論語詳解113公冶長篇第五(21)子陳に在りて*

論語公冶長篇(21)要約:後世の創作。放浪中の孔子先生。しかし残してきた弟子たちが気になります。とりわけ新たに貴族に成り上がろうとする弟子たちを、遠い陳の国から案じるあまり、ついに帰国を決意するのでした、という作り話。

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原文

子在陳、曰、「歸與、歸與。吾黨之小子𥳑、斐然成章、不知所以裁之*。」

校訂

武内本

清家本により、文末に也の字を補う。

論語義疏

「不知所以裁之

定州竹簡論語

在陳,曰:「歸與!歸與!吾黨之小子間,[斐然]成章,不智a101……

  1. 智、今本作「知」。

→子在陳、曰、「歸與、歸與。吾黨之小子𥳑、斐然成章、不智所以裁之也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文在 金文陳 金文 曰 金文 帰 金文与 金文 帰 金文与 金文 吾 金文之 金文小 金文子 金文狂 金文簡 金文 然 金文成 金文章 金文 不 金文智 金文所 金文㠯 以 金文才 金文之 金文也 金文

※裁→才。論語の本章は、「黨」「斐」の字が論語の時代に存在しない。「與」「然」の用法に疑問がある。

書き下し

ちんりていはく、かへらむかへらむさと小子わかうど𥳑ふだみづからとりて、斐然いたづらふみつくる、これ所以ゆゑんかな

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

孔子 肖像
先生が陳国にいて言った。「帰ろうか帰ろうか、我が郷里の若者は意気盛んだが、デタラメな文章を書き散らしており、うまくまとめる技を知らないことよ。」

意訳

君子 諸君 孔子
諸君! 帰るべき時が来た! 留守を預かる若弟子は、血気にはやって運動しているが、経験不足からアジビラ一つしくじりかねない。今ぞ我らが帰国して、指導してやろうぞ!

従来訳

下村湖人
先師が天下を周遊して陳の国に居られたときに、いわれた。――
「帰るとしよう、帰るとしよう。帰って郷党の若い同志を教えるとしよう。彼等の志は遠大だが、まだ実践上の磨きが足りない。知識学問においては百花爛漫の妍を競っているが、まだ自己形成のための真の道を知らない。それはちょうど、見事な布は織ったが、寸法をはかってそれを裁断し、衣服に仕立てることが出来ないようなものだ。これをすてては置けない。しかも、彼等を教えることは、こうして諸侯を説いて無用な旅をつづけるより、どれだけ有意義なことだろう。」

下村湖人先生『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子在陳國,說:「回去吧!回去吧!家鄉的學生們志大才疏,文採揚揚,不知該怎樣指導了。」

中国哲学書電子化計画

孔子が陳国で言った。「帰ろうよ! 帰ろうよ! 故郷の学生らは志は大きいが才能が粗雑だ。文才を誇っているが、どのように指導していいか知らない。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

子(シ)

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。「子」は貴族に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…に居る”。「ザイ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

陳(チン)

陳 金文 不明 字解
九年衛鼎・西周中期

論語の本章では、南方にある春秋諸侯国の一つ。

周の武王が舜の子孫を捜索して嬀満を見出し、これを陳(現代の河南省周口市淮陽区)に封じたのが国の始まりとされる、春秋時代には12の有力諸侯の一とされた。

紀元前7世紀以降、後継者をめぐる内乱がたびたび生じる。陳は小国の地位を脱することができず、南方で楚が台頭すると、これに従属するようになった。春秋時代には晋・楚の二大国の争いに翻弄され、さらには呉の台頭によって圧迫を受けた。紀元前478年に陳は楚の恵王によって滅ぼされた。(wikipedia陳条)

これは一部ウソである。

陳国の公族に陳完というものがおり、政争に敗れて北の斉国に亡命した。この家系がのちに田氏を名乗り、姜氏(太公望の末裔)の斉公室を乗っ取って国主となり、それ以降の斉国を田斉ともいう。

