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論語詳解115公冶長篇第五(23)たれか微生高を*

論語公冶長篇(23)要約:史実の可能性あり。塾の経営者として孔子先生の商売敵がいました。その中での名高い者が、人に酢を乞われて隣から借りて与えました。「無いなら無いと言えばよかろう」と孔子先生。商売敵をこき下ろします。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰孰謂微生高𥄂或乞醯焉乞諸其鄰而與之

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰孰謂微生高直/或乞醯焉乞諸其隣而與之

  • 「直」字は上下に〔十目一〕で〔目一〕が接している。

定州竹簡論語

曰:「孰謂杘a生高直?或乞醯焉,乞諸其鄰而予b之。102

  1. 杘、今本作「微」字。
  2. 予、今本作「與」。

標点文

子曰、「孰謂杘生高直。或乞醯焉、乞諸其鄰而予之。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 孰 金文謂 金文微 石鼓文生 金文高 金文直 金文 或 惑 金文气 乞 金文醯焉 气 乞 金文者 金文其 金文鄰 金文而 金文与 金文之 金文

※杘→微・予→與。論語の本章は「醯」「焉」の字が論語の時代に存在しない。ただし「焉」は無くともほとんど文意が変わらない。「孰」「或」の用法に疑問がある。本章は少なくとも漢帝国の儒者による改造が加わっている。

書き下し

いはく、たれ杘生高ちせいかうなほしとふ。るひとるに、もろもろとなりこれあたふと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「誰が杘(微)生高を正直者だと言うのか。ある人が酢を請うた所、酢ばかりでなくあれこれと隣から借りて渡したという。」

意訳

論語 孔子 激怒
微生高の奴のどこが正直者だ。誰かが酢を求めた所、それにかこつけていろんなものをお隣から借り出して、酢だけ渡したと言うではないか。無いなら無いと言えば良かろう。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「いったい誰が微生高(びせいこう)を正直者などといい出したのだ。あの男は、ある人に()を無心され、それを隣からもらって与えたというではないか。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「誰說微生直爽?有人向他要醋,他家沒有時,卻到鄰居家要來給人。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「誰が微生を爽やかだと言ったか?ある人が彼に酢を求めたら、彼は家に在庫が無いとき、すぐさま隣家に行って呉れてやるように求めた。」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

孰(シュク)

孰 金文 孰 字解
(金文)

論語の本章では”誰が”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周中期の金文。「ジュク」は呉音。字形は鍋を火に掛けるさま。春秋末期までに、「熟」”煮る”・”いずれ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孰」を参照。

微生高(ビセイコウ)→杘生高(ジセイコウ)

最古の論語本である定州竹簡論語は「杘生高」と記し、唐石経と清家本は「微生高」と記す。時系列に従い、「杘生高」へと校訂した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

古来誰だかよく分からないが、藤堂本によると姓は微生、名は高、魯の人といい、論語憲問篇に見える微生畝ビセイボウかという。ただし「畝」の藤堂上古音はmuəg(上)に対し「高」はkɔg(平)だから、まるで音が通じない。「畝」のカールグレン上古音は不明。

微生畝「お前は何をべらべら言い回ってるんだ。それを口車とは言わんのか。」
孔子「口車ではない。貴様のようにナニナニだけ、の専門バカになりたくないのだ。」
(論語憲問篇34)

分からないなりに類推してみよう。「生」の字に春秋時代、すでに「姓」の意があり、また秦帝国の時代に「○生」とは”学者の○という者”を意味した。自分を謙遜して「小生」と呼ぶのは、『漢書』から見られる。もし仮に論語の本章が史実とすると、「微」と名乗る学者だった可能性がある。

鉄器・小麦の普及と弩の実用化で社会が沸き立っていた論語の時代、孔子のように学派と私塾を開く者は他にもいたはずで、『史記』に名の見える少正ボウもその一人だっただろう。伝説では孔子は弟子を持って行かれて、感情的に怒鳴り散らしている。

