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論語詳解258先進篇第十一(5)南容白圭を三たび’

論語先進篇(5)要約:孔子先生の弟子の南容は、古い歌の教えから、言葉を慎重にするよう心掛けていました。自身はかなりのおしゃべりであった先生は、そんな南容を高く評価するのでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

南容三復白圭孔子以其兄之子妻之

校訂

東洋文庫蔵清家本

南容三復白圭/孔子以其兄之子妻之

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

南容三復白圭、孔子以其兄之子妻之。

復元白文(論語時代での表記)

南 金文 公 金文三 金文復 金文白 金文圭 金文 孔 金文子 金文㠯 以 金文其 金文兄 金文之 金文子 金文妻 金文之 金文

※容→公。固有名詞のため、同音・近音のいかなる漢字も置換候補になり得る。

書き下し

南容なんようたびしらたまかさぬ。孔子こうしあにもっこれめあはす。

論語:現代日本語訳

逐語訳

南容
南容は白ケイの歌を三度繰り返した。孔子はその兄の娘を妻合わせた。

意訳

♪キュッ、キュッ、キュッ、
♪磨いてキュッ、
♪傷を取りましょ、玉の傷。
♪言っ、ちゃっ、た、
♪やらかした、
♪言葉は怖いな、取れないな。

孔子 褒める
…おや? 南容どのがまたいい歌を歌っているな。兄の子をめあわせてやろう。

従来訳

下村湖人

南容は白圭の詩を日に三たびくりかえしていた。先師はそれを知られて、ご自分の兄の娘を彼にめあわされた。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

南容經常朗誦有關言談謹慎的詩篇,孔子就把侄女嫁給了他。

中国哲学書電子化計画

南容はいつも言葉を慎む歌を口ずさんだ。そこで孔子はめいを嫁にやった。

論語:語釈

南容(ダンヨウ)

?

論語の本章では、孔子の弟子。論語公冶長篇1にも記載がある。

論語憲問篇6に見える南宮括ナンキュウカツを南容=南宮子容だとする説がある。南宮氏は魯国門閥家老家の孟孫氏の分家だが、南宮括は父の遺命で無名の庶民だった孔子に師事し、共に洛陽へ留学し老子から教えを受けた。論語の本章では「子…妻」ではなく「孔子…妻」となっており、論語での通例として動作対象が同格か目上の場合、孔子を「子」ではなく「孔子」と記す。ここから南容を、門閥貴族の南宮子容だとみなす根拠が生まれる。詳細は論語先進篇11語釈を参照。

容の字は論語の時代に存在せず、現行書体では宀+谷だが、上古では宀+公だったとされる。すると姓の「南宮」と、あざなの「公」=”朝廷の評議が行われる庭”が対応し、春秋時代の字の原則にかなう。

南 甲骨文 南 字解
(甲骨文)

「南」の初出は甲骨文。字形:南中を知る日時計の姿。甲骨文の字形の多くが、「日」を記して南中のさまを示す。原義は”南”。「楽器の一種」と言う郭沫若や唐蘭の説は支持できない。「ナン」は呉音。甲骨文では原義に用い、金文でも原義に用いた。詳細は論語語釈「南」を参照。

容 金文 容 字解
「容」(金文)

「容」の初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。”いれる”の意で「甬」が、”すがた・かたち”の意で「象」「頌」が置換候補になりうる。ただし論語の本章では固有名詞のため、同音近音のあらゆる音が置換候補になり得る。字形は「亼」”ふた”+〔八〕”液体”+「𠙵」”容れ物”で、ものを容れ物におさめて蓋をしたさま。原義は容積の単位。戦国の金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「容」を参照。

三(サン)

三 甲骨文 三 字解
「三」(甲骨文)

論語の本章では”三たび”。初出は甲骨文。原義は横棒を三本描いた指事文字で、もと「四」までは横棒で記された。「算木を三本並べた象形」とも解せるが、算木であるという証拠もない。詳細は論語語釈「三」を参照。

復(フク)

復 甲骨文 復 字解
(甲骨文)

