論語詳解114公冶長篇第五(22)伯夷叔斉旧悪を*

論語公冶長篇(22)要約:後世の創作。孔子先生の当時は周王朝。前王朝の殷に武力で取って代わりました。しかしそれを押しとどめようとした貴族の二人の兄弟。先生はいにしえの人格者として評価した、ことになっていますが、はて。

このページの凡例

論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「伯夷、叔齊、不念舊惡、怨是用希。」

校訂

定州竹簡論語

(無し)


→子曰、「伯夷、叔齊、不念舊惡、怨是用希。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 伯 金文夷 金文 叔 金文斉 金文 不 金文念 金文旧 金文悪 金文大篆 夗 怨 金文是 金文用 金文

※惡→(金文大篆)・怨→夗。論語の本章は「希」の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、伯夷はくい叔齊しゆくせいふるにくみをおもれば、うらみまれなり。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

孔子別像
先生が言った。「伯夷ハクイ叔斉シュクセイは昔の憎悪を思わなかったので、怨みはそれでほとんど無かった。」

意訳

孔子 人形
伯夷と叔斉はさばさばとしていたので、成り上がりに失敗しても、怨まないで飢え死にした。革命家はこうでなくちゃな。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
伯夷(はくい)叔斉(しゅくせい)は人の旧悪を永く根にもつことがなかった。だから人に怨まれることがほとんどなかったのだ。」

下村湖人先生『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「伯夷、叔齊不記仇,怨恨他們的人也就很少。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「伯夷と叔斉は、恨みを記憶せず、彼らを怨んだ人はそれによって非常に少なかった。

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

、「 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

伯夷(ハクイ)・叔齊(シュクセイ)

新字体では伯夷・叔斉。

論語では、古代中国の辺境にあったとされる孤竹国の公子兄弟とされる。その実、古代中国で最も有名なニートの兄弟。形式上、殷の臣下だった周が、いろんな事情で殷に反乱したのだが、「反乱」の後ろめたさに気付いたこの兄弟が、周の親玉・武王に、「お前さんはろくでなしだ(ワシらを黙らせたかったら官職を寄こせ)」とゆすった、と『史記』に書いてある。

西伯卒,武王載木主,號為文王,東伐紂。伯夷、叔齊叩馬而諫曰:「父死不葬,爰及干戈,可謂孝乎?以臣弒君,可謂仁乎?」左右欲兵之。太公曰:「此義人也。」扶而去之。

論語 史記
西伯が死んで武王があとを継いだ。武王は西伯の位牌を車に乗せて「文王」と記し、殷の紂王を討つ軍勢を東に向けて出発させようとした。すると草むらに潜んでいた伯夷・叔斉の兄弟が、武王の車の引き馬に飛び付いて言った。「父上が亡くなったのに葬式も出さない。代わりに戦争を始めた。親不孝にもほどがある。家臣の分際で主君をそうとしている。お前さんはろくでなしだ。」怒った衛兵が武器を向けた。

太公望「ハイハイご立派ご立派、ちょっとあっちへ行こうね。」衛兵に言い付けて、しがみついている二人を馬から引きはがし、「オイ! こいつらをどっかに捨ててこい。」(『史記』伯夷伝)

伯夷叔斉
やったことは街宣右翼のたぐいと変わらない。中国では生まれた男の子を歳の順に伯・仲・叔・季と呼ぶので、伯夷は”長男の夷”、叔斉は”三男の斉”という意味。孤竹国は竹簡や青銅器に物証があり、現在の遼寧省にあった殷の諸侯国。

上掲の『史記』に「孝」「仁」と出てくるが、殷末周初、「孝」の字はあったが”孝行”の意味では使われていない(論語語釈「孝」)。「仁」の字は長らく忘れられており、しかも”情け・思いやり”という語義が出来るのは、600年以上先の戦国時代のことだ(論語における「仁」)。

つまり上掲『史記』の伝説は怪しいのだが、偽作は中国人の習性というもので(論語雍也篇9余話)、明代に偽作された古文書『今本竹書紀年』には、殷紂王の盛時に伯夷と叔斉が中国大陸を横断して周にやってきた、ことにしている。大陸打通作戦で戦った帝国陸軍の兵隊さんもびっくりだ。

