論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰由之瑟奚爲於丘之門門人不敬子路子曰由也升堂矣未入於室也
- 「敬」字:〔艹〕→〔十十〕。
校訂
武内本
唐石経鼓の字なし。此本(=清家本)鼓瑟、蓋し注文によりて衍する所、削るべし。
東洋文庫蔵清家本
子曰由之瑟奚爲於丘之門/門人不敬子路子曰由也升堂矣未入於室也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……矣,未278……
標点文
子曰、「由之鼓瑟、奚爲於丘之門。」門人不敬子路。子曰、「由也升堂矣。未入於室也。」
復元白文(論語時代での表記)
瑟
※論語の本章は、「瑟」の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、由之瑟を鼓づ、奚ぞ丘之門に於て爲さん。門人子路を敬はず。子曰く、由也堂に升れ矣。未だ室於入らざる也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「由(子路)の琴を弾くのは、どうして私の塾でするのか。」弟子たちは子路を敬わなくなった。先生が言った。「由は表座敷に上がっている。奥座敷に入っていない。」
意訳
子路「♪ジャジャジャーン!」
孔子「子路や、お前の琴にはうんざりするな。いっそよそで弾いてくれんか。ウチで弾かれると恥になる。」
弟弟子「子路さんってボンクラだよね-。」「ねー。」
孔子「こりゃお前達。子路は基礎は出来ておるんだ。奥義を知らないだけだぞ。」
従来訳
先師がいわれた。――
「由の瑟は、私の家では弾いてもらいたくないな。」
それをきいた門人たちは、とかく子路を軽んずる風があった。すると、先師はいわれた。――
「由はすでに堂にのぼっている。まだ室に入らないだけのことだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「子路彈琴,乾嘛要在我這裏彈?」學生因此不尊敬子路。孔子知道後,說:「子路的彈得很不錯了,衹是還不精通而已。」
孔子が言った。「子路が琴を弾く、なんで私の所で弾こうとするのか?」弟子がこれを理由に子路を敬わなくなった。孔子はそれを知ったあとで、言った。「子路の琴は実に悪くない。ただしまだ精通していないだけだ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語の本章では、「子曰」で”先生”、「猶子也」で”息子”、「二三子」で”諸君”の意。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
由(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、史料に記録が残る孔子の最初の弟子。本名(いみ名)は仲由、あざなは子路。通説で季路とも言うのは孔子より千年後の儒者の出任せで、信用するに足りない(論語先進篇11語釈)。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。
なお「由」の原義は”ともし火の油”。詳細は論語語釈「由」を参照。だが子路の本名の「由」の場合は”経路”を意味し、ゆえにあざ名は呼応して子「路」という。ただし漢字の用法的には怪しく、「由」が”経路”を意味した用例は、戦国時代以降でないと確認できない。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章、「由之」「丘之」では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
鼓*(コ)
(甲骨文)
論語の本章では”奏でる”。初出は甲骨文。字形は「壴」”日時計に下げられた皮を張った太鼓”+「攴」”ばちを取って打つ”。太鼓を鳴らすさま。甲骨文では”太鼓を打つ”のほか、地名・人名と解せる例がある。syunju末期までに、”鳴らす”・”太鼓”の意に用いた。詳細は論語語釈「鼓」を参照。
瑟*(シツ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”おおごと”。弦の多い琴の一種。『学研漢和大字典』は「もと五十弦」という。事実上の初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。戦国文字の字形は多様で、ただし「兀」(ゴツ)形を必ず含む。おそらくテーブル状の楽器を示すか。同音は存在しない。楚系戦国文字に楽器の名として見える。秦系戦国文字には見えない。詳細は論語語釈「瑟」を参照。
「琴」の初出も楚系戦国文字、類語の「箏」の初出は後漢の説文解字。「𥸗」も初出不明で、そのほか楽器の「こと」と訓読する漢字は派生字のみ。すると孔子が琴を弾いたという『史記』の伝説はとたんに怪しくなる。
