PRあり

論語詳解264先進篇第十一(11)季路鬼神に*

論語先進篇(11)要約:顔淵の葬儀もひとまず終わった後で、父親の顔路が「供養をどうすれば」と孔子先生に尋ねます。しかし先生は「神など知らん」といういつもの冷徹を崩さず、「死者に仕える法など知らん」と突き放しました。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

季路問事鬼神子曰未能事人焉能事鬼敢問死曰未知生焉知死

校訂

東洋文庫蔵清家本

季路問事鬼神子曰未能事人焉能事鬼敢問(事)死曰未知生焉知死

  • 「鬼」字は〔人田儿人〕。「事」字は傍記。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

]路問事鬼神。孔a子曰:「未能事人,焉能事鬼?」曰:「敢272……。」曰:「未𣉻生,焉𣉻死?」273

  1. 孔、今本無。

標点文

季路問事鬼神、孔子曰、「未能事人、焉能事鬼。」曰、「敢問死。」曰、「未𣉻生、焉𣉻死。」

復元白文(論語時代での表記)

季 金文路 金文問 金文事 金文鬼 金文神 金文 孔 金文子 金文曰 金文 未 金文能 金文事 金文人 金文 能 金文事 金文鬼 金文 敢 金文問 金文死 金文 曰 金文 未 金文智 金文生 金文 智 金文死 金文

※論語の本章は、「焉」が論語の時代に存在しない。ただし無くとも文意が変わらない。「未」の用法に疑問がある。

書き下し

季路きろなみみたまかみつかへるをふ。孔子こうしいはく、いまひとつかふるあたはず、いづくんぞなきみたまつかふることあたはむ。いはく、あへなきことふ。いはく、いまいくること𣉻らず、いづくんぞなきこと𣉻らむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

顔路 孔子 哀
季路が亡霊に奉仕する方法を問うた。先生が言った。「今でも人に奉仕する方法が分からない。どうして亡霊に奉仕する方法が分かろうか。」季路が言った。「どうか教えて下さい。死とは何ですか。」先生が言った。「今でも生きるとは何か分からない。どうして死が分かろうか。」

意訳

(顔淵の父)顔路「あれ(顔淵)をこれからどう供養してやったらいいのでしょう。」
孔子「お嘆きごもっともだが、生きた人間にどう奉仕すればよいかも分からない。みたまをどう供養するかは、私も知らない。」

顔路「そう仰らずに、何かお教え下さい。」
孔子「すまぬのう、生きた人を理解出来ない私が、死んだ人をわかる、と言うわけにはいかないのだよ。」

従来訳

下村湖人

季路が鬼神に仕える道を先師にたずねた。先師がこたえられた。――
「まだ人に仕える道もわからないで、どうして鬼神に仕える道がわかろう。」
季路がかさねてたずねた。――
「では、死とは何でありましょうか。」
すると先師がこたえられた。――
「まだ生が何であるかわからないのに、どうして死が何であるかがわかろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

季路問怎樣侍奉鬼神,孔子說:「人都不能侍奉好,還談什麽侍奉鬼神?「請問死是怎麽回事?「生都不瞭解,還談什麽瞭解死?」

中国哲学書電子化計画

季路が亡霊に奉仕するやり方を問うた。孔子が言った。「人ですらよく奉仕できなかったんだ。なのに亡霊の奉仕方を語れるか?」「教えて下さい、死とは何でしょうか。」「生すらよく分からない。なのにどうやって死をはっきりと語れるのか?」

論語:語釈

、「 。」「 。」、「 智(知) 智(知) 。」


季路(キロ)

論語の本章では、顔回子淵の父親の名。『史記』弟子伝ではいみ名(本名)は無繇、あざ名は「路」とあるが、いみ名が二文字なのは春秋時代の漢語として理に合わない。『史記』よりやや時代が下り、論語と同様定州漢墓竹簡に含まれる『孔子家語』では、いみ名は「由」、あざ名は「季路」。春秋時代の名乗りとしてはむしろこちらの方が理にかなう。「季路」とは”末っ子の路さん”を意味する敬称。