帝辛、名受。…二十一年、春正月,諸侯朝周。伯夷、叔齊自孤竹歸於周。

竹書紀年
殷の帝辛、名は受。…二十一年の春正月、諸侯が(殷ではなく)周に年始参りにやってきた。伯夷と叔斉は、孤竹国からやって来て周の家臣になった。(『今本竹書紀年』帝辛)

この偽書では殷の滅亡を紂王五十二年としているから、三十年以上もタダ飯を食わせてくれた周に対して、ニート兄弟がさらなるタカリに励んだことになる。下記する「ワラビの歌」では失敗して食いはぐれ、飢え死にしたはずだが、この程度の矛盾を気にしたら漢籍は読めない。

なお「解説」に記すが、戦国時代の孟子は伯夷は知っていても叔斉は知らなかった。すると孔子も知らなかったはずで、伯夷と叔斉を兄弟と言い出したのは、孟子と同時代人の荘子。論語の本章も「叔斉」部分は史実性が一層怪しい。

白川静 白川静 字通
なお伯夷を白川博士は「周と通婚関係にあった姜姓諸族の祖神である」と書くが(『字通』叩字条)、誰も知るよしの無い中国古代の祭祀なるものを、根拠も記さず見てきたようにベラベラと書く白川博士の話は信用し難い。

白 甲骨文 百 字解
「白」(甲骨文)

「伯」の字は論語の時代、「白」と書き分けられていない。初出は甲骨文。字形の由来は蚕の繭。原義は色の”しろ”。甲骨文から原義のほか地名・”(諸侯の)かしら”の意で用いられ、また数字の”ひゃく”を意味した。金文では兄弟姉妹の”年長”を意味し、また甲骨文同様諸侯のかしらを意味し、五等爵の第三位と位置づけた。戦国の竹簡では以上のほか、「柏」に当てた。詳細は論語語釈「伯」を参照。

夷 甲骨文 夷 字解
「夷」(甲骨文)

「夷」の初出は甲骨文。字形は「矢」+ひもで、いぐるみをするさま。おそらく原義は”狩猟(民)”。甲骨文での語義は不明。金文では地名に用いた。詳細は論語語釈「夷」を参照。

叔 甲骨文 叔 字解
「叔」(甲骨文)

「叔」の初出は甲骨文。字形は「廾」”両手”+”きね”+”臼”で、穀物から殻を取り去るさま。ゆえに「まめ」の意がある。原義は”殻剥き”。甲骨文では地名、”包み囲む”の意に、金文では人名、”赤い”の意に用いた。”次男”を意味するのは後世の転用。詳細は論語語釈「叔」を参照。

斉 金文 斉 字解
「齊」(甲骨文)

「齊」の新字体は「斉」。初出は甲骨文。新字体は「斉」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

念(デン)

念 甲骨文 念 字解
(甲骨文)

論語の本章では“思う”。論語では本章のみに登場。「ネン」は呉音。初出は甲骨文。字形は転倒した「𠙵」”くち”+「心」で、口を閉ざして心で思うこと。原義は”思う”。甲骨文では人名に、金文では原義に用いた(毛公鼎・西周末期)。現代中国語ではブツブツつぶやくことであり、本を音読することを「ニエンシュー」、黙読することを「カン书」といって使い分ける。詳細は論語語釈「念」を参照。

舊(キュウ)

旧 甲骨文 旧 字解
(甲骨文)

論語の本章では”以前の”。新字体は「旧」。初出は甲骨文。字形は鳥が古い巣から飛び立つ姿で、原義は”ふるい”。甲骨文では原義、地名に用い、金文では原義、”昔の人”、”長久”の意に用いた。詳細は論語語釈「旧」を参照。

惡(アク/オ)

悪 楚系戦国文字 悪 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”憎悪”。現行字体は「悪」。初出は西周中期の金文。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「アク」で”わるい”を、「オ」で”にくむ”を意味する。字形は「亞」”はかあな”+「心」で、落ち込んで気分が悪いさま。原義は”嫌う”。詳細は論語語釈「悪」を参照。

