論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰我非生而知之者好古敏以求之者也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰我非生而知之者好古敏而求之者也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……曰:「我非生而𣉻之者161……
標点文
子曰、「我非生而智之者、好古、敏而求之者也。」
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章は、「也」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、我は生れ而𣉻る之者に非ず、古を好みて、敏くし而求むる之者也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「私は生まれつきものを知っていたわけではない。昔を好んで、休みなくそれを求めた人間だ。」
意訳
私だって生まれつき物知りではない。好き好んで、過去の記録をガツガツと取り込んで来ただけさ。
従来訳
先師がいわれた。――
「私は生れながらにして人倫の道を知っている者ではない。古聖の道を好み、汲々としてその探求をつづけているまでのことだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「我不是天生就有學問的,衹是個喜歡讀書、勤奮敏捷地追求知識的人。」
孔子が言った。「私には生まれつき学識があったわけではない。ただ読書を喜ぶ性格で、努めて素早く知識を追求する人間だっただけだ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
くは中国語にも格変化があった名残で、一人称では「吾」(古代音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。ただし甲骨文の時代ですでに、両者の混同現象が見られる。
非(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。
生(セイ)
「生」(甲骨文)
論語の本章では”生まれる”。「生」の初出は甲骨文。字形は「屮」”植物の芽”+「一」”地面”で、原義は”生える”。甲骨文で、”育つ”・”生き生きしている”・”人々”・”姓名”の意があり、金文では”月齢の一つ”、”生命”の意がある。詳細は論語語釈「生」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…すると同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
知(チ)→智(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知る”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
論語の本章、現存最古の定州竹簡論語では「智」の異体字の「𣉻」と記すが、必ずしも全篇がこの字体で統一されているわけではない。論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、二通りの解釈があり得る。一つは直前の動詞を強調する言葉で、意味内容を持っていない。強いて訳せば”まさに”。この語義は春秋時代では確認できない。
なお「之」を名詞句を作る”…の”と解することも出来る。その場合訓読は異なってくる。
こちらの方が用例の春秋時代に於ける不在を回避できる。
「これ」と読んで指示詞に解しても、用例の不在を回避できるが、「之」以前に指示内容が無いので、この解釈は成り立たない。
初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では、”…である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
好(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”好む”。初出は甲骨文。字形は「子」+「母」で、原義は母親が子供を可愛がるさま。春秋時代以前に、すでに”よい”・”好む”・”親しむ”・”先祖への奉仕”の語義があった。詳細は論語語釈「好」を参照。
古(コ)
(甲骨文)
論語の本章では”むかし”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「口」+「中」”盾”で、原義は”かたい”。甲骨文では占い師の名、地名に用い、金文では”古い”、「故」”だから”の意、また地名に用いた。詳細は論語語釈「古」を参照。
敏(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”素早い”→”知能が鋭い”。新字体は「敏」。初出は甲骨文。甲骨文の字形は頭にヤギの角形のかぶり物をかぶった女性+「又」”手”で、「失」と同じく、このかぶり物をかぶった人は隷属民であるらしく、おそらくは「羌」族を指す(→論語語釈「失」・論語語釈「羌」)。原義は恐らく、「悔」と同じく”懺悔させる”。論語の時代までに、”素早い”の語義が加わった。詳細は論語語釈「敏」を参照。