『春秋左氏伝』では成公期から「琴」は見えるが、孔子生前の襄公期にならないと「瑟」は見えない。「百度百科」は春秋以降の中国の名琴を記すが、どこまで本気にして良いか分からない。孔子の生前に弦楽器が無かったはずはないが、ウクレレはギターではなくバラライカはマンドリンではない。発掘史料が出ない限り、「瑟」は論語の時代に無かったと判断するほかない。
奚(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。カールグレン上古音はɡʰieg(平)。字形は「𡗞」”弁髪を垂らした人”+「爪」”手”で、原義は捕虜になった異民族。甲骨文では地名のほか人のいけにえを意味し、甲骨文・金文では家紋や人名、”奴隷”の意に用いられた。春秋末期までに、疑問辞としての用例は見られない。詳細は論語語釈「奚」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~で”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
丘(キュウ)
(金文)
孔子の本名(いみ名)。いみ名は目上か自分だけが用いるのが原則で、論語の本章ではつまり自称。文字的には詳細は論語語釈「丘」を参照。
論語の時代、本名は目上だけが呼びうるものであり、例外は自称の場合。本章はそれに当たるが、本名を自称するのは目上に対してへり下るためで、弟子の子路に対して謙遜するのには疑問がなくはない。
論語述而篇23で孔子は、弟子に対して自称して「丘」と言っているが、当該の章は漢字の用法に疑問があり、全面的に史実とするには心細い。なおこの本名の由来については、孔子の生涯(1)を参照。
門(ボン)
(甲骨文)
論語の本章では”(自分の)門(内)”。初出は甲骨文。”一門の”の語義は春秋時代では確認できない。「モン」は呉音。字形はもんを描いた象形。甲骨文では原義で、金文では加えて”門を破る”(庚壺・春秋末期)の意に、戦国の竹簡では地名に用いた。詳細は論語語釈「門」を参照。
門人(ボンジン)
論語の本章では”弟子”。「モンジン」は呉音+漢音の変則読み。
(甲骨文)
「人」の初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
敬(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”敬う”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。
子路(シロ)
記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「由也」では主格の強調、”…はまさに”。「室也」は「かな」と読んで詠嘆”…だぞよ”の意に用いている。論語の本章は後世の偽作を疑う要素が少なく、「なり」と読んで断定に解する理が無い。断定の語義は春秋時代では確認できない。
初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
升(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”上がる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「斗」”ひしゃく”+「氵」”液体”で、ひしゃくで一杯すくうさま。原義は”ひしゃく一杯分の量”。甲骨文では原義で、金文では加えて神霊に”酒を捧げる”、”のぼせる”の意に用いた。詳細は論語語釈「升」を参照。
堂(トウ)
(金文)
論語の本章では、”表座敷”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。ただし字形は「𣥺」。現行字体の初出は戦国中期の金文。「ドウ」は呉音。同音に「唐」とそれを部品とする漢字群、「湯」を部品とする漢字群など、「宕」”岩屋”。字形は〔八〕”屋根”+「冂」”たかどの”+「土」で、土盛りをした上に建てられた比較的大きな建物のさま。原義は”大きな建物”。戦国の金文では原義、”見なす”の意に用い、戦国の竹簡では”…に対して”の意に用いられた。詳細は論語語釈「堂」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”すでに…している”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”まだ…ない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
入(ジュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”入る”。初出は甲骨文。「ニュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は割り込む姿。原義は、巨大ダムを水圧がひしゃげるように”へこませる”。甲骨文では”入る”を意味し、春秋時代までの金文では”献じる”の意が加わった。詳細は論語語釈「入」を参照。
室(シツ)
(甲骨文)