なお『論語集釋』は「別解」として次のように記す。

四書改錯。此惡字卽是怨字,猶左傳「周鄭交惡」之惡。舊惡卽夙怨也。惟有夙怨而相忘,而不之念,因之恩怨俱泯,故怨是用希。此必有實事而今不傳者。若善惡之惡,則念時未必知,卽不念亦不必使惡人曉。且不念已耳,人亦定無以我之念不念分恩怨者,何爲怨希? 論語稽:舊惡,毛奇齡以爲夙怨,義長,當從之。夷齊之清,雖周武猶不如其意,似難與之相處矣。然惡惡雖嚴,而中無城府,所以人不怨之也。


清儒・毛奇齢の『四書改錯』にいう。この「悪」の字は「怨」を意味する。『春秋左氏伝』に「周と鄭がたがいにうらみあった」(隠公三年)とあるのと同じである。つまり「旧悪」とは積み重なった恨みに他ならない。ただし積み重なった恨みを丸ごと忘れたので、思い出すことがなく、その結果恩も恨みも消えてしまった。だから「恨みがまれだった」のである。この裏には、今は伝わっていない史実が何かある。もし「悪」の字が善悪の悪だったら、悪を思うような者は必ずしも知者とは言えず、悪を思わない者も、必ずしも悪人でないことは明らかだ。もし悪を思わなかっただけなら、悪を思う思わないで恩や恨みのあるなしを分別できないのだから、どうして「恨みがまれだった」と言えるのか?

また清儒・宦懋庸『論語稽』にいう。「旧悪」を毛奇齢は積み重なった恨みだとしたが、その解釈は優れており、従うべきである。伯夷叔斉の清潔さは、周の武王だろうとその境地には至れなかった。だから共に世を生きることが出来なかったのである。悪を憎むのは他罰的ではあるが、官職目当てに憎んだのではないから、人は伯夷叔斉を怨まなかったのである。

怨(エン)

怨 楚系戦国文字 夗 怨 字解
(楚系戦国文字)

論語の本章では”うらむ”。初出は楚系戦国文字で、論語の時代に存在しない。「オン」は呉音。同音に「夗」とそれを部品とする漢字群など。論語時代の置換候補は「夗」。現伝の字形は秦系戦国文字からで、「夗」”うらむ”+「心」。「夗」の初出は甲骨文、字形は「夊」”あしを止める”+「人」。行きたいのを禁じられた人のさま。原義は”気分が塞がりうらむ”。初出の字形は「亼」”蓋をする”+うずくまった人で、上から押さえつけられた人のさま。詳細は論語語釈「怨」を参照。

是(シ)

是 金文 是 字解
(金文)

論語の本章では”…は…だ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは…だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”…は…だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。

用(ヨウ)

用 甲骨文 用 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”用いる”→”これで”。初出は甲骨文。字形の由来は不詳。字形の由来は不詳。ただし甲骨文で”犠牲に用いる”の例が多数あることから、生け贄を捕らえる拘束具のたぐいか。甲骨文から”用いる”を意味し、春秋時代以前の金文で、”…で”などの助詞的用例が見られる。詳細は論語語釈「用」を参照。

是用(…は、もって)

論語の本章では”それは、…の結果…だ”。伝統的には「これもって」と読み下すが、「を」が指し示す目的語が述語動詞の後ろに来るのは、漢語としておかしい。

希(キ)

希 隷書 希 字解
(秦代隷書)

論語の本章では”少ない”。初出は戦国末期の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音は「屎」”くそ”のほかは「希」を部品とする漢字群。字形は「爻」”占いの卦”+「巾」”垂れ帯”で、原義は不詳。文献ではまず”まれ”の意に用い、次いで”望む”の意に用いた。詳細は論語語釈「希」を参照。

怨是用希

論語の本章では、”それで怨みをほとんど持たなかった”。

太公望にキ印扱いされた伯夷叔斉は、『史記』によると革命後に食いはぐれ、山に隠れてワラビを取って食い、腹が減って飢え死にした。死に際に当てつけがましい歌(下記)を作って残したとされるから、「怨まなかった」という本章の孔子の理解とは、一見、矛盾する。

