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論語詳解140雍也篇第六(23)知者は水を°

論語雍也篇(23)要約:文字的には史実と言えますが、内容的には孔子先生の教説とそぐいません。頭のいい人は水を好んでよく動き、人生を楽しむ。仁者は山を好んで静かであり、長生きする。どうしてそうなのか誰も教えてくれません。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰知者樂水仁者樂山知者動仁者靜知者樂仁者壽

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰智者樂水/仁者樂山/智者動/仁者静/智者樂/仁者壽

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)


→子曰、「智者樂水、仁者樂山。智者動、仁者靜。智者樂、仁者壽。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 智 金文者 金文楽 金文水 金文 仁 甲骨文者 金文楽 金文山 金文 智 金文者 金文動 金文仁 甲骨文者 金文靜 金文 智 金文者 金文楽 金文 仁 甲骨文者 金文壽 金文

※仁→(甲骨文)。論語の本章は、「動」の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、さとものみづよろこび、よきひとなるものやまよろこぶ、さとものうごき、よきひとなるものしづかなり。さとものよろこび、よきひとなるものいのちながし。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
先生が言った。「知者(礼法を知る者)は川を喜び、仁者(礼法を身につけ実践する貴族)は山を喜ぶ。知者は動き、仁者は静かである。知者は楽しみ、仁者は長生きする。」

意訳

孔子
諸君は礼法を知るにつけ、この世の変化のことわりが分かってくるだろう。だから川の流れのような動くものを面白く感じるようになる。

だが礼法を学び終えて、仕官して実践するようになると、変化に応じるのがいかに大変か分かってくるだろう。だから山のように動かないものに畏敬の念を抱く。

礼法を知った当初は面白くて、いそいそと立ち働いてあれこれとやってみたくなるだろう。だがやがて経験を積み、熟練の役人としてものに動じなくなるだろう。

礼法も、知ってあれこれやってみるのは楽しいものだ。だがものに動じなくなった者は、長生きをするものだ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「知者は水に歓びを見出し、仁者は山に歓びを見出す。知者は活動的であり、仁者は静寂である。知者は変化を楽み、仁者は永遠の中に安住する。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「明智的人喜歡水,仁慈的人喜歡山;明智的人好動,仁慈的人好靜;明智的人快樂,仁慈的人長壽。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「智恵ある者は水を喜ぶ。仁に優れた者は山を喜ぶ。智恵ある者は好んで動く。仁に優れた者は好んで静まる。智恵ある者は楽しんで過ごす。仁に優れた者は寿命が長い。」

論語:語釈

、「 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

知(チ)→智(チ)

唐石経は「知」と記し、清家本は「智」と記す。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い文字列を伝えており唐石経を訂正しうる。従って「智」へと校訂した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知るということ”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

定州竹簡論語は論語の本章全文を欠くが、普段は「智」の異体字「𣉻」と記す。通例、清家本は「知」と記し正平本も「知」と記す。文字的には論語語釈「智」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

樂(ラク)

楽 甲骨文 楽 字解
(甲骨文)

論語の本章では”楽しむ”。初出は甲骨文。新字体は「楽」。原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。

水(スイ)

水 甲骨文 水 字解
(甲骨文)

論語の本章では”水”。初出は甲骨文。字形は川の象形。原義は”川”。甲骨文では”みず”、祭礼名、”水平にする”の意に用い、金文では原義で(同簋・西周中期)、求める(沈子簋・西周早期)の意に用いた。詳細は論語語釈「水」を参照。

動(トウ)*

動 金文 動 字解
毛公鼎・西周末期

論語の本章では”動く”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。ただし字形は「童」。その後は楚系戦国文字まで見られず、現行字体の初出は秦の嶧山碑。その字は「うごかす」とも「どよもす」とも訓める。初出の字形は〔䇂〕(漢音ケン)”刃物”+「目」+「東」”ふくろ”+「土」で、「童」と釈文されている。それが”動く”の語義を獲得したいきさつは不明。「ドウ」は慣用音。呉音は「ズウ」。西周末期の金文に、「動」”おののかせる”と解釈する例がある。春秋末期までの用例はこの一件のみ。原義はおそらく”力尽くでおののかせる”。詳細は論語語釈「動」を参照。

仁(ジン)

仁 甲骨文 貴族
(甲骨文)

論語の本章では、”貴族(らしさ)”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。

通説的な解釈、”なさけ・あわれみ”などの道徳的意味は、孔子没後一世紀後に現れた孟子による、「仁義」の語義であり、孔子や高弟の口から出た「仁」の語義ではない。字形や音から推定できる春秋時代の語義は、敷物に端座した”よき人”であり、”貴族”を意味する。

