論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子謂公冶長可妻也雖在縲絏之中非其罪也以其子妻之子謂南容邦有道不廢邦無道免於刑戮以其兄之子妻之
校訂
諸本
- 武内本:紲唐本絏に作る。蓋唐人太宗の諱を避けて改むるところ。
東洋文庫蔵清家本
子謂公冶長可妻也雖在縲紲之中非其罪也以其子妻之/子謂南容邦有道不廢邦無道免於刑戮以其兄之子妻之
後漢熹平石経
…公冶…
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子謂公冶長、「可妻也。雖在縲紲之中、非其罪也。」以其子妻之。子謂南容、「邦有道、不廢。邦無道、免於刑戮。」以其兄之子妻之。
復元白文(論語時代での表記)
縲紲
※罪→非・容→公・廢→祓。論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「也」「道」「免」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
子、公冶長を謂ふ、妻す可き也、縲紲之中に在りと雖も、其の罪に非ざる也と、其の子を以て之に妻す。子、南容を謂ふ、邦道あらば廢てられず、邦道無からば、刑戮於免れむと。其の兄の子を以て之に妻す。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が公冶長を言った。「めとらせてよい。牢獄の中に居るのだが、収監されるような罪は犯していない」。自分の娘をめとらせた。先生が南容を言った。「国の政道がまともなら捨てられないし、国の政道がまともでなければ、死刑を免れるだろう」。自分の兄の娘をめとらせた。
意訳
孔子「弟子の公冶長は収監中だが、出所したら身内にしよう」。そう言って自分の娘を妻合わせた。
「南容は抜け目のない男だ。身内にしよう」。そう言って兄の娘を妻合わせた。
従来訳
先師が公冶長を評していわれた。――
「あの人物なら、娘を嫁にやってもよい。かつては縄目の恥をうけたこともあったが、無実の罪だったのだ。」
そして彼を自分の婿にされた。
また先師は南容を評していわれた。――
「あの人物なら、国が治っている時には必ず用いられるであろうし、国が乱れていても刑罰をうけるようなことは決してあるまい。」
そして兄上の娘を彼の嫁にやられた。下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子評論公冶長:「可以把姑娘嫁給他。雖然坐過牢,但不是他的錯。」孔子把女兒嫁給了他。孔子評論南容:「國家太平時,不會倒霉;國家混亂時,不會坐牢。」孔子把侄女嫁給了他。
孔子が公冶長を評論した。「娘を嫁がせても良い。入牢したことがあったが、彼の間違いではない。」孔子は娘を彼に嫁がせた。孔子が南容を評論した。「国家が安定しているとき、腐り果てることがない。国家が乱れたとき、入牢することがない。」孔子は姪を嫁がせた。
論語:語釈
子(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「子謂」では”(孔子)先生”、「其子」「兄之子」では”娘”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
謂(イ)
(金文)
論語の本章では”そう思うって言う”。ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
公冶長(コウヤチョウ)
論語では生没年未詳、孔子の弟子。姓は公冶、名は長。字は子長というが怪しい。『史記』によれば斉出身、『孔子家語』によれば魯の出身。孔子との年齢差始め、詳しいことがわからない。
後世の伝説には尾ひれが付き、鳥の言葉を解したと魏の何晏・梁の皇侃の『集解』に載せる(下記)。また孔子がここまで公冶長を持ち上げた理由は、後漢の儒者・王充にも分からなかったらしく、あれこれ『論衡』で理由を想像しているが、その文意に不明なところがあり、何を言っているのかはっきりしない(下記)。
だが孔子一門が革命政党だったと解すれば事情は単純で、公冶長はおそらく、孔子の最も信頼する、腕利きの秘密工作員だった。だから収監された。人物像や孔子が評価した理由についても、明らかではないのではなく、当時から明らかに出来ないのだろう。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕+「口」で、命令で世の中を開発するさま。原義は”君主”。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