斉 宣王 孟子
田斉の5代宣王に仕えたのが孟子で、孟子は田斉王家の後ろめたさを誤魔化すため、当時墨家が主張していた中国最古の君主・禹に位を譲った、さらに古い王にして聖王の舜を創作した。その末裔が陳の公室で、田斉王室もまた同じというのである。

舜
後世、孟子の系統を引く儒者が儒教や政界官界を牛耳ったので、舜の存在や陳や田斉の祖先伝説は疑いない事実として扱われ、「周の武王は聖王舜の末裔を探し出して諸侯に任じ、陳の地を与えた」というでっち上げは史実として扱われた。

これが事実とするなら、「陳」の字は西周当初からあるはずだが、2021年現在、初出は西周中期の金文。国名としての初出は西周末期になる。詳細は論語語釈「陳」を参照。なお「舜」の字の初出も楚系戦国文字。論語語釈「舜」を参照。

論語 春秋諸国と諸子百家

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曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

歸(キ)

帰 甲骨文 帰 字解
(甲骨文)

論語の本章では”帰る”。新字体は「帰」。甲骨文の字形は「𠂤タイ」”軍隊”+「シュウ」”ほうき→主婦権の象徴”で、軍隊が王妃に出迎えられて帰還すること。詳細は論語語釈「帰」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”…(しよう)ぞ”。この用法は春秋時代では確認できない。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”…と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたしの”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているため。

黨(トウ)

党 金文 党 字解
(戦国末期金文)

論語の本章では、”ふるさと”。新字体は「党」。初出は戦国末期の金文。出土品は論語の時代に存在しないが、歴史書『国語』に春秋末期の用例がある。しかし物証として論語時代の置換候補にならない。『大漢和辞典』の第一義は”むら・さと”。第二義が”ともがら”。戦国の金文では地名に用い、”党派”の語義は前漢まで時代が下る。詳細は論語語釈「党」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「吾黨之小子」では”…の”。「裁之裁之」では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義は”これ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

小子

小 甲骨文 小 字解
「小」(甲骨文)

論語の本章では”若い衆”。遠くにいる在郷の弟子を指し、直の呼びかけではないのでこう解した。「小」の初出は甲骨文。字形はこまかなちりの姿。原義は”小さい”。詳細は論語語釈「小」を参照。

「小子」は『学研漢和大字典』によると以下の意味がある。本章では2.の意。

  1. 子ども。
  2. 先生が門人に呼びかけることば。「我党之小子簡」〔論語・公冶長〕
  3. 自分を謙遜していうことば。わたくし。「子如不言、則小子何述焉=子もし言はずんば、則ち小子何をか述べん」〔論語・陽貨〕
  4. つまらない人間。

ただ原義は「小」”下らない”・「子」”弟子”で、師匠が弟子を下に見て言う”お前(ら)”になる。訓読は「なれ(ら)」。本章は後世の偽作が確定するが、史実の章では孔子は弟子を「君子」”諸君”や「二三子」”君たち”と呼んでおり、「小子」という無礼な言い方はしていない。

軍人が上官に「小官は…であります」と言うのは謙遜の辞だが、上官が部下に「小官、面舵一杯」と言えば、キレて取り舵一杯を切りかねない。言葉に敏感な孔子が、「小子」の無礼に気付かぬワケがないだろう。

(キョウ)

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(甲骨文)

論語の本章では”自分でやる”。初出は甲骨文。同音に「俇」(上)=”あわただしいさま”。近音にgi̯waŋに「王」(平/去)、「往」(上)、「迋」(去)=”ゆく”。去声の音は不明。甲骨文の字形は「止」”ゆく”+「斧」+「犬」で、その場に出向いて犠牲獣の犬を屠るさま。原義は”自分で”・”近くで”。甲骨文で”近い”・”近づく”、金文で人名での用例がある。詳細は“>論語語釈「を参照。

