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原文
顏淵死、子哭之慟。從者曰、「子慟矣。」*曰、「有慟乎。非夫人之爲慟而誰爲*。」
校訂
武内本
清家本により、文末に慟の字を補う。曰の前に、子の字を補う。
定州竹簡論語
[顏淵死,子哭之動a。從者曰:「子動矣!」曰b]:269……
- 動、今本作”慟”。動借為慟。
- 皇本、”曰”上有”子”字。
→顏淵死、子哭之動。從者曰、「子動矣。」曰、「有慟乎。非夫人之爲慟而誰爲。」
復元白文
※慟→動・矣→已。
書き下し
顏淵死す。子之を哭きて動く。從者曰く、子動け矣。曰く、慟く有らむ乎。夫の人之爲に慟くに非ずし而誰が爲にせむ。
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逐語訳
顔淵が死んだ。先生はそれを泣き、わなわなと震えた。そばの者が言った。「先生は震えています。」先生がが言った。「震えるようなことをしたか。この人のために震えないなら、誰のために震えるのか。」
意訳
顔回が死んだ。先生は泣き、悲しみのあまりわなわなと震えた。
弟子「先生。礼法にそむきます。」
孔子「顔回が死んだんだぞ。礼法など知ったことか。」
従来訳
顔渕が死んだ。先師はその霊前で声をあげて泣かれ、ほとんど取りみだされたほどの悲しみようであった。お供の門人が、あとで先師にいった。――
「先生も今日はお取りみだしのようでしたね。」
先師がこたえられた。――
「そうか。取りみだしていたかね。だが、あの人のためになげかないで、誰のためになげこう。」
現代中国での解釈例
顏淵死,孔子痛哭。身邊的人說:「您不要過於悲痛了!」孔子說:「過於悲痛了嗎?不為他悲痛為誰悲痛?」
顔淵が死んで孔子がひどく泣いた。近くの者が言った。「先生あまりお嘆きになりますな。」孔子が言った。「悲しみすぎか? 彼のために悲しまないで、誰のために悲しむのだ?」
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哭(コク)之慟
「哭」(年代不明金文)・「慟」(金文大篆)
論語の本章では”泣いてわななくこと”。「哭」の初出は甲骨文。
「慟」は論語では本章のみに登場。初出は後漢の『説文解字』であり、論語の時代に存在しないが、部品の「動」が「慟に通ず」と『大漢和辞典』は言う。
「哭」は人の死を悼んで声を上げて泣くこと。礼法の定めでは、死者とどのような関係であれ、「哭」はとがめられず、逆にそうすべきと孔子はした。一方「慟」はわなわなと震えることで、目上ならともかく、目下である弟子の死には行き過ぎと孔子はしていたのだろう。
孔子は無自覚に、わなわなと震えたのである。
ただし、論語の時代は礼法の解釈にも多様性があり、のちに儒教が絶対的な権威を持ってから、死者との関係でどう悲しみを表すかについて、細かな規定が出来た。従って従者が必ずしも礼法破りをとがめたとは言えない。ただ孔子も従者も、行き過ぎとは思っただろう。
『学研漢和大字典』によると「慟」は会意兼形声文字で、動は、上下に突きぬけるようにうごかすこと。慟は「心+(音符)動」で、からだを上下に動かして悲しむこと。痛(トウ)(上下に突きぬけるほど心を痛める)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「哭」・論語語釈「慟」を参照。
非夫人之爲(為)慟而誰爲(為)
「夫」「人」(金文)
論語の本章では、”あの人の為にしないなら、誰のために泣いてわななくのか”。
「夫人」は”夫の人”=”あの人”で、漢文では敬語の一種として扱われる。人を名指ししないことは敬意を示すことであり、従って本名は目上しか呼ぶことが出来ず、呼び名としてのあざ名が通用した。「夫人」もそれの一種で、人の魂が持つ超自然的な力へのおそれを示す。論語語釈「夫」も参照。
「人」は象形文字で、人のたった姿を描いたもの。もと身近な同族や隣人仲間を意味した。二(ニ)・(ジ)(二つくっついて並ぶ)・爾(ニ)・(ジ)(そばにくっついている相手、なんじ)・尼(ニ)(相並び親しむ人)・仁と同系のことば、という。詳細は論語語釈「人」を参照。
「非」「誰」(金文)
「非」は象形文字で、羽が左と右とにそむいたさまを描いたもの。左右に払いのけるという拒否の意味をあらわす。扉(ヒ)(左右にわかれて開くとびら)・排(ハイ)(左右におしのける)などと同系のことば。類義語の不は、あとの動詞や形容詞を否定して「不行(行かない)」「不良(よくない)」のように用いる。弗(…せず)・拂(=払。はらいのける)は、非の語尾がtに転じたことば、という。詳細は論語語釈「非」を参照。
「誰」は形声文字で、「言+(音符)隹(スイ)」。惟(イ)・維(イ)は、「これ」の意をあらわす指示詞に用い、その変形した誰は、だれの意をあらわす疑問詞にして用いる。言語の助詞なので、言べんを加えた。現代中国語で、那(ナ)(それ)の変形を哪(ナ)(どれ)という疑問詞に用いるのと似ている、という。詳細は論語語釈「誰」を参照。
論語:解説・付記
すでに顔回ばなしが何度か続いているからには、論語の本章について語りうることは少ないが、本章独自の特徴として、顔回を「夫人」と敬称していることを指摘できる。孔子が夫人と呼んだのは、他に閔子騫(論語先進篇13)と子羔の親(論語先進篇24)のみである。
ここを重大に捉えると、孔子にとって顔回は、遠慮せねばならぬほどの存在だった、ということになるが、それならば他の章で、「回」と呼び捨てにしているのをどう説明するのか、という問題が生じる。論語にすでに出てきた、それらの章を検討しよう。
- 論語為政篇9「吾回と言ること終日」→×後世の捏造。
- 論語公冶長篇8「なんじと回とは」→×後世の捏造。
- 論語雍也篇3「弟子だれか学を」→×後世の捏造。
- 論語雍也篇7「回やその心三月」→○捏造の証拠無し。
- 論語雍也篇11「賢なる哉回や」→×後世の捏造。
- 論語子罕篇20「これに語りて」→×後世の捏造。
- 論語先進篇3「回や我を助くる者に」→×後世の捏造。
- 論語先進篇6「季康子問う、弟子」→○捏造の証拠無し。
これだけでは何かを断じるわけにはいかないが、随分と怪しい、とは言えそうだ。
ところで前回チラと語った、顔回が孔門情報部の司令塔だったのでは、という仮定だが、仮定ながらも僅かな論拠はある。孔子の母を顔徴在といい、職業は流浪の巫女の一人、孔子が放浪で最も頼ったのが任侠道の大親分。顔濁鄒だった。どちらも多国籍企業の走りである。
詳細は孔子の生涯(1)で述べたが、孔子は当時の国際裏ネットワークに乗ったから、放浪も出来たし政治工作も出来た。それを担ったのが揃って顔氏を名乗る一員で、顔回もそれに数えられる。三人とも同族と考えた方が、無名の孔子に入門したり、亡命の世話を焼いた理屈に合う。
母親の縁故である、諸国放浪の巫女集団。顔濁鄒親分と、その手下の山賊たち。どちらも情報収集や工作にはうってつけであると同時に、容易に他人が入っていけない秘密結社の性格を併せ持つ。ただし例外はあり得て、それは同族だった場合だろう。
すると顔回が孔門情報部のトップだったとする仮定にも、それなりに理屈が付くのである。