「冶」(金文)
「冶」の初出は西周末期の金文。字形は「匕」”やっとこ”+”火床”+「曰」”るつぼ”で、鉱物をるつぼに入れて金属を精錬するさま。原義は”精錬”。金文では”金工者”、人名に用いた。詳細は論語語釈「冶」を参照。
(甲骨文)
「長」の初出は甲骨文。字形は冠をかぶり、杖を突いた長老の姿で、原義は”長老”。甲骨文では地名・人名に、金文では”長い”の意に用いられた。詳細は論語語釈「長」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”…してもよい”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
妻(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”めあわせる”。初出は甲骨文。「サイ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は女性に冠のようなものを手でかぶせる姿で、身分ある貴婦人を成人させるさま、あるいは君主の妻として認める儀式のさま。原義は”めとる”。甲骨文では”夫人”、金文では”とつぐ”の意で用いた。詳細は論語語釈「妻」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意を示す。この語義は春秋時代では確認できない。「かな」と読んで詠歎に解すれば論語時代の言葉と言えるが、本章には春秋末期までに不在の文字があることから、あえて詠歎に解する必要がない。
初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
雖(スイ)
(金文)
論語の本章では”たとえ…でも”。初出は春秋中期の金文。字形は「虫」”爬虫類”+「隹」”とり”で、原義は不明。春秋時代までの金文では、「唯」「惟」と同様に使われ、「これ」と読んで語調を強調する働きをする。また「いえども」と読んで”たとえ…でも”の意を表す。詳細は論語語釈「雖」を参照。
在(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…に居る”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。
縲紲(ルイセツ)→縲絏(ルイセツ)
論語の本章では”獄中にとらわれている”。共に論語では本章のみに登場。
「縲」の初出は不明。唐開成石経『論語』には見られる。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+「累」”つなぐ”。ものをつなぎ止める綱のこと。部品の「累」の初出は漢代の隷書。詳細は論語語釈「縲」を参照。
(隷書)
「紲」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+「世」。「世」の同音に「勢」があり、「太に通ず」と『大漢和辞典』はいう。全体でふとい綱のこと。論語公冶長篇1の唐本は、太宗李世民の名をはばかって「絏」と書いたと武内本に言う。唐石経では、確かに「絏」へと書き換えられている。詳細は論語語釈「紲」を参照。
「絏」の初出は不明。事実上、唐開成石経。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「糸」+「曳」で、ものを引っ張るつな。詳細は論語語釈「絏」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「縲紲之中」では”…の”。「妻之」では”彼”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
中(チュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”…のなか”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。