論語の本章では”居間 ”。初出は甲骨文。同音は「失」のみ。字形は「宀」”屋根”+「矢」+「一」”止まる”で、矢の止まった屋内のさま。原義は人が止まるべき屋内、つまり”うち”・”屋内”。甲骨文では原義に、金文では原義のほか”一族”の意に用いた。戦国時代の金文では、「王室」の語が見える。戦国時時代の竹簡では、原義・”一族”の意に用いた。「その室家に宜しからん」と古詩「桃夭」にあるように、もとは家族が祖先を祀る奥座敷のことだった。詳細は論語語釈「室」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語にごく僅かの残簡しかなく、春秋戦国を含んだ先秦両漢の引用・再録は、後半の「由也升堂矣,未入於室也」のみが『史記』弟子伝に載る。またよく似た言い廻しが、前漢末期の『揚子法言』にある。
或問:「景差、唐勒、宋玉、枚乘之賦也,益乎?」曰:「必也淫。」「淫則奈何?」曰:「詩人之賦麗以則,辭人之賦麗以淫。如孔氏之門用賦也,則賈誼升堂,相如入室矣。如其不用何?」
ある人「景差(戦国楚の詩人)、唐勒(同)、宋玉(同)、枚乗(前漢初期の詩人)の賦(詩の一形式)は、ためになりますか?」
揚雄「だめですな。エロすぎます。」
ある人「エロすぎるならどうしましょう?」
揚雄「まじめな詩人の賦は、言葉が綺麗な上に手本にもなりますが、口車を回す連中の賦は、言葉が綺麗でもエロいだけです。儒家の賦で言うなら、賈誼(前漢初期)は表座敷に入ったという所、司馬相如(武帝の家臣でメルヘンおたく)は奥座敷に入ったと言ってよろしい。こういうのを勉強しないで、どんなのを手本にするというんです?」(『揚子法言』巻二)
いずれにせよ「瑟」の論語時代における不在はどうにもならず、本章は戦国から前漢初期にかけて創作されたと判断するのが理が通る。
解説
子路の瑟が下手だったという伝説は、論語と同じく定州漢墓竹簡に含まれる『孔子家語』にもあるが、やはり論語と同様に後世の偽作が多く混じっており、論語の本章の史実を証す根拠とはなりがたい。『孔子家語』の該当部分は、前漢末期の劉向が『説苑』に引用している。
論語の中で子路のおとしめ話はいくつかあるが、その全てが後世の偽作と言ってよく、本章も子路を筋肉ダルマのバカだと言わないと気が済まない、ひょろひょろの帝国儒者の創作と断じて構わない。孔子塾の必須科目「六芸」に「詩」は入っていたが、楽器の演奏が入っていたという史料は実は無い。上記語釈の通り、琴や瑟の実在すら論語の時代には怪しいのである。
それもあって子路の音楽の腕前は分からないのだが、『春秋左氏伝』に当時の貴族が歌詞の一節を引用して応対した記事はあるものの、楽器を奏でてどうこう、という話を、訳者はまだ読んだことがない。あるかもしれないが、詩文ほど奏楽は貴族の教養として重んじられていなかったとみるべきだ。
詩文が重要だったのは、発言者の教養を示すと共に、当時の国際共通語として用いられたからで、ただのメルヘンではなく実用的な意味があった。しかし個人の音感まで求められたわけではない。高度な教養人でも音感は生まれつきに左右されるし、他人の音痴を笑う者は、かえって下品だとさげすまれただろう。
孔門十哲の「政事」に子路を含めたのは孟子と思われるが(孔門十哲の謎)、子路は生国の魯では筆頭家老家の執事として、亡命先の衛では難治のまちの代官ではなく領主として、大過なく責務をまっとうしているから、儒者の言うような筋肉ダルマのおバカでは決してない。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰由之鼓瑟奚為於丘之門註馬融曰言子路鼓瑟不合雅頌也門人不敬子路子曰由也升堂矣未入於室也註馬融曰升我堂矣未入室耳門人不解謂孔子言為賤子路故復解之也
本文「子曰由之鼓瑟奚為於丘之門」。
注釈。馬融「子路の弾く瑟が、『詩経』の雅や頌(みやびな宮中の歌)に合わなかったのである。」
本文「門人不敬子路子曰由也升堂矣未入於室也」。
注釈。馬融「孔子は、自分の音楽教育の表座敷には入っているが、奥座敷には至っていないと言っただけだった。だが門人は孔子の言った意味が分からず、子路をおとしめた。だから孔子は口に出して説明したのである。」
新注『論語集注』
子曰:「由之瑟奚為於丘之門?」程子曰:「言其聲之不和,與己不同也。」家語云:「子路鼓瑟,有北鄙殺伐之聲。」蓋其氣質剛勇,而不足於中和,故其發於聲者如此。門人不敬子路。子曰:「由也升堂矣,未入於室也。」門人以夫子之言,遂不敬子路,故夫子釋之。升堂入室,喻入道之次第。言子路之學,已造乎正大高明之域,特未深入精微之奧耳,未可以一事之失而遽忽之也。
本文「子曰:由之瑟奚為於丘之門?」
程頤「弾いた音色が和音になっていない、孔子が弾いたようでないと言った。」
『孔子家語』に言う。「子路が瑟を弾くと、北方の田舎のような殺伐とした音が出た。」たぶん子路の性格が強情で勇ましかったので、ほどのよさを表現するには人格力が足りず、だから音を奏でればそんな音になった。」
本文「門人不敬子路。子曰:由也升堂矣,未入於室也。」
