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論語詳解265先進篇第十一(12)閔子騫側に侍る’

論語先進篇(12)要約:孔子塾に賢者として名高い閔子騫が訪れ、元気者の子路が応接に当たります。その横では冉有と子貢が、ああ言えばこういう風に議論しています。通説では和やかな話ではありませんが、それは儒者のでっち上げ。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

閔子侍側誾誾如也子路行行如也冉子子貢侃侃如也子樂若由也不得其死然

  • 「若」字:〔艹〕→〔十十〕。

校訂

武内本

閔子の下に騫の字を補う。清家本により、樂の下に曰の字を補う。子樂曰、文選注引樂字なく、唐石経は曰字なし。此本(=清家本)樂曰両字を存す樂の字恐らく衍。

京大蔵清家本は「曰」字無し。

東洋文庫蔵清家本

閔子騫侍側誾〻如也子路行行如也冉子子貢侃〻如也子樂/曰若由也不得其死然

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

a子b侍則c,言言d如也;子路],行行如也;冉子e、子贛,[衍衍f如也]。274……[樂:「若g由也,不得其死]。」275

  1. 黽、今本作”閔”字。同音、黽借為閔。
  2. 皇本”子”字后有”騫”字。
  3. 則、今本作”側”。
  4. 言言、今本作”誾誾”。
  5. 子、阮本、皇本作”有”、唐石経作”子”。
  6. 衍衍、今本作”侃侃”。
  7. 皇本”若”上有”曰”字。

※黽(モウ・ビン・ベン)”青蛙”、王力上古音のみ判明、mǐəŋ(上)、閔と同音。

標点文

黽子侍則、言言如也。子路行行如也。冉子、子贛衍衍如也。子樂。「若由也、不得其死然。」

復元白文(論語時代での表記)

黽 金文子 金文侍 金文則 金文 言 金文言 金文如 金文也 金文 子 金文路 金文 行 金文行 金文如 金文也 金文 冉 金文有 金文 子 金文貢 甲骨文 衍 金文衍 金文如 金文也 金文 子 金文楽 金文 若 金文由 金文也 金文 不 金文得 金文其 金文死 金文然 金文

※贛→貢(甲骨文)。論語の本章は、「也」「然」の用法に疑問がある。

書き下し

びんかたはらはべる、誾誾如ことのはかさぬるなり子路しろ行行如したたかなり冉有ぜんいう子貢しこう侃侃如ことのはながるるなりたのしむ。いうごと死然しにたるらむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

閔子騫 子路
黽子(ビンシ)が孔子のそばに居た。言葉を重ねてものを言った。子路は力強い雰囲気だった。

冉求 冉有 子貢
ゼン有と子貢は流れるように会話した。先生はその風景を楽しんだ。由(子路)はまさに、死んだようにはなれない。

意訳

ある日閔子騫さまがおいでになって、ご説をあくまでも曲げず、懇切丁寧に仰る。だが応接に当たった子路さんは負けずに、元気いっぱいに言い返している。その横で閔さまのご説について、冉有さんと子貢さんは互いに、ああ言えばこう言うでがんがん議論している。

先生が笑った。「はっはっは。おい子路や。」「はい?」「知恵者の閔どのにもやり込められないとは、お前は殺しても死にそうにないな。」

従来訳

下村湖人

閔(びん)先生は物やわらかな態度で、子路はごつごつした態度で、冉有と子貢とはしゃんとした態度で、先師のおそばにいた。先師はうれしそうにしていられたが、ふと顔をくもらせていわれた。
「由ゆうのような気性だと、畳の上では死ねないかも知れないね。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

閔子騫在旁侍奉時,一副正直而恭敬的樣子;子路侍奉時,一副剛強的樣子;冉有、子貢侍奉時,一副溫和快樂的樣子。孔子樂了,說:「象子路這樣,恐怕不得好死。」

中国哲学書電子化計画

閔子騫が孔子の側に控えている時は、一幅のまじめで恭しい様の絵のようだ。子路が孔子の側に控えている時は、一幅の力強い様の絵のようだ。冉有、子貢が孔子の側に控えている時は、一幅の和やかで楽しい様の絵のようだ。孔子は楽しんだ。言った。「子路のような様子では、いい死に方をしないのではないかと心配だ。」

論語:語釈

閔子騫(ビンシケン)→黽*子(ビンシ)