孔子塾から少正卯塾に移籍した者は…ただ風に吹かれるかんなくずのように、両方の塾を行ったり来たりしていただけだった。その一人である子貢が言った。

子貢 遊説 孔子 説教
子貢「あの少正卯という人は名高いですが、先生が政権を握ったら、どうなさいます?」
孔子「うるせえ。お前の知ったことか。」(『論衡』講瑞5)

論語の時代、周文化に従う中原に住まう人の名は、姓名共に一字が原則だから、少正卯というのは「少正」である「卯」と言う人で、「少正」は春秋時代、執政の補佐官を意味した(『大漢和辞典』・『春秋左氏伝』襄公二十二)。

対して微生高は民間の学者だったろうが、春秋時代では「微」の字は”美しい”を意味するから、「微生」とは”何やら高尚なことを説く先生”、「高」はいみ名かあざ名かは分からないが、”偉い人”という意味になる。その偉い先生が、塾を開いて孔子の同業者だったのだろう。

微 甲骨文 微 字解
「微」(甲骨文)

「微」の初出は甲骨文。字形は「長」”髪の長い人”+「コン」”くし”+「又」”手”で、長い髪を整えるさま。原義は”美しい”。漫然とのっぺり美しいのではなく、髪のように繊細にうつくしいさま。甲骨文では地名・国名・人名に用い、金文では加えて原義で用いた。戦国の竹簡では”小さい”、漢代の帛書では”細かい”を意味した。詳細は論語語釈「微」を参照。

杘 秦系戦国文字 杘 字解
(秦系隷書)

定州竹簡論語「杘」の初出は戦国時代の隷書。「尿」(ゆばり)ではない。漢音(遣唐使・遣隋使が聞き帰った音)では「チ」あるいは「ヂ」(ジ)、呉音では「ニ」。字形は「尸」”座った人の横姿”+「木」で、人の乗った車の留木。原義は”車止め”。『説文解字』によると”糸枠の柄”といい、あるいは「柅」と記す。『大漢和辞典』に『集韻』を引いて”ずるい。欺く”という。詳細は論語語釈「杘」を参照。

生 甲骨文 生 字解
「生」(甲骨文)

「生」の初出は甲骨文。字形は「テツ」”植物の芽”+「一」”地面”で、原義は”生える”。甲骨文で、”育つ”・”生き生きしている”・”人々”・”姓名”の意があり、金文では”月齢の一つ”、”生命”の意がある。詳細は論語語釈「生」を参照。

高 甲骨文 高 字解
「高」(甲骨文)

「高」の初出は甲骨文。字形は「ケイ」”城壁”+”たかどの”+「𠙵」”くち”で、人の集まる都市国家のたかどののさま。原義は”大きい”。「漢語多功能字庫」によると、甲骨文では地名、また”遠い(祖先)”を意味し、金文では地名・人名に用いた。また戦国の金文では”崇高”の意に用いた。漢代の帛書では”高い”の意に用いた。詳細は論語語釈「高」を参照。

直(チョク)

直 甲骨文 直 字解
(甲骨文)

論語の本章では”正直者”。初出は甲骨文。「𥄂」は異体字。「ジキ」は呉音。甲骨文の字形は「コン」+「目」で、真っ直ぐものを見るさま。原義は”真っ直ぐ見る”。甲骨文では祭礼の名に、金文では地名に、戦国の竹簡では「犆」”去勢した牡牛”の意に、「得」”~できる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「直」を参照。

或(コク)

或 甲骨文 或 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ある人”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ワク」は呉音。甲骨文の字形は「戈」”カマ状のほこ”+「𠙵」”くち”だが、甲骨文・金文を通じて、戈にサヤをかぶせた形の字が複数あり、恐らくはほこにサヤをかぶせたさま。原義は不明。甲骨文では地名・国名・人名・氏族名に用いられ、また”ふたたび”・”地域”の意に用いられた。金文・戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「或」を参照。

乞(キツ)

乞 甲骨文 乞 字解
(甲骨文)

