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論語詳解268先進篇第十一(15)師と商とは’

論語先進篇(15)要約:過ぎたるはなお及ばざるがごとし。誰でも知っている故事成句の出典になった章。孔子先生は、ほどほど=中庸の徳を説く先生でした。それは同時代の賢者、ブッダとも共通しています。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子貢問師與商也孰賢子曰師也過商也不及曰然則師愈與子曰過猶不及

校訂

東洋文庫蔵清家本

子貢問師與商也孰賢乎子曰師也過商也不及/曰然則師愈與子曰過猶不及也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……師也隃與a?」子曰:「過[猶不及也b]。」279

  1. 今本”師”下無”也”字、”隃”作”愈”。
  2. 也、阮本無、皇本有”也”字。

標点文

子貢問、「師與商也孰賢乎。」子曰、「師也過、商也不及。」曰、「然則師也隃與。」子曰、「過猶不及也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文貢 甲骨文問 金文 師 金文与 金文商 金文也 金文孰 金文賢 金文 子 金文曰 金文 師 金文也 金文過 金文 商 金文也 金文不 金文及 金文 曰 金文 然 金文則 金文師 金文也 金文愈 金文与 金文 子 金文曰 金文 過 金文猶 金文不 金文及 金文也 金文

※貢→(甲骨文)・隃→愈。論語の本章は、「與」「也」「則」の用法に疑問がある。

書き下し

子貢しこうふ、しやういづれかまさいはく、ぎたり、しやうおよいはく、しからばすなはまされるいはく、ぎたるはおよるがごときかな

論語:現代日本語訳

逐語訳

子貢 孔子
子貢が問うた。「師(子張)と商(子夏)では、どちらが優れていますか。」先生が言った。「師は過剰。商は足りない。」子貢が言った。「ではつまり、師の方がまさっていますか。」先生が言った。「過ぎたのは足りないのと同じようであるなあ。」

意訳

子貢 遊説 孔子 キメ
子貢「子張と子夏って、どっちがデキますかね。」
孔子「子張はやり過ぎ、子夏は足りない。」
子張 子夏

子貢 問い 孔子 ぼんやり
子貢「じゃ子張の方が上ですか。」
孔子「あのな、”過ぎたるはなお及ばざるがごとし”って言うだろう。」

従来訳

下村湖人

子貢がたずねた。――
「師と商とでは、どちらがまさっておりましようか。」
先師がこたえられた。――
「師は行き過ぎている。商は行き足りない。」
子貢が更にたずねた。――
「では、師の方がまさっているのでございましょうか。」
すると、先師がこたえられた。――
「行き過ぎるのは行き足りないのと同じだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子貢問:「子張與子夏誰能幹些?」孔子說:「子張做事總是過頭,子夏總是差點火候。」說:「那麽是子張強些嘍?」孔子說:「過頭和差點一樣。」

中国哲学書電子化計画

子貢が問うた。「子張と子夏はどちらが仕事が出来るでしょうか?」孔子が言った。「子張はやること全てやり過ぎ、子夏はすべて程度がやや足りない。」言った。「では子張の方が優れていますかね?」孔子が言った。「やり過ぎは足りないのと同じだ。」

論語:語釈

、「  。」 、「 。」、「 () 。」 、「 。」


子貢(シコウ)

子貢 遊説

BC520ごろ-BC446ごろ 。孔子の弟子。姓は端木、名は賜。衛国出身。論語では弁舌の才を子に評価された、孔門十哲の一人(孔門十哲の謎)。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて、外交官、内政官、大商人として活躍した。

『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。子禽だけでなく、斉の景公や魯の大夫たちからも、孔子以上の才があると評されたが、子貢はそのたびに否定している。

孔子没後、弟子たちを取りまとめ葬儀を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。孔子一門の財政を担っていたと思われる。また孔子没後、礼法の倍の6年間墓のそばで喪に服した。斉における孔子一門のとりまとめ役になったと言われる。

詳細は論語の人物:端木賜子貢参照。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」は論語の本章、「子貢」では”…さん”という敬称。「子曰」では”孔子先生”。

初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。

貢 甲骨文 貢 字解
(甲骨文)

子貢の「貢」は、文字通り”みつぐ”ことであり、本姓名の端木と呼応したあざ名と思われる。所出は甲骨文。『史記』貨殖列伝では「子コウ」と記し、「贛」”賜う”の初出は楚系戦国文字だが、殷墟第三期の甲骨文に「章ケキ」とあり、「贛」の意だとされている。詳細は論語語釈「貢」を参照。