生没はBC536ーBC487とされ、孔子没後一世紀に生まれた孟子のうっかりにより、孔子の弟子にされてしまった人物。姓は閔、いみ名は損、あざ名は子騫。『史記』によれば孔子より15年少。徳行を子に評価され(孔門十哲の謎)、孔門十哲の一人。

閔子騫
だがおそらく孔子の弟子だというのはウソで、孔子が生まれた翌年に、すでに「閔子馬」の名で『春秋左氏伝』に門閥の季孫家のお家争いを未然に防いだ賢者として登場する。15年少ではなく年長だろう。架空の人物でないなら、「騫」は論語の当時「馬」または「黽」(ビン)と書かれた。詳細は論語の人物:閔損子騫を参照。

閔 金文 閔 字解
「閔」(金文)

「閔」の初出は西周の金文。字形は「門」+「文」で、「文」はおそらく”文様”ではなく”人”の変形。「大」と同じく”身分ある者”の意。閉じられた門に身分ある者が訪れるさまで、原義はおそらく”弔問”。日本語では「あわれむ」と訓読する。金文では人名に用い、戦国の金文では、中山国・燕国の方言として”門”の意に用いた。戦国の竹簡では姓氏名に用いた。詳細は論語語釈「閔」を参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」は論語の本章、「閔子騫」「子路」「子貢」では”…さん”という敬称。「子樂」では”孔子先生”。

初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

騫 篆書 錯 字解
「騫」(篆書)

「騫」の初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。字形の由来・原義共に明瞭でない。固有名詞のため、置換候補は特定できず、かつ後世の捏造とは断定できない。架空の人物でないなら、論語の時代では部品の「馬」と表記されたと考える以外に方法が無い。詳細は論語語釈「騫」を参照。

黽 甲骨文 黽 字解
(甲骨文)

定州竹簡論語は「黽子」と記す。「○子」は孔子と同格の貴族または学者を意味し、いわゆる閔子騫が孔子の弟子ではなく友人や先達だった可能性を示す。「黽」の初出は甲骨文。字形は水棲生物の象形。金文の字形は「也」”へび”+”足”。足のある水棲生物の象形。甲骨文の用例は豊富にあるが語義が分からない。殷末から春秋にかけて、家紋・人名などに、また部首「阝」おおざとに用いた。詳細は論語語釈「黽」を参照。

侍(シ)

論語 侍 金文 侍 字解
(金文)

論語の本章では(貴人の)”近くに待機する”。初出は西周中期の金文。ただし字形は「𢓊」。現行字形の初出は秦系戦国文字。原義は”はべる”。「ジ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。春秋末期までに、”はべる”・”列席する”の意に用いた。詳細は論語語釈「侍」を参照。

側(ソク)

側 金文 側 字解
(金文)

論語の本章では”そばに”。初出は西周末期の金文。字形は「亻」”ひと”二人が「鼎」”三本足の青銅器”を間に挟んでいる姿で、”すぐそば”の意。西周末期の金文に”側仕えの”の用例がある。詳細は論語語釈「側」を参照。

誾誾如(ギンギンジョ)→言言如(ゲンゲンジョ)

論語の本章では”言葉を重ねてものを言うさま”。「木」が集まって「林」になり「森」になるように、言葉に言葉を重ねるさま。

この句について論語郷党篇2の古注では「註孔安國曰誾誾中正貌也」といい、孔安国は実在そのものが疑わしい(論語郷党篇17語釈)。新注では「許氏說文…誾誾,和悅而諍也。」という。新注の論拠は『説文解字』だが、そこに載った後漢儒の出任せには従えない。詳細は論語郷党篇2余話「説悶怪事」を参照。

誾 金文 誾 字解
(金文)師

「誾」の初出は西周末期の金文。字形は「門」+「言」だが、用例が一つしか無く語義が分からない。詳細は論語語釈「誾」を参照。

如 甲骨文 如 字解
(甲骨文)

「如」は論語の本章では”…のようである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

定州竹簡論語は「言言如」と記す。

論語の本章での古注はもちろん「誾誾如」だと思っており注釈はないが、『小載礼記』玉藻の鄭玄注に「言言、和敬之貌」という。鄭玄はデタラメばかり言う男なので信用できない。先秦両漢で形容詞・副詞の「言言」は論語本章の定州竹簡論語を除くと、『小載礼記』と『詩経』の2例しかない。

