論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好學也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好學者也已
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……曰:「十室之邑,必有忠[信]107……
標点文
子曰、「十室之邑、必有忠信如丘者焉、不如丘之好學者也已。」
復元白文(論語時代での表記)
忠
焉
※論語の本章は、「忠」「焉」が論語の時代に存在しない。ただし「焉」字は無くともさほど文意が変わらない。「必」「信」「如」「也」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子曰く、十室之邑、必ず忠信丘の如き者有り焉るも、丘之學を好むに如か不る者也る已。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「家十軒の村にも、必ず忠実で正直についてわたし丘のような者がきっと居るが、丘の学を好むのに及ばない者であるだけだ。」
意訳
家十軒の寒村にも、必ず私のような素直で忠実な者が居る。だが私並みに勉強する人は絶対いない。
従来訳
先師がいわれた。――
「十戸ほどの小村にも、まじめで偽りがないというだけのことなら、私ぐらいな人はきっといるだろう。だが、学問を愛して道に精進している点では、私以上の人はめったにあるまい。下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「每十家必定有和我一樣講忠信的人,衹是不如我好學而已。」
孔子が言った。「家十軒あれば、どこにも私と同じように忠実で誠実に振る舞う者がいるが、ただし私の学問好きに及ぶ者はいない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
十(シュウ)
(甲骨文1)/(甲骨文2)
論語の本章では”数字のじゅう”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には二種類の系統がある。横線が「1」を表すのに対して、縦線で「10」をあらわしたものと想像される。「ト」形のものは、「10」であることの区別のため一画をつけられたものか。「ジュウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。論語語釈「十」を参照。
室(シツ)
(甲骨文)
論語の本章では”家族”→”世帯”。初出は甲骨文。同音は「失」のみ。字形は「宀」”屋根”+「矢」+「一」”止まる”で、矢の止まった屋内のさま。原義は人が止まるべき屋内、つまり”うち”・”屋内”。甲骨文では原義に、金文では原義のほか”一族”の意に用いた。戦国時代の金文では、「王室」の語が見える。戦国時時代の竹簡では、原義・”一族”の意に用いた。「その室家に宜しからん」と古詩「桃夭」にあるように、もとは家族が祖先を祀る奥座敷のことだった。詳細は論語語釈「室」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「の」と読んで”…の”・「これ」と読んで”その”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
邑(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”むら”。もとは城壁に囲まれた都市国家のうち、「都」と呼ばれた首邑以外のまちのこと。初出は甲骨文。同音に「揖」など。字形は「囗」”城壁”+「㔾」”隷属する人”で、都市国家とその住民のさま”。原義は”都市国家”。「鄕」(郷)と語義が近く、春秋時代の身分制度で言う「卿」は、もと「郷」=「邑」の領主を意味した。甲骨文では原義のほか人名に用い、金文では加えて区画の単位に用いた。詳細は論語語釈「邑」を参照。
中国文明の発祥は西洋文明同様、城壁に囲まれたポリスからで、中国語で「城」とは城壁で囲まれた邑のことだった。現代中国語でも”都市”を「城市」という。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
忠(チュウ)
「忠」(金文)/「中」(甲骨文)
論語の本章では”忠実”。初出は戦国末期の金文。ほかに戦国時代の竹簡が見られる。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「中」+「心」で、「中」に”旗印”の語義があり、一説に原義は上級者の命令に従うこと=”忠実”。ただし『墨子』・『孟子』など、戦国時代以降の文献で、”自分を偽らない”と解すべき例が複数あり、それらが後世の改竄なのか、当時の語義なのかは判然としない。「忠」が戦国時代になって現れた理由は、諸侯国の戦争が激烈になり、領民に「忠義」をすり込まないと生き残れなくなったため。詳細は論語語釈「忠」を参照。
信(シン)
(金文)
論語の本章では、”正直”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周末期の金文。字形は「人」+「口」で、原義は”人の言葉”だったと思われる。西周末期までは人名に用い、春秋時代の出土が無い。”信じる”・”信頼(を得る)”など「信用」系統の語義は、戦国の竹簡からで、同音の漢字にも、論語の時代までの「信」にも確認出来ない。詳細は論語語釈「信」を参照。
如(ジョ)
(甲骨文)
論語の本章では”同程度になる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。『大漢和辞典』の第一義は”ごとくす”。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
丘(キュウ)
(金文)
