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論語詳解100公冶長篇第五(8)なんじと回とは°

論語公冶長篇(8)要約:孔子一門は革命政党でもあります。孔子先生と一部の弟子は、国際的謀略にも手を染めました。その悪党のうち先生と子貢が寄って、悪党の度を論じます。結果は顔淵が最高で、「あれにはワシもかなわん」と先生は言うのでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子謂子貢曰女與回也孰愈對曰賜也何敢望回回也聞一以知十賜也聞一以知二子曰弗如也吾與女弗如也

  • 「愈」字:上半分「俞」。

校訂

諸本

東洋文庫蔵清家本

子謂子貢曰汝與回也孰愈/對曰賜也何敢望回〻也聞一以知十賜也聞一以知二子曰弗如也吾與汝弗如也

  • 「汝」字:京大本・宮内庁本「女」
  • 「愈」字:上半分「俞」。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

※通例として、「汝」を使わず「女」と記す。

標点文

子謂子貢曰、「女與回也孰愈。」對曰、「賜也何敢望回。回也聞一以知十、賜也聞一以知二。」子曰、「弗如也。吾與女、弗如也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文謂 金文子 金文貢 甲骨文曰 金文 女 金文与 金文回 金文也 金文孰 金文愈 金文 対 金文曰 金文 賜 金文也 金文何 金文敢 金文望 金文回 金文 回 金文也 金文聞 金文一 金文㠯 以 金文智 金文十 金文 賜 金文也 金文聞 金文一 金文㠯 以 金文智 金文二 金文 子 金文曰 金文 弗 金文如 金文也 金文 吾 金文与 金文女 金文 弗 金文如 金文也 金文

※貢→(甲骨文)。論語の本章は、「愈」「何」「望」「如」の用法に疑問がある。

書き下し

子貢しこうひていはく、なんぢくわいいづれかまされる。こたへていはく、なんあへくわいのぞまむ。くわいひといてもつとをる、ひといてもつふたる。いはく、かなわれなんぢかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

先生が子貢に言った。「お前と顔回はどちらが優れているか」。答えて言った。「賜ごときがなぜ顔回を望めましょう。顔回こそは一を聞いて十を知りますが、賜ごときは一を聞いて二を知ります」。先生が言った。「及ばないなあ。私とお前は及ばないなあ。」

意訳

孔子「子貢よ、こたびの政治工作もみごとであった! …ところでお前と顔回は、どっちが工作が上手いかね?」
子貢「そりゃ顔回ですよ。彼は謀略のタネを一つ聞けば十の手を思いつきます。私は二がせいぜいです。諜報員としてはまだまだです。」

孔子「そうそうその通り。私もお前も、顔回の悪だくみには及ばんなあ。」

従来訳

下村湖人
先師が子貢にいわれた。――
「お前と(かい)とは、どちらがすぐれていると思うかね。」
子貢がこたえていった。――
「私ごときが、囘と肩をならべるなど、思いも及ばないことです。囘は一をきいて十を知ることが出来ますが、私は一をきいてやつと二を知るに過ぎません。」
すると先師はいわれた。――
「実際、囘には及ばないね。それはお前のいうとおりだ。お前のその正直な答はいい。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子對子貢說:「你和顏回比,誰強些?」子貢說:「我怎能和他比!他能聞一知十,我衹能聞一知二。」孔子說:「你是不如他,我同意你的看法。」

中国哲学書電子化計画

孔子が子貢に言った。「お前と顔回とくらべて、どちらが優れているか?」子貢が言った。「私がどうして彼と並べますか! 彼は一を聞いて十を知れますが、私は一を聞いてやっと二を知るだけです。」孔子が言った。「お前は彼に及ばない。お前の見方に同意する。」

論語:語釈

子(シ)

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”言う”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

子貢(シコウ)

論語 子貢
論語では孔子の弟子。論語の人物:端木賜子貢参照。「子」は貴族や知識人への敬称。詳細は論語語釈「子」を参照。

貢 甲骨文 貢 字解
(甲骨文)