通説では、「季路」とは孔子の最も早くからの弟子とされる仲由子路の別名だが、そう言い出したのは、孔子没後967年後に生まれた、古注『論語集解義疏』に「疏」”付け足し”を書き付けた南朝梁の皇侃であり、説に根拠も言っておらず、とうてい信用するに値しない(論語公冶長篇25)。

下記の通り論語の本章で、「季路問」に対し「子曰」でなく「孔子曰」と、対話相手が同格以上であることを示しており、「季路」を弟子の「子路」と解釈するとやはり理に合わない。

論語での「子路」「季路」の表記揺れのうち、現存最古の定州竹簡論語で「季路」が確認できるのは本章のみ。上掲定州竹簡論語の文字列で「季」の字部分が[季]と角かっこの中に記されているのは、唐山地震の被害で欠損したことを示す。

論語で「季路」と記す章は以下の通り。

現伝論語 定州竹簡論語 備考
1 論語公冶長篇25 季路侍 (欠損) 偽作
2 論語先進篇1 季路 子路 後世の付加
3 本章 季路問 季路問
4 論語季氏篇1 季路見 (欠損) 偽作

季 甲骨文 季 字解
「季」(甲骨文)

「季」の初出は甲骨文。同音は存在しない。甲骨文の字形は「禾」”イネ科の植物”+「子」で、字形によっては「禾」に穂が付いている。字形の由来は不明。甲骨文では人名に用いた。金文でも人名に用いたほか、”末子”を意味した。詳細は論語語釈「季」を参照。

路 金文 路 字解
「路」(金文)

「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”あし𠙵くち”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した詳細は論語語釈「路」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

事(シ)

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

論語の本章では”臣従する”→”奉仕する”。動詞としては主君に”仕える”の語義がある。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。

なお論語の本章、季路の台詞を「敢問事死」と東洋文庫蔵清家本は(事)を添え書きで記し、やや後発する宮内庁蔵清家本は格内に記し、正平本・文明本・足利本も同様。対して中国伝承論語は唐石経を引き継いで「事」を記さず、日本伝承論語も新注を参照するようになった根本本からは記さない。

唐石経以前には、中国には異同のある各種の論語本が出回っていたはずで、東洋文庫蔵清家本の傍記はそれを反映した結果だろうが、傍記であることから採用せず校訂を見送った。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

鬼神(キシン)

論語の本章では、”亡霊と精霊”。「鬼」は角を生やしたオニではなく、死者のたましい。「神」の原字は稲妻の象形で、目に見えない自然界の力ある存在、すなわち天の神を含む精霊。

鬼 甲骨文 鬼 字解
(甲骨文)

「鬼」の初出は甲骨文。字形は「シン」”大きな頭”+「卩」”ひざまずいた人”で、目立つが力に乏しい霊のさま。原義は”亡霊”。甲骨文では原義で、また国名・人名に用い、金文では加えて部族名に、「畏」”おそれ敬う”の意に用いられた。詳細は論語語釈「鬼」を参照。

神 金文 神
(金文)

「神」の新字体は「神」。台湾・大陸ではこちらがコード上の正字として扱われている。初出は西周早期の金文。字形は「示」”位牌”・”祭壇”+「申」”稲妻”。「申」のみでも「神」を示した。「申」の初出は甲骨文。「申」は甲骨文では”稲妻”・十干の一つとして用いられ、金文から”神”を意味し、しめすへんを伴うようになった。「神」は金文では”神”、”先祖”の意に用いた。詳細は論語語釈「神」を参照。

殷代の漢字では「申」だけで”天神”を意味し、「土」だけで”大地神”意味し得た。「示」は両方を包括する神霊一般を意味した。西周になったとたんに「神」と書き始めたのは、殷王朝を滅ぼして国盗りをした周王朝が、「天命」に従ったのだと言い張るためで、文字を複雑化させたのはもったいを付けるため。「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。論語語釈「示」も参照。