『詩経』の毛伝は「言言、高大也」というのに対し、鄭玄箋では「言言、猶孽孽、將壞貌」といい、”今にも壊れようとするさま”とする。鄭玄には、行き会ったりばったりのダブルスタンダードもいい加減にしろと言いたくなる。

『詩経』毛伝の注釈者は前漢の毛萇であり、定州竹簡論語を解釈するには「高大」との注を信用する理がある。言葉が”つもりつも”って”高く大きく”なるのは理が通る。

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

「言」の初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「若由也」では主格の強調、”…はまさに”。他は「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。論語の本章では地の文で用いており、「かな」と読んで詠嘆に解する理が無い。

初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

子路(シロ)

子路

記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。

路 金文 路 字解
「路」(金文)

「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”あし𠙵くち”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。

行行如(コウコウジョ)

論語の本章では”力強いさま”。「言言」同様、「行」いが積み重なる、活発的なさま。ただし「行」単独で”力強い”の語義は春秋時代では確認できない。

甲金文、戦国竹簡に形容詞・副詞としての「行行」は見られず、古注では鄭玄が「行行剛強之貌也」と言い、『論語注疏』は解釈を鄭玄に丸投げし、新注ではやはり真似をして「行行,剛強之貌」と言う。だがどれもうかつには信用できない。

先秦両漢で形容詞・副詞としての「行行」の、半数近くの事例が易書関係であり、占い本の通例通りどうとでも取れるようにしか書いていないから、語義追求の材料にならない。例外が前漢中期『塩鉄論』にある。

孔子外變二三子之服,而不能革其心。故子路解長劍,去危冠,屈節於夫子之門,然攝齊師友,行行爾,鄙心猶存。


孔子は二三人の弟子を従えて行動を矯正することは出来たが、心まで入れ替えさせることは出来なかった。だから子路は初見時にはいていた長剣を捨て、戦闘帽を脱ぎ(『史記』弟子伝)、おとなしくして先生に入門した。そうやって孔子一門の一人となったのだが、「行行」のさまであり、粗暴な性格はまだ消えなかった。(『塩鉄論』殊路)

『塩鉄論』は定州竹簡論語より若干先行するがほぼ同時期。ここから漢代中期の「行行」とは、「粗暴」に近似すると推測できる。また後漢初期の『呉越春秋』に次のようにある。

行行各努力兮,於乎,於乎!


(越王勾践が宣戦を布告し、出征する越兵は家族に別れの歌を歌った。)「行行」としておのおの力を努(ふりしぼ)るのは、ここぞや、ここぞや!(『呉越春秋』勾践二十一年)

ここから後漢初期の「行行」とは、「力を尽くす」に近似すると推測できる。もう一例、同じく後漢初期の『漢書』にはこうある。

知者贊其慮,仁者明其施,勇者見其斷,辯者騁其辭,齗齗焉,行行焉,雖未詳備,斯可略觀矣。


知者はその知恵を讃え、仁者はその恵みを讃え、勇者はその決断を讃え、口の達者はその言葉を讃えるものだ。歯茎をむき出して言い争っている、「行行」としている、そういう者は、すみずみまで行き届いていなくとも、だいたいの力はわかるものだ。(『漢書』公孫劉田王楊蔡陳鄭伝・論賛)

ここから「行行」とは、「言い争う」に近似すると推測できる。

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”行く”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

冉有(ゼンユウ)→冉子(ゼンシ)

孔子の弟子、冉求子有のこと。あざ名で呼んでおり敬称。実務に優れ、政戦両略の才があった。「政事は冉有、子路」とおそらく子によって論語先進篇2に記された、孔門十哲の一人。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。

論語での「冉求」「冉有」の表記揺れについては、論語雍也篇12語釈を参照。

定州竹簡論語は「冉子」と記す。「○子」の呼称は、孔子と同格であることを示す。表記揺れ「冉子」については、論語雍也篇4語釈を参照。

冉 甲骨文 冉 字解
「冉」(甲骨文)

「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

「有」の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。

子貢(シコウ)→子贛(シコウ)

子貢 遊説

BC520ごろ-BC446ごろ 。孔子の弟子。姓は端木、名は賜。衛国出身。論語では弁舌の才を子に評価された、孔門十哲の一人(孔門十哲の謎)。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて、外交官、内政官、大商人として活躍した。