「貢」の初出は甲骨文。その後一旦出土が絶え、再出は前漢まで時代が下る。従って、殷周革命で一旦滅びた漢語である可能性がある。ただし固有名詞「子貢」として用いる場合、同音近音のあらゆる漢字が置換候補になり得るし、端木賜子貢の実在を疑えるわけでもない。甲骨文での語義は”貢ぐ”。字形は取っ手の付いた物体+〔二〕だが、何を意味しているか分からない。詳細は論語語釈「貢」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

女(ジョ)

論語の本章について、中国伝承論語の祖である唐石経は「女」と記し、日本伝承論語の祖である東洋文庫蔵清家本は「汝」と記す。ただし同じ清家本でも、京大本・宮内庁本は「女」と記す。

論語の本章は現存最古の論語本である定州竹簡論語、それに次ぐ後漢熹平石経に全文を欠く。ただし定州本は通例として「汝」を用いず「女」と記す。これに従い「女」とした。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

女 甲骨文 常盤貴子
「女」(甲骨文)

論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形はひざまずいた女の姿で、原義は”女”。甲骨文では原義のほか”母”、「毋」として否定辞、「每」として”悔やむ”、地名に用いられた。金文では原義のほか、”母”、二人称に用いられた。「如」として”~のようだ”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「女」を参照。

汝 甲骨文 汝 字解
「汝」(甲骨文)

東洋文庫蔵清家本「汝」の初出は甲骨文。字形は〔氵〕+〔女〕で、原義未詳。「漢語多功能字庫」によると、原義は人名で、金文では二人称では「女」を用いた。そのほか地名や川の名に用いられた。春秋時代までの出土物では、二人称の用例は見られない。詳細は論語語釈「汝」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では、”~と”。新字体は「与」。新字体初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

回(カイ)

顔回

孔子の弟子、顔回子淵のいみ名。孔子の直弟子の中では、後世もっとも尊崇され、孔子と同格の「顏子」との称号もある。論語の人物:顔回子淵を参照。

いみ名で呼べるのは目上だけで、論語の本章で孔子が「回」と呼んでいるのは当然としても、年齢や入門が下とされる子貢もまた「回」と呼んでいる。仲間内のくだけた表現か、下記するように顔淵と子貢はともに孔門の謀略部門を担ったことから、とりわけ親しかったのかも知れない。

亘 回 甲骨文 回 字解
「亘」(甲骨文)

「回」の初出は甲骨文。ただし「セン」と未分化。現行字体の初出は西周早期の金文。字形は渦巻きの象形で、原義は”まわる”。詳細は論語語釈「回」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「回也」「賜也」では「や」と読んで主格の強調に用いている。「弗如也」では「かな」と読んで詠嘆の意。「なり」と読んで断定の意と解してもかまわないが、これらの語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

孰(シュク)

孰 金文 孰 字解
(金文)

論語の本章では”どちらが”。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。

愈(ユ)

愈 金文 愈 字解
(金文)

論語の本章では”まさる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。同音多数。兪はその一つ。字形は「兪」”くりぬく”+「心」で、病巣を取り去って心地よい気持のさま。原義は”治る”。「癒」(初出は後漢の『説文解字』)”いえる・いやす”の字が派生したのちは、音が表す”いよいよ”の意に用いた。金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「愈」を参照。

對(タイ)

対 甲骨文 対 字解
(甲骨文)

論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「サク」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。

賜(シ)

賜 金文
(金文)

孔子の弟子、子貢の本名(いみ名)。論語の人物:端木賜子貢参照。文字的には、論語語釈「賜」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
「何」(甲骨文)

「何」は論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

敢(カン)

敢 甲骨文 敢 字解
(甲骨文)

論語の本章では”好き好んで…する”。初出は甲骨文。字形はさかさの「人」+「丨」”筮竹”+「𠙵」”くち”+「廾」”両手”で、両手で筮竹をあやつり呪文を唱え、特定の人物を呪うさま。原義は”強い意志”。金文では原義に用いた。漢代の金文では”~できる”を意味した。詳細は論語語釈「敢」を参照。