ただし論語の本章には内容的に疑わしい点があり、後世の創作とするなら、通説通り”なさけ・あわれみ”と解すべき。詳細は論語における「仁」を参照。

山(サン)

山 甲骨文 山 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”山”。初出は甲骨文。「セン」は呉音。甲骨文の字形は山の象形、原義は”やま”。甲骨文では原義、”山の神”、人名に用いた。金文では原義に、”某山”の山を示す接尾辞に、氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「山」を参照。

動(トウ)

動 金文 論語 史記 秦軍
(金文)

論語の本章では”動く”。初出は西周末期の金文。ただし字形は「童」。語義ははっきりしない。春秋末期までの用例はこの一件のみ。”おののきおそれる”と解する例もある。「ドウ」は慣用音。呉音は「ズウ」。秦の篆書の字形は、「童」+「力」。”どよもす”の語義がある。詳細は論語語釈「動」を参照。

靜(セイ)

静 金文 靜 字解
(金文)

論語の本章では”静かである”。新字体は「静」。初出は西周早期の金文。字形は”苗”+「井」+「爭」”大ガマで草を刈る”で、畑を耕すさま。字形から来る原義は不詳だが、おそらく”穏やかに耕作する暮らし”。金文では人名に用いたほか、”平定する”、”安静”の意に用いた。詳細は論語語釈「静」を参照。

壽(シュウ)

寿 金文 寿 字解
(金文)

論語の本章では”長命”。新字体は「寿」。「ジュ」は呉音。初出は西周早期の金文。字形は「老」の略体+「𠃬」”いかづち”=”天の神”+「𠙵」”くち”。天の意志によって生かされている老人をことほぐさま。原義は”寿命”。金文では”寿命”・”年齢”、”老人”、”長寿”の意に用いた。詳細は論語語釈「寿」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は定州竹簡論語から漏れ、「動」の字が”うごく”と明瞭に読めるのは後漢になってからで、最後の「知者樂,仁者壽」を除いて、先秦両漢の誰一人引用も再録もしていない。うち「仁者壽」を記したのは前漢初期の陸賈『新語』だが、孔子の言とは言っていない。

仁者、道之紀,義者、聖之學。學之者明,失之者昏,背之者亡。陳力就列,以義建功,師旅行陣,德仁為固,仗義而彊,調氣養性,仁者壽長,美才次德,義者行方。君子以義相褒,小人以利相欺;愚者以力相亂,賢者以義相治。《穀梁傳》曰:「仁者以治親,義者以利尊。萬世不亂,仁義之所治也。」

陸賈
仁者は、人の道が模範にする。義者は、聖人が学ぼうとする。これらを学んだ者はよくものが見え、学ばない者は見えず、背く者は滅びる。努力して仕官し、正しいやり方で功績を挙げ、いくさに従軍し、徳と仁を強固にし、義憤に突き動かされて強く、気を整え生命力を養う。だから仁者は寿命が長く、才能の有る者は徳を受け継ぎ、義者は行いが正しい。君子は義を計って人を誉め、小人は利益を図って人をだます。愚者は力に頼って乱し合い、賢者は義に頼って助け合う。『春秋穀梁伝』にいわく、「仁者は世を和らげることで親しまれ、義者は鋭い観察眼で尊ばれる。万年に渡って平和が続くなら、仁と義が揃って世を治めたのだ。(『新語』道基21)

ただし文字史的には論語時代に遡れ、史実を疑うことが出来ない。だが内容的には、孔子の教説とは一致しない。論語の本章の真偽については、保留しておくのが無難と思う。

解説

上掲『新語』について、そもそも「仁」の定義が孔子生前と、孔子没後一世紀後の孟子からでは全然違う(論語における仁)。陸賈の「仁」はまだ孔子の「仁」に近いが、「仁者以治親」からは、孟子の言った「仁義」=”情け深さ”のにおいも感じられ、ひと筋縄ではいかない。

後漢年表

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「仁者壽」に「知者樂」が加わって共に孔子の言葉とされたのは、後漢初期の王充『論衡』からで、それ以降は疑われなくなった。おそらくこの頃に、論語の本章は論語の一節として繰り込まれたのだろう。そうなると堰を切ったように、二度焼き三度焼きが出た。

或問:「孔子稱『仁者壽』,而顏淵早夭;『積善之家必有餘慶』,而比干、子胥身陷大禍,豈聖人之言不信而欺後人耶?」

徐幹
ある人が問うた。「孔子は”仁者は寿命が長い”と言いましたが、顔淵は若死にしました。”善行を積み重ねた家には必ず幸運が舞い込む”と言いましたが、殷の比干や呉の伍子胥は惨殺されました。どうして聖人は、でたらめを言って後世の人を迷わせたのですか?」(後漢末・徐幹『中論』天寿1)