『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。子禽だけでなく、斉の景公や魯の大夫たちからも、孔子以上の才があると評されたが、子貢はそのたびに否定している。

孔子没後、弟子たちを取りまとめ葬儀を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。孔子一門の財政を担っていたと思われる。また孔子没後、礼法の倍の6年間墓のそばで喪に服した。斉における孔子一門のとりまとめ役になったと言われる。

詳細は論語の人物:端木賜子貢参照。

貢 甲骨文 貢 字解
(甲骨文)

子貢の「貢」は、文字通り”みつぐ”ことであり、本姓名の端木と呼応したあざ名と思われる。所出は甲骨文。『史記』貨殖列伝では「子コウ」と記し、「贛」”賜う”の初出は楚系戦国文字だが、殷墟第三期の甲骨文に「章ケキ」とあり、「贛」の意だとされている。詳細は論語語釈「貢」を参照。

『論語集釋』によれば、漢石経では全て「子贛」と記すという。定州竹簡論語でも、多く「貢 外字」と記す。本章もその一例。

侃侃如(カンカンジョ)→衍*衍如(エンエンジョ)

論語の本章では”すらすらと語るさま”。「誾」とともに「論語詳解237郷党篇第十(2)朝にて下大夫と」で孔子の様子として既出。

侃 金文 侃 字解
(金文)

「侃」は論語ではこの郷党篇と先進篇のみで見られる。初出は事実上西周早期の金文。金文の字形は「人」+「𠙵」”くち”+「川」で、川の流れのようにすらすらと語る人のさま。原義は”口の達者”。春秋末期までに、人名と”耳に聞こえのよい言葉”の意に用いた。詳細は論語語釈「侃」を参照。

衍 金文 衍 字解
(金文)

定州竹簡論語では「衍衍如」と記す。”流れるように”の意。「衍」の事実上の初出は西周早期の金文。金文の字形は「行」の間に「川」。川の流れるさま。西周早期から人名に用いられ、以降戦国時代まで用例が無い。戦国時代の用例も語義は明瞭でないが、人名と解せるものが多い。文献での用例は『楚辞』に一例あり、詩文だから何を言っているか分からない。後漢末期の『釈名』に「筵,衍也。舒而平之,衍衍然也。」とあり、”伸びやかに広がる”というが、論語の時代に適用できるとは限らない。詳細は論語語釈「衍」を参照。

若(ジャク)

若 甲骨文 若 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~のような”。初出は甲骨文。字形はかぶり物または長い髪を伴ったしもべが上を仰ぎ受けるさまで、原義は”従う”。同じ現象を上から目線で言えば”許す”の意となる。甲骨文からその他”~のようだ”の意があるが、”若い”の語釈がいつからかは不詳。詳細は論語語釈「若」を参照。

由(ユウ)

由 甲骨文 由 字解
(甲骨文)

論語の本章では、史料に記録が残る孔子の最初の弟子。本名(いみ名)は仲由、あざなは子路。通説で季路とも言うのは孔子より千年後の儒者の出任せで、信用するに足りない(論語先進篇11語釈)。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。

なお「由」の原義は”ともし火の油”。詳細は論語語釈「由」を参照。だが子路の本名の「由」の場合は”経路”を意味し、ゆえにあざ名は呼応して子「路」という。ただし漢字の用法的には怪しく、「由」が”経路”を意味した用例は、戦国時代以降でないと確認できない。

若由也(ゆうのごときや)

論語の本章では”由(子路)のような者はまさに”。この句の前に「○曰」などがなく、地の文とも考えられ、その場合は論語の本章を記した者が、”これでは子路は死にそうにない”と呆れて書いたことになる。ただし「由」と子路のいみ名を言っており、いみ名を呼べるのは目上だけだから、本章で「子路」とあるのとちぐはぐになる。

結局「子曰」、”孔子先生が言った”を補って解釈するのが適切に思う。定州竹簡論語など中国伝承本と、室町時代までの日本伝承本は「曰」を欠いたままだが、古注を入手した戦国から江戸時代の儒者はおかしいと思ったらしく、鵜飼本・懐徳堂本(底本は文明本・1477=応仁の乱終了の年刊)では「子樂曰」と「曰」を補っている。ただし懐徳堂校勘記には、何も書いていない。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

得(トク)

得 甲骨文 得 字解
(甲骨文)

