論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「孰謂微生高直。或乞醯焉、乞諸其鄰而與之。」
校訂
定州竹簡論語
子曰:「孰謂杘a生高直?或乞醯焉,乞諸其鄰而予b之。102
- 杘、今本作「微」字。
- 予、今本作「與」。
→子曰、「孰謂微生高直。或乞醯焉、乞諸其鄰而與之。」
復元白文
醯
※焉→安・予→與。論語の本章は醯の字が論語の時代に存在しない。本章は漢帝国の儒者による改造が加わっている。
書き下し
子曰く、孰か杘生高を直しと謂ふや。或るひと醯を乞ひ焉るに、諸を其の鄰に乞ふ而之に予ふと。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。「誰が微生高を実直だと言うのか。ある人が酢を請うた所、隣から借りて渡したという。」
意訳
微生高の奴のどこが実直だ。誰かが酢を求めた所、お隣から借りて渡したと言うではないか。無いなら無いと言えば良かろう。
従来訳
先師がいわれた。――
「いったい誰が微生高を正直者などといい出したのだ。あの男は、ある人に酢を無心され、それを隣からもらって与えたというではないか。」
現代中国での解釈例
孔子說:「誰說微生直爽?有人向他要醋,他家沒有時,卻到鄰居家要來給人。」
孔子が言った。「誰が微生を爽やかだと言ったか?ある人が彼に酢を求めたら、彼は家に在庫が無いとき、すぐさま隣家に行って呉れてやるように求めた。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
孰(シュク)
(金文)
論語の本章では”誰が”。ここでは反語。『大漢和辞典』の第一義は”煮る・煮える”。「誰」(スイ)に音が近いので転用されて、人を訪ねる疑問辞に。のち転用が止まらなくなって、”何”など疑問辞一般に転用された。詳細は論語語釈「孰」を参照。
微生高→杘生高
「微生高」(篆書)
古来誰だかよく分からないが、藤堂本によると姓は微生、名は高、魯の人といい、論語憲問篇に見える微生畝かという。恐らく真相は、このラノベの作者である漢の儒者しか知るまい。
「杘」はチまたはヂと読み、『大漢和辞典』による語義は”ずるい・あざむく”とすさまじい。初出は後漢の『説文解字』で、もちろん論語の時代に存在しない。カールグレン上古音は不明。おそらく漢代儒者による勝手に貶めた書き換えで、微生高が正しいと思われる。
乞
(金文)
論語の本章では”求める”。甲骨文から金文の時代、气と書き分けられていなかった。論語では本章のみに登場。
『学研漢和大字典』によると象形。ふたを押しのけてつかえた息が漏れ出るさまを描いたもの。氣(=気。いき)の原字。のどをつまらせて哀れな声を漏らすの意から、物ごいする意となった。吃(キツ)(どもる)と同系、という。
『字通』によると象形。雲気の流れる形。氣(気)の初文は气、その初形は乞。〔説文〕一上に「气は雲气なり。象形」とあり、乞字を収めない。乞はもと雲気を望んで祈る儀礼を意味し、乞求の意がある。金文に「用(もっ)て眉壽を乞(もと)む」のように、神霊に祈ることをいう、という。
醯(ケイ)
(金文)
論語の本章では”酢”・”酸っぱい酒”。論語では本章のみに登場。「かゆに酒を混ぜて発酵させたもの」と『大漢和辞典』に言う。他に『学研漢和大字典』によると「ひしお」と読み、”肉のしおから”をも意味する会意文字。右上は、かゆをあらわす字の略体。醯は、それと酒の略体と皿(さら)を合わせたもの、という。
この字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音は不明。藤堂上古音はher。詳細は論語語釈「醯」を参照。