論語の本章では”求める”。論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。甲骨文では「气」と書き分けられていない。「三」の字との違いは、「三」が筆画の長さを揃えるのに対し、「气」は真ん中の一本を短く描く。字形は天上の雲を描いた姿で、原義は”雲”。甲骨文では「迄」の意に用い、金文で”求める”の意に用いた。詳細は論語語釈「乞」を参照。

醯(ケイ)

醯 隷書 醯 字解
(戦国隷書)

論語の本章では”酢”・”酸っぱい酒”。論語では本章のみに登場。「かゆに酒を混ぜて発酵させたもの」と『大漢和辞典』に言う。他に『学研漢和大字典』によると「ひしお」と読み、”肉のしおから”をも意味する会意文字。

初出は戦国時代・秦の隷書。字形は「酉」”さかつぼ”+「京」”くら”+「皿」。酒蔵の中で熟成させて底に溜まったどろりとした液体。原義は”どぶろく”。なお『大漢和辞典』は、「かゆに酒をまぜて作る故に、𩱙シュクの省畫の㐬と酉(酒の省畫)とを合せ、更に皿を合せて、容器を示す」と解する。「𩱙イク」は「𩱱」”かゆ”の異体字。詳細は論語語釈「醯」を参照。

とはいえ、論語の時代に酢が無いわけがなく、後世になって文字が置き換わったのだろう。「酢」の字は春秋末期から存在している。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「たり」と読んで、”しおおせた”を意味する完了のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。また本章では、「焉」を省いても文意がほとんど変わらない。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

諸(ショ)

諸 秦系戦国文字 諸 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”いろいろなもの”。論語の時代では、まだ「者」と「諸」は分化していない。「者」の初出は西周末期の金文。現行字体の初出は秦系戦国文字。

「之於」(シヲ)と音が通じるので一字で代用した言葉と言い出したのは清儒で、最古の文献である論語には、安易に当てはめるべきではない。金文の字形は「者」だけで”さまざまな”の意がある。詳細は論語語釈「諸」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。原義は農具の。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

鄰(リン)

鄰 字解
(金文)

論語の本章では”仲間”。『大漢和辞典』の第一義は”となり”。鄰は隣の異体字。初出は西周中期の金文。「鄰」の字形は初出が戦国末期の金文。字形は「阝」”家の入り口にかけたはしご”+かんじきをはいた「人」+”雨や雪の降るさま”で、雪が降っても出歩くような近い範囲のさま。原義は”となり”。西周中期の字形では、「阝」+「人」+”雨や雪”+「𠙵」になる。「𠙵」はかんじきの省略形とみるか、または天気の悪い日にもお互い声を掛け合う間柄を指すとみる。時代ごとの語義の変遷は情報が無い。詳細は論語語釈「隣」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

與(ヨ)→予(ヨ)

与 金文 與 字解
(金文)

論語の本章では”与える”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」

定州竹簡論語の「予」も”与える”。初出は戦国時代の金文。論語語釈「予」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”これ”。「鄰」の言い換え。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、先秦両漢の誰一人引用せず、再録もしていない。定州竹簡論語にあることから、前漢前半までには論語に含まれていたのだろうが、さて誰の作か。儒者が偽作する動機が不明だし、「」を意味する語は春秋以前からあり、「エン」は無くとも文意が通じる。

おそらくは何らかの史実を伝える話だろう。

解説

古今東西、商売敵は仲が悪いと決まっており、『史記』によると孔子は大司冦(司法長官)の職にあるのをいいことに、商売敵の少正卯を処刑してしまったという。孔子の弟子も、これにはさすがに呆れたと記してある。別伝では、孔子は開き直って弟子に答えている。

《詩》云:『憂心悄悄,慍于群小。』小人成群,斯足憂矣。

論語 孔子 居直り
「詩に言うだろう、”狙ったようにカンにさわることをしやがる。奴らにはいちいち腹が立つ”と。下らない人間が群れたら、腹が立って当然なんだ。」(『孔子家語』始誅第二1)