論語の本章では”繰り返す”。初出は甲骨文。ただしぎょうにんべんを欠く「复」の字形。両側に持ち手の付いた”麺棒”+「攵」”あし”で、原義は麺棒を往復させるように、元のところへ戻っていくこと。ただし”覆る”の用法は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「復」を参照。

白圭(ハクケイ)

論語の本章では”白い笏のうた”。『詩経』大雅巻にみえる「抑」の歌がそうだとされる。ただし「玷」の字は甲骨文にも金文にも存在しない。

白圭之玷、尚可磨也。/白き圭(たま)の玷(か)けたるは、尚お磨くべきなり。
斯言之玷、不可為也。/この言の玷けたるは、為すべからざるなり。


白い玉が欠けても、それでも研ぎ直して欠けを消すことは出来る。
だが一度口に出した失言は、どうしようもない。

三才図会 圭

『三才圖會』所収「圭」(ケイ)。東京大学東洋文化研究所蔵

「白」の初出は甲骨文。字形は蚕の繭を描いた象形。同音は「帛」(入)”きぬ”のみ。甲骨文から春秋末期まで、地名、”白い”、”族長”、”長子”の意に用いた。詳細は論語語釈「白」を参照。

圭 甲骨文 圭 字解
(甲骨文)

「圭」は論語ではこの先進篇と、前章の郷党篇のみに登場。初出は甲骨文。字形は玉の笏の象形。春秋末期までに、”玉の笏”の意に用いた。詳細は論語語釈「圭」を参照。

孔子(コウシ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。

論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。詳細は論語先進篇11語釈を参照。

孔 金文 孔 字解
(金文)

「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「イン」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」は論語の本章では「孔子」と「兄之子」に用いる。前者は貴族や知識人への敬称、後者は”子供”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”→”~を”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その者の”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

兄(ケイ)

兄 甲骨文 兄 字解
(甲骨文)

論語の本章では”あに”。初出は甲骨文。「キョウ」は呉音。甲骨文の字形は「𠙵」”くち”+「人」。原義は”口で指図する者”。甲骨文で”年長者”、金文では”賜う”の意があった。詳細は論語語釈「兄」を参照。

孔子には異母兄がいたとされ、名は孔皮といい、足が悪かったと言われる。詳細は孔子の生涯(1)を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章、「兄之子」では”…の”。「妻之」では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

妻(セイ)

妻 甲骨文 妻 字解
(甲骨文)

論語の本章では”めあわせる”。初出は甲骨文。「サイ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は女性に冠のようなものを手でかぶせる姿で、身分ある貴婦人を成人させるさま、あるいは君主の妻として認める儀式のさま。原義は”めとる”。甲骨文では”夫人”、金文では”とつぐ”の意で用いた。詳細は論語語釈「妻」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に無く、後世の引用・再録は、春秋戦国時代を含め先輪両漢で、若干言葉を変えて定州竹簡論語と同時期の『孔子家語』。

其於《詩》也,則一日三復白圭之玷,是宮縚之行也。


『詩経』について、一日に三度白いたまの歌詞を繰り返したのは、宮縚の行いであります。(『孔子家語』弟子行)

再出は後漢初期・王充『論衡』。

以全身免害,不被刑戮,若南容懼《白圭》者為賢乎?


身体を損なわず、怪我一つせず、刑罰はむろん死刑にも遭わない。この、南容が”白圭”の歌を恐れたような生き方は、賢者と言えるのだろうか?(『論衡』定賢)

王充は生まれる100年以上の前に滅びたと自分で言い出した『古論語』『魯論語』『斉論語』を、見てきたようにペラペラ語るウソつきだが、後漢初期までには論語の本章のような話が伝わっていたと分かる。

ただし文字史的には論語の本章は、全て論語の時代に遡れるし、別段孔子の教説に反しないから。とりあえず史実として扱う。

解説

論語時代も東西の古代世界同様、結婚と恋愛は別であり、貴族階級の場合は政略結婚だった。孔子はすでに貴族階級の仲間入りをしていたが、成り上がり者でもあり、門閥との結婚は皆無とは言えないが可能性は低い。従って南容は南宮括=孟子の弟・南宮敬叔ではないと思う。

