論語詳解114公冶長篇第五(22)伯夷叔斉旧悪を*

論語公冶長篇(22)要約:孔子先生の当時は周王朝。前王朝の殷を武力で滅ぼして、天下を取りました。しかしそれを押しとどめようとした貴族の二人の兄弟。先生はいにしえの人格者として評価した、ことになっていますが、はて。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「伯夷、叔齊、不念舊惡、怨是用希。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 論語 伯 金文夷 金文 論語 叔 金文斉 金文 不 金文念 金文旧 金文論語 亜 金文 夗 怨 金文論語 是 金文論語 用 金文

※惡→亞・怨→夗。論語の本章は希の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による捏造である。

書き下し

いはく、伯夷はくい叔齊しゆくせい舊惡きうあくおもはず、うらみここもつまれなり。

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 孔子別像
先生が言った。「伯夷ハクイ叔斉シュクセイは昔の憎悪を思わなかったので、怨みはそれでほとんど無かった。」

意訳

ニセ孔子
伯夷と叔斉はさばさばとしていたので、成り上がりに失敗しても、怨まないで飢え死にした。革命家はこうでなくちゃな。

従来訳

論語 下村湖人
先師がいわれた。――
伯夷(はくい)叔斉(しゅくせい)は人の旧悪を永く根にもつことがなかった。だから人に怨まれることがほとんどなかったのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「伯夷、叔齊不記仇,怨恨他們的人也就很少。」

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孔子が言った。「伯夷と叔斉は、恨みを記憶せず、彼らを怨んだ人はそれによって非常に少なかった。

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

、「 。」


伯夷(ハクイ)・叔齊(シュクセイ:叔斉)

論語 叔 金文 論語 斉 金文
「叔斉」(金文)

古代中国で最も有名なニートの兄弟。論語では、古代中国の辺境にあったとされる孤竹国の公子兄弟とされる。

『史記』によれば殷周革命(BC1046頃)の際、出陣する周武王の隊列の前に走り出て、「父親が死んだのにろくに弔いもせず、干戈カンカ(さすまたと鎌状のほこ)=戦争をおっ始めようとする。それも臣下の分際で主君を討とうとする。お前さんはろくでなしだ」と叫んだとされる。論語 干戈

怒り狂った武王の近衛隊が、二人を血祭りに挙げようとした所、人聞きの悪さとのちのちの面倒くささを思った軍師の太公望が、「はいはい、ご立派ご立派、あっちへ行こうね」と言って引き下がらせたという。

なお中国では生まれた男の子を歳の順に伯・仲・叔・季と呼ぶので、伯夷は”長男の夷”、叔斉は”三男の斉”という意味。

伯夷を白川博士は「周と通婚関係にあった姜姓諸族の祖神である」と書くが(『字通』叩字条)、誰も知るよしの無い中国古代の祭祀なるものを、根拠も記さず見てきたようにベラベラと書く白川博士の駄ボラは信用し難い。

論語の本章では“思う”。論語では本章のみに登場。詳細は論語語釈「念」を参照。

論語の本章では”うらみ”。この文字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しないが、同音の夗を用いて夗心と二文字で書かれた可能性がある。詳細は論語語釈「怨」を参照。

論語 希 金文大篆 論語 希
(金文大篆)

この文字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はxi̯ərで、同音は屎”くそ”のほかは希を部品とする漢字群。詳細は論語語釈「希」を参照。

怨是用希

論語の本章では、”それで怨みをほとんど持たなかった”。

「希」は『学研漢和大字典』によると会意文字で、「メ二つ(まじわる)+巾(ぬの)」で、細かく交差して織った布。すきまがほとんどないことから、微小で少ない意となり、またその小さいすきまを通して何かを求める意となった。幾(こまかい、わずか)と同系のことば。

類義語の望は、見えないものを待ち望むこと、という。

論語の本章での「用」は「以」と同じで、上を承けて下を導く役割をする。「怨希」と二文字で済むところ、孔子はもったいを付けて言わされている。

太公望にキ印扱いされた伯夷叔斉は革命後に食いはぐれ、仕方なく山に隠れてワラビを取って暮らし、さすがに腹が減って飢え死にした。死に際に当てつけがましい歌(下記)を作って残したとされるから、「怨まなかった」という本章の孔子の理解とは、一見、矛盾する。