哀公問於孔子曰:「智者壽乎?仁者壽乎?」孔子對曰:「然!人有三死而非其命也,己自取也。夫寢處不時,飲食不節,逸勞過度者,疾共殺之;居下位而上干其君,嗜慾無厭而求不止者,刑共殺之;以少犯眾,以弱侮強,忿怒不類,動不量力,兵共殺之。此三者,死非命也,人自取之。若夫智士仁人,將身有節,動靜以義,喜怒以時,無害其性,雖得壽焉,不亦宜乎!」

孔子家語
哀公が孔子に問うた。「智者は寿命が長いか? 仁者は寿命が長いか?」

孔子「その通りです。人には天寿を全うしない死に方が三つあります。いずれも自分で自分を殺すのです。寝るべきで無いときに寝、飲食を慎まず、怠けるにも働くにも度を超す者は、病気になって早死にします。身分が低いのに目上をおびやかし、欲が深すぎて締まりがない者は、刑罰に遭って早死にします。仲間が少ないのに空威張りし、弱いくせに強い者にケンカを売り、何かにつけ怒ってばかりいて、いざその時になって味方がいない者は、兵乱に遭って早死にします。この三つが、天寿を全うしない死に方です。こういう目に遭う者は、自分で自分を殺すのです。もし智士仁人なら、我が身を慎み、動くにも道理に従い、喜怒も時を超さず、生命力を損ないませんから、長生きしたとしても、たいそう目出度いことではないでしょうか。」(『孔子家語』五儀解14)

『孔子家語』の成立は『史記』と同じく前漢中期で、定州漢墓竹簡にも論語と共に収められている。ただし全文では無く断片で、おそらく祖型が前漢中期までに出来上がっていただけで、現伝の話が出そろうのは、後漢から三国に掛けての王粛の筆になる。

いずれにせよ孔子の教説ではあり得ない。孔子塾は庶民が入門して、そこで貴族にふさわしい技能教養を身につけて、貴族へと成り上がるための塾だった。従ってその教説は実用的な技術や方法論でなければ、誰にとっても明らかな道徳論だった。

知者がなぜ水を楽しむか。仁者がなぜ山を楽しむか。知者がなぜ動くか。仁者がなぜ静かか。知者がなぜ楽しむか。仁者がなぜ長生きするのか。その答えは誰にも分からす、仕官や官界で生き残っていくに役立つ知識でも無い。儒教を黒魔術化したい誰かが偽作した可能性がある。

後漢末から三国に掛けて流行ったこういう神秘主義の黒魔術を、玄学という。玄学ɡʰiwen(平)という言葉の初出は『晋書』だが、もちろん聞いた者は衒学ɡʰien(去)=”知識を誇って人を馬鹿にする”を連想した。恥ずかしげもなく学をてらう儒者が、当時の主流だったわけ。

そして後漢末から南北朝にかけて編まれた古注によって、玄学が確定された。

古注『論語集解義疏』

…註苞氏曰智者樂運其才智以治世如水流而不知己也…註仁者樂如山之安固自然不動而萬物生焉…註苞氏曰自進故動也…註孔安國曰無欲故靜也…註鄭𤣥曰智者自役得其志故樂也…註苞氏曰性靜故夀考也

包咸 孔安国 鄭玄
注釈。包咸「智者は運命を楽しみ、その才智で世を治めると水のように自分を低くして己を忘れるのである。」

注釈。「仁者が楽しむさまは山のようにどっしりしており、放置して自分は何もしないつもりで万物を生み出す。」

注釈。包咸「智者は自発的に進んでいくので動くのである。」

注釈。孔安国「仁者には欲が無いから静かなのである。」

注釈。鄭玄「智者は自発的に働いて願望を達成するので楽しむのである。」

注釈。包咸「仁者は性格として静かなので、長生きするのである。」

注釈者が言っているA→Bが、まるで非現実的なデタラメであることを、誰もが読み取れるだろう。論語解説「後漢というふざけた帝国」も参照。

ついでに新注も確認しておこう。

新注『論語集注』

知,去聲。樂,上二字並五教反,下一字音洛。樂,喜好也。知者達於事理而周流無滯,有似於水,故樂水;仁者安於義理而厚重不遷,有似於山,故樂山。動靜以體言,樂壽以效言也。動而不括故樂,靜而有常故壽。程子曰:「非體仁知之深者,不能如此形容之。」

論語 朱子 新注 論語 程伊川
知は尻下がりに読む。楽は、一度目と二度目の字は五-教の反切で読み(つまり”かなでる”の意)、最後の字は洛の音で読む(つまり”楽しむ”の意)。最後の楽とは、喜ぶことである。知者はもののことわりに通じているから万事滞りなく進められ、まるで水に似ている。だから水の音楽を奏でる。仁者は義理に安らぎを感じているから万事丁寧で揺るぎなく、まるで山に似ている。だから山の音楽を奏でる。動静とは、物事を行う本体と、その作用の呼び名である。楽と寿は、作用の呼び名を並べたものである。動いて妨げられないので楽しみ、静かにして心配事がないので長生きする。