安能務によると、伯夷叔斉が走り出たのは官職目当てのプレゼンといい、武王の名誉欲をくすぐって職にありつこうとしたが、失敗したから飢え死にしたとする。孔子も伯夷には思う所があったらしく、子貢に質問された時に以下のように答え(させられ)ている。

「先生、伯夷・叔斉ってどんな人ですかね。」
「何の謎かけだ。むかしの偉人だろうが。」
「せっかく殷周革命に乗って成り上がろうとしたのに、プレゼンには失敗する飢え死にはする、やるんじゃなかったと後悔したんですかね。」
「いや。革命軍の前で大演説を一席ぶって、名前だけでも天下公認の仁者になれたんだ。満足だろうよ。」(論語述而篇14)

満足して死んだと孔子が言ったとされたことから、本章は伝統的に「人から怨まれない」と解された。言いだしたのは朱子である。しかし論語の本章に、受け身を表す記号はないから、「怨まれる」と解してはわけが分からない。分からないからありがたいのかも知れない。

新注『論語集注』

伯夷、叔齊,孤竹君之二子。孟子稱其「不立於惡人之朝,不與惡人言。與鄉人立,其冠不正,望望然去之,若將浼焉。」其介如此,宜若無所容矣,然其所惡之人,能改即止,故人亦不甚怨之也。○程子曰:「不念舊惡,此清者之量。」又曰:「二子之心,非夫子孰能知之?」

論語 朱子 新注 論語 程伊川
伯夷と叔斉は孤竹国君の公子二人である。孟子は讃えて、「悪党の王朝には仕官せず、悪党の言論には味方しなかった。田舎の人と共に過ごし、もっともらしい礼服は脱ぎ捨て、周武王のような悪党に仕えるのは恥ずかしいと言って、どこかへ去った。泥水同然だと思ったのである」と書いた。その潔癖はこの通りで、まるで人を受け入れる事が無かったが、兄弟に嫌われた人は、自分の間違いに気付き改める事が出来た。だから好き勝手しても人に怨まなかったのだ。

程頤「相手の以前の悪事を忘れる、これこそが潔癖な者が心得るべき度量だ。」「この兄弟の心を、孔子先生が理解出来ぬはずがないだろう?」

周王朝を理想の王朝と讃え、文王武王を聖王と普段褒めちぎっておきながら、ここでは悪の帝国とその親玉呼ばわりしている。ご都合主義にも程がある。吉川本にも、さすがに本章では朱子の説に疑問があるかのように記している。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、前漢中期成立の『史記』伯夷列伝に、孔子の言葉として全文が再録されている。しかし文字史的に春秋時代に遡れない事、とりわけ「希」の字の初出が秦帝国成立直前であることから、おそらく前漢儒による創作だろう。

解説

朱子が引用した孟子の伯夷叔斉伝説は下掲の通りだが、論語同様、書き物『孟子』も後世の儒者がいじくらなかったという保証は全くない。

孟子曰:「伯夷,非其君不事,非其友不友。不立於惡人之朝,不與惡人言。立於惡人之朝,與惡人言,如以朝衣朝冠坐於塗炭。推惡惡之心,思與鄉人立,其冠不正,望望然去之,若將浼焉。是故諸侯雖有善其辭命而至者,不受也。不受也者,是亦不屑就已。柳下惠,不羞汙君,不卑小官。進不隱賢,必以其道。遺佚而不怨,阨窮而不憫。故曰:『爾為爾,我為我,雖袒裼裸裎於我側,爾焉能浼我哉?』故由由然與之偕而不自失焉,援而止之而止。援而止之而止者,是亦不屑去已。」
孟子曰:「伯夷隘,柳下惠不恭。隘與不恭,君子不由也。」

孟子
孟子が申しました。「伯夷は暗君には仕えず、馬鹿者とは付き合わなかった。悪の王朝には仕えず、悪党の言論には味方しなかった。そんなことをすれば、威儀正しく整えた衣冠を、ドブに捨てるのと同じと考えたからだ。

悪を憎むこと甚だしく、素朴な田舎の人と共に生きようとしたから、衣冠を捨てて、恥じ入るように山奥へ隠れた。周王朝を泥水のたまりとみなしたからだ。だからこの時、諸侯の中には伯夷を惜しんで、丁寧に招こうとした者もいたのだが、断ってしまった。諸侯も所詮は周王の手下だから、その手下になっては身が汚れると思ったのだ。

