめは弱っておりましたが、池に放つと元気になりまして、余裕たっぷりに逃げてしまいました。」
子産「なるほどなあ。居るべき場所に帰ったんだな。」
番人は子産の前を引き下がって言った。「旦那様はタワケじゃな。もう食っちまったのに。”居るべき場所”とか言って感心してなさる。一体どこが賢者なのかね?」
孟子「つまりだ、立派な教養人でも方法によっては欺せる。だが道理が通っていなければ、ものを見えないようには出来ない。好意を持って近づいてくる人には、こちらも誠意で向き合うべきだ。どうして疑う必要があろうか。」(『孟子』万章上2)
論語の本章は、「焉」の字が論語の時代に存在しないが、無くとも文意が変わらず、加えて「焉」は「也」に鳥の模様を加えた装飾文字である可能性がある。上古音がまるで違うので音通とは言いかねるが、部品が語義を共有する場合、部品の初出まで時代が上がることになる。
おそらく本章は史実だろう。
解説
論語の本章、新古の注は以下の通り。
古注『論語集解義疏』
…註孔安國曰宰我以為仁者必濟人於患難故問有仁人墮井將自投下從而出之否乎欲極觀仁人憂樂之所至也…註苞氏曰逝往也言君子可使往視之耳不肯自投救之也…註馬融曰可欺者可使往也不可罔者不可得誣罔令自投下也
注釈。孔安国「宰我は、仁者は必ず人の困難を救う存在なので、同じ仁者が井戸に落ちたと聞けば、自分も井戸に入って連れ出すかどうかを問い、仁者の憂いと心配事の究極を確かめようとした。」
注釈。包咸「逝とは行くことである。ここでは、君子は行って見るだけで、自分から井戸に入って救おうとはしない、と言っている。」
注釈。馬融「可欺とは、だまして井戸まで行かせることが出来るということだ。不可罔とは、だましてみだりに自分から井戸に入らせる事は出来ないということだ。」
新注『論語集注』
劉聘君曰,「有仁之仁當作人」,今從之。從,謂隨之於井而救之也。宰我信道不篤,而憂為仁之陷害,故有此問。逝,謂使之往救。陷,謂陷之於井。欺,謂誑之以理之所有。罔,謂昧之以理之所無。蓋身在井上,乃可以救井中之人;若從之於井,則不復能救之矣。此理甚明,人所易曉,仁者雖切於救人而不私其身,然不應如此之愚也。
劉聘君は「有仁の仁は、人と改めるべきだ」と言うので、今は従う。從とは、井戸の中に入らせて救わせることだ。宰我は孔子の教説を信じる心が薄く、仁が起こす弊害を思い、この問いを発した。逝とは、行って救わせることだ。陷とは、井戸に入らせることだ。欺は、理屈を付けて相手をだますことだ。罔は、理屈為しに相手をだますことだ。
考えてみれば井戸に入らなくとも、中の人を救うことは出来る。もし同じように井戸に入ってしまったら、救う事が出来ない。この道理は全く明らかで、誰にでも分かるだろう。仁者は人を救うことに熱心ではあっても、自分の体を自分一人のものとは思わないので、そんな愚行はしないに決まっている。
さて昼寝の話(論語公冶長篇9)といい本章といい、宰我(宰予)のいい話は論語の中にないが、それでも一説に三千人居たという弟子の中から、優秀な十人の中に孟子は数えている(孔門十哲の謎)。この点『史記』孔子世家には、以下のような宰我の話を載せる。
楚の宰相、子西が楚の昭王に言った。
「王が諸侯に遣わす使者で、子貢ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王を補佐する大臣で、顔回ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王が軍を任せる将軍で、子路ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王の官吏をとりまとめる者で、宰予ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。それゆえ孔子を招くのじゃ。」
中国の諺に、「傍(はた)から観る者の目は清(す)んでいる」とあるという。孟子は弁舌の才で宰我を評価したが、部外者からは行政の才を評価されていたことになる。史料からは綺麗さっぱり消されているが、宰我が仕官して業績を挙げたことがあったのだろう。
なお孔子は楚の昭王の元へ向かう時、宰我と子貢を引き連れている。実際に昭王と子西は、宰我に会った可能性が高い。また論語の本章の質問内容は、実は論語雍也篇22「樊遅知を問う」と同じ。