子(シ)→孔子(コウシ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。

定州竹簡論語では「孔子」と記す。論語で「子曰」でなく「孔子曰」となっている場合、相手が目上であることがほとんど。論語の中で、対話など孔子に動作対象がいる場合、かつ動作の主語として「孔子」と記す章は以下の通り。

相手 現伝論語 定州竹簡論語 備考
1 論語為政篇19 哀公問曰 孔子對曰 孔子對曰 偽作
2 論語八佾篇19 定公問 孔子對曰 (欠損)
3 論語雍也篇3 哀公問 孔子對曰 孔子對曰
4 論語雍也篇28 子見南子 孔子見南子
5 論語述而篇30 陳司敗問 孔子曰/孔子退 孔子曰/孔子退 偽作
6 論語先進篇5 南容三復 孔子…妻 (不在)
7 論語先進篇6 季康子問 孔子對曰 (欠損) 偽作
8 論語先進篇7 顏路請 子曰 孔子曰
9 本章 季路問 子曰 孔子曰
10 論語顔淵篇11 齊景公問 孔子對曰 (不在)
11 論語顔淵篇17 季康子問 孔子對曰
12 論語顔淵篇18 季康子…問 孔子對曰
13 論語顔淵篇19 季康子問 孔子對曰
14 論語子路篇15 定公問 孔子對曰 子曰
15 論語子路篇18 葉公語 孔子曰 (欠損) 偽作
16 論語憲問篇20 康子曰 孔子曰
17 論語憲問篇22 公曰 孔子曰 偽作
18 論語憲問篇26 蘧伯玉使 孔子與…曰
19 論語憲問篇34 微生畝謂 孔子曰
20 論語衛霊公篇1 衞靈公問 孔子對曰
21 論語季氏篇1 冉有季路見 孔子曰 偽作
22 論語陽貨篇1 陽貨欲 孔子不見
23 論語陽貨篇6 子張問 孔子對曰 子曰
24 論語陽貨篇20 儒悲欲 孔子辭 子辭
25 論語微子篇3 齊景公待 孔子行 (不在)
26 論語微子篇5 楚狂接輿歌 孔子下…欲 (欠損)
27 論語微子篇6 長沮桀溺耦 孔子過 偽作

動作対象がほぼ国公や卿など目上や、同格の大夫や学者や隠者であることが見て取れる。例外はまず弟子とされる論語先進篇5「南容三復」だが、一説に南容は門閥貴族・孟孫家の当主の弟であるとされる。

特異とすべきは論語先進篇7「顏路請」、論語季氏篇1「冉有季路見」、論語陽貨篇6「子張問」と、論語の本章「季路問」になる。季路は顔回子淵の父で、教師が弟子の「親御さん」にへり下るのは常識的に理解出来る。季氏篇では冉有が門閥の季孫家の家臣または魯国政府の高官に就いた記録が『史記』『春秋左氏伝』にあり、おそらく季路も同僚だたっと思われる。結果、論語では「弟子相手でも仕官したら同じ貴族として”孔子”と記す」原則を仮定できる。

この仮定が当たっているとするなら、仕官の記録が無い子張が陽貨篇にあるのは、子張の仕官を示すのかも知れない。このほか類例として、

相手 現伝論語 定州漢墓竹簡 備考
論語憲問篇6 南宮适問 夫子不答 (不在) 偽作
論語微子篇4 季桓子受 孔子行 孔子行

がある。

孔 金文 孔 字解
(金文)

「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「イン」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

未(ビ)

未 甲骨文 未 字解
(甲骨文)

論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。、

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「いずくんぞ」と読んで、”なぜ”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

敢(カン)

敢 甲骨文 敢 字解
(甲骨文)

論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”あえて”。初出は甲骨文。字形はさかさの「人」+「丨」”筮竹”+「𠙵」”くち”+「廾」”両手”で、両手で筮竹をあやつり呪文を唱え、特定の人物を呪うさま。原義は”強い意志”。金文では原義に用いた。漢代の金文では”~できる”を意味した。詳細は論語語釈「敢」を参照。

死(シ)

死 甲骨文 死 字解
(甲骨文)