望(ボウ)

望 甲骨文 望 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(~であることを)求める”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「朢」。カールグレン上古音はmi̯waŋ(去)。平声の音は不明。字形は踏み台に上って遠くを見つめる人の姿で、原義は”遠くを見る”。甲骨文の字形には踏み台を欠くもの、「目」を「臣」と記すものがある。金文から”満月”を意味するようになった。詳細は論語語釈「望」を参照。

聞(ブン)

聞 甲骨文 聞 甲骨文
(甲骨文1・2)

論語の本章では”(先生の教えを)聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は「耳」+「人」で、字形によっては座って冠をかぶった人が、耳に手を当てているものもある。原義は”聞く”。詳細は論語語釈「聞」を参照。

一(イツ)

一 甲骨文 一 字解
(甲骨文)

論語の本章では、数字の”いち”。「イチ」は呉音。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”→”…で”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”…で”は、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

知(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

十(シュウ)

十 甲骨文 十 甲骨文
(甲骨文1)/(甲骨文2)

論語の本章では”数字のじゅう”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には二種類の系統がある。横線が「1」を表すのに対して、縦線で「10」をあらわしたものと想像される。「ト」形のものは、「10」であることの区別のため一画をつけられたものか。「ジュウ」は呉音。論語語釈「十」を参照。

二(ジ)

二 甲骨文 二 字解
(甲骨文)

初出は甲骨文。「ニ」は呉音。「上」「下」字と異なり、上下同じ長さの線を引いた指事文字で、数字の”に”を示す。原義は数字の”に”。甲骨文・金文では原義で用いた。詳細は論語語釈「二」を参照。

弗(フツ)

弗 甲骨文 弗 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には「丨」を「木」に描いたものがある。字形は木の枝を二本結わえたさまで、原義はおそらく”ほうき”。甲骨文から否定辞に用い、また占い師の名に用いた。金文でも否定辞に用いた。詳細は論語語釈「弗」を参照。

吾(ゴ)

吾 甲骨文 吾 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。

古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているためだが、甲骨文の時代からこの文法は混乱し始めていた。論語語釈「我」も参照。

如(ジョ)

如 甲骨文 論語 如 字解
(甲骨文)

論語の本章では”同程度になる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。『大漢和辞典』の第一義は”ごとくす”。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

前漢年表

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論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用しておらず、前漢中期に成立した『史記』弟子伝にほぼ同文が再録され、これが事実上の初出。そこには孔子の最後の句、「ワシもお前も顔回には及ばん」は記されていない。前二句は司馬遷と同時期の董仲舒による偽作が疑われる。

董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。

さらに同じく顔淵の神格化のため偽作された論語為政篇9と異なり、定州竹簡論語に存在しない。損失した可能性はあるが、そもそも無かったとするのと可能性は五分五分で、『史記』も後世いじくられたか、『史記』を材料に本章にねじ込まれた可能性がある。

後漢年表

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最後の孔子の句を含めた本章全体は、後漢前期の王充による『論衡』に再録。すると本章は、文字史的には全て論語の時代まで遡れるのだが、前漢→新→後漢の交代期に王莽一党か、後漢初期の儒者によってニコイチ・サンコイチされ、全文が合成されたと想像できる。

ただし物証を欠くため、とりあえず史実として扱う。

解説

顔回伝説
まず、仮に論語の本章が偽作なら、その意図は明らかで、子貢を貶め顔淵を神格化するためだけに作られたでっち上げ。戦国時代の孟子や荀子が、顔淵神格化にほとんど興味を持っていない(論語為政篇9解説)ことから、本章を含め顔淵神格化は漢代儒者のしわざだと言って良い。

おそらく董仲舒の手に成る、『公羊顔氏記』なる本が十一篇、前漢の時代にあったと後漢の『漢書』芸文志が記しているので、いわゆる儒教国教化に際して、顔淵の神格化が儒教の権威付けに用いられた可能性を思える。董仲舒による顔淵神格化の詳細は、論語先進篇3解説を参照。