それに対して、孔子先生より170年ほど前、魯国には柳下恵という名家老がいたが、暗君に仕えても平気だったし、小役人の職にも恥ずかしがらなかった。才能を隠さなかったし、それで正しい政道を行った。無能扱いされても怨まなかったし、閑職に回されても塞ぎ込まなかった。

だから人にこう言えた。”君は君、私は私。君が私の隣で半裸になり、ふざけた振る舞いをしようとも、私が悪いわけではない”と。だから大腹中の人物としてどんな人とも付き合いながら、人の言うがままにはならなかったし、招かれれば誰にでも仕えた。だがこれでは身の清潔とは言えないだろう。」

さらに孟子が申しました。「伯夷は了見が狭すぎるし、柳下恵は節操がなさ過ぎる。だが君子としてもっといけないのは、了見が狭い上に不節操なことだ。」(『孟子』公孫丑上9)

ここで注目すべきは、孟子は伯夷を言っても叔斉とは言っていないことで、伯夷と叔斉がセットになったのは、実は戦国時代中期、BC373-BC278年間の「上海博物館蔵戦国竹簡」成王篇からになる。この期間は孟子の生涯と重なるのだが、孟子は叔斉を知らなかったらしい。

……白(伯)𡰥(夷)、外字 叔(叔)齊

一方で孟子(BC372?-BC289?)と同時代を生きた荘子(BC369?-BC286?)は、伯夷と叔斉をセットで記している。荘子は宋国の出身で、宋国は周に滅ぼされた殷の遺民の国だった。つまり周の武王を悪党呼ばわりする動機はあったわけで、兄弟伝説の発生源ではないかと思われる。

伯夷叔斉の歌は高校教科書にも載るほど有名だが、再録しておく。

伯夷叔斉
采薇歌(サイビのうた)
登彼西山兮、采其薇矣。(むこうの西の山に登って、そこでワラビを取る。)
兮、不知其非矣。(カをカでうちひしぐ、その非道を知らない。)
神農、虞、夏、忽焉沒兮。(太っ腹な太古の聖王名君は、とっくに死んでしまった。)
我安適歸矣。(この世のどこにも、タダ飯にありつける場所が無くなった。)
于嗟徂兮、命之衰矣。(あーあ。腹が減って死にそうだ。)

ここで伝統的には「命」を”天命”と読み、天の教えが通じない、ひどい世の中になったと解釈する。司馬遷もそのつもりで載せたらしい。しかし食いはぐれの歌に、突然天命うんぬんではワケが分からない。

また「をもってにかえ」とは殷周革命を指しているが、中国では一般的に、前王朝の一族は全国津々浦々を探し出されて、一人残らず皆しにされる。周はそれをしなかったというのが定説で、殷の旧都・朝歌に領地まで与えて優遇したのに、何と反乱を起こされた。

紂王の子・武庚が、周で武王が崩御し幼い成王が立ったのを見て、周の不満分子と共に決起したのだが(三監の乱)、摂政の周公旦は鎮圧に二年もかかったという。だがそれでも殷を根絶やしにはせず、早くから周に帰順した殷王族の微子啓に、宋の地を与えて優遇した、とされる。

しかし同時代人のこういう証言から、そんな生やさしいものではなかった可能性を残している。旧殷王室の替え玉候補は、広い中国にいくらでも居ただろうからだ。中国の政変とは、時に全人口の半数以上が死に絶える。日本人の想像を絶している。
械闘

実際、宋に与えた地は淮河の低湿地で、古代では住むにも耕作するにも難儀する土地だった。また殷の遺民全てを宋に与えたわけではなく、半分は朝歌に止めて周王族の衛康叔の監視下に置いた。孔子にとって縁の深かった衛国は、この時を発祥とする。

論語に話を戻せば、孔子はこの歌を知りながら、怨みの歌と解さなかったか、孔子以後に作られた歌ということになる。前者なら、儒者は孔子を、その好んだ人物はとことん褒めちぎるサービス精神旺盛な人に造形し、伯夷叔斉に怨みなどあってはならないと考えたらしい。