論語の本章では”手に入れる”→”…になる”。初出は甲骨文。甲骨文に、すでに「彳」”みち”が加わった字形がある。字形は「貝」”タカラガイ”+「又」”手”で、原義は宝物を得ること。詳細は論語語釈「得」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その者の”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

死(シ)

死 甲骨文 死 字解
(甲骨文)

論語の本章では”死去した”。字形は「𣦵ガツ」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。

然(ゼン)

然 金文 然 字解
(金文)

論語の本章では”…であるような状態”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。

不得其死然(そのしにたるをえざらむ)

論語の本章では、”お前は死んだ様子を得ることが無い”。殺しても死なない元気者だ、の意。

通説では”ろくな死に方をしないぞ”と孔子が警告したことになっている。子路を筋肉バカだと言いたがる儒者の出任せで、子路の最期が内乱に巻き込まれての戦死と知っている後知恵と言うべきでもあり、もちろん論拠はなく信用するに値しない。

古注『論語集解義疏』

註孔安國曰不得以壽終也注釈。


孔安国「天寿を全うできないの意である。」

新注『論語集注』

尹氏曰:「子路剛強,有不得其死之理,故因以戒之。其後子路卒死於衛孔悝之難。」


尹焞「子路は武闘派だったので、当然の死因なしで死にうるから、孔子がこう言って戒めた。その後子路は、衛の孔悝が起こした反乱で世を去った。」

デタラメにもほどがある。原文に「子楽しむ」とあるのを何だと思っているのだろう。弟子の死を予感して「楽しむ」ような男が、生死の危険を伴う放浪に付いてくる弟子を持てるわけがない。

日本の文明本を底本とする懐徳堂本は、「不待其死然」と記し、「その死にたるを待たざらん」”もうすぐ死んでしまうぞ”の意となるが、中国から伝来した新注に引きずられて書き換えたと見るべきで、もちろん従う理由は存在しない。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語にあるが、春秋戦国を含めた先秦両漢の誰一人引用していないし、再録していない。しかし文字史的には全て論語の時代に遡れる。史実として扱ってよい。

解説

論語の本章について、通説は出任せを事とする儒者や、仕事を猿まねで済ませ自分で検証しない怠惰な漢学教授による二重三重のデタラメに包まれており、そのデタラメは二点に尽きる。どちらも誤りであることは上記の通り。

  1. 閔子騫は孔子の弟子である。
  2. 孔子は子路の横死を見通して警告した。

また現伝論語の編者は、一連の顔淵死去ばなしのうしろに本章を持ってくることで、葬儀を終えた後の孔子一門の様子、であるかのように思わせようとしているのかも知れない。

だが顔淵が死去した時、子路は衛国で仕えており、冉有は筆頭家老季氏の執事、子貢は魯国の外交官として諸国を飛び回っていた最中。顔淵の葬儀とあらば、一門の重鎮である子路が帰国し、冉有は仕事を休み、子貢も駆けつけて列席するのはありうるが、そうでなければならない理由も無い。

閔子騫は孔子生誕の頃から『春秋左氏伝』にも名が見える賢者で、魯国門閥筆頭・季孫家の根拠地である費邑の代官に望まれたと論語雍也篇9にある。その章は史実である可能性が高く、筆頭家老家の代官候補だから大夫(領主貴族)階級でもあっただろう。

すると孔子とは自説が異なる可能性がある。孔子は能力によって庶民の出であろうと宰相格にまでなれることを自身が示し、弟子を教育して自分に続かせようとした。対して閔子騫が大夫なら、公職を伝統的な家職として捉えておかしくなく、「誾誾如」と説教するにふさわしい。

だが孔子の最も早い弟子で、やはり季孫家に執事として迎えられた子路は、まっこうから閔子騫に反論したと論語の本章は読める。あるいは子路の就任に反対する閔子騫が、孔子の屋敷にやって来て、就職話を承けないように説得したとも考えられる。

それを横で見ていた冉有と子貢は、子路より年少であることから、あるいは仕官前だった可能性があり、閔子騫の言い分について、「ああでもないこうでもない」と議論したのだろう。一連の様子を見ていた孔子は、もちろん子路の就職を好ましいと思っていたはず。

そこで閔子騫の説教に口を挟み、子路に「大丈夫、お前ならやっていける」と弟子を励ましたと読み取った方が、漢語の解釈として妥当だし、現代の論語読者にとっても好ましいと思う。せっかく古典を読むのなら、励ましに読んだ方がよいと思うのだが。