本章では孔子ですら顔回を畏敬し、それゆえ白川博士は顔回を孔子のライバルとして捉えているのだが(『孔子伝』)、上掲の検証のように、それはでっち上げであり妥当でない。あくまでも弟子の中の逸材だっただけで、それも帝国儒教的な逸材だったとは言えない。

孔子が顔回に感謝していたというのはおそらく正しいだろう。顔回により塾内の雰囲気が和んだことが『史記』によって知られ、武装した若者集団としての一門にとって、内ゲバを未然に防いだありがたい人物だった。その意味で本章の子貢の発言はあり得る話である。

しかし本章は漢字の用法などに後世の創作である可能性を示しており、子貢の肉声かは如何わしい。なお古注では、「孔子は子貢を慰めた」「子貢が恨みに思うのを防ぐために言った」など、まるで孔子が弟子二人にうろたえたかのような解釈をしている。

古注『論語集解義疏』

註孔安國曰愈猶勝也…註苞氏曰既然子貢弗如復云吾與汝俱不如者蓋欲以慰子貢心也…疏…又恐子貢有怨故又云吾與汝皆不如也所以安慰子貢也

孔安国 包咸
注釈。孔安国「愈とは優れるのような意味だ。」
包咸「子貢が自分は顔淵に及ばないと言ったのにかぶせて、孔子がワシとお前のどちらも及ばんと言ったのは、多分へこんだ子貢を慰めたのだろう。」

付け足し「また、子貢が怨むかも知れないと思ってワシもお前同様及ばんと言った。そうやって子貢をなだめたのだ。」

んなわきゃないだろう。しかも孔安国は実在そのものが疑わしい。対して新注の宋儒はどう思っているのだろう。

新注『論語集注』

女,音汝,下同。愈,勝也。一,數之始。十,數之終。二者,一之對也。顏子明睿所照,即始而見終;子貢推測而知,因此而識彼。「無所不悅,告往知來」,是其驗矣。與,許也。胡氏曰:「子貢方人,夫子既語以不暇,又問其與回孰愈,以觀其自知之如何。聞一知十,上知之資,生知之亞也。聞一知二,中人以上之資,學而知之之才也。子貢平日以己方回,見其不可企及,故喻之如此。夫子以其自知之明,而又不難於自屈,故既然之,又重許之。此其所以終聞性與天道,不特聞一知二而已也。」

論語 朱子 新注 論語 胡寅
女の音は汝。以下同じ。愈はすぐれるの意。一は数の始め、十は数の終わり、二は一が対になったもの。顔淵先生は聡明で何を見ても、すぐその本質を掴んでしまえた。だが子貢はあれこれ考えないと本質が掴めなかった。論語で顔淵については「語ってやって喜ばない事が無かった」(論語先進篇3)とあるのに対し、子貢については「過去を知れば未来を知る」(論語学而篇15)と言われるのはその証明である。與は、許(程度の者)の意である。

胡寅「子貢は弟子仲間を並べてあれこれ小バカにする(論語憲問篇31)悪いくせがあった。先生は教えを余すところなく語ったので、子貢に顔淵とどちらが優れているか問うたのである。その答えによって、理解の程度を知ろうとした。

一を聞いて十を知る者は、上等の脳みそで、生まれながらに知っている者に次ぐ。一を聞いて二を知るのは、中等の脳みそで、勉強してものがわかるのに向いている。子貢は日頃から自分と顔淵を比べて、到底及ばない所があるのに気づいていたから、こういうたとえ話をして孔子に答えたのである。

先生は子貢が自分の分際をよく知っていることから、自分で精神をへこませるおそれがあると考え、まずは子貢の言うとおりと肯定してやり、認めた。子貢が”先生の理系の話はよく分からなかった”(論語公冶長篇12)と言ったのは、一を聞いて二しか分からなかったからである。」