論語の本章では”死去した人”。定州竹簡論語で「事死」”死につかえる”とあることから、現象としての死ではなく、死者の意。字形は「𣦵ガツ」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。

知(チ)→𣉻(チ)

知 智 甲骨文 知 字解
(甲骨文)

論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。

定州竹簡論語は、普段は「智」の異体字「𣉻」と記す。通例、清家本は「知」と記し正平本も「知」と記す。文字的には論語語釈「智」を参照。

生(セイ)

生 甲骨文 生 字解
(甲骨文)

論語の本章では”生きた人”。定州竹簡論語で「事死」”死につかえる”とあることから、「死」と同じく現象としての生存ではなく、生きている者の意。初出は甲骨文。字形は「テツ」”植物の芽”+「一」”地面”で、原義は”生える”。甲骨文で、”育つ”・”生き生きしている”・”人々”・”姓名”の意があり、金文では”月齢の一つ”、”生命”の意がある。詳細は論語語釈「生」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に見えるが、春秋戦国を含め先秦両漢で全体の引用が無い。部分的引用は、定州漢墓竹簡より若干時代が上がる『塩鉄論』に「孔子曰、未能事人、焉能事鬼神」とあるのみ。

「焉能事鬼」”亡霊に仕える法など知らん”と孔子が突き放した部分については、孔子と入れ違うように春秋末から戦国初期を生きた墨子がさかんに「事鬼神」と言い、漢代に偽作された『小載礼記』も言う。孔子没後の儒者にとって、気の確かでない遺族をそそのかして盛大なちんちんドンドンをやり、おふせをせしめるしか能が無かったから(論語八佾篇12解説)、「事鬼神」を言い募るのはもっともである。

ただ引用の心細さにかかわらず、本章は文字史的に「焉」を除いて論語の時代に遡れる。「焉」は事実上「也」の飾り文字で、しかも無くとも文意が変わらない。本章は「季路」→「子路」という南朝儒者の出任せさえ気を付ければ、史実と扱ってよい。

解説

論語の本章は一連の顔淵死去ばなしに連ねてあり、編者の意図としては明らかに、論語の本章で「鬼」「死」というのを顔淵だと思うように仕向けている。それはあるいは正当かも知れない。息子に先立たれた父親が、取り乱して心の始末を師に問うのは十分ありうることだ。だがこの時の孔子はいつもの冷徹を貫いて、”死者に仕える法など知らん”と突き放した。

同時期の賢者であるブッダが、子の死を嘆く親に、事実の何たるかを諭して悟らせるよう導いたという伝説がある。「かつて死者を出したことが無い家から灯火を貰ってきなさい」と。現伝の原始仏典にも同じ冷徹が記されており、両賢者はその場限りの慰めを言わなかった。

生まれたものどもは、死をのがれる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生あるものどもの定めは、このとおりである。

熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。…

かれらは死に捉えられてあの世に去っていくが、父もその子を救わず、親族もその親族を救わない。

見よ。見まもっている親族がとめどなく悲嘆に暮れているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。…

もしも泣き悲しんでなんらかの利をえることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。…

そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。(中村元『ブッダのことば』第三章・八)

事実を言われて全ての遺族が安らぐわけではなく、事実を言うことが適切かどうかは訳者には判じかねるが、ブッダも孔子とおそらく同じで、「父もその子を救わず」から、子に先立たれた父親に説いた教えと想像できる。

後世、論語をいじくり回した儒者が考えた人間のたましいは、実は二種類に分かれる。重さの軽い「魂」と重い「魄」があり、両者が調和して肉体(尸)に宿ると人は生きる。
魄 古文
「魂魄」(古文)

調和が崩れると魂魄は肉体(尸)から抜けてしまい、魂は雲(云)のようにゆるゆると立ち上って天に上がってしまい、魄は地下に潜っていく。これが人の死である。
尸 古文 云 古文
「尸」「云」(古文)

「魂」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、「鬼+(音符)云(=雲。もやもや)」。雲と同系で、もやもやとこもる意を含む。渾(コン)(もやもやとまとまる)と、非常に縁が近い、という。詳細は論語語釈「魂」を参照。