𥳑(カン)

簡 金文 論語 竹簡
(金文)

論語の本章では筆記材料の竹や木で出来た”ふだ”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「簡」。初出は西周末期の金文。中国・台湾・香港では、「簡」が正字としてコード上取り扱われている。同音は「閒」・「蕑」”フジバカマ・ハス”のみ。字形は「⺮」+「間」”すきま”で、竹札を編んで隙間のある巻物の姿。原義は”ふだ”。詳細は論語語釈「簡」を参照𥳑

論語の本章では、自分で竹簡・木簡を手に取って字を書くこと。

従来訳など定説では、”志が遠大”などと解するが、これは全て新古の注を書いた儒者のサルまねであり、その先頭に立つのは前漢前期の人物という事になっている孔安国だが、この男は高祖劉邦を避諱(名をはばかって使わない)しないなど、実在そのものが疑わしい。

古注『論語集解義疏』

註孔安國曰簡大也孔子在陳思歸欲去故曰吾黨之小子者進趨於大道妄穿鑿以成文章不知所以裁制我當歸以裁制之耳遂歸

孔安国
注釈。孔安国「簡とは大である。孔子は陳に滞在して、帰ろうと思った。だから”わが同志の若者で、者の者は大道に進もうとしてむやみに言葉をいじくって文章を書いているが、どうやって文章のまとまりを付けてよいか知らない。だから私が帰って指導してやるしかない”。というわけでそのまま帰った。」

仮に孔安国が実在したにせよ、400年ほど前のことを見てきたように書いているだけで、ただのホラである。それより前、孔子没後一世紀に生まれた孟子ですら、弟子との問答で「簡」を用いているが、もう春秋時代の語義が分からぬまま勝手なことを言っている。

萬章問曰:「孔子在陳曰:『盍歸乎來!吾黨之士簡,進取,不忘其初。』孔子在陳,何思魯之士?」
孟子曰:「孔子『不得中道而與之,必也獧乎!者進取,獧者有所不為也』。孔子豈不欲中道哉?不可必得,故思其次也。」
「敢問何如斯可謂矣?」
曰:「如琴張、曾皙、牧皮者,孔子之所謂矣。」
「何以謂之也?」
曰:「其志嘐嘐然,曰『古之人,古之人』。夷考其行而不掩焉者也。者又不可得,欲得不屑不潔之士而與之,是獧也,是又其次也。孔子曰:『過我門而不入我室,我不憾焉者,其惟鄉原乎!鄉原,德之賊也。』」

論語 弟子 孟子
万章「孔子先生は陳で言いました。”さあ帰ろう。我が故郷の同志諸君はキョウカンで率直、貪欲に進歩を求め、学び始めた頃の初々しい心を忘れていない”と。孔子先生は遠い陳国で、どうして魯の士=ものいな弟子たちを思ったんでしょうね。」

孟子「孔子先生は言った。”片寄りの無い立場を取れない者は、必ずキョウカン=ものいか潔癖症になる。ものいは貪欲に進歩を求め、潔癖症の者はやりたくないことは絶対にやらない”と。先生は片寄り無しでいたかったと思うよ。でもそうもいかないから、まだものいか潔癖症の方がましだと思ったんだろうね。」

万章「では、そうしたものいの人とはどのような人でしょう。」

孟子「琴張や曽皙や牧皮のような人が、先生の言うものいだね。」

万章「どうしてものいなんですか?」

孟子「願望ばかり大きくて、まるでニワトリがけたたましく鳴くように、二言目には”昔の人なら! 昔の人なら!”と目の前の出来事にケチをつける。軽率に何でも出来ると思い上がっていて、そのくせ実行が伴わない。いつまでたっても、何もやり遂げることが無い。