胡寅は他でも書いたが、中国史上最高の高慢ちき揃いの宋儒の中でも、楊時と並んで極めつけの悪党で、金軍が攻め寄せたときには大学の構内に隠れ、その後姿をくらまし、南宋が成立するとノコノコ現れて官職をあさった。そういう人物の言うことだ、と理解して読むべき。

KGB
次に、物証から論語の本章を史実として考えた場合。顔淵はおそらく、孔子一門の政治的謀略部門を担っており、それゆえになぜ偉いのか当時も記すことが出来なかったし、後世にも伝わらなかった。確実な証拠は古代の闇の向こうに過ぎ去ったが、状況証拠を集めると、そのように思えて仕方がない(孔門十哲の謎#もっと侮れない顔氏一族)。

また子貢は魯の外交官として呉や越を焚き付けるなど国際的謀略に暗躍したことが『春秋左氏伝』『史記』に記されている。となると論語の本章のテーマは、「外交・謀略の才」であり、人格や学問一般ではぜんぜんない。孔子もまた国際的陰謀を逞しくしたことは、孔子とすれ違うように春秋末から戦国初期を生きた墨子が証言しているが、その手先となって働いたのは子貢だった。

三年の間に、斉は内乱、呉は亡国に向かってまっしぐら、殺された死体が積み重なった。この悪だくみを仕掛けたのは、他でもない孔子である。(『墨子』非儒下)

つまり政治の後ろ暗い仕事について、孔門の悪党三人のうち二人が寄って悪党の度を論じているわけで、これなら嘘くさいお説教やお追従とは関係が無く、史実としてそのまま受け取れる。上掲意訳では”悪だくみ”と訳したが、政治や外交に悪だくみは付き物で、春秋の君子として悪だくみは、恥でも何でもない。後世の偽作ではあるが、論語憲問篇18の言う通りである。

少々悪どいところがあってもどこが悪い。そのあたりの愚夫愚婦が、つまらぬ忠義立てをして我から首をくくり、ドブ川に身投げしても、誰も知る人はいませんでした、というのとは違うのだ。

春秋の君子は帝政以降現在に至る「役人」ではない。背後には守るべき領民がおり、その支持を失えば身分を失い亡命をも余儀なくされた。孔子がおまわりをバラ撒いて国中から嫌われ放浪したように。悪くすると天寿も全うできない(論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」)。

だから悪だくみは、春秋の君子にとって悪徳ではなく必須技能だった。また孔子が目指した「革命」とは、身分に関係なく技能教養で社会的地位を得る世を目指すことで、体制転覆ではなかったが、それでも「革命」の名に値する。悪だくみの伴わない革命は、古今東西無いのであった。

なお古注では本章を前章の続きとして扱い、宮内庁蔵南宋本『論語注疏』と四庫全書本新注では分割する。

懐徳堂本『論語義疏』

懐徳堂本『論語義疏』

余話

事実を見て超える

子貢は孔子生前の儒学的にはまことに正統的な弟子だった。孔子塾は庶民が君子に相応しい技能教養を身につけて春秋の貴族=君子に成り上がるための場だったから、さっさと仕官して数ヶ国の宰相を兼ねた子貢は、もっとも孔子の教説にふさわしい人物だったと言える。

それゆえ後世に学派を残さなかった。だから漢儒がよってたかっておとしめ、本章のように顔淵称揚キャンペーンに利用もしたのだが、その理由は後継者が残っていないから、何を言っても怖くないからに他ならない。これが生物としての人類の共通した性質を具現化している。

怖くないものはどんなにいたぶってもかまわない。童話作家のファンタジーとは裏腹に、たとえ草食小動物でも、食うためではないのに平気でより弱い生き物を蹴り殺す。動物を世話した経験のある人なら、どなたにも同意して頂けるのではなかろうか。

動物は従属栄養生物として、生き物を食べなければ生きられないし、人間は一呼吸ごとに、千万単位で微生物を鼻の粘膜で殺している。誰もが見たくない現実で、普段それを忘れるのは精神の健康を保つために必要ではあるが、決断の場では、時折冷酷にならねば生き残れない。