論語の本章、新古の注は次の通り。古注は前章「季路鬼神に」と一体化させており、顔淵話と思わせるよう意図しているが、本章部分のみ記す。

古注『論語集解義疏』

閔子騫侍側誾誾如也子路行行如也冉有子貢侃侃如也子樂註鄭𤣥曰樂各盡其性也行行剛強之貌也曰若由也不得其死然註孔安國曰不得以壽終也


本文「閔子騫侍側誾誾如也子路行行如也冉有子貢侃侃如也子樂」。
注釈。鄭玄「それぞれの個性を発揮したのを、孔子は面白がったのである。行行とは強情で頑強な顔つきをいう。」

本文「曰若由也不得其死然」。
注釈。孔安国「天寿を全うできないと言ったのである。」

新注『論語集注』

閔子侍側,誾誾如也;子路,行行如也;冉有、子貢,侃侃如也。子樂。誾、侃,音義見前篇。行,胡浪反。樂,音洛。行行,剛強之貌。子樂者,樂得英材而教育之。「若由也,不得其死然。」尹氏曰:「子路剛強,有不得其死之理,故因以戒之。其後子路卒死於衛孔悝之難。」洪氏曰:「漢書引此句,上有曰字。」或云:「上文樂字,即曰字之誤。」


本文「閔子侍側,誾誾如也;子路,行行如也;冉有、子貢,侃侃如也。子樂。」
誾と侃の音と意味は、前篇(論語郷党篇2)に記した。行は胡-浪の反切で読む。樂の音は洛である。行行とは、強情で頑強な顔つきである。子樂とあるのは、このような英才を弟子に取って教える喜びを言ったのである。

本文「若由也,不得其死然。」
尹焞「子路は強情で頑強だったから、あるいは道理の通る死に方が出来ないと孔子は思った。だから本章のように言って戒めたのである。そののち、子路は衛の孔悝の乱に巻き込まれて死んだ。」

洪興祖「『漢書』は本章を引いて、上に曰の字を加えている。」

ある者「「上の樂の字は、つまり曰の字の誤りである。」

現伝の『漢書』には洪興祖の言い分は見えない。後漢末期に出来た『漢書』のダイジェスト版『前漢紀』高后紀には、「故孔子曰。死生有節。又曰不得其死。然又曰幸而免」と見える。

学歴自慢の宋儒の言い分は、鵜呑みせず自前で検証しないと、デタラメに釣り込まれる危険性がある。乾隆御覽本四庫全書薈要本に「漢書」とあり、早大蔵の江戸版と思われる本でも「漢書」とあるから、テキストデータの誤植ではない。

早大蔵『論語集注』

それとも宋代には『前漢紀』のように書いてあったのだろうか。その可能性は薄い。なぜなら『前漢紀』の該当部分は、高后=呂后の事跡を述べた本文ではなく、編者の荀悦が後漢末に書き付けた評論部分で、後漢初期の『漢書』にあり得るはずがないからだ。

だから洪興祖はダイジェスト版だけ読んで、『漢書』を読み通したと天狗になっていたのはほぼ確実。この訳者のバクチが当たっているなら、朱子も『漢書』を読み通しておらず、先人の出任せを検証せず猿まねしたことになる。「儒教中興の祖」っていったい何だろう。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

カネの切れ目は城の切れ目

投石兵

論語の本章を、新興の孔子一門が子路を季孫家の執事に就職させようとしたのに対し、公職や大貴族の執事職は貴族の家系に代々受け継がれるべき家職で、庶民が就くべきでないとする伝統的価値観により、閔子騫が止めに来たという訳者のバクチが、仮に当たっているとする。

すると本章の年代も特定できる。

BC 定公 孔子 魯国 その他
501 9 51 中都の宰=代官に任じられる 陽虎、斉、次いで晋に逃亡。
500 10 52 司空=治水頭、次いで大司冦(コウ)=奉行職に昇進、家老格となる。斉との外交折衝を担任、定公を救出し占領地を取り戻す 定公、斉の景公と会談し、捕らわれかける
499 11 53 家老の少正卯(ボウ)を処刑する 季桓子と孟懿子、孔子を支持する。斉・鄭・衛との友好を計り、晋と距離を置く
498 12 54 三桓の根城破壊を開始、季氏に仕えていた子路に任せる。公山弗擾の反乱を鎮圧。根城の最後、孟氏領・成邑の破壊失敗 公山弗擾、根城破壊に反対して反乱。成邑の代官・公斂処父、破壊に抵抗
497 13 55 辞職し、諸国放浪の旅に出る。衛の霊公に一旦は仕えるが、衛家臣の反発に遭い辞去 定公、斉の送った女楽団にふぬけ、孔子を遠ざける 晋内紛、趙鞅失脚するも韓・魏氏の助力で復活。衛、孔子を迎える