論語の本章で「子」ではなく「孔子」になっていることは、南容が孔子以上の身分だったことを示すのは上記の通りだが、南容=南宮括とするための、後世のつじつま合わせの書き換えかもしれず、訳者の心証としては南容≠南宮括と思いたくもなるわけだ。

だが確実な証拠を提示できるわけではなく、両論を併記するとして、まずは南容が南宮括ではなく一介の書生であるとして考えて見る。

そうすると南容に関して、論語を読むと奇異に感じることがある。孔子が高く評価した弟子にも関わらず、何をしたか史料が沈黙している弟子が複数居ることだ。もしどこかの代官になるなり、善政を行うなりしたら、孔子と一門を神格化することで飯を食った儒者が放置しないだろう。

あらゆる想像力をかき立てて、是が非でも聖人の弟子伝説をこしらえるに決まっている。現に曽子はそうなっている。しかし史料に煙のように事跡が消去されているのは、事跡が明らかでなかったのではなく、明らかに出来ない事情が当時からあったことを示している。

弟子 工作員
南容もまた、孔子の政治工作に従った一人なのだろう。そして饒舌な孔子が南容の饒舌を戒める歌を評価したと言うのは、寡黙を評価したことに他ならない。それは政治工作を行う人間として、ふさわしく、孔子は南容に秘密厳守を期待したのだろう。

そして孔子が兄の子とめあわせたというのは、論語公冶長篇に記す公冶長同様、縁戚となることで南容の忠誠心を買ったということだ。公冶長篇で南容を、乱れた世で刑罰に遭わない、と言ったのは、南容に何か特殊な能力を見たか、背景に何らかの勢力があったということだ。

孔子の弟子で、子路の義兄でもある顔濁鄒ガンダクスウは、魯国・斉国の間にある梁父山に、多くの子分を抱える任侠道の親分だったという(『呂氏春秋』)。その子分の多くが、孔子一門に入門して弟子になったと『史記』孔子世家に言う。南容はその一員だったのかも知れない。