論語の本章に言う微生高は、上記の検討が当たっていたなら、「高尚な学問を説くコウ先生」として名を売っていたのだろう。当然孔子のカンに障り、「普段気取った高慢ちき野郎のくせに、隣家から酢を借りて誤魔化しやがった」と罵倒したのが本章と言える。

自分こそ本物の教師だ、微生高は「似て非なる者」という自負があったのだろう。孔子先生もなかなか人間くさい。なお「似て非なる」と言ったのは、孔子没後一世紀に生まれ、孔子の後継者を自認した孟子だが、孟子はそれを孔子の発言として取り上げている。

孔子曰:『惡似而非者:惡莠,恐其亂苗也;惡佞,恐其亂義也;惡利口,恐其亂信也;惡鄭聲,恐其亂樂也;惡紫,恐其亂朱也;惡鄉原,恐其亂德也。』

孟子 孔子
孟子「孔子先生が申しました。似て非なる者を憎む。イネ科の雑草を嫌うのは、穀物の苗と紛らわしいからだ。おべっか使いを憎むのは、正しい人間と紛らわしいからだ。口上手を嫌うのは、真実と紛らわしいからだ。鄭の音楽を憎むのは、まともな音楽と紛らわしいからだ。紫色を憎むのは、朱色と紛らわしいからだ。田舎の大将を憎むのは、正しい人格形成を邪魔するからだ、と。」(『孟子』尽心下87)

孔子がこうした自負を持ったのは不思議ではない。一介の庶民に過ぎない微生高に対し、自分は宰相格になっているからだ。当時の塾はもちろん、庶民が貴族に成り上がりたいから入るので、孔子には自分でやって見せた実績があった。だから「微生高ごときが」となる。

対して少正卯は孔子同様の高官だったから、それゆえ商売敵として危険と感じ、殺してしまった。孔子先生もおそろしや、である。なお既存の論語本では吉川本に、微生高を「尾生の信」で知られる尾生高である可能性を記している。その元ネタ『荘子』は以下の通り。

尾生與女子期於梁下,女子不來,水至不去,抱梁柱而死。此六子者,無異於磔犬、流豕、操瓢而乞者,皆離名輕死,不念本養壽命者也。

論語 荘子
(孔子が柳下季の弟で大泥棒の盜セキを説教しに出向くと、こう言い返された。)

尾生は女の子と橋の下で逢い引きの約束をしたのに、女は来なくて、そのうち水かさが増えたのに、尾生は橋桁に抱きついてその場を離れなかった。それで土左衛門になったわけだが、こんな連中は、火あぶりに遭う犬、水神の生け贄に放り込まれる豚、人に説教する乞食とおんなじだ。つまらない名誉に踊らされ、せっかくの命を無駄にし、本当にするべき自分の養生を忘れた馬鹿者だ。(『荘子』盜跖)

柳下季とは孔子より一世紀は前の魯の家老とされる柳下恵(BC720-BC621)のことと通説では言われる。だから上掲は荘周センセイの小話である可能性が高い。尾生高の名を「高」と伝えたのは前漢劉向の記した『戦国策』で、元ネタ『荘子』には「高」のコの字も書いていない。

劉向は「高」と言い出したのは、口先三寸な縦横家蘇秦、の弟とされる蘇代と記している。

蘇代謂燕昭王曰:「今有人於此,孝若曾參、孝己,信如尾生高,廉如鮑焦、史鰌,兼此三行以事王,奚如?」王曰:「如是足矣。」對曰:「足下以為足,則臣不事足下矣。臣且處無為之事,歸耕乎周之上地,耕而食之,置而衣之。」王曰:「何故也?」對曰:「孝如曾參、孝己,則不過養其親其。信如尾生高,則不過不欺人耳。廉如鮑焦、史鰌,則不過不竊人之財十。今臣為進取者也。臣以為廉不與身俱達,義不與生俱立。仁義者,自完之道也,非進取之術也。」

劉向 戦国策
(蘇代は燕国を滅亡同然に追いやっておきながら、諸国で嫌われ逃げ場が無くなったので、いけしゃあしゃあと燕王に目通りを願い出た。)

