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論語詳解142雍也篇第六(25)觚、觚ならず’

論語雍也篇(25)要約:論語には今では意味が分からない言葉も沢山使われています。むしろ2500年前の話が、分かる方が奇跡に近いのです。本章もそうした一つで、本当の意味は何なのか、情報の彼岸へ去ってしまいました。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰觚不觚觚哉觚哉

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰觚不觚/觚哉觚哉

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子曰、「觚不觚、觚哉。觚哉。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 角 金文不 金文角 金文 角 金文哉 金文 角 金文哉 金文

※「觚」→「角」。

書き下し

いはく、つののさかづきつののさかづきならつののさかづきならむつののさかづきならむ

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子別像
先生が言った。「この觚は觚でない、觚か、觚か。」

意訳

論語 孔子 不愉快
御神酒を供えるのに、弟子がはやりの杯を持ってきた。何だ今どきの杯は。こんなの杯じゃない。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
()には(かど)があるものだが、この觚には(かど)がない。(かど)のない()()だろうか。(かど)のない()()だろうか。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「這種祭禮用具,四不象,這是什麽用具!」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「こんな祭礼用具は、ろくでもないものだ。これはいったいどんな道具だ。」

論語:語釈

、「 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

觚(コ)

觚 隷書 觚 字解
(前漢隷書)

論語の本章では、”コと呼ばれる儀式に用いる杯”。論語では本章のみに登場。初出は前漢の隷書。同音に瓜を部品とする漢字群。いずれも”さかずき”の語義が無く、論語時代の金文や甲骨文にも遡れない。字形は「角」+「瓜」で、「瓜」は音符。おそらく「コ」と呼ばれる、動物の角を使った酒器だった。上古音で同音、かつ論語の時代に存在したのは、「孤」”みなしご”のみ。しかも出土例は一件を除き国名「孤竹」の一部。例外例は殷代末期の金文「子弧𣪕」に「子孤」とあり、人名と解せるが、また殷王族の一人称とも考え得る。詳細は論語語釈「觚」を参照。

『字通』は次の通り、「角」を殷周時代の酒器とする。

[象形]獣角の形。〔説文〕四下に「獸角なり。象形」とし、字形について「角と刀魚と相ひ似たり」とする。漢碑の〔曹全碑〕〔景北海碑〕などの鰥(かん)の字形を、角に従う形に作る。殷周の酒器に角とよばれる酒器があり、古く角を酒器に用いたなごりである。

ただし角が酒器として使われたことは認めるにしても、「コ」という種の酒器が論語の時代に存在したことにはならない。従って、「觚」の論語時代の置換候補は暫定的に「角」だが、確定的にそう主張できるわけではない。

「觚」は明の万暦三十五年(1607)に完成した『三才図会』によれば下のような形。しかし論語時代の觚がいかなる姿で、孔子が奇異に思ったはやりの杯がどんな形だったか、もはや誰にもわからない。

『三才圖會』所収「觚」東京大学東洋文化研究所蔵

なお武内本は、新古の注の受け売りでなく、独自に次のように注釈を付けている。

武内義雄
〔古は燕礼酒をむに觚を用いるは、孤寡すくなきをよしとするなり。今飲酒度なくして、〕觚、ひとつ(孤)ならず、觚ならむや、觚ならむや。

つまり古い作法では、酒はほんの少々でいいとされていたのに、今は大っぴらに大酒を食らうので、孔子がそれを嘆いて、「盃一杯でおしまい、というわけに行かなくなった。しかしそれでおしまいにしよう。おしまいにしよう」と言った、と解している。

「觚」カールグレン上古音はkwo(平)で、「孤」kwo(平)と同音だから、この説には一定の説得力がある。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…かよ”。詠歎の籠もった反語の意を示す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、前漢中期埋蔵の定州竹簡論語に無く、先秦両漢で引用や再録したのは下掲『塩鉄論』ただ一件に限られる。「觚」→「角」の置換は暫定的でしかなく、論語の本章の史実を断じかねるが、とりあえず史実として扱う。

解説

漢帝国きっての暴君で、国費を乱費した前漢中期の武帝が死ぬと、その不始末の後始末のため、時の権力者の一人霍光が、全国からメルヘンをこじらせたはな垂れ儒者を集めて、宰相相手に気勢を上げさせた。それが「塩鉄会議」であり、その記録を『塩鉄論』という。

文學曰:「西子蒙以不潔,鄙夫掩鼻;惡人盛飾,可以宗祀上帝。使二人不涉聖人之門,不免為窮夫,安得卿大夫之名?故砥所以致於刃,學所以盡其才也。孔子曰:『觚不觚,觚哉,觚哉!』故人事加則為宗廟器,否則斯養之爨材。干、越之鋌不厲,匹夫賤之;工人施巧,人主服而朝也。夫醜者自以為姣,故飾;愚者自以為知,故不學。觀笑在己而不自知,不好用人,自是之過也。」

塩鉄論
はな垂れ儒者「孟子が言ったように、絶世の美女である西子も下肥をかぶってしまえば、田舎オヤジも鼻をつまんで遠ざける。悪党も飾り立てれば、天の最高神を祀る真似が出来る。