とはいえ、論語の時代に酢が無いわけがなく、後世になって文字が置き換わったのだろう。「酢」は春秋末期から存在している。
與→予
どちらも”あたえる”。「與」の字は論語の時代に存在するが、「予」の字の初出は後漢の『説文解字』。詳細は論語語釈「与」・論語語釈「予」を参照。
論語:解説・付記
孔子は「似て非なるもの」を憎んだ。
論語の名言「紫の朱を奪うをにくむ」の出典だが、後世の儒者は輪を掛けて、儒家だけが存在価値のある学派だと主張するため、孔子だけが中華文明の正統な後継者であるとし、似たような立場の思想家を、ニセモノだと強く批判した。本章に出てくる微生高も、世間師の類と見なしたのだ。
なお「似て非なる」と言ったのは、孔子の後継者を自認した孟子だが、孟子はそれを孔子の発言として取り上げている。
孔子曰:『惡似而非者:惡莠,恐其亂苗也;惡佞,恐其亂義也;惡利口,恐其亂信也;惡鄭聲,恐其亂樂也;惡紫,恐其亂朱也;惡鄉原,恐其亂德也。』
孔子曰わく、似て非なる者を憎む。イネ科の雑草を嫌うのは、穀物の苗と紛らわしいからだ。おべっか使いを憎むのは、正しい人間と紛らわしいからだ。口上手を嫌うのは、真実と紛らわしいからだ。鄭の音楽を憎むのは、まともな音楽と紛らわしいからだ。紫色を憎むのは、朱色と紛らわしいからだ。田舎の大将を憎むのは、正しい人格形成を邪魔するからだ。(『孟子』尽心下篇)
一方既存の論語本では吉川本で、微生高を「尾生の信」で知られる尾生高である可能性を挙げている。『荘子』雑篇・盜跖には以下の通りある。

荘周(『荘子』の主人公)
孔子が大盗賊の盜跖のところへ出向き、説教した。盜跖は言い返してあれこれあれこれ…
尾生與女子期於梁下、女子不來、水至不去、抱梁柱而死。
尾生が橋の下で女の子と逢い引きの約束をした。尾生は早くから来て待っていたが、女の子は来なかった。そのうち雨が降り出して水かさが増したが、尾生は約束を信じ、と言うよりオレは実直な男で惚れる価値があるぞとアピールするため、橋脚に抱きついてそのまま溺れ死んだ。
此六子者,無異於磔犬、流豕、操瓢而乞者,皆離名輕死,不念本養壽命者也。
…アホウどもだ。女が来るわけなかろう。こいつらは生け贄の犬や豚、乞食同然だ。世間体を気にして、たった一つの命を粗末にした馬鹿者だ。…さっさと帰れ。この減らず口が!
論語の時代は動乱期で、動乱期の初期は思想家が走り回る。孔子の生きた春秋時代末期は戦乱の時代ではあったが、まだ国際関係がそれなりに維持されていた。戦国時代終盤のように、いきなり秦軍が押し寄せて皆殺し、となると、思想家は首をすくめて隠れているしかなかった。
隠れていたのに無理やり連れ出されたのが韓非(子)で、秦軍が彼の住む韓国(韓非は韓の王族)に押し寄せて都城を包囲し、「韓非を出せ。出さねば丸焼きだ」と脅した。しかし論語時代はまだのんびりしており、後世に名を残せなかっただけで多数の思想家がいた。
もし本章が史実なら、微生高は孔子とは別の学派を立てて弟子もいたのだろう。孔子は商売敵の評を問われて、論語の通例通り辛口の評を返した。それだけで済んで微生高はよかったかも知れない。孔子が未熟で政権を握っていた時期なら、少正卯のように処刑されたかも。
なお微生高→杘生高のような、貶めた書き換えは漢代儒者の好物で、儒者汁を煮染めたような男である王莽は、高句麗→下句麗、匈奴→降奴と書き換えて、要らぬ対外紛争を引き起こした。中国の役人は今でもこう言うことをしたがる。頭のおかしな連中だが、漢代儒者の精神年齢も、たかがこの程度である。真に受けてどうなろうか。