『論語集釋』によれば、漢石経では全て「子贛」と記すという。定州竹簡論語でも、多く「貢 外字」と記す。本章はその部分が欠損しているが、おそらくその一例。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

師(シ)

論語 子張

論語の本章では、孔子の弟子で、姓は顓孫、いみ名は師、あざ名は子張。「何事もやりすぎ」と評された。一門の中では年少組で、『史記』弟子伝によれば孔子より48年少。孔子が中堅役人から出世して、地方代官だった頃に生まれたことになる。張の字は論語の時代に存在しないが、固有名詞なので偽造と断定できない。詳細は論語の人物・子張参照。

論語の本章では、弟子の長老組である子貢の発言だから、目上として「師」といみ名を呼んでいる。

師 甲骨文 師 字解
(甲骨文)

「師」の初出は甲骨文。甲骨文は部品の「𠂤タイ」の字形と、すでに「ソウ」をともなったものとがある。字形の「𠂤」は兵糧を縄で結わえた、あるいは長い袋に兵糧を入れて一食分だけ縛ったさま。原義は”出征軍”。「帀」の字形の由来と原義は不明だが、おそらく刀剣を意味すると思われる。全体で兵糧を担いだ兵と、指揮刀を持った将校で、原義は”軍隊”。日本語での「師団」とはその用法。甲骨文の段階ではへんの𠂤だけでも”軍隊”を意味した。それが”教師”の意に転じた理由は、『学研漢和大字典』では明確でなく、『字通』では想像が過ぎる。”将校”→”指導者”と考えるのが素直と思う。甲骨文の語義は不明。金文では原義の他、教育関係の官職名に、また人名に用いられたという。さらに甲骨文・金文では、”軍隊”の意ではおもに「𠂤」が用いられ、金文でははじめ「師」をおもに”教師”の意に用いたが、東周になると「帀」を”技能者”の意に用いた。詳細は論語語釈「師」を参照。

與(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章、「師與商」では”~と”。”併存の意”。「師愈與」では”…か”。疑問の意。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。

三つ以上の物事を列挙する際には、英語同様、「A、B、與(and)C」の語法で用いられている。

商(ショウ)

論語 子夏
孔子の弟子。姓は卜、いみ名は商、あざ名は子夏。文学に優れると子に評された(孔門十哲の謎)、孔門十哲の一人。主要弟子の中では若年組に属する。『史記』弟子伝によれば孔子より44年少。子張と同世代ということになる。本の虫、カタブツとして知られる。論語八佾篇8で、下○タの歌をわざわざ曲解して行儀のよい解釈をし、孔子がんざりして口先で誤魔化した、と作り話が書かれている。詳細は論語の人物:卜商子夏を参照。

論語の本章では、弟子の長老組である子貢の発言だから、目上として「商」といみ名を呼んでいる。

商 甲骨文 不明 字解
(甲骨文)

「商」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には「𠙵」を欠くものがある。字形は「辛」”針・刃物”+「丙」だが、由来と原義は不明。甲骨文では地名・人名に用い、金文では国名、人名、”褒め讃える”、戦国の金文では音階の一つの意に用いた。詳細は論語語釈「商」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「商也」「師也」では主格の強調、”…はまさに”。「不及也」は「かな」と読んで詠嘆”…だぞよ”の意に用いている。論語の本章は後世の偽作を疑う要素が少なく、「なり」と読んで断定に解する理が無い。断定の語義は春秋時代では確認できない。

初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

師與商孰賢。子張と子夏はまさに、どちらが優れていますか。

孰(シュク)

孰 金文 孰 字解
(金文)

論語の本章では”どちらが”。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。

賢(ケン)

賢 金文 賢 字解
(金文)

論語の本章では”偉い”。”知能が優れている”のみを示さないので、「かしこし」と訓読した。初出は西周早期の金文。字形は「臣」+「又」+「貝」で、「臣」は弓で的の中心を射貫いたさま、「又」は弓弦を引く右手、「貝」は射礼の優勝者に与えられる褒美。原義は”(弓に)優れる”。詳細は論語語釈「賢」を参照。

乎(コ)

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

論語の古注では最初の句末に「乎」を付ける。論語の本章では、「か」と読んで疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

現伝論語の文字列は、南宋時代に固まった新注に文字列を従う場合が多く、その祖本は唐末期の唐石経に遡る。対して日本には隋代に古注系のテキストが伝わっており、それを保存して現在に至っている。中国では新注ごろに一旦古注は滅びているので、現伝論語よりは古注の文字列の方が古本に近いと言える。

この部分は、前漢中期の定州竹簡論語では欠損しており、その場合は古注に従うのが妥当と考える。

子曰(シエツ)(し、いわく)