宰相殿は”孔子の弟子にも子路や宰我のような者がいて、性根を叩き直すことは出来なかった”というが、その二人が孔子の聖なる教えに接していなかったら、ただの貧乏人になっていたはずで、どうして上級貴族に出世できただろうか。

砥石は刃物を磨くものであり、学問はその人の才を引き出すものだ。孔子は言った。”觚は觚ならず…”と。つまり人間界に変更を加えるなら、それに適した祭祀の道具を作る。単なる煮炊きの道具なのではない。

さすまたやまさかりの刃が赤錆びていれば、どこの家事使用人でも”コリャあダメだ”と言うだろう。職人は腕を振るい、君主はその衣冠を身につけて臣下を引見する。ブサイクほど自分を美形と思うから、びらびらと着飾る。バカは自分が利口だと思っているから、学問をしない。自分から人のもの笑いになっているのに、それを悟らず、賢者を高い地位に就けようとしない。自分でそういう間違いをやっているのだ。」(『塩鉄論』殊路6)

ごちゃごちゃとウンチクを垂れた挙げ句、要するに自分らにも高い官職を与えろと言っているだけで、論語の本章を理解する足しになるわけではない。ただ論語の本章が、あまりに引用が無いこと、前漢中期ごろに孔子の言葉として認識されていたことが分かる。

前漢年表

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しかし偽作とするには、儒者の動機が分からない。論語に神秘性を加えようとしたのだろうか。前漢の時代、孔子の言葉は全て論語に記載されていると思われていたわけではないから、塩鉄会議のはな垂れ儒者も、論語の一節として「觚不觚」と言ったとは限らない。

本章が確実に論語に含まれたのは、後漢末から南北朝にかけて編まれた古注からで、その時代は丁度、玄学という神秘主義が、学界を独占していた時期でもある。「玄」とは暗くてよく分からないことで、「ゲン」(ハッタリ)と極めて音が近かった。

古注『論語集解義疏』

…註馬融曰觚禮器也一升曰爵三升曰觚也…註觚哉觚哉言非觚也以喻為政不得其道則不成也

馬融
注釈。馬融「觚は祭祀に使う道具である。一升入りのを爵といい、三升入りのを觚と言った。」

注釈。「觚哉觚哉とは、これは觚ではないと言ったのである。それは当時の政治批判でもあり、政道がまともでなく上手く機能していないことを非難したのである。」

「三升」とあるのはは中国系の版本(知不足斎叢書本/欽定四庫全書本)で、古注は中国で一旦全部焼けて、清代に日本から逆輸入したが、日本の版本では「二升」になっている。

鵜飼文庫 論語義疏

鵜飼文庫『論語義疏』

現存する最古の論語の注釈本である、宮内庁書陵部蔵南宋版『論語注疏』では「馬曰觚禮器一升曰爵二升曰觚」とあるから、「三升」は清儒がやらかした間違いだろう。ところが古注の馬融と同時代の『説文解字』は次のように言う。

觚、鄉飲酒之爵也。一曰觴受三升者謂之觚。从角瓜聲。

許慎
觚とは、礼法に定められた田舎の宴会に用いる酒器である。一説に、三升入りの盃を觚という。角の字形に属し、瓜の音である。(四部叢刊初編版『説文解字』巻六角部2843)

これ以上の文字異同の追いかけ回しは、閲覧者諸賢もうんざりだろうし訳者も飽きてきたので止めにするが、論語時代の一升がどれほどだったかもはや分からない。秦漢帝国では約200ccだったという。そうなると觚1杯で二升なら400cc、三升なら600ccになる。

当時は蒸留酒が出来る前だったし、自然酵母を用いて醸すなら、穀物酒や果実酒のアルコール度数は5%前後だから、觚の一杯は現代で言えばビールのロング缶一本に相当する。論語郷党篇8に、”底なしの酒飲み”と書かれた孔子にとって、觚一杯がそれほどの大酒とは思えない。

今一つの孔子伝説である『孔叢子』も、孔子の飲みっぷりを伝えている。

平原君が孔子の末裔の子高と飲み、子高に酒を強いて言った。

「古いことわざにこう言いますね、堯舜は千鍾飲んだ、孔子は百觚飲んだ、子路はおしゃべりしながら酒樽で十杯飲んだと。昔の聖人賢者は、みな大酒飲みです。あなたはどれほどいけますか?」

子高「私の聞くところでは、聖人賢者は人徳で人を救いますが、飲食で救うとは言いません。」
平原君「では先生の仰る通りなら、孔子の大酒飲みばなしがどうして生まれたのですか?」

子高「孔子の酒飲み話は、ほんの冗談で、事実ではありますまい。」
平原君は喜んで言った。「私も先生に冗談を言いますまい。お聞きでしょうが、これはただの昔の言い伝えです。」

(『孔叢子』儒服)

これに対して従来訳のような解釈が出るのは、新注による。

新注『論語集注』

觚,音孤。觚,棱也,或曰酒器,或曰木簡,皆器之有棱者也。不觚者,蓋當時失其制而不為棱也。觚哉觚哉,言不得為觚也。程子曰:「觚而失其形制,則非觚也。舉一器,而天下之物莫不皆然。故君而失其君之道,則為不君;臣而失其臣之職,則為虛位。」范氏曰:「人而不仁則非人,國而不治則不國矣。」