これは現実政治家・革命家としての孔子とは矛盾しない。大昔に没した人物をどれほど褒めようがけなそうが、全く困りはしないからだ。けなせば化けて出るとも思わなかった。孔子は霊魂のたぐいを信じなかったことが分かっている(孔子はなぜ偉大なのか)。

なおこの歌を、『史記』の編者である司馬遷は「逸詩」と書いている。つまり孔子と不可分の正統的な詩集である『詩経』から漏れた詩だという。司馬遷は自分で取材の旅に出たから、その過程で知ったのだろう。するとおそらく、孔子はこの歌を知らなかった可能性が高い。

やはり本章は、儒者のでっち上げである。

余話

頭おかしいんじゃないの

荘子による伯夷叔斉伝説を記しておこう。いわゆる伯夷叔斉伝説とはひと味違う。

昔周之興,有士二人處於孤竹,曰伯夷、叔齊。二人相謂曰:「吾聞西方有人,似有道者,試往觀焉。」至於岐陽,武王聞之,使叔旦往見之,與盟曰:「加富二等,就官一列。」血牲而埋之。二人相視而笑曰:「嘻!異哉!此非吾所謂道也。昔者神農之有天下也,時祀盡敬而不祈喜;其於人也,忠信盡治而無求焉。樂與政為政,樂與治為治,不以人之壞自成也,不以人之卑自高也,不以遭時自利也。今周見殷之亂而遽為政,上謀而下行貨,阻兵而保威,割牲而盟以為信,揚行以說眾,伐以要利,是推亂以易也。吾聞古之士遭治世不避其任,遇亂世不為苟存。今天下闇,周德衰,其並乎周以塗吾身也,不如避之以絜吾行。」二子北至於首陽之山,遂餓而死焉。若伯夷、叔齊者,其於富貴也,苟可得已,則必不賴。高節戾行,獨樂其志,不事於世,此二士之節也。

論語 荘子
むかし周が勃興した頃、二人の紳士が孤竹国に住んでいた。名を伯夷、叔斉という。二人は相談した。「西方に人物がいると聞いた。道を心得た人らしい。ためしに行って見てみよう。」

周の根拠地だった岐山の南麓に着くと、武王が二人のうわさを聞いて、周公旦を使いにやってこう言わせた。「武王殿下のかたじけない思し召しであるぞ。第二級の俸禄を与えるゆえ、官職に就きなさい。ゆめゆめ疑うなかれ」と誓約のために犠牲獣を屠って地に埋めると、二人は互いを見ながら笑って言った。

「アハハ、頭おかしいんじゃないの。これは道と言えるものではないな。むかし神農が天下を治めたとき、時折天地の神を祭って敬意を示したが、願い事をしなかった。人付き合いというものは、相手に誠実を尽くしはしても、見返りは期待しないのが道理だ。政治は鼻歌を歌いながらするから世が治まるので、人の悪事を真似ないから成り立ち、人の卑しさを真似ないから高潔になり、偶然を当てにしないから業績が上がるのだ。

いまこの周の国は殷の混乱を見て、むらむらと政治いじりを始めた。君主は悪だくみをし、家臣はカネ稼ぎに忙しく、民との間を軍隊で隔てて威張り返り、つまらぬことでも一々犠牲を屠って誓いを立てる。物事を大げさに言いふらして庶民をだまし、流血沙汰で大儲けしようとしている。要するに殷の混乱に図乗りして、カで天下をいいようにしようと企んでいるのだ。

むかしの紳士は治まった世なら任官を拒まなかったが、乱世ではさっさと官職を辞めた。今や天下は闇に沈み、周の道徳は衰えた。こんな連中と付き合ってはいられない。さっさと逃げて清潔を保とう。」

二人は首陽山の北麓に移り、そのまま飢え死にした。こんな伯夷叔斉でも、もし高位高禄の身分だったら、仕方のないことではあるが、必ず無頼のやからに落ちただろう。精神を高く保って行動を高潔にし、誰にも頼らず自分の願いを自分だけで完結させ、仕官しなかったのが、この二人の節操というものだった。(『荘子』譲王16)



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