程頤「仁を実践し知恵が深くなければ、ここで述べられているような者にはなれない。」

ご覧の通り、宋学も玄学のなれの果てに過ぎない。論語雍也篇3余話「宋儒のメルヘンと高慢ちき」も参照。

孔子塾は貴族としての実用を教える場で、孔子の教説は徹頭徹尾、実用的だった。坊主の読経を意味が分からないまま有り難がる神経は、現代の中国人同様、古代の中国人にも持ち合わせがない。孔子が本章のような空理空論を説けば、たちまち弟子が逃げ出したに違いない。

中国人が漠然と水(川)を讃えだした始まりは、道家に始まると見てよい。

上善若水。水善利萬物而不爭,處衆人之所惡,故幾於道。


もっともよいものとは、水に似ている。水は万物に恵みを与えながら争うことをせず、なにものも喜ばない低い所に居たがる。だから宇宙の道理に最も近いのだ。(『老子道徳経』8)

だが『老子道徳経』には「山」がただの一字も出てこない。「山」を讃え始めたのは、ずいぶん時代が下ると見るべきだ。通説では儒家と道家は犬猿の仲とされる。確かに前漢初期の漢帝室の道教趣味を、「奴隷のたわごとだ」と斬って捨ててひどい目に遭った儒者はいる。

景帝の母である竇太后は、老子の本を好んでいた。…儒者のエン固を呼んで聞くと、「老子の言い分など奴隷根性のたわごとです。」兄弟は奴隷という出身の太后は、痛い所を突かれて激怒した。「皆の者、こやつを牢にブチ込んで、休日無しの煉瓦づみにしやれ!」(『史記』儒林伝)

全訳は論語為政篇24解説を参照。ともあれ前漢までは儒家は道家と対峙する気概を見せた。だが漢が一旦滅んでオカルトマニアの光武帝が再興すると、儒家は道家を無視できなくなった。言い換えると、漢の儒学に実用的な価値が、ほとんど無いことが知られてしまったからだ。

だが時代は古代で、儒教が使いものにならないと分かっても、別の実用的学問大系があるわけでは無かった。科学でないことを責められた人文業者が、こぞってマルクス主義に走ったように、後漢末期の世間はオカルトに走り、要するに社会の需要を道家が吸収した。

道家が真の発展を遂げるのも、後漢が滅んで以降になる。とりわけ怪しげな𠂊ス刂を作る技術を発達させた。その結果南朝の儒家も政治家・官僚も、𠂊ス刂を飲んではふらふらし、仕事に励まずオカルトの度を競うありさまで、つまり公職にある者は全く仕事をしなかった。

(異族のまじめ人間・石勒が西晋を滅ぼし、宰相の王衍も引き出された。)
石勒「どうして晋はこんなことになったのか?」王衍はあれこれの言い訳を並べた挙げ句、「こんな事になるなんて知りませんでした」と言った。…

石勒「お前の名声は天下に轟いている。代々国家の重職を独占しておきながら、少しも国のために働かず、自分から降参しておきながら、知りませんとは何事か。晋を滅ぼしたのは、お前のような穀潰しどもだ。…こんな奴、刀で斬ったら武人の名折れだ。」というわけで生き埋めで殺された。(『晋書』王衍伝。全訳は論語為政篇16余話を参照)

論語の本章はそうした精神的背景のもとで押し込まれた、おそらくは偽作である。包咸が注を付けていることから、成立時期は前漢末から新にかけてと判断するしかないが、その注もどこまで本物と言えるだろう。訳者の心証では、本章の成立は南北朝まで下るのではないか。

余話

漢方が体に優しいとは限らない

道家を含めた中国人が、水をたたえても山をたたえるのが遅れたわけは、おそらく𠂊ス刂の発達と関係がある。水はただの一日でもないと人は干上がって仕舞うが、山の恵みに気付くのは相当に知識が深まってより後でないと無理だからだ。鉱物はたいてい山で採れる。

そしていわゆる漢方薬の、非植物系の方剤には、カルシウムを除き危ないものが多い。現代の薬剤師は儒者や道士と違い、数理的訓練を経た上でなるのだが、漢方薬屋でも存外無頓着なことがある。植物系の附子ブシの危険は知っていても、動物系の牛黄ゴオウの危険を知らない者も多い。

私立文系オタクをこじらせた訳者としては、せいぜい原書を読んで気を付けるしかない。

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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