また何事にもケチを付けて、自分だけいい子になろうとする連中とばかり付き合いたがるのが、先生の言う潔癖症の者だ。これはものいの次に、世の役立たずと言うべき人だ。

だから孔子先生は言ったのだ。”我が家の前をうろちょろしながら、教えを聞きにはやってこない。そんな奴はどうなろうが知ったことではなく、いわゆる田舎の大将というやつだ。田舎の大将ほど、教育の邪魔になる連中はいない”と。」(『孟子』尽心下篇)

書き物『孟子』の注で現存最古のものは後漢の趙岐によるものだが、論語の古注と同じ事を言っているだけ。

簡大也者進取大道而不得其正者不忘其初孔子思故𦾔也


簡とは大である。者とは大道を進もうとするが正しい進み方を知らず、それでも初心を忘れない者である。孔子はそうした昔なじみを思い出した。(『孟子章句』尽心下10)

『孟子』のこの部分と、論語の本章共に、朱子が注を付けているが、同じ事しか書いていない。

簡,志大而略於事也。(『論語集注』公冶長21)
簡,謂志大而略於事。(『孟子集注』尽心下37)


簡とは、志が大きくてやり方がデタラメなことを言う。

『大漢和辞典』の「志が大きくて行ひがこれに伴わず粗略なこと」というのはこのサルまね。『学研漢和大字典』は「志は大きいのだが、具体性がともなわないで、ぞんざいなこと。簡は、おおまか」という。『字通』は「志のみ高く、まとまりのないこと」という。やはりみな朱子のサルまねである。

斐(ヒ)

斐 篆書 斐 字解
(篆書)

論語の本章では「非」”でたらめな”。論語では本章のみに登場。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。同音に「霏」”雪の降るさま”、「妃」、「騑」”添え馬”(以上平)、「菲」”野菜の名・うすい”、「悱」”言い悶える”(以上上)。字形は「非」”背を向ける”+「文」”模様”。おそらく原義は”左右対称の模様”。詳細は論語語釈「斐」を参照。

同音字は、甲骨文より存在する「妃」以外は、みな初出が『説文解字』。すると論語時代の置換候補としては、「斐」pʰi̯wərの部品で近音の「非」pi̯wərを挙げざるを得ない。すなわち「斐」は「非文」で、”デタラメな文章”。

しかし上記「黨」の字の論語時代に於ける不在から、論語の本章は後世の創作と断じうるので、「斐」の置換候補もまた無いと考える。

従来訳など定説は、やはり朱子の真似をしているだけ。

斐,文貌。成章,言其文理成就,有可觀者。


斐とは、文章の見た目のことで、成章とは、文章の論理が整っていることを言う。孔子にとって評価すべき点があったのだ。(『論語集注』)

「小子」に「評価すべき」立派な文章が書けているなら、なんで孔子がわざわざ帰って指導しようなどと言い出したのだろう? 間抜けにも程がある。古注は「妄穿鑿以成文章」=”むやみに言葉をいじくって文章を書いている”と解しているが、こちらの方がまだ文意が通る。

然(ゼン)

然 金文 然 字解
(金文)

論語の本章では”…であるさま”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”…であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。

成(セイ)

成 甲骨文 成 字解
(甲骨文)

論語の本章では”書き上げる”。初出は甲骨文。字形は「戊」”まさかり”+「丨」”血のしたたり”で、処刑や犠牲をし終えたさま。甲骨文の字形には「丨」が「囗」”くに”になっているものがあり、もっぱら殷の開祖大乙の名として使われていることから、”征服”を意味しているようである。いずれにせよ原義は”…し終える”。甲骨文では地名・人名、”犠牲を屠る”に用い、金文では地名・人名、”盛る”(弔家父簠・春秋早期)に、戦国の金文では”完成”の意に用いた。詳細は論語語釈「成」を参照。

章(ショウ)

章 金文 章 字解
(殷代金文)