問答

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

過(カ)

過 金文 過 字解
(金文)

論語の本章では”過剰である”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。字形は「彳」”みち”+「止」”あし”+「冎」”ほね”で、字形の意味や原義は不明。春秋末期までの用例は全て人名や氏族名で、動詞や形容詞の用法は戦国時代以降に確認できる。詳細は論語語釈「過」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

及(キュウ)

及 甲骨文 及 字解
(甲骨文)

論語の本章では”足りている”。初出は甲骨文。字形は「人」+「又」”手”で、手で人を捕まえるさま。原義は”手が届く”。甲骨文では”捕らえる”、”の時期に至る”の意で用い、金文では”至る”、”~と”の意に、戦国の金文では”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「及」を参照。

然(ゼン)

然 金文 然 字解
(金文)

論語の本章では”…であるような状態”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。

則(ソク)

則 甲骨文 則 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”つまり”。初出は甲骨文。字形は「テイ」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”のっとる”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。

愈(ユ)→隃(ユ)

愈 金文 愈 字解
(金文)

論語の本章では”まさる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。同音多数。兪はその一つ。字形は「兪」”くりぬく”+「心」で、病巣を取り去って心地よい気持のさま。原義は”治る”。「癒」(初出は後漢の『説文解字』)”いえる・いやす”の字が派生したのちは、音が表す”いよいよ”の意に用いた。金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「愈」を参照。

隃 秦系戦国文字 隃 字解
(秦系戦国文字)

定州竹簡論語は「隃」と記す。初出は秦の隷書。字形は「阝」”はしご・階段”または”山・丘”+「兪」”越える”。へんの「阝」はもと”はしご・階段”の意で、つくりの「阝」”山・丘”とは由来が違うのだが、戦国末の段階では混同されていたことを示す。漢音は「こえる」の訓で「ユ」、雁門山(山西省)の別名としては「シュ」。藤堂上古音で前者は「逾」「」「」と同じ、後者は「戍」と同じ。戦国最末期「睡虎地秦簡」に”(時を)超える”の意に用いた。論語時代の置換候補は部品で同音の「」。詳細は論語語釈「隃」を参照。

猶(ユウ)

猶 甲骨文 猶 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”まるで…のようだ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「酉」”酒壺”+「犬」”犠牲獣のいぬ”で、「猷」は異体字。おそらく原義は祭祀の一種だったと思われる。甲骨文では国名・人名に用い、春秋時代の金文では”はかりごとをする”の意に用いた。戦国の金文では、”まるで…のようだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「猶」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語にあり、それよりやや先行する『史記』弟子伝にもほぼ同文が載る。文字史的には全て論語の時代に遡れ、史実として扱って構わない。

解説

論語を読む限り、一門きってのアキンドで外交の才に優れた子貢だが、唯一の弱点と言えるのは、自分や他人に対する孔子の評価が気になって仕方がない点。論語憲問篇31では、孔子にそれをたしなめられている。変転止まない相場や外交の世界を子貢は生きたからこその不安。
子貢

何か絶対的な基準になるものを、子貢は求めたのだ。だから卓越した才を持ちながら、生涯孔子の下を離れず、孔子死去の際は他人の倍、六年の喪に服した

本章は子貢が自分と顔回の比較を尋ねた、論語学而篇15の続きである可能性がある。あるいは孔子が子貢に、「お前と顔回ではどちらが…」と尋ねた、論語公冶長篇8の続きである可能性もある。子貢は孔子に批評されるのを好み、また他人の評も聞きたがる弟子だった。

子張は孔門十哲からは漏れているが、それは同世代で性格が反対の曽子が子張の悪口を言ったからで(論語子張篇16)、孔門十哲を並べ挙げた後世の儒者が、曽子の系統を引くからに過ぎない。子夏は子張と同世代で、ともに孔門の学徒であり、政治的工作とは無関係と思われる。

だからもし、孔門の後ろ暗い部分も熟知している子貢が、顔回や子路の抜けた後の孔門政治部門を維持するため、新人のリクルートとして孔子に問うているなら、なるほど「過ぎたる」も「及ばざる」も、生き馬の目を抜く政治の世界には向かないと評するのはもっともだ。

孔門を学徒の集まりと見るのは、少なくともその風貌の半分しか捉えていない。

「王が諸侯に遣わす使者で、子貢ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王を補佐する大臣で、顔回ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王が軍を任せる将軍で、子路ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王の官吏の目付役で、宰予ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。それゆえ孔子を招くのじゃ。」(『史記』孔子世家)