論語 朱子 新注
觚は孤の音で読む。觚とはトンガリである。説によって酒器と言い、木簡だと言う。いずれも道具の中で、トンガリがあるものである。不觚とは、おそらく当時の道具が決まり通りに作られず、トンガリが無かった事を言うのだろう。觚哉觚哉とは、これでは觚ではない、と言ったのである。

論語 程伊川
程頤「觚なのに決まり通りの形でなければ、それは觚ではないのである。觚一つを例にとって、天下の何もかもが、掟破りであることを示したのである。だから君主は君主らしさを失えば、それはもう君主でない。臣下がその仕事をおろそかにすれば、職分は名目だけになってしまう。」

范祖禹
范祖禹「人のくせに憐れみのない者は人でなしで、国のくせに治まらないのは国ではない。」

朱子は遠慮がちに「蓋し当時は…」と酒器にカドが無いことを述べただけなのだが、中国では明帝国以降、日本では江戸以降、朱子の説が正統とされ国教の地位にあったから、遠慮した思い付きも事実として扱われた。実験による検証や数理的な論理整合性を取れなかったからだ。

だから中国人自身も面白がって、本章をバカにした。

公冶長解禽言,一時孔子聞鳩啼,曰:“此何云?”答曰:“他道‘觚不觚’。”又聞燕語,曰:“此何云?”答曰:“他道‘知之為知之,不知為不知,是知也’。”又聞驢叫,曰:“此何云?”曰:“此不可知,似講鄉談耳。”嘲河南人。

公冶長 ハト
孔子の弟子の公冶長は鳥の言葉が分かったが、ある日孔子の座る窓の外に鳩が止まって「コーフーコー」と鳴き始めた。何を言っているんだと孔子が問うて公冶長曰く、「觚、觚ならず」(論語雍也篇25:觚不觚コーフーコー)。次に燕が飛んできたので問われて曰く、「之を知るを之を知ると為し、知ら不るを知ら不ると為す、是知る也」(論語為政篇17知之為知之チーシウェイチーシ不知為不知プーチーウェイプーチー是知也シーチイェ)。最後にロバが来ていなないたので問うと、「はて、なまっていてよく分かりませんな。」

この話は、河南人のなまりをからかったのである。(『雪濤閣四小書』三)


*公冶長の異類言語解読伝説は論語公冶長篇1余話を参照。

筆写の江盈科(1553-1605)は科挙を最終試験まで突破した本物の儒者だが、そんな立場の者にも論語の本章は馬鹿馬鹿しく思えた。と言うわけで論語の本章が史実かどうかはわからず、本章からどんな教訓を読み取れるのかも全然分からない。全ては情報の彼岸へ逝ってしまった。

だから新史料が発掘されるまで、本章は分からないものとしてそっとしておこう。

余話

こっ…このワシが

以下は余話だけにホラ話であり、真に受けないで頂きたい。

「觚」の上古音での同音で論語の時代に存在したのは「孤」の字だけであり、仮に論語の本章が伝聞に基づいて伝承された話とすると、”孤は孤でない。孤だなあ、孤だなあ”の意となる。だが出土例から「孤」の字は国名「孤竹」の一部として見られるのがほとんど。

この国は、現在の遼東半島あたりにあった、殷の諸侯国の一つとされる。中国史上最古のニート兄弟、伯夷と叔斉の出身国とされるが、この兄弟が『史記』その他の伝説が言うような偉人ではなく、街宣右翼と変わらないたちの悪い連中だったことは、論語公冶長篇22を参照。

「孤竹」でない出土品の用例は、2022年3月末時点で一件のみで、殷代末期の金文に「子孤」とあるのがそれ。「子○」は論語の時代では一般貴族や弟子級の知識人に対する敬称だが、それを殷代末期にまで適用できるとは限らない。だが否定材料もないので人名と解する。

すると「孤」って何だ、という問題に突き当たる。論語語釈「孤」に記したように、おそらく”みなし子”の意ではなく、殷王族の自称だっただろう。そもそも「子」が殷の王子を意味しており、「瓜」はウリではなく「爪」であり、王族が手ずからものを宣言する字形だった。

孔子は”ワシは殷の末裔じゃ”と最晩年に弱り切って子貢につぶやいたという(『史記』孔子世家)。身長2mを超す巨人で、ペニシリンとハーバーボッシュ法の無い時代に70過ぎまで生き、武術の達人で当時の誰よりも知能に優れ学識があった孔子も、寄る年波には勝てなかった。

自分の出生を輝かしい王族などに結びつける心神的虚弱は、最晩年になるまで孔子には見られない。ともあれ孔子世家の記述が確かなら、死を前にした孔子が、”ワシはかつてのようなワシではのうなってしもうた。このワシが、このワシが…。”と本章を解しうるのである。

というようなことを、歴代の儒者は思い付きだけを根拠にもっと雑に書き続けてきたのだ。

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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