論語の本章では”記されたもの”→”文章”。初出は殷代末期の金文。字形は「䇂」”筆刀”+亀甲で、亀甲に文字を刻むさま。原義は”文章”。「漢語多功能字庫」によると、金文では”玉器”(㒼簋・西周中期)の意に用いた。詳細は論語語釈「章」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…でない”。漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。「フ」は呉音。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

知(チ)→智(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
「知」(甲骨文)

論語の本章では”智恵者”。「知」の現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。現在最古の論語のテキストである、定州漢墓竹簡論語は、論語の本章のこの部分を欠いているが、他の例では「知」を「智」の古書体「𣉻」で書いている。詳細は論語語釈「知」論語語釈「智」を参照。

所(ソ)

所 金文 所 字解
(金文)

論語の本章では”ところ”。「所以」で”方法”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”…で”は、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

裁(サイ)

裁 秦系戦国文字 𢦏 金文
(秦系戦国文字)/「𢦒 」(金文)

論語の本章では”整える”。論語では本章のみに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。字形は「𢦒サイ」(初出は甲骨文)”刃物で切る”+「衣」で、布を裁断して着物を作ること。論語時代の置換候補は「才」または「𢦒」(𢦏)。詳細は論語語釈「裁」を参照。

なお「裁」は「才」とも同音。それによる笑い話を、明代の『笑府』が載せている。

一官人有書義未觧。問吏曰。此間有高才否。吏悞以為裁衣人姓高也。應曰。有。即喚進。官問曰。貧而無諂如何。荅曰。裙而無襇。使不得。又問富而無驕如何。荅曰。袴而無腰。也使不得。官怒。喝曰。唗。荅曰。若是皺。小人有熨斗在此

笑府 馮夢竜
ある地方官僚が論語を読んでいて意味が分からず、下役に言った。「この地に高才カオツァイ(学者)はおるか。」下役人は「高裁カオツァイ(高という姓の仕立屋)」と勘違いして仕立屋を呼んできた。

官僚「論語の”ピンアルウーチャン”*(貧にしてへつらうなし)とはどういう意味ですか。」
仕立屋「”チュンアルウーチエン”(スカートにひだが無い)では使いものになりませんな。」

官僚「論語の”フーアルウーチャオ”(富みて驕るなし)とはどういう意味ですか。」
仕立屋「”クーアルウーヤオ”(はかまに腰布がない)では使いものになりませんな。」

官僚「バカかお前は! トウ(チェ)!」
仕立屋「チョウ(しわ)でしたら、ここにアイロンを持ってきております。」(『笑府』巻十一・才人)


*いずれも論語学而篇15。「唗皺俗音同」と注にある。上掲のルビは現代北京語だが、おそらく明代の、それも南方の発音では、音が極めて近かったのだろう。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「かな」と読んで詠嘆の意。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

唐石経の系統を引く現伝論語にはこの字を欠くが、古注にはあり、定州竹簡論語ではこの部分が欠損しているので、古注に従い校訂してつけ加えた。

懐徳堂本『論語義疏』

懐徳堂本『論語義疏』

原始論語?…→定州竹簡論語→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→白虎通義─古注─経典釈文┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
             └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)────→(現在)
→(日本)───────懐徳堂本→(現在)

論語:付記

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検証

論語の本章は、前漢中期に成立の『史記』孔子世家に孔子の言葉として「歸與!歸與!吾黨之小子簡,進取不忘其初」とあり、また「歸乎歸乎!吾黨之小子簡,斐然成章,吾不知所以裁之」とある。これによれば「所以裁之」を知らないのは孔子ということになる。

つまり”ワシが添削してやろうにも手の付けようが無いほどデタラメな文章を書いている”ということで、ここからも「斐然」を朱子が言うような、”修辞に優れた文章”と解することは到底できない。かといって古注が正しいとも思えないが、批判するからには全文訳を載せる。