中華文明とはそうした人間の生物的特質を、隠さず表沙汰にすると同時に、そうした暗い面をひとは嫌がるという事実を十分反映して、ヒトたる自分の暗部をどう誤魔化し言いくるめるかの方向にも発達した。つまり言っていることと思っていることとやっていることが全然違う。

度の外れた自己犠牲を他人に強調すると同時に、利用できるものはとことん食い尽くす。そんな欲の亡者はやな奴だ、で終えてしまうのは、おそらく閲覧者諸賢のためにならないし、中華文明の精華をみすみす取り逃がすことになる。優しくなるには生き残らねばならないからだ。

さらに強くならねばならない。中華文明の精華とは、つまり生き残りの法と自分が強くなる法に他ならない。ただの好き嫌いや欲得を超えて、中華文明は人界を俯瞰する境地に、すでに春秋戦国の世で達していた。日本がまだ、縄文の昔にあったころからである。

齊之國氏大富,宋之向氏大貧;自宋之齊,請其術。國氏告之曰:「吾善為盜。始吾為盜也,一年而給,二年而足,三年大壤。自此以往,施及州閭。」向氏大喜,喻其為盜之言,而不喻其為盜之道,遂踰垣鑿室,手目所及,亡不探也。未及時,以贓獲罪,沒其先居之財。向氏以國氏之謬己也,往而怨之。國氏曰:「若為盜若何?」向氏言其狀。國氏曰:「嘻!若失為盜之道至此乎?今將告若矣。吾聞天有時,地有利。吾盜天地之時利,雲雨之滂潤,山澤之產育,以生吾禾,殖吾稼,築吾垣,建吾舍。陸盜禽獸,水盜魚鱉,亡非盜也。夫禾稼、土木、禽獸、魚鱉,皆天之所生,豈吾之所有?然吾盜天而亡殃。夫金玉珍寶穀帛財貨,人之所聚,豈天之所與?若盜之而獲罪,孰怨哉?」


斉国の国氏はたいへん富み、宋国の向氏はたいへん貧しかった。向氏は国氏の所へ出向き、富を得る法を尋ねた。国氏「私は盗みがうまいからな。私が盗み出してから、一年で赤字がなくなり、二年で余裕が出来、三年で蔵が建った。それ以降は、近所に施しまで出来るようになった。」

向氏は大喜びして帰り、国氏の言うことを真に受けて泥棒になった。それ以降、垣根は飛び越す壁には穴を開けるで、めぼしいものはどんなものでも、手を付けずにいられなくなった。だが泥棒稼業が繁盛する前に捕まり、財産没収・自宅接収の目に遭った。

向氏は国氏に文句を言った。国氏「どのように盗んだのかね?」向氏はありのままを言った。

国氏「ああ、それじゃあ盗みに失敗するのも当然だ。盗むとはこういうことだ。天候をよく観察したときに、土地からどう利益を上げるかが分かる。私は天地の時の利を盗んでいるのだ。雨が潤す時、山や谷から利益が上がる。ひいては私の畑を肥やし、収穫を上げ、その上がりで垣根をめぐらせ、屋敷を建てた。大地から鳥や獣を盗み、川から魚やスッポンを盗んだ。これらは全部盗みだ。

畑仕事も、土木も、狩りも、釣りも、全部天が生んだもので、どうして私のものと言えるか。だが天から盗んでも後難は無い。君が盗んだ貴金属や宝物やお金は、人が作って集めたものだ。天とは関係が無い。そうやって人が作ったものを盗んだのなら、捕まっても当たり前、私に文句を言うのは筋違いではないか。」(『列子』天瑞15)

好悪や損得の前にまず「事実を見」そして「超える」こと。それは中華文明の精華である。中華文明がこのような冷徹を持つに至ったのは、ひとえに中国の地理的環境からで、それは原因を求めるなら地球そのものにある。火山と地震の多い日本人にとっても、他人事ではない。

参考記事

『論語』公冶長篇:現代語訳・書き下し・原文
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