非(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。かごに盛った、それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
罪(サイ)
(金文)
論語の本章では”つみ”。初出は戦国早期の金文で、その字形は「辠」、論語の時代に存在しない。現行字体の初出は前漢の隷書。「ザイ」は呉音。同音は存在しない。初出の字形は「自」+「辛」で、おそらく自裁すべき罪を意味する。現伝の字形は「网」”あみ”+「非」”ひがごと”であり、捕らえられるべき罪を言う。「辠」は秦代になって皇帝の「皇」と近いのをはばかって、「罪」の字を作字したという。論語の時代の置換候補は「非」。詳細は論語語釈「罪」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”…で”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”…で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
南容(ダンヨウ)
論語では生没年未詳の孔子の弟子。『史記』によると、姓は南宮、名は括、字は子容。 孔子と同世代の孟孫氏の当主、孟懿子の弟・南宮敬叔と同一人物とする説がある。それが史実なら、孔子を世に出した孟孫氏は、そこまで孔子に入れ上げたことになる。
南宮氏は魯国門閥家老家の孟孫氏の分家だが、南宮括は父の遺命で無名の庶民だった孔子に師事し、共に洛陽へ留学し老子から教えを受けた。論語先進篇5では「子…妻」ではなく「孔子…妻」となっており、論語での通例として動作対象が同格か目上の場合、孔子を「子」ではなく「孔子」と記す。ここから南容を、門閥貴族の南宮子容だとみなす根拠が生まれる。詳細は論語先進篇11語釈を参照。
「南」(甲骨文)
「南」の初出は甲骨文。「ナン」は呉音。字形は南中を知る日時計の姿。甲骨文の字形の多くが、「日」を記して南中のさまを示す。「楽器の一種」と言う郭沫若や唐蘭の説は支持しない。甲骨文では原義に用い、金文でも原義に用いた。詳細は論語語釈「南」を参照。
「容」*(金文)
「容」の初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。”いれる”の意で「甬」が、”すがた・かたち”の意で「象」「頌」が置換候補になりうる。ただし論語の本章では固有名詞のため、同音近音のあらゆる音が置換候補になり得る。字形は「亼」”ふた”+〔八〕”液体”+「𠙵」”容れ物”で、ものを容れ物におさめて蓋をしたさま。原義は容積の単位。戦国の金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「容」を参照。
邦(ホウ)
(甲骨文)
論語の本章では、建前上周王を奉じる”春秋諸侯国”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「田」+「丰」”樹木”で、農地の境目に木を植えた境界を示す。金文の形は「丰」+「囗」”城郭”+「人」で、境を明らかにした城郭都市国家のこと。詳細は論語語釈「邦」を参照。
現伝の論語が編まれたのは前後の漢帝国だが、「邦」の字は開祖の高祖劉邦のいみ名(本名)だったため、一切の使用がはばかられた。つまり事実上禁止され、このように歴代皇帝のいみ名を使わないのを避諱という。王朝交替が起こると通常はチャラになるが、定州竹簡論語では秦の始皇帝のいみ名、「政」も避諱されて「正」と記されている。
論語の本章で「邦」が使われているのは、本章の成立が後漢滅亡後か、あるいは後漢滅亡後に「國」→「邦」へと改められたことを意味する。だが下掲の通り後漢の王充は律儀に避諱しているから、後漢滅亡後に書き換えられたと判断するのがよい。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
道(トウ)
(甲骨文)
論語の本章では”正しい政道”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ドウ」は呉音。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。原義は”みち”。”道徳”の語義は戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「道」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