孔子が魯国の中央政界にデビューしたのは数えで五十二歳で、その2年後には子路はすでに季孫家に仕えていた記録がある。論語の本章は、BC500-BC498の2年間にほぼ絞られることになる。年表にあるように、季孫家は家臣の公山弗擾による反乱にも悩まされていた。

つまり閔子騫の価値観で言う、家職をそれぞれが務めれば、万事丸く回るという世の中ではなくなっていた。だから孔子の下で役人にふさわしい技能教養を身につけた弟子たちが、門閥からも人材として求められるようになったわけで、反対する閔子騫は時代錯誤に見える。

では閔子騫が、生まれながらの身分にふんぞり返っていたかと言えばそうでない。おそらく閔子騫と思われる閔子馬は、孔子二十八歳の頃、次のように言っている。

「”無学でもかまわない、無学でも損はしない、損がないから学ばない”。そう言って開き直るのは、一時的には通用するかも知れないが、目下の者には馬鹿にされ取って代わられるから、騒動が起きないではいられない。」(『春秋左氏伝』昭公十八年)

先祖伝来の家職があるからと言って遊び呆けるようでは、「目下の者には馬鹿にされ取って代わられる」と危機感を抱いていた。だからいっそう、孔門を警戒する動機があった。

一方でそうした閔子騫の危惧を、反乱という目に見えるかたちで具体化させた公山弗擾は、おそらく季孫家の譜代家臣で、門閥筆頭家の根城の代官を務めるほどだから、大夫=領主貴族でもあったのだろうが、特権にあぐらをかいた漫画的バカ貴族では決してない。

(哀公八年=BC487、南方の呉国が魯国を討伐しようとした。公山弗擾は叔孫輒と共に呉国に亡命中だったが、公山弗擾は呉王に魯国の情報を漏らした叔孫輒をなじった。)

「君はそれでも貴族か。貴族はたとえ亡命しても、母国の敵国には行かないものだ。もし行っても仕えないものだ。それなのに母国を撃つ手助けをせっせとするぐらいなら、死んだ方がましだ。手を貸せと言われたら、逃げるべきだろう。故郷を捨てたからといって、憎むようなことはせぬものだ。いま君は、小さな恨みを理由に母国を滅ぼそうとしている。悪党と言われても仕方がない。だから従軍せよと言われても、君は絶対断るべきだ。」(『春秋左氏伝』哀公八年)

魯国の門閥三家老家を三桓という。うち孔子を政界に押し上げた孟孫家は成邑に拠って斉を防ぎ、季孫家は費邑に拠って南方諸国の侵攻に備えた。その城壁を壊せと孔子が言い出したから公山弗擾は反乱に踏み切ったのだが、代官として彼なりの正義があったと見るべきだ。

三桓家根拠地の城壁の規模が、「礼法にそむく」から孔子は壊せと言ったと『史記』は言うが、実際に毎年チャンバラがあった春秋の戦乱の中で、そんな馬鹿馬鹿しい帝国儒教的お作法があったわけがない。司馬遷の師匠に当たる董仲舒によるでっち上げと見ていい。

その前に礼法は全て滅んでいたと、司馬遷は証言してもいる。論語における「礼」を参照。

ともあれ『史記』の言う通りなら叔孫家の根城だけが城壁の破壊に成功したのだが、地図に見えるとおりその郈邑は「衛魯は兄弟」(論語子路篇7)と言われる友好国の衛や弱小の曹に相対していた。本当に恐ろしい晋国はその後ろにいる。城壁を壊しても困らなかったのだ。

しかも当時の衛国公は、やり手で領民の信望も篤い霊公で(『春秋左氏伝』定公八年)、孔子の先達・陽虎が領内を勝手に軍勢を率いて通り過ぎても、賢臣公叔文子に諌められて、事を荒立てなかった(論語憲問篇14)。維持費の掛かる城壁を壊しても、皆win-winだったわけ。