孔子の配下には、こうした実働部隊もいたのだ。なお南容が歌ったとされる『詩経』大雅・蕩之什・「抑」の現代語訳は次の通り。

  1. 抑抑威儀、維德之隅。(慎み深いその威儀は、まことに人格力の極みを示し)
    人亦有言、靡哲不愚。(大いに人も言い回る、悟った者に愚か者はいないと)
    庶人之愚、亦職維疾。(だが世の中愚か者ばかり、実にまことに腹が立つが)
    哲人之愚、亦維斯戾。(哲人を装う愚か者こそが、まことの悪党なのだ)
  2. 無競維人、四方其訓之。(目立とうと企まぬ人こそが、四方の民の模範であり)
    有覺德行、四國順之。(慎重に力を使う者にこそ、四方の国が従うのだ)
    訏謨定命、遠猶辰告。(広い視野から政令を定め、時を選んで諸国に告げれば)
    敬慎威儀、維民之則。(慎み深い威儀こそが、民の模範となるであろう)
  3. 其在于今、興迷亂于政。(ところが今の世ときたら、すさまじい欲が政治を乱し)
    顛覆厥德、荒湛于酒。(能なしが人の上に立ち、酒を飲んでは酔い潰れる)
    女雖湛樂從、弗念厥紹。(お前も快楽にふけっており、先祖と子孫を思わない)
    罔敷求先王、克共明刑。(先王の事跡を知ろうとせず、正しい裁きも行わない)
  4. 肆皇天弗尚、如彼泉流、無淪胥以亡。(だから天も見捨ててしまい、あの泉の流れのように、すっかり流され滅ぶのだ)
    夙興夜寐、洒掃廷內、維民之章。(早起きし深夜まで働き、朝廷を掃き清めることこそ、民の模範と言うべきだ)
    脩爾車馬、弓矢戎兵。(お前の戦車と引き馬、弓矢と武器を整えて)
    用戒戎作、用逷蠻方。(慎重に戦略を練って戦を始め、蛮族どもを追い払え)
  5. 質爾人民、謹爾侯度、用戒不虞。(お前の民をよく教え、主にふさわしく振る舞って、気を付けることで心配を無くせ)
    慎爾出話、敬爾威儀、無不柔嘉。(言葉に気を付け、態度に気を付け、穏やかに振る舞え)
    白圭之玷、尚可磨也。(白い宝石の傷は、それでも磨き落とすことが出来る)
    斯言之玷、不可為也。(言ってしまった言葉の誤りは、どんな手でも取り返せない)
  6. 無易由言、無曰苟矣。(言葉を侮るべきではない、出任せを言うべきではない)
    莫捫朕舌、言不可逝矣。(舌はまことに押さえがたく、言葉に追いつく術はない)
    無言不讎、無德不報。(言えば必ず仕返しされ、やれば必ず報いがある)
    惠于朋友、庶民小子、子孫繩繩、萬民靡不承。(だから友に手厚く、広く民にも手厚くすれば、子孫は永遠に続くだろうし、万民が従って刃向かわない)
  7. 視爾友君子、輯柔爾顏、不遐有愆。(お前の友と会うときは、お前の表情を温和にし、威張って嫌われるようなことをするな)
    相在爾室、尚不媿于屋漏。(お前の部屋で祈るときも、かまどの神に恥じるようなことをするな)
    無曰不顯、莫予云覯。(誰も見ていないと言うな、神の業に兆しは無いゆえ)
    神之格思、不可度思、矧可射思。(神の思いは、想像も出来ない、当て得ぬ事はなおさらだ)
  8. 辟爾為德、俾臧俾嘉。(おのれのみに頼り、力を隠し幸いを招き)
    淑慎爾止、不愆于儀。(自分の立場を慎み、威儀を正して過たず)
    不僭不賊、鮮不為則。(驕らず犯さず、はみ出すこと少なかれ)
    投我以桃、報之以李。(桃を貰って、スモモで返すは)
    彼童而角、實虹小子。(子牛に角を求めると同じ、まことにお前を乱そうぞ)
  9. 荏染柔木、言緡之絲。(いやが上にも柔らかな木は、細い糸にも譬えうる)
    溫溫恭人、維德之基。(温和で慎み深い人柄は、これこそ力のもといなのだ)
    其維哲人、告之話言、順德之行。(だから悟った人ならば、この話を言い聞かせ、力の用い方を心得ている)
    其維愚人、覆謂我僭。(だが愚か者どもは、これに反して私をウソつき呼ばわりする)
    民各有心。(まことに人の心はそれぞれだ)
  10. 於乎小子、未知藏否。(ああお前よ、いまだ得失を知らぬ者よ)
    匪手攜之、言示之事。(手を引いてやることは出来ぬゆえ、言葉で示そう)
    匪面命之、言提其耳。(姿を見せることは出来ぬゆえ、耳を開けて言ってやろう)
    借曰未知、亦既抱子。(まだ分からぬと言い逃れるな、実にもう子を抱く歳ではないか)
    民之靡盈、誰夙知而莫成。(民が繁栄しない原因を、誰が事前に知って防ぐというのか)
  11. 昊天孔昭、我生靡樂。(天ははなはだ明らかに、我が人生に楽しみは無いと言う)
    視爾夢夢、我心慘慘。(なのにお前を見れば何も知らず、私の心は傷むばかり)
    誨爾諄諄、聽我藐藐。(とくと語って聞かせても、私の話を粗末にする)
    匪用為教、覆用為虐。(もう教える手立ても無い、叩き込む手立ても無い)
    借曰未知、亦聿既耄。(もし何も知らないとしても、その上聞く耳の無い年寄りのよう)
  12. 於乎小子、告爾舊子。(ああお前よ、そもそもこうなった理由を教えてやろう)
    聽用我謀、庶無大悔。(良く聞いて確かに従え、大きな後悔を望まぬなら)
    天方艱難、曰喪厥國。(天は今こそ苦難を与え、この国を滅ぼそうとしつつある)
    取譬不遠、昊天不忒。(その前例は遠くには無いぞ、天の業にハッタリは無いぞ)
    回遹其德、俾民大棘。(お前の力をよこしまに用い、大いに民を苦しめるなら)