古注『論語集解義疏』

子在陳曰歸與歸與吾黨之小子簡斐然成章不知所以裁之也註孔安國曰簡大也孔子在陳思歸欲去故曰吾黨之小子者進趨於大道妄穿鑿以成文章不知所以裁制我當歸以裁制之耳遂歸疏子在至之也 云子在陳曰歸與歸與者孔子周流諸國在陳最久將欲反魯故發此辭再言歸與歸與者欲歸之意深也云吾黨云云者此是欲歸之辭也所以不直歸而必有辭者客住既久主人無薄若欲去無辭則恐主人生愧故託為此辭以申客去之有由也吾黨者謂我鄉黨中也小子者鄉黨中後生末學之人也者直進無避者也簡大也大謂大道也斐然文章貎也孔子言我所以欲歸者為我鄉黨中有諸末學小子而無避進取正經大道輒妄穿鑿斐然以成文章皆不知其所以輒自裁斷此為謬誤之甚故我當歸為裁正之也 註進趨於大道妄穿鑿以成文章 趨取也大道正經也既故取正典穿鑿之也

孔安国 古注 皇侃
本文「子在陳曰歸與歸與吾黨之小子簡斐然成章不知所以裁之也」。
注釈。孔安国「簡とは大きいことだ。孔子は陳で帰ろうと思いだから言った。”わが党の若者は元気者は正しい道を進んではいるが、妄想に満ちた文章を書き自制を知らない。だからわしが帰って指導してやろう。”というわけで帰った。」

付け足し。先生は旅先にいてそれが記された。子在陳曰歸與歸與とは孔子が諸国を放浪していたが、陳国が最も長期に及んだ。それで魯に帰ろうと思ってこう言った。歸與歸與と二度も言ったのは帰りたい気持が深かったからである。吾黨うんぬんとは帰りたい気持を言った言葉である。さっさと帰らずその前にぶつぶつ言ったのは、客として滞在して久しく滞在先もよくもてなしたので、もし黙って帰ってしまうと滞在先に恥を掻かせるからである。だから言い訳を言ったのである。吾黨と言ったのは郷里の若者でまだ学んでいない者である。とは真っ直ぐなことである。進んで避けることが無い者である。簡とは大きいことである。大きな道を言う。斐然とは文章の体裁である。孔子の言い訳とはこうである。郷里の若者で学んでいない者は真っ直ぐに突き進むあまり無茶苦茶な妄想に満ちた文章を書いているのでまともな書き方を知らないと見えるからわしが帰って指導してやろう。

注釈。「進趨於大道妄穿鑿以成文章」とあるが、趨とは取ることで、大道とは正しい道であり、既に突っ走っているので正しい手本の隅々まで調べている、ということだ。

新注『論語集注』

與,平聲。斐,音匪。此孔子周流四方,道不行而思歸之歎也。吾黨小子,指門人之在魯者。簡,志大而略於事也。斐,文貌。成章,言其文理成就,有可觀者。裁,割正也。夫子初心,欲行其道於天下,至是而知其終不用也。於是始欲成就後學,以傳道於來世。又不得中行之士而思其次,以為士志意高遠,猶或可與進於道也。但恐其過中失正,而或陷於異端耳,故欲歸而裁之也。

論語 朱子 新注
與の字は、平らな調子で読む。斐の字は、匪の音で読む。本章は、孔子があちこちを放浪したのに、理想を実現できないので、故郷へ帰ろうとしたなげきの言葉である。吾黨小子とは、魯国に残した門人を指す。簡は、志は大きいが方法がデタラメなことをいう。斐は、文章の見た目をいう。成章は、文章の論理が通っていて、見るべき点があることをいう。裁は、正しく切りそろえることをいう。孔子先生の素志は、天下に原則ある政道を布くことだったが、この時になって、とうとうその道がどの諸侯にも取り入れられないと知った。そこで初めて、若い学生を教育し、未来の世に自分の理想を伝えようとしたのである。ただし、言動に中庸を得た人物が若い弟子にいなかったので、次にましな、おしいほど道を求めて理想の高い者を教えて、やりようによっては共に理想を実現できるかもと考えた。ただあまりに無茶に走ることを心配し、あるいは異端のデタラメに陥らないよう、帰国して指導しようと考えた。