仁者=春秋時代の貴族とはどうあるべきか、宰我が孔子に尋ねた話。樊遅が生まれながら士族だった可能性がある(入門前に参陣している)のに対し、おそらく宰我は他の塾生同様、庶民の出だったのだろう。だから貴族はどう行動すべきか、家族を見た実体験として知らなかった。
そういう弟子に対して、孔子は有能で高潔な貴族の姿を説いたはずである。春秋時代の身分制度がゆらぎ、社会の底辺に生まれた孔子が宰相になりはしたが、卒業生たちは既存の貴族団に割り込むのであり、血統貴族以上に貴族らしくないと、「何だあいつ」と相手にされない。
庶民出身の宰我にとって、孔子の説く貴族はいかにも絵空事に思えた。だから本章のように、「のこのこと井戸に落ちる間抜け」と言った。そう言われて怒らないのが孔子の偉いところで、貴族とはこうあるべきという確信があったから、「宰我よそれは違うぞ」と説教した。
春秋時代の貴族とは、家臣や領地領民、家職といった家産を抱えた財団法人の長で、家産を守ることが要請された。出来ないで身勝手に振る舞うと、必ず地位を追われ多くは殺される。これは国公から最下層の士族に至るまで変わらず、例えば斉の国公は4割が殺されている。
従って「人が井戸に落ちた!」と聞けば、落ちたのが誰であろうとすっ飛んで行って助けるのが貴族の常識で、「礼」とは本来、そうした貴族の常識を言う。堅苦しい作法が「礼儀三百、威儀三千」と積み重なったのは、漢儒が商売のためにでっち上げをこしらえてからである。
詳細は論語における「礼」を参照。
余話
自画像のうつろな目
儒教のうち多分にオカルトと高慢ちきの練り込まれた朱子学を、江戸幕府は国教扱いした。武芸で仕えるお侍も、一通り論語は読んでおくよう要請された。もちろん朱子学風味に偽善たっぷりの解釈で読んだのだが、うぶな日本人はそれが本当に宇宙の真理だと思ってしまった。
詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
これは悪いことばかりではなかった。民百姓の救済のため、命がけで働いた武士も少なくなかったからだ。例えば文化四年(1807)、江戸の中心・隅田川西岸と、富岡八幡宮のある東岸を渡す永代橋が落ちた。八幡宮の祭礼に押しかける群衆の余りの多さに、押しつぶされたのだ。
すでに橋が落ちたのに、詰めかける群衆は押すな押すなで押し合って、次々に人が川に放り出された。死者行方不明者合わせて1400人という。この際、「押すな押すな」を止めたのは、抜刀して人を遮った南町奉行所の渡辺小佐衛門だったという。命がけの人命救助活動だった。
wikipediaから孫引きする。
「前に進みしものの、橋おちたりと叫ぶをもきかで、せんかたなかりしに、一個の武士あり、刀を引抜きてさし上げつつうち振りしかば、人みなおそれてやうやく後へ戻りしとぞ」(曲亭馬琴『兎園小説余録』)
なおこれもwikipediaからの引用だが、罪のない大勢の人が亡くなったというのに、狂歌を書いておちょくった者が出た。
- 永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
- 御祭へ 行のの道は 近けれど まだだしも見ず 橋の落たて
下は「大江山 行く野の道は…」の小式部内侍のもじりは明らかだが、百人一首を知る程度には知識のある者が、他人の不幸は鶴の味、とばかりに書き散らした。つまり自分以外の江戸市民に、無関心ではなく遺恨があったのか、あるいは弱り目の人間を叩く朱子学の影響か。
中華文明の真髄は個人の生存で、その手段として怖くない者をいびり尽くすのがある。中国の資源は常に人口の要求を満たせないから、危害を加えて来る者でなくとも、閉じた寒村のようにいじめ出すのが常態で、少しでも弱者と見なせば、誰もがこぞって残忍の限りを尽くした。
論語雍也篇14余話「司馬遷も中国人」を参照。朱子学ももちろんそうした社会的要請を十分反映している。
とりわけ差別を強調する。中華と野蛮、身分の区別をうるさく言うのだが、こういう思想は生まれながらにして高貴な身分の者に取って一方的に都合が良い。その朱子学を松平定信が江戸社会に強要したのも好みに合ったからで、無情な狂歌は朱子学と定信の弾圧ゆえだろう。
自画像のうつろな目で分かるが、定信は本物の人格障害者で、庶民の迷惑でしかなかった。
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