これは楚王と宰相の問答だが、孔門が外交・情報・軍事・監察といった、近代国家の組織と同様な機能を持っていたことを示している。ただ領土と徴税する民を欠いていただけで、裏返すとこうした機能を諸侯に提供することで、孔門は活動資源を得ていたと見てよい。

ただ孔門を採用したが最後、衛のように国を乗っ取られかけるおそれがあり、それゆえ諸侯に恐れられ、受けて孔門も、乗っ取りは控えるようになったのかも知れない。衛の霊公が一度は追い出した孔門を受け入れたのは、太っ腹もあろうが孔子に念書を一札書かせたのだろう。

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

子貢問曰師與商也孰賢乎子曰師也過商也不及註孔安國曰言俱不得中也曰然則師愈與子曰過猶不及也註愈猶勝也


本文「子貢問曰師與商也孰賢乎子曰師也過商也不及」。
注釈。孔安国「どちらもほどの良さが無いと言ったのである。」

本文「曰然則師愈與子曰過猶不及也」。
注釈。愈とは”優れる”というような意味である。

新注『論語集注』

子貢問:「師與商也孰賢?」子曰:「師也過,商也不及。」子張才高意廣,而好為苟難,故常過中。子夏篤信謹守,而規模狹隘,故常不及。曰:「然則師愈與?」與,平聲。愈,猶勝也。子曰:「過猶不及。」道以中庸為至。賢知之過,雖若勝於愚不肖之不及,然其失中則一也。尹氏曰:「中庸之為德也,其至矣乎!夫過與不及,均也。差之毫釐,繆以千里。故聖人之教,抑其過,引其不及,歸於中道而已。」


原文「子貢問:師與商也孰賢?子曰:師也過,商也不及。」
子張は才能が優れ、その幅も広かった。だから好んで難しいことをやりたがった。それを理由としてほどの良さから外れた。子夏は性格がまじめでつつましく、何事も幅の狭い人柄だった。これを理由にほどの良さには及ばなかった、

本文「曰:然則師愈與?」
與は平らな調子で読む。愈とは、”すぐれる”というような意味である、

本文「子曰:過猶不及。」
人の道は中庸のバランスが取れて完成と言える。頭の回転や記憶力が過ぎると、愚かで出来の悪い者の無能よりは優れているのだが、それでも欠点が一つある。

尹焞「中庸は人の道徳として、最高である。行き過ぎと不足を共にならすからだ。中庸から僅かにずれただけでも、その間違いは千里の長さと思うべきだ。だから聖人の教えでは、過ぎたものは押さえ、及ばないものは引き上げ、ひたすら中道に戻そうとするのである。」

「(中庸との)差之コウ、繆つこと千里とす」。1/10を「分」と言い、1/100を「釐」と言い、1/1000を「毫」または「毛」という。ただしゼニの場合に限って「毛」は1/100を言う。いずれにせよ、極めて小さな値を意味する。

針小棒大という言葉がある。中国由来のことわざではないが、宋儒は頭がおかしいから、他人には「毫釐千里」と容赦の無い他罰的説教が言えるのである。まともな人間の言えることではない。論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

余話

判例がございますので

「いつも同じに打ってくるね」「他に知らんのだろ」

最古の仏典とされる『スッタニパータ』は、毒蛇の例えから始まるが、その章の早いうちに、中庸の心得が繰り返し説かれる。

走ってもはや過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり超えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。――蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

走っても…「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は…捨て去るようなものである。

走っても…「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は…捨て去るようなものである。

走っても…「一切の…」…愛欲を離れた修行者は…捨て去るようなものである。

走っても…「一切の…」…憎悪を離れた修行者は…捨て去るようなものである。

走っても…「一切の…」…迷妄を離れた修行者は…捨て去るようなものである。(『ブッダのことば』第一章)

生きた地域を異にしながら、ほぼ同時代を生きたブッダと孔子が、ともに中庸を説いたのは不思議では無い。かたよりが当人や周囲を傷付けることは、それなりに世間を古びた人間ならば、誰でも気付くからだ。だが二人の賢者の凄みは、そこに止まるものではない。

上掲のブッダの例「虚妄」「迷妄」に見えるように、一切をゆがんで見せているものを取り除き、一切を明らかにありのままに知ることを、両賢者は強調した。ブッダの教えは宗教として理解されることが多いから、教えが人生に役立つと見なされることが多いだろう。

ブッダももちろん、聞く者の苦しみを取り除く実用的な教えとして説いた。こんにち葬式以外で坊主無用の日本社会では、ブッダの教えの実用性は、ほとんど忘れられてしまっている。それは仏教が権力者にとって一方的に都合良く解釈され、ねじ曲げられて広められたからだ。

