論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
閔子騫*侍側、誾誾如也。子路行行如也。冉有、子貢侃侃如也。子樂*。「若由也、不得其死然。」
校訂
武内本
閔子の下に騫の字を補う。清家本により、樂の下に曰の字を補う。子樂曰、文選注引樂字なく、唐石経は曰字なし。此本(=清家本)樂曰両字を存す樂の字恐らく衍。
定州竹簡論語
[黽a子b侍則c,言言d如也;子路],行行如也;冉子e、子贛,[衍衍f如也]。274……[樂:「若g由也,不得其死然]。」275
- 黽、今本作”閔”字。同音、黽借為閔。
- 皇本”子”字后有”騫”字。
- 則、今本作”側”。
- 言言、今本作”誾誾”。
- 子、阮本、皇本作”有”、唐石経作”子”。
- 衍衍、今本作”侃侃”。
- 皇本”若”上有”曰”字。
※黽(モウ・ビン・ベン)”青蛙”、王力上古音のみ判明、mǐəŋ(上)、閔と同音。
→黽子侍則、言言如也。子路行行如也。冉子、子贛衍衍如也。子樂*。「若由也、不得其死然。」
復元白文
※贛→江。論語の本章は也の字を断定で用いている。本章は戦国時代以降の儒者による捏造である。
書き下し
黽子則に侍る、誾誾如也、子路行行如也、冉有子貢侃侃如也、子樂む。由の若き也、其の死然を得ざらむ。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
閔子騫(ビン・シケン)が孔子のそばに居た。穏やかな雰囲気だった。子路はいかつい雰囲気だった。
冉有と子貢は元気のよい雰囲気だった。先生はその風景を楽しんだ。「由(子路)は普通の死に方が出来ないだろう。」
意訳
顔回の葬儀を終えて。古参の弟子たちが私のそば近くにいた。
閔子騫は穏やかだ。子路はいつも通り出しゃばっていかつい。冉有と子貢は互いに、ああ言えばこう言うではきはきと議論している。私にはまだ、この者達が居る…。
「おい子路や。」「はい?」「もそっと穏やかになれんか。ろくな死に方をしないぞ。」
従来訳
閔(びん)先生は物やわらかな態度で、子路はごつごつした態度で、冉有と子貢とはしゃんとした態度で、先師のおそばにいた。先師はうれしそうにしていられたが、ふと顔をくもらせていわれた。
「由ゆうのような気性だと、畳の上では死ねないかも知れないね。」
現代中国での解釈例
閔子騫在旁侍奉時,一副正直而恭敬的樣子;子路侍奉時,一副剛強的樣子;冉有、子貢侍奉時,一副溫和快樂的樣子。孔子樂了,說:「象子路這樣,恐怕不得好死。」
閔子騫が孔子の側に控えている時は、一幅のまじめで恭しい様の絵のようだ。子路が孔子の側に控えている時は、一幅の力強い様の絵のようだ。冉有、子貢が孔子の側に控えている時は、一幅の和やかで楽しい様の絵のようだ。孔子は楽しんだ。言った。「子路のような様子では、いい死に方をしないのではないかと心配だ。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
閔(ビン)子→黽子
(金文大篆)
論語の本章では孔子の弟子、閔損子騫。
閔子騫は孔子でさえ「夫人」と敬称した人物であり(論語先進篇13)、弟子と言うより同格の何か、であった可能性が高い。
『学研漢和大字典』によると「閔」は会意兼形声文字で、門の系列の語は、すきまを閉じて、中が見えないようにするという基本義を含むとともに、そのわからないものをむりにききだす、つまり「問」「聞」という基本義もあわせ含む。閔は「門+(音符)文(こまやか)」で、不幸な者に対してこまやかに弔問するのが原義。あわれむという意は、その派生義である。問(モン)(わからないことを口でたずねる)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「閔」を参照。
「黽」はスッポンやカエルのたぐいを言い、部首として扱われる。詳細は論語語釈「黽」を参照。
誾誾(ギンギン)如→言言如
「誾」(金文)
論語の本章では、”おだやかなさま”。『学研漢和大字典』による原義は、かたよらないさま。武内本は「謹敬の貌」というが、漢字の語義から外れる。詳細は論語語釈「誾」を参照。