安能務によると、伯夷叔斉が走り出たのは官職目当てのプレゼンといい、武王の名誉欲をくすぐって職にありつこうとしたが、失敗したから飢え死にしたとする。孔子も自分が革命家だから、この兄弟には思う所があったらしく、子貢に質問された時に以下のように答えている。

「先生、伯夷・叔斉ってどんな人ですかね。」
「何の謎かけだ。むかしの賢者だろうが。」
「せっかく殷周革命に乗って成り上がろうとしたのに、プレゼンには失敗する飢え死にはする、やるんじゃなかったと後悔したんですかね。」
「いや。革命軍の前で大演説を一席ぶって、名前だけでも天下公認の仁者になれたんだ。満足だろうよ。」(論語述而篇14)

満足して死んだと孔子が言ったとされたことから、本章は伝統的に「怨まれない」と解された。そう言いだしたのは朱子である。しかし論語の本章に、受け身を表す記号はないから、「怨まれる」と解してはわけが分からない。分からないからありがたいのかも知れない。

論語:解説・付記

吉川本にも、さすがに朱子の説には疑問があるかのように書いている。

伯夷叔斉の歌は高校教科書にも載るほど有名だが、再録しておく。

論語 伯夷叔斉
采薇歌(サイビのうた)
登彼西山兮、采其薇矣。(むこうの西の山に登って、そこでワラビを取る。)
以暴易暴兮、不知其非矣。(暴力を暴力でうちひしぐ、その非道を知らない。)
神農、虞、夏、忽焉沒兮。(太っ腹な太古の聖王名君は、とっくに死んでしまった。)
我安適歸矣。(この世のどこにも、タダ飯にありつける場所が無くなった。)
于嗟徂兮、命之衰矣。(あーあ。腹が減って死にそうだ。)

ここで伝統的には「命」を”天命”と読み、天の教えが通じない、ひどい世の中になったと解釈する。司馬遷もそのつもりで載せたらしい。しかし食いはぐれの歌に、突然天命うんぬんではワケが分からない。

また「暴をもって暴にかえ」とは殷周革命を指しているが、中国では一般的に、前王朝の一族は全国津々浦々を探し出されて、一人残らず皆殺しにされる。周はそれをしなかったというのが定説で、殷の旧都・朝歌に領地まで与えて優遇したのに、何と反乱を起こされた。

紂王の子・武庚が、周で武王が崩御し幼い成王が立ったのを見て、周の不満分子とつるんで蹶起したのだが、摂政の周公旦は鎮圧に二年もかかったという。だがそれでも殷を根絶やしにはせず、早くから周に帰順した微子啓に、宋の地を与えて優遇した、とされる(→孔子家語)。

しかし同時代人のこういう証言から、そんな生やさしいものではなかった可能性を残している。殷の遺族の替え玉候補は、広い中国にいくらでも居ただろう。中国の政変とは、時に全人口の半数以上が死に絶える。日本人の想像を絶している。
論語 械闘

論語に話を戻せば、孔子はこの歌を知りながら、怨みの歌と解さなかったか、孔子以後に作られた歌ということになる。前者なら、儒者は孔子を、その好んだ人物はとことん褒めちぎるサービス精神旺盛な人に造形し、伯夷叔斉に怨みなどあってはならないと考えたらしい。

これは現実政治家・革命家としての孔子とは矛盾しない。大昔に没した人物をどれほど褒めようがけなそうが、全く困りはしないからだ。古代人だけに、けなせば化けて出るかもとは思ったろうが、褒めたのに化けて出られるとは思わなかっただろう。

だが本章が捏造となると、どうでもいいことになる。

なおこの歌を、『史記』の編者である司馬遷は「逸詩」と書いている。つまり孔子と不可分の正統的な詩集である『詩経』から漏れた詩だという。司馬遷は自分で取材の旅に出たから、その過程で知ったのだろう。するとおそらく、孔子はこの歌を知らなかった可能性が高い。

やはり本章は、儒者のでっち上げである。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だし、訳者に連絡のお気遣いも不要だが(ただしネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。

言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。それでもやるなら、覚悟致せ。

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