孔子の本名(いみ名)。いみ名は目上か自分だけが用いるのが原則で、論語の本章ではつまり自称。文字的には詳細は論語語釈「丘」を参照。
者(シャ)
唐石経は「忠信如丘者」「丘之好學也」と記し、後者に「者」を記さない。清家本は「丘之好學者也」とあり「者」を記す。清家本は年代こそ唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝承しており、唐石経を訂正しうる。従って後者にも「者」があるものとして校訂した。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では”(…である)者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「ぬ」と読んで、”…に違いない”を意味する断定のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
學(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”学び”。「ガク」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。詠歎に解してもよいし、その場合は用例上の疑問は解決するが、上記「忠」の字の論語時代における不在から、あえて詠歎に解する必要がない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
已(イ)
唐石経は文末に「已」字を記さないが、清家本は記す。これに従い「已」があるものとして校訂した。論語の本章、最古の論語本である定州竹簡論語はこの部分の簡が欠損しているが、他章で「也已」の例があり、論語の本章に「已」が無かったことの傍証にならない。
(甲骨文)
論語の本章では”~てしまう”→”~に違いない”。初出は甲骨文。字形と原義は不詳。字形はおそらく農具のスキで、原義は同音の「以」と同じく”手に取る”だったかもしれない。論語の時代までに”終わる”の語義が確認出来、ここから、”~てしまう”など断定・完了の意を容易に導ける。詳細は論語語釈「已」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、春秋戦国の誰一人引用していないが、「十室の邑」は荀子が用いている。
禹見耕者耦、立而式,過十室之邑、必下。
いにしえの聖王禹は、畑仕事をしている者に出会うと必ず手伝い、まっすぐ立ってお辞儀をした。家十軒の小さな村でも、車で通り過ぎるには一度降りて歩いた。(『荀子』大略25)
定州竹簡論語も本章に関しては前半の「十室之邑,必有忠信」の部分があるだけで、学問を好む云々は残っていない。事実上論語の本章の成立は、後漢末から南北朝にかけて成立した古注、『論語集解義疏』からになる。漢儒の書き物では、前漢後期から前半が記されたのみ。
十室之邑,必有忠士。
十室の邑にも、必ず忠義のサムライがいる。(前漢後期・劉向『説苑』談叢16)
劉向はこの言葉を孔子の言葉としては記していないが、定州竹簡論語の埋蔵は劉向22歳ごろだから、論語の一部だと知って書いただろう。これが本章再録の初出、のはずだが、後漢前期に成立した『漢書』は、前漢中期の武帝が「十室之邑,必有忠信」と言ったと記す。
元朔元年冬十一月,詔曰:「…夫十室之邑,必有忠信…。」
前漢武帝の元朔元年冬十一月、詔を出した。「…十室の邑にも、必ず忠義で正直な者がおる…。」(後漢前期・班固『漢書』武帝紀54)
この詔について、『史記』は全く記していない。この詔が史実だったとして、武帝の治世は定州竹簡論語の埋蔵前だから、武帝が孔子の言葉として本章の前半を知っていた事にはならない。つまり論語の本章の成立は、前半に限っても早くて前漢の中頃としか言えない。
解説
論語の本章について、後漢儒も前半を記すのみで、後半は記していない。
夫十室之邑,必有忠信若孔子。
そもそも、十室の邑ですら、必ず忠義や正直が孔子のような人がいる。(後漢前期・王充『論衡』書虛54)
十室之邑,必有俊士。
十室の邑にも、必ず才能に優れたサムライがいる。(後漢中期・王符『潜夫論』実貢2)
つまり「ワシほどの学問好きはいない」と読み取れるような本章後半を書いたのは、後漢が滅び、あらゆる人という人への相互信頼が消失した三国から南北朝の儒者という事になる。上掲の古注に漢儒までの「注」が無く、三国以降の「疏」”付け足し”しか無いのはそれを物語る。
本章の古注に”付け足し”が残った孫綽(314-371)は、三国の呉の政治家にも同姓同名がいるが別人28号で、南北朝時代・東晋の文人。衛瓘(220-291)は、三国魏から西晋にかけての政治家とされる。どうも論語に書き足しそうな人物に思えないが、通説だからとりあえず紹介した。
孔子は弟子に「六芸」を教えたとされる。つまり孔子は師匠が務まるほどの六芸の達者だった。その六芸には、読み書き算盤や音楽や古典が入っていたが、弓術と戦車の操縦も入っていた。ということは、孔子は知力体力だけでなく、暴カにも自信があったことを表している。
自慢は自信の無い者のすることだ。自慢には二種類あり、相手の不得意なことを自慢するのがその一、自分の不得意を隠すために言うのがもう一である。従って孔子が本章の後半で、「ワシほどの学問好きはいない」と言ったのは、ウソだと考えるのが筋が通る。
論語の本章の解釈については、古くは古注の頃から議論があったらしい。それは「焉」字を句末と解するか句頭と解するかだった。
- 必有忠信如丘者焉、不如丘之好學者也已。
”かならず忠信について丘のような者がきっといる。丘の学を好むのに及ばない者ばかりだ。” - 必有忠信如丘者、焉不如丘之好學者也已。
”かならず忠信について丘のような者がいる。どうして丘の学を好むのに及ばない者ばかりだろうか。”
新注は前者を支持する。
新注『論語集注』
焉,如字,屬上句。好,去聲。十室,小邑也。忠信如聖人,生質之美者也。夫子生知而未嘗不好學,故言此以勉人。言美質易得,至道難聞,學之至則可以為聖人,不學則不免為鄉人而已。可不勉哉?