廢(ハイ)
(隷書)
論語の本章では”捨てる”。官吏として採用されないこと。新字体は「廃」。呉音は「ホ」。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は同音の「祓」、または「灋」(法)。字形は「广」”屋根”+「發」”弓を射る”で、「發」は音符。詳細は論語語釈「廃」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”無い”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
免(ベン)
(甲骨文)
論語の本章では”免れる”。
この語義は戦国時代以降に音を借りた転用した仮借。「メン」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「免」。大陸と台湾では「免」が正字として扱われている。字形は「卩」”ひざまずいた人”+「ワ」かぶせ物で、中共の御用学者・郭沫若は「冕」=かんむりの原形だと言ったが根拠が無く信用できない。
「卩」は隷属する者を表し、かんむりではあり得ない。字形は頭にかせをはめられた奴隷。甲骨文では人名を意味し、金文では姓氏の名を意味した。戦国の竹簡では「勉」”努力する”、”免れる”、”もとどりを垂らして哀悼の意を示す”を意味した。
春秋末期までに、明確に”免れる”と解せる出土例はない。詳細は論語語釈「免」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~を”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
刑(ケイ)
(金文)
論語の本章では”刑罰”。初出は西周中期の金文。字形は「井」”牢屋”+「刂」”かたな”で、原義は刑罰。ただし初出の「史牆盤」は「荊」”いばら”と解釈されており、「荊」=楚国のことだとされる。詳細は論語語釈「刑」を参照。
戮(リク)
(金文)
論語の本章では”死刑”。初出は春秋末期の金文。同音は「翏」を部品として大量にある。字形は「翏」+「戈」”カマ状のほこ”で、「リュウ」と音を立てて戈をふるうさま。原義は”殺す”。詳細は論語語釈「戮」を参照。
兄(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”兄”。初出は甲骨文。「キョウ」は呉音。甲骨文の字形は「𠙵」”くち”+「人」。原義は”口で指図する者”。甲骨文で”年長者”、金文では”賜う”の意があった。詳細は論語語釈「兄」を参照。
孔子には孔皮という名の兄がいたとされ、足が不自由だったとされる。
論語:付記
検証
論語の本章は、前半の公冶長部分は前漢中期の『史記』弟子伝や後漢の王充著・『論衡』問孔篇に再録されている。だが春秋戦国の誰一人引用も再録もしていない。後半の南容部分も同様で、『史記』弟子伝や『論衡』問孔篇などに再録されるに止まる。
また本章は、漢の高祖劉邦の名を避諱しておらず、定州竹簡論語から漏れている。後者は竹簡破損の結果である可能性は排除できないが、無いものは無いと判断して、論語の本章がまるごと偽作と考えた方が理屈は簡単になる。だが後半の文字は全て論語の時代に遡れる。
それでも「南容」を魯国門閥の一家・孟孫家の南宮括と解するのには無理がある。孔子との身分差が甚だしいし、門閥の一員だから国が有道だろうと無道だろうと、「廃」されはしないからだ。春秋の貴族は、政変があると「戮」=殺された者も少なくないが、『春秋左氏伝』を読む限り、魯国はそのあたりが甘いようで、亡命すれば命は助かる例が多いようである。
以上を踏まえると、論語の本章をまるまる史実と考えるのは無理だが、公冶長や南容について、本章のような偽作をする動機が考えづらい。だから本章は何らかの史実を反映しているだろうが、詳細がぼかされていることなどから、二人とも孔子一門の政治工作員と考えた。
少なくとも後半の南容部分は史実だろう。
解説
まず論語の形体から話をすると、古注の段階では公冶長ばなしと南容ばなしは独立して別の一章になっていた。
古注『論語集解義疏』
註孔安國曰公冶長弟子魯人也姓公冶名長縲黑索也紲攣也所以拘罪人也