例えば清貧や正直や慈悲は、もちろん原始仏典から説かれている。だがこの教えは容易に、「お前ら民は貧乏で満足せよ。お上にとがめられたら神妙にせよ。犯罪を犯すな、カネのかかる肉食をするな」という庶民をクルクルパーにして食い物にする道具になり果てる。

ブッダが説いた清貧は、求めが少なければ幸福の機会が増えるという教えであり、ウソをつくと人にとがめられ後悔が残るからやめておけという教えであり、慈悲は受ける恨みが少ない方が幸福であるという実用的な教えだった。いずれも当たり前の事実を知ることが基本にある。

孔子の教説もこの点は変わらない。

バカが一日中あつまってわあわあと議論するが、まともな方法は誰一人言わず、小手先のハッタリを自慢し合っている。どうしようもないな。(論語衛霊公篇17)

リンゴの皮を剥くには小さな果物ナイフが適当だし、魚をおろして刺身に仕上げるには、鋭利でやいばの長い刺身包丁が要る。マグロを捌くには長大なマグロ包丁なしではいられないが、マグロ包丁でリンゴの皮むきは出来ないだろう。孔子の教説はこういう事実に基づいている。

まず「対象は何か」を明らかに知ることで、次に「妥当な方法は何か」を明らかに知ることだ。この教えは「知って行う」ことに意味があり、他人に説教するための文字列ではない。他人に説教して飯を食うしかなかった儒者に、孔子の教説が理解出来ないのはもっともだ。

社会の底辺から孔子が宰相格まで出世してみせた、春秋末期の社会変動に対応するための人材を育てるのが孔子塾であり、そこで教授されたのは役人としての実用的な教えであり、暇とカネを持て余した者の暇つぶしではなかったし、道徳的なお説教でもなかった。

論語を理解するには、この点を繰り返し強調する必要がある。論語の通説的理解はブッダの教えがねじ曲げられたのと同様に、権力にとって一方的に都合の良い話にすり替わっている。その化けの皮を剝がして、やっと論語は現代人の役に立つ実用的な教えになりうるだろう。

論語の本章に話を戻せば、孔子は行き過ぎも足りないのもどちらも良いとは評価しなかった。では何がいわゆる「中庸」であるかは全く言っていない。孔子は自分が中庸を知っているというウソはつかなかった。中庸は中庸になり損なった後で、やっとわかるものだからだ。

中庸と、平均や中央値は違う。平均や中央値は、元データを計算したり並べたりして算出するのだが、元データは過去の観測値にほかならず、もし未来に飛び抜けたデータが現れたら、その瞬間に平均や中央値は大きくずれる。

治水を例にとれば、「これまでの水位はこれぐらいだった」と分かっているだけで、「ではその最高値の五割増しぐらいの堤防を造ろう」ということになる。しかし未曾有の大雨は常にあり得るから、過去のデータに基づいた「頑丈な」堤防も、たびたび破られて洪水になる。

治水も無限の資源や時間を投入する訳にはいかないから、まあほどほどの堤防を築いてそれでよしとする。人界とはそういう諦めの上に成り立っているのだが、それゆえに中庸を得た堤防などどこにもない。今まで洪水を防いできた堤防を、今のところ中庸と見なせるだけ。

孔子ははっきり言っていないが、人間には未来が分からない。地球上で上から石を手放せば落ちるという程度の未来しか分からず、社会がこの先どうなるか、個人にこの先何があるかは、誰にも分からない。そこを見極めた上で、せめてデタラメには従うな、と言っただけである。

それがブッダの言う「妄想・虚妄・迷妄を捨て去れ」であり、孔子との共通点でもある。だが孔子の弟子がいずれ携わる政治軍事は、常に未曾有との対決でもある。孔子はその判断を「禮」(礼)=”貴族の常識”に従えと教えた。孔子生前の「禮」は文字に記せる条文ではない。

詳細は論語における「礼」を参照。この点で、孔子の時代は官僚制の黎明期で、「例」に従ってよしとする時代ではなかった。「礼」「例」はどちらも漢音で「レイ」だが、カールグレン上古音で「礼」はliər(上)と上がり調子に、これから未知に立ち向かう語気を示した。

対して「例」はli̯ad(去)で同音でない。尻下がりに、”もう済んでしまいました”と言わんばかりに言った。春秋の君子は社会に特権を説明するために、必ず従軍しなければならなかったが、「例」に従って戦えば負けは必至である。後世の役人根性で務まる身分ではなかったのだ。

『論語』先進篇:現代語訳・書き下し・原文
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