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論語詳解146雍也篇第六(29)中庸の徳たるや’

論語雍也篇(29)要約:人生何事もほどほどがいい。田舎のおじさんでも言いそうな言葉ですが、生涯を激しく生きた孔子先生が言うとすごみがあります。ただし本章にしか見られず孟子や荀子も言わず、「中庸」の言葉には偽作の疑いが。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰中庸之爲德也其至矣乎民鮮久矣

  • 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰中庸之爲德也其至矣乎民鮮久矣

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「中庸之爲德也、其至矣乎。民鮮久矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 中 金文庸 金文之 金文為 金文徳 金文也 金文 其 金文至 金文矣 金文乎 金文 民 金文鮮 金文旧 金文矣 金文

※久→舊。論語の本章は、「其」「鮮」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、中庸なからいきほひいたれるなるたみあざやかになじたり

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 切手
先生が言った。「中庸の効果は、それはすばらしいものだなあ。民は明らかに、中庸になじんできたのだ。」

意訳

孔子 ぼんやり
ほどほどが一番いい。戦乱や天変地異にも拘わらず民が生き残っているのは、明らかにその効果だ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「中庸こそは完全至高の徳だ。それが人々の間に行われなくなってから久しいものである。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「中庸作為道德標準,可算至高無上了!人們缺少它很久了。」

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孔子が言った。「中庸は道徳の規準であり、至高のものといってよい!人々が忘れ去って非常に長くなった。」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

中庸(チュウヨウ)

論語の本章では、”過不足がないこと。突飛でないこと”。「中」は”まんなか”、「庸」は”ありふれた、普通の”。

『学研漢和大字典』によれば、「庸」は会意兼形声で、庚(コウ)は、Y型に立てたしん棒。庸は「庚+〔音符〕用」で、棒を手にもって突き通すこと。通と同じく、通用する、普通の、などの意を含む。また、用(もちいる)と同じ意にも使われる、という。

 

中 甲骨文 中 字解
「中」(甲骨文)

「中」は論語の本章では”中央”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。

庸 甲骨文 庸 字解
(甲骨文)

「庸」は論語の本章では”極端でない”。字形は台座に据えられた鐘の象形で、原義は”鐘を打つ”。春秋末期までに国名・人名に、また”普通の”・”雇われた”と解せる例がある。詳細は論語語釈「庸」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

爲(イ)

為 甲骨文 為 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~になる”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。

德(トク)

徳 金文 孔子 TOP
(金文)

論語の本章では”人格力”。初出は甲骨文。新字体は「徳」。甲骨文の字形は、〔行〕”みち”+〔コン〕”進む”+〔目〕であり、見張りながら道を進むこと。甲骨文で”進む”の用例があり、金文になると”道徳”と解せなくもない用例が出るが、その解釈には根拠が無い。前後の漢帝国時代の漢語もそれを反映して、サンスクリット語puṇyaを「功徳」”行動によって得られる利益”と訳した。孔子生前の語義は、”能力”・”機能”、またはそれによって得られる”利得”。詳細は論語における「徳」を参照。文字的には論語語釈「徳」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで主格の強調。”…はまさに”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それ”という指示詞。初出は甲骨文。原義は農具の。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

至(シ)

至 甲骨文 至 字解
(甲骨文)

論語の本章では”至る”→”行きつく”。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。春秋末期までに、時間的に”至る”、空間的に”至る”の意に用いた。詳細は論語語釈「至」を参照。

矣(イ)

矣 金文 矣 字解
(金文)

論語の本章では、”~である”。断定の意。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「かな」と読んで詠嘆の意。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

民(ビン)

民 甲骨文 論語 唐太宗李世民
(甲骨文)

論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱ヒキして「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。

鮮(セン)

鮮 金文 鮮魚
(金文)

論語の本章では”あざやかに”→”はっきりと”。初出は西周早期の金文。字形は「羊」+「魚」。生肉と生魚のさま。原義はおそらく”新鮮な”。春秋末期までに、人名、氏族名、また”あざやか”の意に用いた。”すくない”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「鮮」を参照。

”すくない”と解釈するのは、音の通じるせんと同義に転用された結果であり、最古の古典の一つである論語をそう解釈するのは無理がある。論語学而篇3「巧言令色」は後世の創作が確定できるので”すくない”と読んでも構わないが、論語の本章は史実の可能性があるので”すくない”と解するのにはためらいがある。

既存の論語本では、宮崎本は『礼記』の中庸篇により、鮮の下に能の字を補う。だが漢儒の作った『礼記』で、より古い論語を校訂することは出来ない。

久(キュウ)