蘇代が燕の昭王(位BC312-BC279)に言った。「えー。今ここにこんな人材がいたとします。親孝行は曽子や孝己(殷の高宗の子で、親孝行で知られた)そっくりで、義理堅さは尾生高そっくりで、無欲は鮑焦(世に絶望して山に入って死んだ人)や史鰌(孔子と同時代の衛国の名家老)そっくりです。王殿下に仕えたいと言いだしたらどうなさいます?」

昭王「それほどの人材、もちろん雇うてやろうぞ。」

蘇代「殿下がその程度で雇うと仰せなら、それがしは殿下に仕えますまい。無一物の気楽な生活の方がましですから、実家に帰って畑仕事をし、自分で機織りをして自給自足致します。おさらばでござる。」

昭王「これこれ、そちは何しにワシの前に出てきたのじゃ。」

蘇代「曽子や孝己の親孝行は、得をするのは親だけです。尾生高の義理堅さは、バカ正直がいたものだ、で終わりです。鮑焦・史鰌の無欲は、ただ人のものを欲しがらなかっただけです。それがしはそんな役立たずではございません。この戦国の世、無欲は食い物にされるだけ、義理堅さは命を縮めるだけ。仁義なぞ、しょせん自己満足でしかありません。殿下の役に立つわけがないではないですか。」(『戦国策』蘇代謂燕昭王)

というわけで、おそらく吉川の微生高→尾生高説は間違っている。『戦国策』を記した劉向は、定州竹簡論語埋蔵時に22歳ほどで、論語の一章としての「誰か微生高を…」を知っていた。だから「尾生」の「信」と言えばその名は「高」に違いない、と勝手に名を付け足した。

「微」のカールグレン上古音はmi̯wər(平)、「尾」はmi̯wər(上)。声調が違うだけである。

前漢年表

前漢年表 クリックで拡大

余話

天下万民が苦しんだ?

盜跖は孔子と同時代の人物で、孔子の母親・顔徴在や、有力弟子顔淵の同族だった、顔濁鄒ダクスウである可能性がある。

詳細は「孔門十哲の謎」もっと侮れない顔氏一族を参照。両者は似通っている点がある。上掲『荘子』の冒頭の記述によると次の通り。なお「盜」を”大泥棒”と仮に訳したが、より正確に言えば、春秋時代の「盜」とは公権力に属さない武装集団、つまり傭兵団を指す。

いくさが無い時は略奪で食っていたこと、傭兵団は古今東西変わらない。『荘子』にいう。

孔子與柳下季為友。柳下季之弟名曰盜跖。盜跖從卒九千人,橫行天下,侵暴諸侯,穴室樞戶,驅人牛馬,取人婦女,貪得忘親,不顧父母兄弟,不祭先祖。所過之邑,大國守城,小國入保,萬民苦之。


孔子の友人に柳下季がおり、柳下季の弟は盜跖という大泥棒だった。

  1. 手下を九千人も抱えていた。
  2. 天下を我が物顔で往来した。
  3. 諸侯も怖がって手を出せなかった。
  4. 難攻不落の山塞を構えた。
  5. 人を牛馬のようにコキ使った。
  6. 美人と思えば人妻だろうと素人娘だろうとさらった。
  7. 欲得尽くで身内を顧みなかった。
  8. 親兄弟がどんな目に遭おうと気にしなかった。
  9. ご先祖さまの供養をしなかった。
  10. 「盜跖が来た!」という声に、大国は城に籠もり、小国はとりでに逃げ込んで震えていた。
  11. 天下万民が苦しんだ。(『荘子』盜跖)

5.から9.と11.を除いて、梁父山に山塞を構え、衛国の都城に屋敷を構えた傭兵団の大親分・顔濁鄒とそっくりである。顔濁鄒は諸侯に臨時兵力を提供し、のちには斉国から爵位まで授けられていたらしい。息子は斉の貴族になっている

『論語』公冶長篇:現代語訳・書き下し・原文
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