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

南容三復白圭註孔安國曰詩云白圭之玷尚可磨也斯言之玷不可為也南容讀詩至此三反覆之是其心慎言也孔子以其兄之子妻之


本文「南容三復白圭」。
注釈。孔安国「詩経に、”白圭のたまは、それでも磨ける。言葉は、どうしようもない”と書いてある。南容はこの歌詞を見て、三度も繰り返して口ずさんだ。言葉を慎もうと思ったのである。」本文「孔子以其兄之子妻之。」

新注『論語集注』

南容三復白圭,孔子以其兄之子妻之。三、妻,並去聲。詩大雅抑之篇曰:「白圭之玷,尚可磨也;斯言之玷,不可為也。」南容一日三復此言,事見家語,蓋深有意於謹言也。此邦有道所以不廢,邦無道所以免禍,故孔子以兄子妻之。范氏曰:「言者行之表,行者言之實,未有易其言而能謹於行者。南容欲謹其言如此,則必能謹其行矣。」


本文「南容三復白圭,孔子以其兄之子妻之。」
三と妻の字は、どちらも尻下がりに読む。詩経の大雅、抑之篇に書いてある。「白圭之玷,尚可磨也;斯言之玷,不可為也」と。南容は一日に三度この言葉を繰り返した。その話は『孔子家語』にもある。たぶん言葉を慎もうと深刻に考えたのかも知れない。南容は国政がまともなら生涯浪人では済まず、まともでなくても災いから免れた(論語公冶長篇5)。だから孔子は兄の娘を妻合わせた。

范祖禹「口先人間はうわべを飾り、実践人間は中身を行う。だが言葉を馬鹿にして実践できた人間は今までいない。南容は発言をこのように慎重にした。ならば必ず、行いも慎重だったに違いない。」

余話

最小の幸せな数

パンとスープとお茶、傘と毛布とかばん、鍋とコップと机

論語の本章で、「三度」は十分な最小の数として扱われている(論語公冶長篇19余話「多すぎない最小の数」)。日本語でも「仏の顔も三度」という。元ネタは最古の仏典である『スッタニパータ』にある。

わたくしが聞いたところによると、――あるとき尊き師(ブッダ)はアーラヴィー国のアーラヴァカという神霊(夜叉)の住居に住みたもうた。そのときアーラヴァカ神霊は師のいるところに近づいて、師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出てきた。(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって、師は入った。ふたたび…。三たび…。四たび…。(師は答えた)、「では、わたしはもう出て行きません。汝のなすべきことをなさい」と。(中村元『ブッダのことば』)

仏も三度までは付き合ったが、四度目はうんざりしたということだ。西方社会でも3には特別な意味があり、印欧語には文法上単数と双数を区別し、3以上を複数として扱う言語がある。古代のサンスクリット語やギリシア語がそうだが、ラテン語あたりから失われたという。

3はまた西方世界では、最小の幸運数とされた。元ネタはローマ帝国によるユダヤ征服で、ユダヤのヨタパタのまちが攻められていよいよ陥落となった。敵の軍門に降るのを恥じた守備軍将校たちは死ぬことにしたが、ユダヤの戒律で自殺が出来ない。日本の細川ガラシャと同じ。

そこでくじを引いて殺し合った。そのくじとは、だいたいこういうものだったらしい。

  1. 自然数の数列から1の倍数目を省く。当たりは無い。
    1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19, 20, 21
  2. 自然数の数列から2の倍数目を省く。2番目の3が当たり。
    1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19, 20, 21…
  3. 前回の数列から当たりの3の倍数目を省く。3番目の7が当たり。
    1, 3, 5, 7, 9, 11, 13, 15, 17, 19, 21…
  4. 前回の数列から当たりの7の倍数目を省く。4番目の9が当たり。
    1, 3, 7, 9, 13, 15, 19, 21…
  5. (以下同)