注釈。孔安国「公冶長は弟子で魯国の人である。姓が公冶でいみ名が長である。縲とは黒い縄である。紲は縛ることである。それで罪人を捕らえるのである。」
同
註王肅曰南容弟子南宮縚魯人也字子容不廢言見任用也
注釈。王粛「南容は弟子の南宮縚で、魯の人である。あざ名は子容で、不廃とは役人に取り立てられることである。」
この二つを朱子は一章としてまとめた。おそらくは先行する北宋・邢昺の編んだ『論語注疏』の区分けを踏襲したものと見られる。
次に現伝の『史記』弟子伝には、「そんな弟子いたのか」と思うほど多くの弟子の名を記すが、筆頭は顔淵、2番目が閔子騫、3番目が冉伯牛と、いわゆる孔門十哲や現代での有名弟子の順序に並んでいない。本章の公冶長は16番目、その次が南容。
二人とも司馬遷は論語の記述を引用するだけで、特に何をしたとも書いていない。儒教が国教の地位を確立しつつあった頃にまとめられた『孔子家語』ではそれでは困ったから、いろいろと弟子たちの偉そうな伝説をこしらえたが、この二人については大した事が書いてない。
公冶長,魯人,字子長。為人能忍恥,孔子以女妻之。南宮韜,魯人,字子容。以智自將,世清不廢,世濁不污。孔子以兄子妻之。
公冶長は魯国出身。あざ名は子長。性格は辱めをよく耐え忍んだ。孔子は娘を妻合わせた。南宮韜は魯国出身。あざ名は子容。自分の頭の良さを誇った。だから治まった世の中では浪人暮らしをせず、乱れた世の中では悪事に手を染めなかった。孔子は兄の娘を妻合わせた。(『孔子家語』七十二弟子解)
結局この二人は何をしたんだか、さっぱり分からない。孔子塾の基本は、庶民が入門して貴族にふさわしい技能教養を身につけ、仕官して成り上がる場だったから、仕官する気も無いのに二人が入門したとは考えがたく、孔子も興味本位の入門希望者は追っ払った。
貴族に成り上がる気が無いのにお作法? 音楽? あんたにゃ要らん要らん。おかえんなさい。(論語八佾篇3)
ただし公冶長には下掲のような、「旅をしている」「鳥の言葉を解した」という伝説があり、そうなると孔門の諜報員だったのではと考えたくなる。顔淵がそうであるように、孔子の高弟と讃えられながら、何をしたんだかさっぱり分からない弟子は、そう考えると辻褄が合う。
社会の底辺に生まれながら、身分制度の厳しい春秋の世で宰相にまで出世した孔子は、身分秩序の破壊者という意味で間違いなく革命家だったし、辞官して亡命したのは、厳しい政治をやり過ぎて魯国の上下から嫌われ、弟子を仕官させがたくなったためだった。
庶民から君子=貴族に成り上がろうとする弟子たちも、その意味でやはり革命家であり、孔門は革命政党と言ってよい。ただし革命と言っても、既存の政治的枠組みを破壊しようとしたのではなく、血統貴族が務めていた諸侯国の役人を、弟子が取って代わろうとする革命だった。
墨子が証言する孔門の国際的陰謀も、将棋遊びのようなつもりで春秋諸国をいじくっていたと言うより、弟子を仕官させやすい意環境作りのために、諸侯国のあちこちをいじくっていたと考えるべきだ。だがそれでも諜報は必要だから、公冶長はその一人と考える。
顔淵が孔子の母方の一族だったように、公冶長が孔子と縁戚になったのは頷ける。誰一人信用ならない諜報の世界で、一定の信用を確保できるのは、血統に対する信仰だけだろう。南容もそうした事情と思えるが、情報がなさ過ぎて、公冶長以上に人物像を結びがたい。
余話
鳥の人
『論語集解義疏』の疏=付け足しに所収の、公冶長の伝説は以下の通り。
別有一書名為論釋云公冶長從衛還魯行至二堺上聞鳥相呼往清溪食死人肉須臾見一老嫗當道而哭冶長問之嫗曰兒前日出行于今不反當是已死亡不知所在冶長曰向聞鳥相呼往清溪食肉恐是嫗兒也嫗住看即得其兒也已死即嫗告村司村司問嫗從何得知之嫗曰見冶長道如此村官曰冶長不殺人何縁知之囚録冶長付獄主問冶長何以殺人冶長曰解鳥語不殺人主曰當試之若必解鳥語便相放也若不解當今償死駐冶長在獄六十日卒日有雀子縁獄栅上相呼嘖嘖𠻘𠻘冶長含笑吏啓主冶長笑雀語是似解鳥語主教問冶長雀何所道而笑之冶長曰雀鳴嘖嘖𠻘𠻘白蓮水邊有車翻覆黍粟牡牛折角収斂不盡相呼徃啄獄未信遣人往看果如其言後又解豬及燕語屢驗於是得放然此語乃出雜書未必可信而亦古舊相傳云冶長解鳥語故聊記之也
ところで別に伝説があって、『論釈』という本がある。それによると、公冶長が衛に出かけて魯に帰る途中、国境近くで鳥が互いに呼び合っているのを聞いた。「清渓に行くと、死人の肉を食えるよ」と。そのまま歩いていると、しばらくして道ばたでおばあさんが泣いていた。