「魄」の初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、「鬼+(音符)白(ほのじろい、外わくだけあって中みの色がない)」。人のからだをさらして残った白骨、肉体のわくのことから、形骸(ケイガイ)・形体の意となった。白・覇(ハク)・(ハ)(=覇。月の外わく)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「魄」を参照。

「尸」は象形文字で、人間のなきがらが横たわった姿。「云」は息や空気がもやもやと立ちのぼる姿、という。詳細は論語語釈「尸」を参照。

以上、文字が新しいことから分かるように、伝統的にそう思われてきた儒教的死生観なるものは、実は孔子と何の関わりもなく、下記の通り漢代儒者のでっち上げである。

宰我曰:「吾聞鬼神之名,而不知其所謂。」子曰:「氣也者,神之盛也;魄也者,鬼之盛也;合鬼與神,教之至也。眾生必死,死必歸土:此之謂鬼。骨肉斃於下,陰為野土;其氣發揚于上,為昭明,焄蒿,凄愴,此百物之精也,神之著也。因物之精,制為之極,明命鬼神,以為黔首則。百眾以畏,萬民以服。」(『礼記』祭義)

宰我 論語 孔子 人形
宰我が問うた。「私は鬼神という言葉は知っていますが、どうしてそう呼ぶかを知りません。」

孔子「気とは、精神の盛んなさまを言う。魄とは、死の気配が盛んなさまを言う。死の気配と精神の一体化を悟ることが、我が教説の窮極である。人は皆死に、死ねば必ず土に帰る。この帰った状態を鬼という。体は埋められ、野の土に隠される。そこからゆるゆると気が立ち登って、人魂になったり、かぐわしい香りになったり、哀しげな声を上げたりする。これがあらゆるものの純粋体というもので、精神の表れである。この純粋体を前提に、それに化けるための制度を定め、鬼神を敬って名づけ、それを民の掟とする。人々がこれにビビることで、万民が洗脳されて大人しく言うことを聞くのだ。」

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

季路問事鬼神子曰未能事人焉能事鬼曰敢問死曰未知生焉知死註陳群曰鬼神及死事難明語之無益故不荅也


本文「季路問事鬼神子曰未能事人焉能事鬼曰敢問死曰未知生焉知死」。
注釈。陳群「鬼神と死没のことについては、事情がよく分からず、語っても無益だから、答えなかったのである。」

陳群は三国魏の家臣だが、信じがたいほどの人間不信が当たり前だった時代背景に珍しく、まじめ人間だったらしい。まじめ人間にふさわしい注釈と言える。

新注『論語集注』

季路問事鬼神。子曰:「未能事人,焉能事鬼?」敢問死。曰:「未知生,焉知死?」焉,於虔反。問事鬼神,蓋求所以奉祭祀之意。而死者人之所必有,不可不知,皆切問也。然非誠敬足以事人,則必不能事神;非原始而知所以生,則必不能反終而知所以死。蓋幽明始終,初無二理,但學之有序,不可躐等,故夫子告之如此。程子曰:「晝夜者,死生之道也。知生之道,則知死之道;盡事人之道,則盡事鬼之道。死生人鬼,一而二,二而一者也。或言夫子不告子路,不知此乃所以深告之也。」


本文「季路問事鬼神。子曰:未能事人,焉能事鬼?敢問死。曰:未知生,焉知死?」
焉は於-虔の反切で読む。鬼神に仕える法を問うたというのは、たぶん祭祀の方法を聞いたのだろう。だが人は必ず死ぬのと同時に死は理解しがたく、誰もが切実に問う。だから生きた人間に誠実に仕える法だけでは、必ず亡霊に仕えるのに十分とは言えない。もともと、なんで人は生きているかの理由が分からないなら、何で死ぬのか分からないのは道理だ。人生はたぶんよくわからない、薄暗い中で始まっては終わり、初めから生と死の理屈は別々でない。だがそのことわりを知る前には学ぶべき事があり、だから孔子先生はこのような答えをしたのだ。