久 秦系戦国文字 不明 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”~が続く”。初出は西周早期の金文。ただし漢字の部品として存在し、語義は不明。明確な初出は秦系戦国文字。字形の由来は不明。「国学大師」は、原義を灸を据える姿とする。同音に九、灸、疚(やまい・やましい)、玖(黒い宝石)。詳細は論語語釈「久」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章、「中庸」は儒教の上で非常に重要な概念だが、なんと孔子に次ぐ『孟子』はただの一言も言わず、孟子より60ほど年下の『荀子』が論語に次いで書いたのが再出。『小載礼記』の中庸篇はほぼ同文を引用するが、その成立はいつの事やら怪しい。荀子は言う。

請問為政?曰:賢能不待次而舉,罷不能不待須而廢,元惡不待教而誅,中庸雜民不待政而化。


政治の要点は何ですか?荀子曰く、賢者は後先考えずに任用し、愚物は後先考えずに首に出来ること。根っからの悪党は後先考えずに牢に放り込んで首を斬り、普通の有象無象は後先考えずに統治して躾ける。(『荀子』王政1)

ここで『荀子』は「中庸」を”どこと言って取り立てるほどの能の無い”の意で用いており、「其至矣乎」どころではない。本章をまとまって再録したのは、『小載礼記』の次は後漢末の『風俗通義』まで時代が下り、本章は漢儒による創作の疑いがある。

ただし文字史上は論語の時代に遡れるので、とりあえず史実として扱う。

解説

論語の本章は、毎年のように飢饉や戦乱、疫病が猛威を振るう春秋時代にあって、なお生き残り増え続ける中国人一般民衆のしぶとさを、孔子なりにそのからくりを明らかにした言葉。孔子は決して民主主義者ではないが、民の力強さを素直に認める眼力は持っていた。

ただし上記の通り、孔子が中庸を説いた可能性は怪しく、論語の中で「中庸」が出てくるのは本章のみに過ぎない。『小載礼記』から『中庸』を独立させたのは、南宋の朱子まで時代が下るが、本章は古注や唐石経にあることから、宋儒が創作して論語に押し込んだわけではない。

古注『論語集解義疏』

註庸常也中和可常行之徳也世亂先王之道廢民鮮能行此道久矣非適今也


注釈。庸とは常に、の意である。極端でなく調和したことを、いつでも実践できるようになる道徳である。ところが論語の時代は乱世で、いにしえの聖王の道が廃れていたから、この道徳を実践できる民は少なかったのである。今は乱世ではないから、この言葉は当てはまらない。

新注は次の通り。

新注『論語集注』

鮮,上聲。中者,無過無不及之名也。庸,平常也。至,極也。鮮,少也。言民少此德,今已久矣。程子曰:「不偏之謂中,不易之謂庸。中者天下之正道,庸者天下之定理。自世教衰,民不興於行,少有此德久矣。」


鮮の字は尻上がりに読む。中とは、行きすぎも不足もないことを言う。庸とはつねひごろである。至は、極みである。鮮は、少ないである。その徳を、民が失って久しいことを説いたのである。

程頤「片寄りが無いのを中といい、常に変わりが無いのを庸という。中は天下の正しい筋道であり、庸は天下の決まり切ったことわりである。ところが正しい教えが世に衰えて、民はこの道理を実践しなくなってしまった。この道理がか細くなってから、ずいぶん時間が過ぎたのである。」

程頤の言うことは、いつもながらのオカルトだから、真に受けなくてよい。中と庸の何たるかを明瞭に示さず、ただハッタリを読み手にかましているだけだからだ。中庸が片寄りが無いことであるのはその通りだが、「天下之道理」ではありえない。

参考記事:論語雍也篇3余話「宋儒の高慢とオカルト」

人界も自然現象も、常に激しく揺り動いている。どんな指標でも良いから、毎日点を打ってグラフの線を引いてみるとよい。確かに行きすぎは、最終的には揺り戻されるが、どこまで行きすぎるか、いつ行きすぎが止むか、どこまで揺り戻されるかは誰にも分からない。

グラフは過去しか示さないからだ。

疫病の新規感染者数のグラフを見て、今減っているか増えているかの傾向は分かるが、一瞬先に急増したり、急減したりしない保証は誰にも出来ない。孔子と同時代のブッダが説いた通りで、中国は漢字と帝国儒教を維持し続けたから、「天下之道理」などないと知れなかった。

まして確率統計の知識の無い漢儒や宋儒が、どんなに言葉を操って中庸を称揚しようとも、役人や政治家としての彼らは、常に行きすぎを止めることに失敗した。極端を止められたように見えるのは、のどの渇いた人に水をやるというような、結果が明らかな場合に限る。

あるいは、たまたま運がよかったかだ。政権や王朝や人間集団が最終的に必ず滅ぶのは、誰にもどうしようも無いから滅ぶのであり、例えば戦争に反対する人道主義は讃えられても、それが本当に戦争を止められるかと言えばそうでない。誰にも止められないから起こるのだ。