公冶長がわけを聞くと、おばあさんが言った。「息子が昨日出かけたきり、帰ってこない。きっと死んでしまったに違いない。どこにいるのかも分からない」と。公冶長は言った。「さっき鳥がカクカクシカジカと呼び合っているのを聞きました。ひょっとして息子さんでは」と。
おばあさんが行ってみると、果たして息子が死んでいた。おばあさんはすぐに村役人に伝えたが、役人はなぜ現場が分かったのか不審に思った。するとおばあさんが「公冶長さんに道で出会って教えて貰いました」と言うので、「犯人でなければ、分かるはずが無い」と役人は怪しんだ。
そこで公冶長を捕らえて牢屋に送り、お巡りがなぜ人を殺したのかと尋問した。「鳥の言葉を聞いただけだ。殺してはいない」と公冶長が言うので、「では試してみよう。本当に鳥の言葉が分かるなら、釈放してやろう。そうでなければ、罪をあがなわせるぞ」とお巡りは言った。
こうして六十日の間収監されたが、その日が過ぎたとき、雀が牢屋の柵の上に止まり、チュンチュンと鳴き出した。公冶長がそれを聞いて微笑んだので、牢の番人がお巡りに「公冶長が雀の言葉で笑った、意味が分かったに違いない」と報告した。
お巡りが公冶長に「雀は何と言った。なぜ笑った」と問うと、公冶長は「チュンチュン、白蓮川のほとりで荷車がひっくり返り、積み荷の穀物がこぼれている。引き牛は角を折って倒れており、今行けば食べ放題だ、みんなでついばみに行こう」と言った。
お巡りは怪しんだが、人をやって見に行かせると、果たしてその通りだった。さらにその後、公冶長はブタや燕の言葉も聞き分けて、その言う通りだったので、釈放された。
この話は怪しい本に書かれて、本当にそうだったとは言えないが、昔から伝えられてきた伝説に、公冶長が鳥の言葉を聞き分けたとあるので、少しだけ記しておくことにした。
『論衡』に王充が論語の本章を引用した後でつけ加えた内容は、以下の通り。一通り読み下した=日本古文に置き換えて、一応の現代語訳をでっち上げたが、上記したように、実は何を言っているのかよく分からない。なおこちらは律儀に「邦」→「國」と避諱している。
問曰:孔子妻公冶長者,何據見哉?據年三十可妻邪?見其行賢可妻也?如據其年三十,不宜稱在縲紲;如見其行賢,亦不宜稱在縲紲。何則?諸入孔子門者,皆有善行,故稱備徒役。徒役之中,無妻則妻之耳,不須稱也。如徒役之中多無妻,公冶長尤賢,故獨妻之,則其稱之,宜列其行,不宜言其在縲紲也。何則?世間彊受非辜者多,未必盡賢人也。恆人見枉,眾多非一。必以非辜為孔子所妻,則是孔子不妻賢,妻冤也。案孔子之稱公冶長,有非辜之言,無行能之文。實不賢,孔子妻之,非也;實賢,孔子稱之不具,亦非也。誠似妻南容云:「國有道、不廢,國無道、免於刑戮。」具稱之矣。
「孔子が公冶長にめあわせたのは、何を見てとったからですか。歳が三十だったからですか。普段の行いが偉かったからですか。三十だからと言うなら、収監されたという話は不都合ではないですか。偉かったというなら、やはり収監されたという話は不都合ではないですか。一体なぜですか。」
「そもそも孔子の門下で学ぶ者は、皆能力があって、国が課す労役にも応じられる人たちだった。労役に従う者の中で、未婚者がいればめあわせただけの話で、褒め称えたからではない。」
「もし労役に従う者の数が多かったなら、公冶長がその中で一番偉かったので、めあわせたのでしょう。だから公冶長だけにめあわせたのは、その能力を讃え、讃えるにふさわしいからめあわせたのであって、やはり収監された話は不都合ではありませんか。一体なぜでしょう。」
「当時は無実の罪で収監される者が多かったし、孔子の弟子も賢者ばかりでは無かった。人々の人間のゆがみようも、多様で決まった姿では無かった。罪人ではない者に限ってめあわせようとすれば、偉くも無い人間に嫁がされるのだから、妻が恨むことになる。
考えてみると、孔子が公冶長を誉めたのは、無実を証す証拠があったので、能力を証す何かは無かったのだろう。」
「すると偉くも無いのにめあわせたのですね。孔子は間違っていませんか。もし偉かったにせよ、収監されたなどと言ったのは、やはり間違いではありませんか。南容にめあわせたときのように言えば良かったのです。国がまともなら出世し、無道でも刑罰から免れる、と言って、具体的に無罪を言ったように。」(『論衡』問孔14)
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