門人は孔子先生の言葉を聞いて、すぐに子路をバカにし始めた。だから孔子は弁護してやった。升堂入室とは、習得の段階を言う。つまり子路の習得は、すでに音階が正しく明らかな境地に達していたが、それ以上の微妙を理解するには至っていないだけだった。門人はある欠点だけ切り取って、全部ダメだと罵倒したのである。
余話
ホーミー
ロシアのエカテリーナ2世と言えば、世界の君主の中でも指折りの教養人で、もちろん楽譜も読め、奏者が「今どこを弾いているか正確に指さすことが出来た」(小野理子『女帝のロシア』)のだが、声楽だけはどうしようも無かったらしい。音痴だったのである。
新注に引用された『孔子家語』は、そのように子路を罵っている。
子路鼓琴,孔子聞之,謂冉有曰:「甚矣,由之不才也!夫先王之制音也,奏中聲以為節,入於南,不歸於北。夫南者、生育之鄉,北者、殺伐之城。故君子之音,溫柔居中,以養生育之氣。憂愁之感,不加于心也;暴厲之動,不在于體也。夫然者、乃所謂治安之風也。小人之音則不然,亢麗微末,以象殺伐之氣;中和之感,不載於心;溫和之動,不存于體。夫然者,乃所以為亂之風。昔者,舜彈五絃之琴,造《南風》之詩,其詩曰:『南風之薰兮,可以解吾民之慍兮;南風之時兮,可以阜民之財兮。』唯脩此化,故其興也勃焉。德如泉流,至于今,王公大人述而弗忘。殷紂好為北鄙之聲,其廢也忽焉,至于今,王公大人舉以為誡。夫舜起布衣,積德含和,而終以帝。紂為天子,荒淫暴亂,而終以亡。非各所脩之致乎?由,今也匹夫之徒,曾無意于先王之制,而習亡國之聲,豈能保其六七尺之體哉?」冉有以告子路。子路懼而自悔,靜思不食,以至骨立。夫子曰:「過而能改,其進矣乎!」
子路が瑟を弾くのを孔子が聞いて、冉有に言った。
「ひどいものだな、子路の才能の無さは。そもそもいにしえの聖王が音楽の規則を定めたが、それは適度な音を奏でて節を作り、音は南へ流れて北へ帰らない。南北とは何か? 南は生物が生まれ育つ場であり、北は殺し合いの場である。
だから君子が奏でる音は、温和で柔らかくて中程を保ち、それで万物を育てるエネルギーを表現する。だから怖れ憂うる調子は、音の心に込めず、荒々しくとげとげしい調子は、曲の主題にしない。だからこそ、君子の音楽はおとなしく安らぐ風味に落ち着く。
だが小人の音楽とはそうでない。曲の調子は微妙にころころと変わり、それで殺し合いの雰囲気を表現する。ほどの善さや和みは音の心に込めず、温和や和みは、曲の主題にしない。だからこそ、小人の音楽は動乱の風味に落ち着く。
むかし、聖王の舜が五絃の琴を弾き、『南風』の曲を作った。その歌詞に言う。”南風は香るようだ、我が民の恨みを解く。南風が吹くとき、民の財産は増えていく。”
こういう精神を養って民を教育したものだから、その国は勢いよく栄えたし、道徳は泉のように流れた。だから今になるまで、王侯貴族はその歌詞を口ずさんで忘れない。
ところが時代が下って殷の紂王は、北方の野蛮な音楽を好んだから、国の滅亡はあっという間だった。だから今に至るまで、王侯貴族はこれを例にとって戒めている。
そもそも舜はもと庶民で、道徳を養い和みを培い、帝王として世を終えた。紂は天子に生まれ、みだらと乱暴を尽くし、国を滅ぼした暴君として世を終えた。この結果は、それぞれが修養したものが違った結果ではないか?
子路について言えば、そこらのチンピラのような男で、今になるまでいにしえの聖王の教えを学ぼうとしない。その代わり亡国の歌ばかり熱心に習っている。これでは身の安全を保ったままではいられまいな。」
冉有は聞いた話をすっかり子路に話した。子路は恐れ入って反省し、静かに瞑想して食を絶ち、それで性根を叩き直した。先生が言った。「間違えたら改める、それが進歩と言うものだ。」(『孔子家語』弁楽解)
『孔子家語』のこの部分が、論語先進篇12に儒者がなすりつけ、漢学教授がその猿まねをしたような、子路が政変で横死したあと智恵を知って言いふらした勝手な解釈同様、「身の安全」うんぬんから後世の偽作と断じていいのだが、中国人にとって北には特別な意味があった。
つまりここで「北方の音楽」が野蛮で残忍だと中国人に意識されたのには、わけがあるかも知れない。中国史を一面から見ると、北方騎馬遊牧民の襲撃に常にさらされる歴史でもあるが、現在のモンゴルを中心とする遊牧民の間には、共通した特徴のある歌い方がある。
それをモンゴルでは「ホーミー」という。
申し訳ないが訳者はこれを聞くと、ぞっとするダミ声のように聞こえてしまう。この歌声と共に襲撃され殺戮され略奪される者に取っては、なおさら忌まわしいと感じただろう。ホーミーの確実な記録は18世紀半ばだとwikiは言うが、アイヌを含めた北アジアに普遍的とも言う。
司馬遼太郎は現地に行って、「馬を励ます歌」だと書いた。すると中国を襲撃した北方遊牧民は、太古の昔からこういう歌い方をしていたのかも知れず、それが「殺伐の歌」として中国人に認識され、上掲『孔子家語』のような話が作られる元になった可能性はある。
だが儒学の『楽経』同様、楽譜は残っていないから断言は出来ない。想像が出来るだけ。
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