江戸時代、日本の国教は事実上朱子学で、朱子学の基本教科書は『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書だった。武士は幕臣も諸藩士も、基礎教養として四書を読まされたし、要職に在る者の大半は、『中庸』を穴が開くほど読んだはずだが、それでも江戸幕府は滅びた。

いくら四書五経を暗記しようとも、『史記』『漢書』『資治通鑑』をそらんじようとも、フェートン号は人をさらうしレザノフは暴れ回るし、ペリーは押し込んできた。人為すらどうにもできない漢学が、まして「天下之道理」で森羅万象を制御できる力などあるわけがない。

従って現代の論語読者は、中庸をメルヘンと解するのがよく、孔子の言とも限らない。

宮崎市定
なお論語の本章は、古来難解な章だと言われてきた。既存の論語本では宮崎本に、「民鮮きこと久しとあるが、これだけではどうも意味がはっきりしない。…礼記中庸篇に殆どそのまま引用されているのであるが…民の能くすること鮮きや久しとあって…民そのものが少ないのでなく、中庸を良く守ることのできる者が少ないのであり、この方がずっと分かりよい。」とある。

子曰、中庸其至矣乎。民鮮能久矣。(『礼記』中庸篇)

藤堂本では補わずに、同様の訳を導いている。いや、お見事!

藤堂明保
先生が、こう言われた。「右にも左にも片寄らず、今と昔の調和を得て通用する中庸という生き方の根本は、こよなくみごとなものである。しかし、中庸を身につけた人は世に稀なるままに、久しい年月を経てきたものよ!」(藤堂明保『論語』)

余話

もっと火を噴いた

宮崎市定は中国史全般にわたって本が書けた最後の漢学教授で、たいていの漢学教授は「○代における○省○村の肥溜めの形状に関する一考察」のように、誰一人読みたがらないような論文を書く能しか無かったから、宮崎博士は今なお日本漢文業界のヒーロー扱いされている。

とはいえその説が正しい保証はなく、上記の通り成立が前漢まで下る礼記を根拠に、春秋時代の論語を訂正するのは手前味噌のたぐいと言うしかない。今ではITのおかげで、素人でも宮崎博士をはるかに凌駕する漢語や漢籍の情報を処理できる。拝むのは間違いというものだ。

漢文いじりには二つの側面がある。一つは解読で、何が書いてあるか正確に読解することがその作業だ。もう一つは表現で、古くさい墓石のような漢文を、普通の人にも分かって貰えるような言葉にして読み聞きして貰う芸能の作業だ。宮崎博士は後者に長けた。

凡百の漢学教授はどちらの能も無かったから、ひたすらハッタリをかけるか、大声を出して脅しつけるしか能が無かった。それらの多くは男性だったから、愚行の対処は考えやすい。男のする愚行はおおかた暴カのたぐいだから、より大きな暴カで脅し上げればすぐに鳴り止む。

道場にて、訳者。

対して異性の愚行は難しい。何を仕出かすか想像が付かないから、対処の仕方が分からない。知り手でためしに手を付けてみたら、もっと火を噴いて大きくなることは少なくない。「女がわめいていたら逃げろ」という諺が西洋にはあると落合信彦が『極言』に書いている。

「女性に手を上げる男は最低だ」と言われるのは、そういう男が実際に最低なばかりでないし、何も女性ばかりに一方的に都合の良い言葉ではない。女性に手を上げた男は、結局はもっとひどい報復を受けて大損をするから止めておけ、という人界の智恵である。

有惧內者。欲訪其類扳十弟兄。城中已得九人矣。尚缺其一。因出城訪之。見一人掇馬桶出。衆齊聲曰。此必我軰人也。相見。到相訪之意。其人搖手曰。我在城外做苐一箇到不好。與你城中做苐十箇。


恐妻家が集まって、十人で結社を作ろうと考えた。まちじゅうを探して九人までは集まったが、最後の一人がいない。仕方なくまちの外へ探しに行くと、女もののおまるを下げて捨てに行く男に出会った。九人が声を揃えて「この人こそ最後の一人だ」と言い、仲間に入れと誘う。だがその男は手を振って言った。「いやですね。私はこれでもまちの外では筆頭ですぞ? あんた方の末席になるなんてとんでもない。」(『笑府』巻八・十弟兄)

もちろん同性だからと言って必ずしも正しい対処が分かるわけではない。高い周波数でキャンキャン吠える男は珍しくなく、自分の「弱者」を逆手にとって脅しに来るたちの悪い連中はいくらでもいる。そうなったら世界共通の智恵、「○゛○とは関わるな」しか有効な手がない。

中華文明の祖と崇められる孔子先生も、次のように言わされている。

論語 孔子 不気味
バカに付ける薬はないな。(論語陽貨篇3)
『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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