これを繰り返してフラウィウスともう一人の2人が残ったが、フラウィウスが言いくるめて共にローマに投降した。フラウィウスはその後ローマ皇帝の顧問になり、ユダヤ征服軍の参謀を務め、4度目に幸福な結婚もした。だが「裏切り者」の声に怯える余生でもあったという。

このくじの数を幸運数と言うらしい。3はその最小である。話を中国に戻し、「中国語では、三(sān)は生(shēng)に音が似ているので、幸運の数字だと考えられている」とwikiが言うが、訳者は読み聞きしたことが無い。ただ筆名の九去堂は、数字の3と関係がある。

十進法では、10-1=9=32なので、その各桁の合計が 3 の倍数なら、必ず3の倍数になる。たとえば

  • 1233→1+2+3+3=3x3
    1233=3x411

そして3×3=9=10-1。この原理を利用した和算の検算法が九去法。

論語でも3は少なくない最小の数として扱われる。孔子家の家事使用人に過ぎなかった曽子は、後世では筆頭格の弟子として祭り上げられたが、祭り上げた儒者は他人への説教として、「日に三たび反省しろ」と言った(論語学而篇4)。書店三省堂の語源だが、もちろん偽作。

対して史実の孔子は、ものを思うのには二度で十分で、三度はやり過ぎと断じている。

かつて魯の家老季文子は、思いつきを三度考えてから実行した。

論語 孔子 居直り
孔子「二度で十分だろうが。」(論語公冶長篇19・偽作を疑う要素無し)

対して論語に偽作を入れまくった後世の儒者は、多くもなく少なくもない塩梅のよい数として3を好んだ。上掲の九去法が「間違いは断定できるが、正解とは断定できない」のと同様、必ずしも断定できないが、「三」を本文に含む論語の章の、多くは偽作が判明する。

従って論語の本章も訳者の個人的感想を言えば、後世の偽作を思う。閲覧者諸賢はどう思われるか、宰相格の孔子の縁戚になるのには、三度古い歌を歌えばよいという。それなら孔子家の門前に、歌を歌う物乞いがわんさかと集まるはずで、そんなけしきは現実とは言い難い。

仮に史実だったとして、そして通説通り南容が魯国門閥・孟孫家の南宮括(その火事場働きは論語郷党篇13余話「華であるわけがない」を参照)だったとするなら、孔子の方から門閥の縁戚になりたがり、歌にかこつけて兄の娘を押し付けたと解した方が話が通る。

南宮括は兄で当主となった孟懿子とともに、父の命で孔子に師事し、ともに周の都・洛邑へ留学して老子に教えを受けた仲だった。喜んで縁談を承けた可能性はある。後世の儒者は孟孫家を含む門閥三家老家を、全て悪党に分類して悪口の限りを尽くしたが、史実はそうでない。

門閥の支援無しに、孔子とその弟子が世に名を残せたわけがないからだ。また門閥にも孔子と組む利があった。小麦栽培と弩(クロスボウ)の実用化で社会が変動期に入り、それまで家職として公職を担ってきた門閥は、能力的に時代の変化に追いつくことが出来なかった。

春秋の貴族は中世以降のふざけた同業と違い、特権にしがみつくと命を落とす(論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」)。公職をまっとうできなければ、国と自身を滅ぼすことになる。もちろん家職を失っては文字通り家名が傷つく。職の完遂は死活問題だった。

そこへ孔子とその一門が、技術官僚(テクノクラート)として世に現れた。wikiはテクノクラートが「輩出した時期は、近代からである」と言うが見解の相違で、孔子一門は現代科学こそ持ち合わせなかったが、統計や生物学に通じていたことが『史記』孔子世家から分かる

孔子とその一門は、儒者が期待するようなひょろひょろでも、文系オタクでもなかったのだ。

参考記事

『論語』先進篇:現代語訳・書き下し・原文
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