程頤「昼夜は死生の道である。生の道を知れば、つまり死の道がわかる。人界のことを知り尽くせば、つまり亡霊に仕える法が分かる。死と生、生きた人と亡霊は、一にして二、二にして一つである。孔子先生が子路にそう言わなかったのは、この道理を子路がわきまえ名馬鹿者だったからで、そこで繰り返し”知らん”と答えたのだ。」

程頤(程伊川)がオカルト熱心な宋儒の中でも極めつけの𠮷外であることはたびたび記した。皇侃が言った「季路は子路だ」という出任せを真に受けているのは、程頤の頭が悪いからだが、科挙に受かる前から皇帝に説教し、官界でも人の悪口ばかり言ったので、気味悪がられ嫌われて追い出された。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

司馬光よーちえん

大丈夫、救助は必ず来るから

官界から追い出され浪人中の程頤を拾ってやったのは、科挙にトップ合格し『資治通鑑』を編み、宰相も務めた司馬光で、朱子と朱子学を担いだ儒者にとっては美談だったかも知れないが、高慢ちきなエリート官僚同士の趣味と身びいきを、現代人が褒めそやす義理は全くない。

司馬光はいわゆる旧法党の重鎮として、哲宗皇帝の下で宰相になると、王安石の新法を廃止したが、そのやり方が滅茶苦茶だった。

司馬光秉政,復差役法,為期五日,同列病太迫,京獨如約,悉改畿縣雇役,無一違者。詣政事堂白光,光喜曰:「使人人奉法如君,何不可行之有!」


司馬光は政権を握ると、民に労役を課す差役法を復活させたが、「帝国全土、五日以内に実行せよ。遅れは許さぬ」と権力づくで命じた。役人一同は「そんな無茶な」と仰天したが、蔡京だけは「へいへい、ご命令の通り」と言って、帝都一帯で司馬光の命を、一県残らず強行した。

その上で宰相府に出向き、「ご命令の通りに致しました」と報告したので、司馬光は喜んで「人々が政令を主君と同じように貴ぶなら、出来ない事はないものだな」と言った。(『宋史』蔡京伝)

蔡京は王安石が健在な頃は新法党として名を売った男だが、王安石が失脚するとこのような節操の無さで官界を渡り歩き、宰相となってからは国政国富を私物化し、のちの北宋滅亡のきっかけを作った。それゆえ『水滸伝』でも悪の総本山扱いされている。

ともあれ司馬光の足が地に着かない喜びようから、宋儒の高慢ちきがよく分かる。司馬光の場合は高慢ちきもあるがむしろ幼稚化が甚だしく、試験秀才が世間に甘やかされ、馬鹿になり果てるのは宋代も現代も変わらない。少年時代の司馬光は、神童として名が轟いていたのだが。

光生七歳,凜然如成人,聞講《左氏春秋》,愛之,退爲家人講,即了其大指。自是手不釋書,至不知饑渴寒暑。群兒戲于庭,一兒登甕,足跌沒水中,眾皆棄去,光持石擊甕破之,水迸,兒得活。其後京、洛間畫以爲圖。仁宗寶元初,中進士甲科。年甫冠,性不喜華靡,聞喜宴獨不戴花,同列語之曰:「君賜不可違。」乃簪一枝。


司馬光は七歳*になると、まるで成人同様の分別を身につけた。儒者の家に出向いては『春秋左氏伝』の講義を聴くのを喜び、家に帰ると家族に講義出来たように、聞いたその場で、『春秋左氏伝』の奥深い意義を理解してしまった。このでんで片っ端から古典を読みふけり、腹の空いたのも暑さ寒さも気にならないままだった。

そんな司馬光が読書している庭に近所のガキどもが集まって、大きな水がめに登りっこして遊んでいたのだが、子供の一人が足を滑らせて、甕の中に落ちてしまった。ガキどもは「わー」と言って逃げ散ったが、そこへ本を置いた司馬光がスタスタと寄ってきて、石を叩き付けて甕を割り、水が散って落ちた子供は助かった。このうわさで天下は持ちきりとなり、帝都開封から古都洛陽の間に至るまで、人々が漫画に描いてもてはやした。