焉は本来の発音で、上の句にくっつけて解釈すべし。好は尻下がりに読む。十室とは小さな村だ。聖人のような正直者は、生まれつき真人間なのである。先生は生まれてこの方、勉強ばかりしてきた。だからこう言って、人を励ましたのである。言葉は美しく解り易いが、実行は難しい。勉強し尽くせば聖人にもなれるが、勉強しなければただの田舎者だ。勉強しないでいられようか?
対して古注は両論を併記する。
古注『論語義疏』
子曰十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好學也疏子曰至學也 丘孔子名也孔子自稱名言十室為邑其中必有忠信如丘者焉也但無如丘之好學耳孫綽曰夫忠信之行中人所能存全雖聖人無以加也學而為人未足稱也好之至者必鑽仰不怠故曰有顔回者好學今也則亡今云十室之學不速於己又曰我非生而知之好古敏而求耳此皆陳深崇於教以盡汲引之道也一家云十室中若有忠信如丘者則其餘焉不如丘之好學也言今不好學不忠信耳故衛瓘曰所以忠信不如丘者由不能好學如丘耳苟能好學則其忠信可使如丘也
本文「子曰十室之邑必有忠信如丘者焉不如丘之好學也」
付け足し。先生は学びの極致を言った。丘は孔子の名である。孔子は自分から名言を言い出した。つまり「たったの家十軒で村が出来るが、その中には必ず私のように忠信な者がきっといる。ただし私ほど学問好きなのは絶対にいない」と言った。
孫綽「そもそも忠信がよく行われている場合は、聖人だろうと村人を申し分ないと評価せざるを得ないが、学問に関しては、そこまで誉めるに値する人間はいない。学問を好む者は必ず孔子を有り難がるのだが、それが実践できた顔回のような学問好きはもういない、と孔子自身が言っている。
だから家十軒の村程度では、自分ほど謹んで学問する者はいない、と孔子は言った。またこうも言った。私は生まれつきものを知っていたわけではない、好んで一生懸命昔を学んだだけだと。
これらはとてつもなく有り難い、人を導く教えだ。なぜなら、一家十室の中に、もし私のように忠信な者がいたら、他の者がどうして私ほど学問好きでないことがありえようか、と言ったことになるからだ。ところが実際にはそうでなかったから、昨今はどいつもこいつも勉強は嫌がる、ウソばかりつく連中だらけだ、と歎くに至った。」
だから衛瓘は言った。「こう言ったのだ。私ほど勉強しないから、どいつもこいつもウソツキだ。勉強すれば、私程度には正直になるのに、と。」
訳者としては、「忠」の字があることによって、論語の本章の偽作は決定だから、人を励ます話ではなく、孔子を有り難そうに見せるための宣伝文だから、前者に従うのが適切であると考え訓読し、翻訳した。
ただしもし将来、「忠」の字が春秋時代から発掘されたら、話は俄然変わってくる。孔子は庶民を教えて君子にふさわしい技能教養を身につけさせ、仕官させて貴族へと成り上がらせる道を開いた。50過ぎに政界を引退して放浪したあとは、ずっと教育の毎日だった。
論語の本章のように、みだりに人を見下さねばならない者は、結局は弱虫で無能だからに他ならない。だが孔子は身長2mを超す武術の達人で、当時の誰より知識人で、ペニシリン無き時代に70過ぎまで生き、年収111億円。人を見下さなければ自我が保てないほど、孔子の頭も体も弱くない。
そんな孔子は「過去とキッパリ訣別するなら、誰でも受け入れて教えた」(論語述而篇7)と自慢した。「自分同様の向学心がある者は、どんな田舎にもきっといる」という確信があったからこそ、そう言ったに違いない。
余話
吉川にあらずんば人にあらず
既存の論語本では、吉川本にこう言う。
「すなわち孔子によれば、素朴なひたむきな誠実、それだけでは完全な人間ではないのである。学問をすることによって、人間ははじめて人間である。人間の任務は、”仁”すなわち愛情の拡充にある。また人間はみなその可能性をもっている。…しかしそれは学問の鍛錬によってこそ完成される。愛情は盲目であってはならない。人間は愛情の動物であり、その拡充が人間の使命であり、また法則であるということを、たしかに把握するためには、まず人間の事実について、多くを知らなければならない。」
これをどう読むかは人それぞれだろう。だが訳者は、「学問をしない者は人間ではない」と解する。どのような学問かは記していないが、吉川が専攻した漢学などを指すのだろう。つまり、吉川のような旧帝大漢学教授でない人間は、吉川にとって人間ではない、と言っている。
または孔子が九分九厘のホモサピエンスを、人間ではないと言った事になる。それが吉川の言う「人間の事実」で、「多くを知らなければならない」のであるらしい。それなら論語は一冊残らず焼くといい。それ以外の漢籍も便所紙に漉き直し、教育から漢学を全く追放すべきだ。
なぜなら、論語や漢籍が差別と奴隷化の道具になっていると、断じるほかはないからだ。
参考記事
- 論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」
『論語』公冶長篇おわり
お疲れ様でした。
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