文字史的に論語の時代に遡れないを含め、論語の本章は後世の創作と断じてよい。

解説

史実は新注とは異なる。偉大な祖師にもかかわらず珍しいことに、孔子は自分のあとを継げとは誰にも言わなかった。若者を教育しようとしたことは確かだが、そもそも儒者の言う「道」=”理想の政道”などという曖昧な願望など持っていなかったと思われる。

孔子が生まれる前に、まず鋳鉄ではあるが鉄器の普及があり、作るに難しい小麦の生産が広がり、晩年には長い訓練を要さない=クロスボウの実用化があった。自然、それまでの貴族に代わって新時代の政治軍事を担える人材が求められた。それゆえに孔子塾が成り立った。

詳細は論語における「君子」を参照。

被差別階級の孤児から身を起こした孔子が、魯国の宰相格にまで出世できたのもそうした時代背景ゆえだった。孔子は自分と同じ道、貴族に成り上がりたい平民の若者を集め、教育と訓練を施した。それは半ば成功したが、孔子の晩年には、教育内容が時代遅れにもなっていた。

決定的だったのは弩の普及で、大量の徴集兵に弩を渡せば、それまで主力だった、貴族の操る戦車隊を駆逐できたからだ。孔子が教えた読み書きや算術は、相変わらず貴族に成り上がるには有効だったろうが、戦車の操縦や弓術は、もはや伝統芸能になりつつあった。

知的な孔子が、後進性を自覚しなかったはずがない。だから後継者を望まなかった。孔子没後、弟子は三年の喪が明けるとさっさと諸国へ散ったと『史記』孔子世家は伝える。倍の六年喪に服した子貢も、斉国へ去って宰相になった。魯に残った者には大した者がいない。

せいぜい子游が、冠婚葬祭業の親玉として目立ったに過ぎない。残りは曽子も子思も「孔子テーマパーク」でめしを食う興行師で、それも流行らなくなって子思は宋国へ流れて貧窮し、曽子はかつての弟子を回って物乞いの旅に出た。儒家は孔子逝去と共に、一度滅びたのである。

それが孔子という不世出の祖師の凄みだった。

なお論語の本章が史実とするなら、孔子が帰国を決意した背景には、南方での政治工作の進展がある。孔子が亡命したのは、宰相として庶民からも貴族からも嫌われ、弟子の仕官に差し支えたからだが、初の亡命先である衛国では、政府乗っ取りを謀って追い出された。

「滞在先におまわりがうろつきだしたのでダッシュで逃げた」と『史記』孔子世家に言う。その後南方に目を付け、呉越両国に子貢を派遣して何やら工作を行った。呉国軍を背景に帰国できたのも、呉が越に滅ぼされたのも、陳や蔡が滅びかけたのも、こうした工作が背景にある。

無論その記録は煙のように消えている。孔門はやり手で、儒者も消し回ったからだ。

余話

オッサンなんか描きたくない

同志諸君タワーリシチィ帰ろうワローチムシャ、帰ろう!」(→囗語訳『論語』)
同志諸君、帰らんか。
元ネタはこちら

ただし歌の囗語が下手すぎて聞くに堪えない。そしてオッサンなんか描きたくない。リンク先論語サイトでは諸氏の囗語訳が載っている。挿絵はワシリエワ女史の訳から。以下は前回に引き続きルキヤノワ女史の囗語訳の日本語訳。

陳国に居たとき、先生は呼びかけた。

「みなの者、帰ろう、帰ろう!私の弟子は、才能は開花したが、傲慢になっている。書くものが全く落書き同然で、まともな文章の書き方を知らない。どうやって考えをまとめるか知らない。」(訳:Aアー. Eイェー. ルキヤノワ)

大人の事情により原文と読みの掲載削除



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