以(イ)→而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いる”→”そして”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、”率いる”・”用いる”・”携える”の語義があり、また接続詞に用いた。さらに”用いる”と読めばほとんどの前置詞”~で”は、春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
現存最古の論語本である定州竹簡論語はこの部分を「而」と記す。時系列に従い「而」へと校訂した。語釈については上掲の通り。
求(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”もとめる”。初出は甲骨文。ただし字形は「豸」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。論語の時代までに、”求める”・”とがめる””選ぶ”・”祈り求める”の意が確認できる。詳細は論語語釈「求」を参照。
敏而求之
中国伝承の唐石経、唐石経の系統を引く宮内庁蔵南宋本『論語注疏』は「敏以求之」と記す。日本伝承の古注懐徳堂本では「敏而以求之」と記し、「而」が付け加わっている。それに先行する清家本・正平本では「敏而求之」と記し、中国伝承の「以」が「而」に代わっている。
定州竹簡論語はこの部分が欠損している。また定州竹簡論語に「而」の用例はあるが、それに次ぐ古本は、日本伝承本と思われ、その最古である清家本が「敏而求之」とあるのに従って校訂した。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
南宋本『論語注疏』では、論語の本章は述而篇の25番目の章になっている。論語述而篇の版本による順番の移動は、論語述而篇1解説掲載表を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
「者也」を「者かな」”者だなあ”と詠歎に解せば、春秋時代での用法の不在を回避できるが、無理がある。”私だって始めから頭が良かったわけではない。かくかくしかじかで博識になった「者だ」”と断定に解する方が無理が無い。
論語:付記
検証
論語の本章は、「生而知之者,上也」と前半によく似た言葉が論語季氏篇12にある。季氏篇12も本章も、共に全文が文字史的に論語の時代に遡れるが、前者が後世に引用されているのに対し、後者の本章は春秋戦国時代を含む先秦両漢の引用や再録がない。
また「好古」は論語述而篇1にもあり、その再出は「信而好古」として後漢初期の『漢書』。本章の再録とは言いがたい。つまり論語の本章は、引用が事実上皆無という心細さだが、偽作を疑う文字上の要素が少なく、史実の孔子の発言として扱ってよい。
「也」を断定と解さねばならない点では春秋時代に於ける用例の不在を免れないが、無くとも文意がさほど変わらず、「矣」に置き換えてしまえば不在の問題は解消する。
解説
論語の時代には紙がなく、筆記には木や竹の札を用いた。従ってそれを綴じた巻物の書籍はかさばって重く、印刷技術もないから書写しかない。無論庶民には文字が読めす、孔子は珍しい例外だった。それは母親が巫女だったからで、わずかながら巻物も生家にあっただろう。
しかし孔子の群を抜いた好奇心や向学心は、それに飽き足らなかった。母の属する呪術者集団の書籍を頼んで読ませて貰っただろうし、貴族の家を訪ね回って、書籍の閲覧を乞うたに違いない。また若年期の孔子の記録はほとんど無いが、諸国を巡って書籍を探したのではないか。
論語八佾篇9で、杞と宋について「文献がない」と断言しているのは、自ら旅して調べたのだろう。また貴族の家を巡ったことは、論語時代には本屋も図書館もないからで、書庫と言えば朝廷か、貴族の家にしかなかっただろう。閲覧を頼むなら、朝廷より貴族の方が気安かった。
古来、剥き身の個人で生きる中国人はまずいない。血統を共有する宗族の中に生きるか、青幇紅幇のような秘密結社に入るかだ。春秋時代は文字通りの封建制で、庶民はいずれかの大貴族の部曲(属民)として生きた。貴族は従えるからには、部曲の面倒を見なければならない。
見ない貴族は地位を追われ多くは殺された。姜氏斉国の国公は、四割が殺されている。血統集団を意味する「姓」に対し、血統に拠らない一族を「氏」と呼ぶ。孔子の氏は伝わらないが、おそらく母親の属する顔氏を名乗ったか、あるいは保護者である大貴族の氏を名乗った。
論語時代の魯国は、国公の権威が衰えると同時に、庶民の保護もまた貴族の仕事になりつつあったことが、『春秋左氏伝』の記録から分かる。おそらく青年孔子が属していたのが、門閥家老家の一家孟孫氏で、孔子は孟孫氏の書庫の閲覧を許され、ガツガツ取り込んだと思われる。
三家のうち筆頭の季孫氏は、孔子が宴会に出かけて門前払いを喰らったことから(『史記』孔子世家)、気安い関係になかったと思われ、叔孫氏は孔子との関係を示す史料がほぼ無く、これも気安かったとは思えない。しかし孟孫氏の当主孟釐子は孔子を見込み、息子に遺言した。