「言言」は「ゲンゲン」と読んだ場合”かどばっていかめしいさま”、「ギンギン」と読んだ場合”つつしむさま”の語釈がある。詳細は論語語釈「言」を参照。
子路
孔子の弟子、仲由子路のこと。
行行如
「行」(甲骨文・金文)
論語の本章では”剛強なさま”。武内本は「行行はの仮借にて倨傲の貌」と、html泣かせのことを言う。
はおそらく𡕧の異体字で”おごる”こと。
いかついことと伝統的に解する。「行」一字で”強い”の意味があるからだが、日本語の「行け行けどんどん」のようなさまを言うのだろうか。
『学研漢和大字典』『字通』によると「行」とはもと十字路のことであり、『字通』では十字路は遠くにまで通じることから、呪いを掛けるには効果的な場所でもあって、呪術関係の言葉に用いられる場合が多い、という。詳細は論語語釈「行」を参照。
冉子
孔子の弟子、冉求子有のこと。冉有を「冉子」と敬称する例は、論語雍也篇4、論語子路篇14にも見える。冉耕伯牛亡き後(論語雍也篇10)、冉有が冉氏一族の頭領となったのだろうか。
子貢→子贛
孔子の弟子、端木賜子貢のこと。金のかかる孔子とその活動を終生支え続けたアキンドであり、孔子没後も最も忠実だった弟子ではあるが、孔子との問答はどことなく、孔子をからかっているようにも読める。「貢」”金づる”も「贛」”バカ者”も論語の時代には存在しない文字で、何かを誤魔化している、誤魔化されていると思われる。論語語釈「貢」・論語語釈「贛」も参照。
侃侃(カンカン)如→衍衍如
「侃」(金文)
論語の本章では、”元気よく論じるさま”。「侃々諤々」の「侃」。武内本は「衎衎の仮借、和楽の貌」というが、漢字の原義からは離れている。
『学研漢和大字典』による原義は、川の流れのように力強くひるまぬさま。「誾」とともに「論語詳解237郷党篇第十(2)朝にて下大夫と」で孔子の様子として既出。詳細は論語語釈「侃」を参照。
「衍」は伸びることで、「衍衍」で”水が流れるさま”と『学研漢和大字典』は言う。「立て板に水」のように子貢がしゃべっている様子を言うのだろう。論語語釈「衍」も参照。
不得其死然
「死然」(金文)
論語の本章では”然るべき死を得ないこと”、と解したが文法的には苦しい訳。「死然」とは”死に様”であり、どのようなそれかは孔子は一言も言っていない。
武内本は「然は焉と同音仮借」という。「死焉」は「死に焉り・死に焉ぬ」と読み下せば”~てしまった”の意だが、「然」と同じく形容詞につける助詞ならば、状態をあらわす。
どのような状態か、「お前は妙な風に死んじまえ」と孔子が思うはずはないから、文脈から意訳のように解した。しかし孔子の願い空しく、子路は翌年、不慮の死を遂げることになる。
BC | 魯哀公 | 孔子 | 魯国 | |
482 | 13 | 70 | 息子の鯉、死去 | |
481 | 14 | 71 | 斉を攻めよと哀公に進言、容れられず。弟子の顔回死去 | 孟懿子死去。麒麟が捕らわれる |
480 | 15 | 72 | 弟子の子路死去 |
子服景伯と子貢を斉に遣使 |
479 | 16 | 73 | 死去。西暦推定日付3/4。曲阜城北の泗水河畔に葬られる |
『学研漢和大字典』によると「然」は会意文字で、猒は、犬の脂肪肉を示す会意文字。然は「猒の略体+火」で、脂(アブラ)の肉を火でもやすことを示す。燃の原字で、難(自然発火した火災)と同系。のち、然を指示詞ゼン・ネンに当て、それ・その・そのとおりなどの意をあらわすようになった。そのため、燃という字でその原義(もえる)をあらわすようになった。▽熱(ネツ)niat→niɛtは、然の語尾のnがtに転じたことば、という。詳細は論語語釈「然」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章について、顔回が死去した時、子路は衛国で仕えており、冉求は筆頭家老季氏の執事、子貢は魯国の外交官として飛び回っていた最中。皆忙しい中、顔回の死を聞いて会葬に集まってきた、という風景を描いている。
対して現代中国での解釈は、特に顔回死去直後の景色としては捉えていないようだ。だがこの論語先進篇を編んだ前漢の儒者の意図は、おそらく訳者の解釈の方だろう。どこに載せるか、は編者の強力な道具である。定州竹簡論語にあると言うことは、後漢代の竄入でも無い。