当時の城壁を、こんにち北京郊外の八達嶺で見るような、堅固な石造りの壁とみるのは妥当ではない。積むのに適当な石がそうそう転がっていないことは、日本の城郭で墓石を徴発したことでも想像できるし、春秋時代の中原=黄河下流域は、泰山を除けば見渡す限りの平原で石切場が無い。

代わりに黄土は売るほどあるから、板枠を作ってそこに土を突き固めて城壁を作った。これを版築という。従って大雨のたびに崩れるわけで、毎日補修しなければならない。要所はレンガで固めただろうが、煉瓦を焼くにも薪が要る。繰り返すが当時の中原は森林でない。

煉瓦も積んだだけではすぐ崩れる。漆喰(消石灰)はすでにあったろうが、古代ローマのような堅固なセメントが、古代中国にあったかどうか。孔子没後から約640年の時代が下った、前漢中期になりかけの頃、帝都長安の城壁ですら、毎日煉瓦積みをして補修せねばならなかった。

景帝の母であるトウ太后は、老子の書を好んで読んでいた。あるとき儒教を奉じるセイ=学者のエン固を呼んで老子の書について意見を聞いた。

轅固「これは奴隷根性のたわごとです。」
太后は真っ赤になって怒った。「お前を牢に放り込んで、毎朝城壁修理の煉瓦積みにコキ使ってやろうか*!」(『史記』儒林伝)


*原文「安得司空城旦書乎」。「安」は「いずくんぞ…えん」と読み、太后は自分が無茶を言っているのは承知だが、”司空=土木監督官を呼んで、城旦=毎朝の煉瓦積み人足の名簿に書き加えさせてやろうか”と言ったわけ。その通り無茶で、代わりに轅固はイノシシの檻に放り込まれて異種格闘技戦をさせられることになった。もっと無茶?

これは古代中華文明が築造技術で劣っていたと言うより、多分に地球物理的要因による。セメントは消石灰と火成岩の一種を混ぜて作るのだが、ベスビオやエトナなど火山に事欠かないイタリアと比べ、中原にはそもそも火山が無い。無い火成岩は使う発想が出来ないわけだ。

一方消石灰は貝殻を焼いたり石灰岩を掘り出せば手に入るから、漆喰は古代中国にもあり得た。代わりにセメントほど耐候性が無いから、毎日修理の必要があった。孔子が城壁破壊を言い出し、門閥の当主がそれぞれ賛成したのも、実は維持費に音を上げてのことかもしれない。

論語を読むには、かような時代背景をある程度考証できないと誤読する。孔子没後約50年に生まれたスパルタのクセノポンはアナトリアへ傭兵に行ったが、打撃部隊に投石兵が付いた。その威力は弓より強力だったと『アナバシス』にあり、スリングを使えばその通りに恐ろしい。

旧約聖書でダヴィデがゴリアテを倒した兵器も投げ石だったと言われる。投石器は縄の中央に石を仕込んで両端を手に取って振り回し、勢いが付いたところで片方を解放して投げるスリングと、棒の先に取り付けた石をテコの原理で投げるスタッフスリングがあった。

投石戦の利点として、矢じりを作らなくても遠距離戦が出来るのが言われる。だが火成岩や土と同様、石もどこにでもあるわけではない。山の岩が風化によって小岩になり、川に流されて角が取れて大石になり、さらに砕かれ磨かれて小石になる。これでやっと投げ石になる。

つまり上流に山脈のある沖積平野でないと、小石は豊富に存在しないし、気の遠くなるような地学的作用を必要とする。土が石の風化によって砂になり、更に砕かれた上で、気の遠くなるような生物の有機物分解によってやっと出来るのと同様、石も武器である前に資源なのだ。

東京の街路から石畳が消えたのは、安保闘争でDKどもが剝がして投げた再現を防ぐためとも言われる。だが古代中国に投石兵の話を見ない。先秦両漢の兵書にも『六韜』の一例「高城深池,矢石繁下,士爭先登」しか見えない。せいぜい籠城側が、攻囲軍に上から落とす程度。

論語の舞台である中原は黄河の沖積平野だが、石に不自由した理由は何だったのだろうか。

参考記事

参考動画

セメントがあっても大砲の時代になればこの通り。字幕をonにして日本語に設定してご覧になるのを推奨。

『論語』先進篇:現代語訳・書き下し・原文
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