おそらく孔子に頼まれて屋敷の書庫に入れてやったところ、読書に励むので、孟釐子は庶民ながら孔子を引き立てようとした。このことが孔子の飛躍につながったのだが、もし孟釐子が感心するほどの読書熱心でなかったら、その後の儒教はもちろん、論語もなかったことになる。
その後朝廷に出入りするようになってからは、魯国の保管する書籍を片端から読んだだろうが、魯は周公の末裔という由緒正しい文化国だったから書籍も多かったと思われ、この点孔子は恵まれていただろう。
論語の本章、新古の注は以下の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰我非生而知之者好古敏而以求之者也註鄭𤣥曰言此者勉勸人於學也疏子曰至者也 云我非生而知之者者知之謂知事理也孔子謙以同物故曰我有所知非生而自然知之者也王藻云此葢自同常教以身率物者也云好古敏而以求之者也者我既不生知而今有所知者政由我所好古人之道疾速以求知之也敏疾速也
本文「子曰我非生而知之者好古敏而以求之者也」。
注釈。鄭玄「これは人に勉強を勧める言葉である。」
付け足し。先生は極致を言った。「我非生而知之者」とは、ものを知るとは理解することを言う。孔子は謙遜してそこまで言わなかったのである。だから”私が知っていることは、生まれながらにして自然に覚えたことではない”と言った。
王藻「多分この話は、いつも弟子を教えつつ自分も学び、その学ぶ姿勢を見せ続けて弟子を率いた有様を言うのだろう。」
本文「好古敏而以求之者也」とは、”私は生まれながらに知っていたわけではない。今知っていることは、私が好む古人の道を伝い学んで、素早さでこれらを知ったのである”の意だ。「敏」とは疾速のことだ。
新注『論語集注』
好,去聲。生而知之者,氣質清明,義理昭著,不待學而知也。敏,速也,謂汲汲也。○尹氏曰:「孔子以生知之聖,每云好學者,非惟勉人也,蓋生而可知者義理爾,若夫禮樂名物,古今事變,亦必待學而後有以驗其實也。
好の字は尻下がりに読む。生まれながらに博識な者は、性格が清らかで明るく、行動原則が極めてはっきりしており、学ばなくても賢い。敏とはまじめなことだ。イソイソとまじめに働くさまをいう。
尹焞「孔子は生まれながらに聖人であり、勉強が好きだと普段から言っていたのは、人にお説教して言うばかりではない。思うに生まれながらに賢い者は、自分を正すのに対して、礼儀作法や音楽やものの名前などは、時代と共に変わるのだから、時代に合わせて勉強しないと、実際に知っていることにはならないのである。」
余話
せせら笑う漢文書き
上掲の通り後世の儒者は孔子生まれながらに聖者説を言い回って、論語の本章で孔子が明言したことを台無しにしているのだが、もとよりそれは儒者の商売上の都合による。本尊は光っていた方がお賽銭が増える理屈は、東北の文明開花期に造られた中尊寺金色堂を見れば分かる。
事情は東北に限った話ではなく、欽明天皇も百済から伝わった仏像がキンキラキンだったので、たまげて拝むことにしたらしい。『日本書紀』にそう書いてある。「端嚴」を「きらぎらし」と読む国史業界の座敷わらしなので従うが、漢語的には”男前でいかつい”の意。
是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。
百済の使いが仏像を持ってやって来ると聞いて、欽明天皇は喜びのあまり踊り回った。そして使いにこう言った。
「ワシは以前から、このような素晴らしい教えを聞いたことがない。だが我が国に広めて良いかどうか、ワシ自身では決断できぬ。」というわけで豪族の親玉を集めてこう聞いた。
「西の蛮族が持ってきた仏像を見ると、姿形がキンキラキンじゃ。今までこんなの見たことがない。拝んでいいと思うがどうじゃ?」(『日本書紀』欽明天皇)。
帝王に「歓喜踊躍」とは、中国の史書ならあり得ない表現で、このくだりを書いた者は、おそらく当時の中国人か朝鮮人だが、明らかに欽明天皇を鼻でせせら笑っている。漢文を読めるようになる効用は、何も中国を知るだけに止まらない。日本人として日本を知るにも役に立つ。
かように漢文読解は、無闇に自国を崇める思考停止を防ぐにも役立つ。人無しで国は成り立たないが、国が出来る前から人はいたのだから。だから自分だけを頼りに生きていくしかない。ただし「自分だけを」とは、中国人が紅幇青幇のような秘密結社に入って身を守るのとは矛盾しない。
日本でも同じ。近所に独り者のDK男がおり、某宗教に入った途端、朝は介護士がお出迎え、昼夜は毎日店屋物を取り、晩にも別の世話人がやってくる。同世代の独り者は何人も近所に居たが、男女を問わず一人また一人と人知らずこの世から消えているのと、類を友にしていない。
- 論語子罕篇23余話「DK畏るべし」
精神の自由はそのままカネには化けない(論語述而篇11)。売り飛ばせば、ざくざくと公金を貰えたりもする。日中共にかかる結社の猛威はお上も恐れ、歴代中華王朝は、結社のけの字が見えた途端、神経質に消し回る。だが秘密結社が絶えた時は、中国帝国史上ただの一年もない。
日本でも同様に、警官が「我々には手が出せない」と言ったのを、この耳で確かに聞いた。
コメント