仁宗皇帝の宝元年間の初年(1038)、科挙をトップで合格したが、その年やっと成人に達したばかりだった。浮ついたことが大嫌いで、結婚披露宴に招かれても葬式のような顔をした。同席の面々が「それでは主役が気の毒だ、君も笑いたまえ」と言って、新郎の付けるかんざしを司馬光の髪に飾った。(『宋史』司馬光伝)


*七歳:いわゆる数え年で、小学一年生と見なしてよい。

閲覧者諸賢はどう思われるか、自分の披露宴に招いてやったのに、不機嫌な顔をしている奴と、友人付き合いしたいと思うかどうか。こういうのが政治のトップに立ってしまうものだから、蔡京のような悪党がはびこり、庶民は梁山泊の好漢を頼むしかなくなるのである。

お考え候らえ、小学校に入ったばかりの子供が自分で『日本書紀』の講義を聴きに行き、帰宅して家族に説教を垂れたら、「気味の悪いガキだ」と思って当然だろう。「30過ぎればただの人」という日本のことわざは、人々にこういう異常者に対して冷静になるのを勧めている。

人々がアヘンを吸わざるを得ないような世で、甘やかされた林則徐が人々を地獄に突き落としたように(論語郷党篇3余話「無礼でないと国が保たない」)、庶民がヤクザに頼るしかない世で甘やかされた元秀才少年が、自分の趣味を世間に押し付け、民百姓の苦難に無慈悲なのはもっともだ。

子供が平気で虫の頭をもぎ取るように、世の哀れを知るには自分も悲惨な目に遭う体験を繰り返さねばならない。それでやっと人間らしくなる。だが若いうちから甘やかされたことしかなければ、同じ社会に住む人々に、上から虫眼鏡で蟻の巣を焼くようなことを平気でする。

試験秀才が馬鹿になるのは、世間という元データに当たらないことにあり、勝手な思い込みが思い通りいかないと、全部他人のせいにする。だから下っ端はより一層、試験秀才の上役が、世間とふれ合わないようにする。馬鹿と狡猾の相乗効果で、損失は全部庶民がかぶる。

訳者はかつて、警視庁機動隊の師範先生に弟子入りさせて頂いた。先生はいわゆる鬼軍曹で、武道の腕一本で叙勲までたたき上げた下士官だった。その先生が合宿の朝、テレビが警視庁幹部の汚職を伝えるのに、「幹部はどうしてこんなことばかりするのだろうな」とつぶやかれた。

無知がいいとは言わないが、試験秀才だろうと幼児に権力を与えると、大勢が迷惑する。現代日本も同様で、レジ袋の有料化など、自分で買い物に行かない役人の身勝手で、店も買い物客も迷惑している。過去に壊滅的な敗戦を招いたのも、もと試験秀才の文武の役人だった。

甕から逃げ出したガキどもと無責任は変わらない。幼児を公職から追い出す法はないものか。だが古今日中を問わず試験秀才が試験勉強に耐えたのは、ひとえに人の食い物になりたくない、人を食い物にしたいという思いからで、革命付きの貴族政ぐらいしか思いつかない。

だが「フランス人民の王」として即位したルイ・フィリップは、陰険な警察国家を構築し、「こんな台所臭いインチキに、革命が黙っているものか」と批判され、その通りになって逃亡した。それでもフランス官僚の高慢ちきと、陰険な警察国家は続いてこんにちに至る。

貴族は必死で革命を弾圧する。とはいえ試験で為政者を選べば、馬鹿が国を支配する。その馬鹿の巣窟になった日本海軍は、艦長に艦と運命を共にせよと強いて更に人材が払底した。商船でも1970年の法改正まで、船長は乗客乗員の退船が完了するまで、退船できなかった。

その是非は訳者如きには分からないが、幼稚な役人にはうんざりしている。

参考動画

司馬光の心中を知るに分かりやすい例。胸糞注意。

『論語』先進篇:現代語訳・書き下し・原文
スポンサーリンク
九去堂をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました